六 戦況不利

◇戦況の推移
◆敵機頻繁(ひんぱん)に来襲
山の中で敵の監視を逃れながらひっそりと過ごしている間に、戦況は急速に悪化し敵の飛行機は度々飛来し、爆撃も頻繁になってきた。よく晴れた日に爆音が西の方インド洋のベンガル湾方面から聞えたかと思うと、爆撃機が二十機ばかり見事な編隊を組んで飛んで来る。まだ新しい飛行機だろうか太陽に輝いて銀色にキラキラと光っている。
我々のいる所から三キロ程離れたタンガップの町の上空に差しかかったかと思うと、一斉にパラパラと光る物を落した。飛行機から離れた瞬間のみ見える物体であるが、その後は見えない。十〜十五秒するとドカン、ドカン、ドカンと大きな爆発音が聞こえ、その辺りから土煙が幾つもはね上がった。一帯は煙に包まれてしまい、やがて火災が発生してきた。
日本軍には反撃する手だては何も無く、敵は縦横無尽(じゅうおうむじん)に攻撃をしかけてくる。敵のなすままで、いくら歯ぎしりをしても仕方がない。
これが友軍であれば、どんなに嬉しくどんなに頼もしいことかと思ってみても、敵機だ。残念ながら私はビルマに来てから友軍の飛行機を殆ど見たことがない。
やがて、この頃から敵の大編隊が我々の遥か上空を東に向かって飛んで行くのを見るようになった。どこを爆撃しに行っているのか分からないが、多分ビルマ中部平原の日本軍の拠点や、我が後方の陣地や基地のほか、食糧倉庫や兵器倉庫を爆撃しているのだろう。
そして、偵察機が私達の隠れている山の中を縫うようにして低空で偵察に来るので、身動きもできない状況となってきた。日中は大きくよく茂った木の下に隠れ、煙を出さないようにし、暗くなってから飯盒炊事をする生活を余儀なくされた。
その頃、ビルマの女性二人が我々がいる山深い所へ物売りに来た。一人は中年、もう一人は娘らしく若かった。私はラングーンから原隊に復帰して以来ここ三ヵ月ぐらい現地人、特に女性など見たことがなかった。日本人が餅(もち)が好きだということで、餅を作って売りに来たのだ。軍票の値打ちが下がりかけてはいたが、まだ使えたのでそれで支払いをした。
娘の方は赤いロンジを腰に巻いていたが魅力的で印象に残った。顔にはビルマ風の、木の汁の白いものを塗る化粧をしており、足は裸足だったが、なんと美しいなあと女性を感じた。一服の清涼剤で心の和む一時であった。誰も同じ気持ちだったと思う。ただそれだけのことを今も覚えている。
時まさに昭和二十年一月、ベンガル湾ラムレ島方面に敵の軍艦からの砲撃が開始され、我々の所にもその砲声が遠雷のように響(ひび)いて来た。戦場間近しの感深く様相が大きく変わり、暗い気持ちで正月を迎えた。正月らしい食物も無く、やっと飢えを凌(しの)ぐ程度であった。
だが、経理担当の金田軍曹が餅米(もちごめ)をどこかで調達してきて、炊事班の三木兵長等が丹精込めて餅を作り一個ずつ配ってくれた。
大正天皇の御製に「軍人(いくさびと)国の為にと射(う)つ銃の 煙のうちに年たちにけり」とあるがそれを思い出した。実際ここビルマでの戦況は日に日に悪くなっている中で、私は数え年で二十三歳、満年令でもうすぐ二十二歳になる昭和二十年の正月を迎えた。
その頃は、敵がいつ上陸してきても戦えるように武装したまま仮眠(かみん)する夜もしばしばあった。その後、敵機の偵察から逃れるため、住む場所を変え、より深い山の中で大木の下に、半地下式の穴を堀った。次第に追い詰められてゆくのがひしひしと感じられた。
◆ドイツが負けたというビラ
二月になった頃、「イタリヤが負け、ドイツも降伏した。ヒットラーが死んだ。一葉落ち二葉落ちて天下の秋を知る」と書いたビラを英印軍が播(ま)いていった。それを拾った人から人へと次々にうわさが流れてきた。半信半疑ながら大変なことになったと思った。あれ程強かったドイツ軍が何故負けたのか。日本はどうなるのだろう?負けはしないだろうが、勝つことは難しく憂慮すべき戦況だと思わざるを得ない有様だ。味方からの情報は全く入らない。敵の散布するビラしかない。敵の宣伝を信じはしないが、これを否定する確実なニュースはどこからも入ってこなかった。
この頃、ラムレ島の守備に就いていた鳥取の歩兵聯隊が、物凄い艦砲射撃(かんぽうしゃげき)を受けていると聞く。
強大な物量を持つ敵の攻撃に友軍は手も足も出ず、苦心惨憺(くしんさんたん)しているとのことであった。砲声は昼となく夜となく殷々(いんいん)としてここまで聞えてくるようになった。その島に私はいないのでよく分からないが、実際そこで戦っている兵士達がどんなに被害を被り、どんな悲惨な状態に陥(おちい)っているのかと思うと、たまらない。ただ健闘を祈るのみであった。
◆タマンド地区の警備と敵の襲撃
二月中旬に、瀬澤小隊はタマンド地区の海岸警備に当たることになった。ヤンコ川の上流の山中を出て、海岸に沿い北へ向かって最前線に出動した。数日間の夜行軍が続き、タマンドの一部落の海岸に着いた。そこには現地人の家が二十軒ばかりあり、海岸の近くに公会堂のような小屋があったので、そこに泊まることになった。野宿ばかりしてきた者にとって、屋根のある家の中で休むことは有難いことであった。
ここに来たのは第二小隊の一部で、瀬澤小隊長以下浜田分隊長を含め第四分隊の四十名ばかりであった。
この頃、既に小隊の中で第三分隊約四十名は他の方面に分散しており、小隊長の所を離れていた。我々は周囲の状況を良く調査し敵の上陸に対処した。ここは入江になり小さな船着場となっていて、ベンガルの海が前方に大きく開けていた。よく見ると敵英印軍が上陸した形跡があり、携帯食糧を食べた後の包み紙が捨てられていた。
我が方の兵器は軽機関銃が二丁と小銃三十五丁余りで極めて軽装備である。弾丸の数は機関銃と小銃を合わせて二千発も無かったであろう。敵が艦砲射撃をしてどっと上がって来れば、一溜(ひとた)まりもないことは明らかである。しかし我々瀬澤小隊はここを厳守することを命じられたのである。
もうこの頃は充分な食糧も無く、現地人の蓄えていた籾を鉄帽に入れて帯剣の頭で搗いて籾から玄米(げんまい)、玄米から白米へと、時間をかけて食べられるようにし、と・う・が・ら・し・の辛い刺激で食べていた。
ここでちょっと、私の回りにどんな人がいたか思い出してみる。瀬澤小隊長、この人は旧制中学校の図画の先生をしていた方で温厚な人柄であった。私はタンガップにいた頃、この方の将校当番を仰せつかったことがあった。私はあまり気性が鋭い方でないので、充分に食糧を仕入れてきて小隊長に差し上げることができたか否かは自信がなかったが、何かと心が通じあって大変可愛がって頂き、目をかけてもらっていたのである。
浜田軍曹は分隊長で、張り切った下士官といったタイプの人情味のある聡明な方であった。
次に森剛伍長だが、シンガポールかどこかで最近下士官教育を受けてこの分隊に配置されてきたばかりで、いくらか遠慮されており、若く人柄の整うたおだやかな方のように見受けられた。分隊長見習い中といったところであった。
戸部兵長は班長で真面目な方で班内をよく取りまとめており、古参の玉古上等兵は機関銃手として頑張り、機転のきく人であった。戸部班長も玉古上等兵も、私を良い兵隊として常にそのように扱って下さった。厳しい軍隊で野戦の中にいながら、温かい雰囲気の中にいられることは、本当に有難かった。
その他に田中古年兵、前田古年兵、松本古年兵、平田古年兵等がいた。そして、我々と同じ初年兵に橋本、妻鹿(めが)、長代(ながしろ)、三方(みかた)、中村、萱野(かやの)、山崎、中山等、その外同じ班内の人や他の班の人が二十名混じりあって、総員で四十名ばかりが行動を共にしていたと記憶している。
編成当時瀬澤小隊は百二十名いて、二個の分隊で六個の班で編成されていたが、この時は既にいろいろの方面に、分散され配置されていたし、既に数名は亡くなっており、まとまっていたのはこれだけであった。
ここで思い出して書き出した方々は、その後殆ど戦死され、内地へ復員できたのは、妻鹿(十年前死亡)、中村(五年前死亡)、前田(三年前死亡)、田中、長代の諸兄と私だけである。班内でも大部分の方がビルマの地で散っていかれた。痛恨(つうこん)の限りである。
さて、この海岸の警備任務に就くにあたり、森伍長を斥候長として私達三名で海岸線の偵察に出掛けた。我々が陣を敷いている湾は河口でもあり、椰子の木も生えた緑の多い船着場であった。
しかし海に向かって左手の方は岩ばかりの海岸が続きゴツゴツしたところであり、右手の方即ち船着場の河を隔てた向こうはマングローブの茂った浜辺が続いており、我々は重要地点を警備していることを悟った。
警備について二、三日後の深夜のこと、ドゥ、ドゥ、ドゥというエンジンの音がして敵の砲艦がだんだん河口を上って近づいてきた。その時不寝番が「敵襲!敵襲!」と大きな声で叫んだ。皆武器を持ち外に出てあらかじめ用意した壕(ごう)に滑り込み、河口の方を見ていた。
小隊長が「射つな」「射つな」と命令した。「敵が上陸してここまで来てから射つのだぞ。それまでは射ってはならんぞ」と言った。射てばこちらの位置を知られるだけで、こちらが一発撃てば千発お返しが来ることが目に見えている。それにこちらは、数える程しか弾薬を持っていないのだから当然の命令だ。
そうするうちにバリバリ、バリバリと敵の砲艦から砲撃が開始された。曳光弾(えいこうだん)が尾を引いて飛んで来る。高い木の枝が折れる音、飛び散る音が凄い。一旦止んだのでホッとした。しかしそれも束の間、今度は少し角度を降ろして激しく撃ってきた。地上すれすれに曳光弾が飛んで来て、我々は壕(ごう)の中で頭を縮めた。ガガガタと歯が震える。弾丸は我々が泊まっている公会堂を貫いている。凄(すご)い恐ろしさだ。砲艦一艘(そう)でこれだから、軍艦から攻撃を受けたラムレ島やチェトバ島はどんなに激しかったことかと思われた。
敵の火砲と味方の火砲の比較は千対一、いや万対一で、どうにもなるものではない。もう一つ不思議なのは我々がここに来てから、一週間ばかりになるが、敵の偵察機が来たこともないし、見えない沖の方にいる敵の軍艦が、ここを監視しているようでもないのに、どうして我々の存在が分かるのか。常に木の陰に隠れている我々がどうして知られるのか。敵は我々日本軍が想像するより遥かに凄い探知器や観測計器を持っているのだろう。
霰(あられ)のような攻撃が止んだ。静かで不気味な時間である。今にも敵が上陸してくるのではないかと、目を皿のようにし耳をそばだてていた。しかし、敵はエンジンをかけて、もと来た方向に向かって引き揚げて行った。エンジンの音が遠くに去った後、やっと緊張がほぐれた。「凄い奴だなー」と誰かが口を切った。「なかなか、やりやあ〜がるなあ」と誰かが答えた。「皆無事か」と浜田分隊長が尋ねた。やっと、みんな壕(ごう)から這い出て小屋に帰った。幸い誰も負傷してなくて助かった。興奮が納まらず、誰も眠れないようである。
そうしている間に、「マスター」と外で呼ぶ声が聞こえる。何事かと思って出てみるとビルマ人が二人立っている。一人が先程の弾で怪我をしているので手当てをし薬をくれという。中へ入れローソクを点(とも)し、衛生兵を起こした。怪我人は背中を撃ち抜かれ、かなりの重傷である。
部落の長が連れて来たのだが、彼も緊張した趣(おもむき)で手には長槍を持ったままであった。それは彼らの身を守るために用意したものらしい。衛生兵は傷口にヨウチンを流し込み、包帯で縛り丁寧に処置をした。彼らは大変感謝して帰ったが、戦争のために第三者までこんな犠牲になっているのを見て本当に気の毒に思った。
それからはいつ、敵が上陸してくるか分からないので、それに備え、より充分な警戒をした。私は橋本上等兵と共に、後方の少し高い山に行って見張りをするよう瀬澤小隊長より命じられた。それは敵艦が攻撃してくるのを早く見付けるためであったが、後から思うと、そればかりではなく敵が上陸してくると全滅する恐れがあるので、その場合にこの二人を連絡要員として、残して置こうと考えたのかも知れない。
二人は小高い山の上にあがり昼夜続けて見張りをし、敵の砲艦の様子を監視した。そこは海や入江の様子がかなり遠くまで見える適所であった。虎を警戒しながら過ごした。
◆橋本上等兵と語る
橋本梶雄上等兵と私は、私が青野ヵ原に転属してきた時以来、最初から特に仲良く助けあってきた仲で、今までにいろいろと身の上話をしてきたが、ここでは二人だけであり、時間は幾らでもあるので更に詳しく話をした。彼は旧制高梁(たかはし)中学から、秀才の行く旧制第六高等学校を経て、東北帝国大学を卒業し、大阪で一流の会社に勤めるエリート社員で、私より十二歳も年上である。温厚な人柄で、私の人生の大先輩、先生のような人であった。先に述べたように、既に奥さんも子供さんもあり安定した家庭を持った方であった。
私は子供の頃、備中(びっちゅう)の高梁の町に住んだことがあり、岡山市で中学生活をし、旧制高等工業学校は東北地方山形県の米沢市に行ったので、共通した土地の話が合い人生経験を教えられることが多かった。元気で帰ったら、美味しいぜんざい屋に案内するからなどと、内地を懐かしんだものだった。
奥さんの写真を出して何回も見せてくれた。その奥さんの写真の着物の柄は、姫路の駅に両親と子供さんを連れて送りにこられた時のそれである。楽しい家庭が赤紙一枚でこのように別れ別れになるのかと思うと、気の毒でもあり現実の厳しさを感じないわけにはいかなかった。独身の私が想像する以上のものがあったであろう。橋本君は年が三十三、四歳で兵隊としては決して若くない。
若い私が、こんなに苦しい思いをしているのだから、彼の肉体的精神的な苦痛は想像以上のものがあろうが、よく頑張っておられると感心したものだ。
私は自分の蝿(はえ)が追えないのに、気がつけば彼の蝿を追う手助けをする程の親しい戦友であった。
私は独り身であり両親の写真までは持ってきていなかったが、米沢のさくらんぼの話をしながら過ごすうちに、親密さも更に深まり、お互いに無事内地へ帰還できるようにと祈りあった。
◆アン河渡河地点の状況
こうした監視をしている間にも、ここから二十キロ先のカンゴウ方面でも激戦が続き、岡山の歩兵聯隊が苦戦していると聞いた。
この海岸警備は約二十日で打ち切られ次の地点に移動することになった。ここに敵が上陸して来なかったので助かったが、来ていれば全滅していただろう。
更に北東へ行軍し移動が続けられた。その折、灌木の間に陣地を敷いていた捜索(そうさく)聯隊の白井大尉に出会い、瀬澤小隊長が戦況を聞いたところ、ひどい負け戦になり各部隊とも多くの損害を被り対応に苦慮しているとのことであった。私は白井大尉の勇姿を見たのはこの時が初めてであったが、この方面での戦争は日々苛烈(かれつ)になっていることを知った。
何のためにどこを目指しているのか分からないが、牛をもらって肉を食べての夜行軍、昼は木の下に隠れてフクロウのような行動をした。もう、現地のセレーたばこも無くなった。畑にあるたばこの葉を取ってきて乾かし、味が良かろうと悪かろうと吸って凌(しの)いだ。飯盒炊事で少しでも煙を出すと敵機が低空で飛んで来て、機関砲を射ってくるので、よほど注意しなければならない。
敵機に対し何もできず、ただ隠れるだけである。
一両日して第二アラカン道の西の入り口に当たるアン河の渡河(とか)地点にたどりついた。そこで渡河作業をすることになった。アキャブやカンゴウ方面から後退してくる兵士達の渡河を助けたり、ベンガル湾海岸方面より引き上げてくる弾薬等の渡河、運搬作業をした。
大多数の兵士は集団で来るのでまだまとまっているが、落伍してふらふら歩いている兵士達の姿は誠にみじめである。以前タンガップで見た姿よりもっと哀れでみじめであった。ボロボロにちぎれた服、靴は殆ど履いておらず、裸足にロンジの切れ端を裂いた布を巻いている。杖をついてトボ、トボと歩いて一人一人と来る。髭(ひげ)は伸び痩(や)せ衰え、目は虚(うつ)ろで頬は落ち、土色の顔は二十代の若い兵隊の姿ではない。
持ち物は雑嚢(ざつのう)に飯盒、水筒、自決用に手留弾一個を持っているだけである。我々にも彼等を助ける食料もなければ薬等もちろんない。哀れで気の毒にと思うのみでどうすることもできない。我々も野宿だが、彼等も道端の木の陰にごろりと寝転ぶだけである。
休んだままで食べる物もなく、動きもせず二、三日土の上に横になったままで、いつとはなしに事切れていくのだ。あまりにも哀れで悲しい姿である。戦い、戦い、苦しみ、苦しみ、飢餓(きが)に悩まされ、病魔に犯され、若い命が急速に衰え名もなき異境の原野に朽ち果ててしまうのである。
その中で私は一人の知人に偶然出会った。彼は昨年ラングーンで共に無線通信の教育を受けた村井上等兵という鳥取の歩兵聯隊の兵士で、その後ラムレ島に行っていたが、やっとここまで帰ることが出来たとのことである。かつての肉づきの良い紅顔の若武者の姿はなく、今は骨と皮ばかりでどす黒く汚れ垢(あか)だらけとなっていた。彼も他の人と同じように、杖(つえ)にすがっていた。
「ラムレ島に対する敵の攻撃は物凄く、全員の三分の二は海が渡れず、三分の一の俺達だけが、筏(いかだ)を組み夜の間に海を泳いでやっと本土に帰ってきたのだ。舟も無く敵の監視と攻撃が厳しいので、昼間に渡ることは絶対にできない。その島で多くの戦友が餓死(がし)しつつある」と悲痛極みなき話であった。
再会したものの、衰弱した彼は多くを語る力もなく、とぼとぼと去っていった。お互いにこれから大アラカンの山を越えて撤退してゆかねばならないのだ。彼はラムレ島からここまで来たので、もう大丈夫だと言ったが、これからどんなことがあるのやらと、彼の後姿を見送った。
それ以後、村井上等兵の消息を聞いたことはなかった。
◇第二アラカン山脈の守備
◆シンゴンダインで弾薬の警備
瀬澤小隊のアン河の渡河点での作業も一週間ぐらいで終わり、そこから東へ二十キロぐらいアラカン山脈を登り、シンゴンダインという山の中の地点に移動した。深い谷と凄い山の間で、ここに貯蔵している弾薬と燃料等の警備に当たることとなった。
既にこのシンゴンダインには、前線からここまでたどりついたものの力尽き、次々と倒れた多くの将兵の死骸(しがい)が折り重なり、死の谷、恐怖の谷と呼ばれていた。
その近くを通る時、死臭嘔吐(おうと)をもよおす程で、耐えられない臭(にお)いである。我が小隊四十名は、ここで約二十日間、野積みされた弾薬の保管警備の仕事を続けた。この間に、前線から部隊を組み、あるいはバラバラになり、多くの兵士が疲れ果てた姿で、アラカンの大山脈を西から東へと登り後退して行った。
野砲(やほう)聯隊が砲を馬に輓(ひ)かせ、やっとここまで登って来た。馬はもう疲労しきっていたのであろう、幾ら「前へー進めー」と号令をかけても動かなくなってしまった。一晩中「前へー進めー」「前へー進めー」と号令をかけていたが、翌朝までに一キロ程しか登っていなかった。野砲聯隊も大変だなあと思った。馬も食物をろくにもらえないで、重い大砲を引いて険峻(けんしゅん)を登るのだから、可哀相なことである。この地点は第二アラカンを二日程登ってきたところで、まだ登り口である。頂上までにまだ三十キロもあり、これから先が案じられる。
◆懐かしい人に出会う
こうした中、岡山の歩兵第百五十四聯隊が印度洋ベンガル海岸のカンゴウ方面より後退してきた。この折、バッタリ旧制岡山二中の同級生だった内田有方君に会った。まさに奇遇、突然の出会いで懐かしい限りである。彼は少尉の階級章を着けておりたくましい感じの将校姿であった。
既に、カンゴウでの戦闘を経験し多くの戦死者を出した直後らしかったが、彼は元気で精悍(せいかん)な感じさえした。お互いに健闘を祈り固く手を握りあい別れたが、大きな励みとなり心の支えになった。
もう一人は橘秀明(たちばなひであき)教官である。私が姫路で金井塚隊の教育隊に入隊したとき、初年兵教育をして下さった方で、特別に私を可愛がって下さった。見習士官室の隣の部屋を勉強しろといって私のためにわざわざ貸して下さった恩人、橘少尉である。野戦編成になった金井塚隊に私を送り出し、別れを惜しんで下さったのである。
しかし、その後この方も他の部隊に転属になり、こうしてビルマに来ておられ、ここアラカンの山中で思いもかけぬ奇跡的な出会いとなったのである。本当に懐かしく、涙が出る程嬉しい再会であった。よくも、広いビルマの中で会えたものだ。神様の思召しにより会わせて頂いたのだ。
別れてから二年ばかり経っていたのだがお互いにすぐに分かった。
橘少尉は「小田元気か。幹部候補生の試験は?」と先ず訊(たず)ねられた。
それもそのはず、私がこの野戦部隊の金井塚隊に転属になったのは、幹部候補生の試験が留守部隊の有元隊では行なわれず、野戦部隊の金井塚隊に転属すれば受験できるとの人事係准尉の言葉で、私も受験したいばかりに転属することになり、その結果ビルマの果てまで来たことになったのである。その経緯を知っておられる方だけに、試験を受けることがあったかどうか、心配して聞かれたのだ。私が今も普通の上等兵の衿章を着けているから、およそのことは察しながら。
私は「試験は全くないのです。もう戦争ばかりで、試験など行なわれないのです。でも、こうして元気ですし、皆によくしてもらっているので」と答えた。
「こんな戦況では、どうしようもないからのお」と慰(なぐさ)めて下さった。
橘少尉がいつまでも私のことを心配して下さっていることに感激し、胸に熱いものが込み上げてきた。
ところで、将校なのに何故、ここを一人で歩いているのだろうか、当番兵も従えていないで、と不審に思った。一応将校としての拳銃、軍刀等の武器、背嚢(はいのう)等の装具は持っておられるが、落伍しかかっているのではないか?と心配になった。
それ程弱っておられる様子ではないが、何となしに不安を感じた。だが、私の教官であり私を一番可愛がって下さった見習士官、軍隊生活中で最も思い出に残る橘少尉に「どうか元気でいて下さい」と心を込めて言うのみである。
「お前も元気でな」と優しい返事が返ってきた。そして、第二アラカンの山また山へ登っていかれる後姿に心から幸運をお祈りした。
---橘少尉は兵兵団(つわものへいだん)の我々輜重聯隊でないので、その後の様子は全く分らない。生きておられたら、終戦後二年も抑留されている間に風の便りで消息が分かるはずなのに、何の音沙汰も聞くことがなかった。戦況不利の状況から推して、よくないことが想像され、あの時が今生(こんじょう)の別れになったのではないかと思う。
---五十二年の歳月が流れた今も尚(なお)懐かしい。色白、やや丸顔、黒縁の眼鏡をかけた面影が目に浮かんできて堪(たま)らない。橘教官、橘中尉、教育兵の私を特に心にかけて可愛がっていただきました。消灯後わざわざ、外出先から買ってきた寿司を初年兵の私にご馳走して下さったこともありました。
軍隊生活は一般とは別世界の厳しい所ゆえ、人の情はより温かくより強く感じられるものである。これらの御恩は決して忘れてはならないし、私の一生の意義ある思い出、軍隊生活の中の一際(ひときわ)懐かしい思い出として大切にし、いつまでも懐かしみ、いつまでも橘秀明中尉にお礼を申し上げたい。
本来ならば恩人の本籍地を調べ、消息を調べ、感謝し、お礼申し上げなければならないのだが、分からないまま歳月が流れてしまった。凛々(りり)しく優しい面影が今も脳裏に浮んでくる。嗚呼(ああ)!
◆悪性マラリヤまん延
第二アラカンの山中で引き続き弾薬や燃料の警備をしていた。四月下旬頃から五月当初にかけて毎日、敵の大型飛行機二十機ばかりが編隊を組み、我々の遥か上空を東へ向って飛んで行く。どこへ行っているのだろうか?後で分かるのだが、その頃敵はビルマ中部の主要地域や平原に拠点を作り、陣地を確保して我が軍を攻撃し各所で優位に立ち、中部重要地点を占領し支配下に収めつつあったのだ。
我が兵兵団はビルマの西地区、アラカン山脈に取り残された状況となっていたのだが、こうした中でも瀬澤小隊は一番西の最前線で引続き弾薬庫の警備をしていた。もう誰も使うことはないだろう弾薬や荷物の警備はおよそ意味のない仕事になっていた。だが、その命令に従っていた。その間に多くの部隊が我々の所を通りアラカン山脈を越え後退していった。
この山の中は前にも述べた通り、悪性マラリヤの根源地で、兵士は次々に倒れていった。昨日まで元気者で筋骨隆々(きんこつりゅうりゅう)としていた古参の松本上等兵が、急に高熱に冒され日に日に衰弱していった。ここ数日何も食べられず白湯(さゆ)だけ飲んでいる。例の如くやがて下痢が始まった。どこにもよく効く薬はない。各自錠剤のキニーネ薬を僅か持っているが、そんなものは今更効かない。
病の進行を見守り運に任せるだけである。寝ている彼に蝿(はえ)がたかってくるが、もう追い払う力もなく、鼻の穴や唇辺りに群がるにまかせていた。やがて黙ったまま事絶えてしまった。気の毒な末路であった。彼は鳥取の出身でさわやかな感じの人であった。この有様を親や兄弟が見たらどんなに悲しまれるだろうか。
---今も、松本古年兵の白い歯並みが整った面白(おもじろ)の顔が目に浮かんでくるが、それも遠く過ぎし日のことである。
◆内地の短波放送
その日は四月二十九日で天長節の日であったと思う。手元に細々と食べるだけの米や乾パンがあり、敵も我々の所へ襲撃してこなかった。警備保管中の各種器材に混じり、敵から分捕った無線機があった。スイッチを入れてみると、壊れてなく音がするではないか。いろいろ調節していると日本の短波放送が聞こえてきた。もう、二年近く日本の放送を聞いたことがなかっただけに懐かしく、かじりついて聞いた。
放送は「毎日敵機の空襲で次々に家が焼かれている。今日も名古屋市が大爆撃を受けた。家は焼け建物は壊れても、国は焼けないのです。今こそ国民は一丸となって、屍を越え灰燼(かいじん)を踏み越え鬼畜(きちく)米英をやっつけねばなりません。頑張り通そうではありませんか」と悲痛な声である。
内地も大分やられているのだと今更ながら驚いた。ビルマの現地もこのように苦心惨憺(さんたん)しているが、内地も空襲を受けて随分損害を被りながら日本中のみんなが頑張っているのだと思った。
シンガポール港の倉庫監視当番をしていた時、現地人が「先では日本が負ける。英国が必ず勝つ」と言っていたあの言葉が、ふと脳裏(のうり)に浮かんできた。
戦争中の二年及びその後の抑留中の二年を通して、内地の放送を聞いたのは、この時だけである。もちろん、他国の放送を聞いたこともなく、全く放送は珍しいことであった。

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