七 転進作戦
◇最後尾の小隊
◆第二アラカン山脈より転進を開始
置き去りになっていた瀬澤小隊に後退転進命令がきた。もう、私達より前線の、西方面に残った部隊はいない。早々に東へ東へとアラカンを登り後退してしまったのだ。我が小隊が第二アラカン方面でいよいよの最後、しんがりの部隊である。
責任者である小隊長瀬澤中尉は、この命令をどんなに待ちわびておられたことだろうか。忘れられてしまったのではないかなど、責任者として考えることも多かったことだろう。
我々の小隊が、日本軍の最後尾を守りながら、シンゴンダインを出発したのは五月三日ぐらいだと思う。遅れているので昼夜を分かたず山を登った。アラカンの東の平地へ出る地点で、どこかの守備隊が待ってくれることになっているので、一日でも一時間でも早く合流しなければならないと、懸命に歩いた。
山を登って行くと、今まで他部隊がいた宿営場所には、壊れた自動車や、倒れかけの小屋が散らばり、駐留していた場所に雑品が残され捨てられていた。廃墟(はいきょ)というか、敗残後の片づけは必要なしというのか虚(むな)しい有様であった。屍を埋めた所も見受けられた。
二日程歩いた所で私は急に悪寒(おかん)を覚えた。マラリヤの発熱前兆(ぜんちょう)だ。しまった、えらいことが起きたと直感した。あのシンゴンダインの凄い奴だろうか?それなら助からないかも知れない。また、半年前にタンガップでマラリヤで死にかけたときのことが思い出されてならなかった。あの時はまだ一ヵ所に駐留して小屋に住んでいたが、今度は毎日歩き通さなければならない悪条件の中であり、ついて行けるだろうかと、暗澹(あんたん)とした気持ちに襲われた。
山を登っているのに汗が少しも出てこない。普通の健康状態なら当然、汗が出るのだが様子が違う。熱が激しくなり、山坂の行軍で疲労はつのるばかりだ。ただ以前のタンガップの時に比べれば、お粥がほんの一口だけだが喉に入る。前回で少し免疫が出来ているのかも知れない。
それに、苦しく弱りながらもどうにか皆について歩いている。ここで落伍すればもうそれまでで、山の中には何も無い。後から来る部隊はもちろん、ただの一人もいない。あるのは死のみである。ついてゆくより仕方がない。泣くこともできない。汗が出ればよいのに全然出てこない。
頂上を過ぎ二、三日坂道をどんどん下ってくると、遥かに平地が見えはじめた。後一日行程で平地に出られそうだ。小休止をした時、荷物を軽くするために鉄帽を装具から外し竹薮(たけやぶ)の中に捨てた。今後の戦闘で鉄帽が必要なことがあるとしても、今の苦しさには耐えられないのだ。瀬澤小隊長がこれを見ていたが、「内地の工場で心を込めて製造してくれた物だが、仕方がないのう」と私の行為を認めてくださった。軍隊で兵器は最も大切なものなのだ。鉄砲と剣が一番ランクが高い。鉄帽はその次のランクだろうか。
そこを出発し山を下って行くと目指す平地では戦闘が展開されているではないか。大砲のドカン、ドガンという音が聞こえ、砂塵(さじん)が濛々(もうもう)と起っている。我々を、アラカン道からの出口であるパダンの交差点で待ってくれている部隊が、戦っているのだ。やがて日が暮れたが、その夜は徹夜で歩いた。肝心のパダンの出口を敵に押さえられていたので山裾(やますそ)の細いかわせ道を進んだのであろう。自分にはよく分らないが人の後を取りはぐれないよう夜道を懸命に歩くだけである。夜の間に少しでも敵から離れた所まで逃げておかなくてはならないのだ。
喉が乾く。水筒の水はとっくに空になっている。マラリヤの熱は依然として自分を苦しめ続けている。苦しく、きつく、ふらふらになりながらも歩きとおした。小休止もなく、荒野の細道を南へ南へと逃れていった。夜が明けたが行軍は続いた。
昨日の朝から二十時間も殆ど休みなく歩きとおしである。この時、小隊長の命令で私達特に弱った者数人に、ビタカン注射をしてくれることになった。たいした薬ではないと思ったが、幾らか元気が出た。これも私には誠に幸運だった。もし、この注射をしてもらっていなかったら、私はここで落伍していたかも知れない。それ程弱っていた。やはりビタカンが効いたので歩けたのだ。
そうしているうちに、敵の戦車が後から追っかけてきた。地響きが聞こえる。小走りに逃げた。
どこをどう走ったか分からないが、いつの間にか、敵戦車は我々と離れたようだ。他の方向に行ったのだ。ああ、助かった。
まだまだ歩き続けた、もう午後二時ぐらいだろう、暑い暑い、喉が乾きカラカラだ。私はマラリヤで特別苦しく汗も出ない。もう、二十時間も歩きとおし、枯れかけた灌木が少し生えている荒涼(こうりょう)とした場所で大休止することになった。
とはいえ、そこは水がない原野の真っただ中である。ふと見ると柿の実が落ちている。小さな実であるが、拾って食べた。なんと、これが少し甘くて食べられた。マラリヤの熱があるのに不思議に食べられた。木の枝にも実が着いていたが、それを取って食べる程の体力はなかった。
小さな柿を二個ばかり食べたので、いくらか元気が出て、水を探してみようとなだらかな起伏のある所を、低い方へ低い方へと下りてみた。すると一番低い所に一メートル四方に水溜りが残っていた。ぼうふらがわいていたが、水を見つけられたのは幸運だった。
飯盒と水筒に水を汲み沸騰(ふっとう)させて飲んだ。干涸(ひから)びた体に白湯(さゆ)の水分が入った。マラリヤに罹(かか)っているのに不思議に、この時は汗が出てきた。汗が出たのが体によかった。そのあと、お粥をほんの僅かだが口にすることができ、携行していた乾パンを少しだがお湯に漬けて食べることもできた。案外あのビタカン注射が効いたのかも知れない、どうあれ有難く嬉しいことだ。乾パンの中に、赤、白、青のコンペイトウが入っていた。子供の頃お祭りで、コンペイトウを買って食べたことが懐かしく思い出された。暑い午後を雑木の間で過ごし、夕方また出発となった。
この日の行軍で、我が班で二人の兵隊が日射病で倒れ落伍してしまった。普通なら涼しい所で静かにしておれば治るのだが、ここではついて歩いて行かなければならないのだ。名前は覚えていないが、私が発熱している状態より、彼らの方が元気であったようなのに、それに班長がだいぶ励ましていたのに、どうにもならなかったのだ。彼ら二人はその後どうなっただろうか?飢餓のため死んだのだろうか、それとも苦悶(くもん)しながら自決したのだろうか?
夜行軍は続けられた。ただついて歩くだけである。どちらへ、どう行っているのか分からないまま夜通し歩いた。
夜が明けると谷のような凹地に入った。日陰一つない照りつける太陽の下でやっと飯盒炊事をすることができた。幸いに空襲を受けないですんだ。私は食事の方は一口しか食べられない。やはり駄目かと心細くなった。
◆敵陣地を攻撃 戸部班長、藤川上等兵戦死
今ここにいるのは、木庭(こば)少将が率いる木庭兵団を主体とし歩兵、野砲、輜重の一部などが一緒になり、約千人の集団のようである。よく分からないが、我らの退路は断たれており、敵は既に堅固な陣地を構えている。
袋(ふくろ)の鼠(ねずみ)としておいて、空から、あるいは地上機甲(きこう)部隊で、殲滅(せんめつ)を図っているようである。我々は何としてでも、退路を遮断している敵の陣地を突破しなければならないのである。
この敵陣を攻撃するため、私はマラリヤで弱り疲労していたが、小隊長から命令された。どんなに、ふらふらしていても従わなければならない。輜重隊から十名が選ばれ、その他の聯隊から来た者も含めて、総員約二十名が歩兵の田中中尉の指揮に入り敵陣地の攻撃に行くことになった。
敵は前方の森のお寺に陣を敷いている。我々は静かにこちらの林の間を縫って近づいて行った。林を抜けるとそこに川があった。先ず水筒に水を入れ元気を出して進むべく、二人が川に下りると敵が急に撃ってきた。パリ パリ パリと機関銃の猛射である。
ここは敵から見えないだろうと思っていたが、敵はよく監視していたのか、こちらがそこに出るや否や素早く弾を浴びせてきた。さきの二人は慌てて引き返し我々も皆窪(くぼ)みに体を隠し伏せた。
そしてジリジリと後に退き、水のことはあきらめて、大きく迂回(うかい)して攻めることにした。
灌木の間を抜けていくとそこに通信線が敷いてあった。それは敵の陣地と我々が今進んでいる道を挟んで、反対側の山の上の陣地を連絡してあるもののようであった。後で分かったが山の上には迫撃砲の陣地が構築されにらんでいたのだ。中尉はこの通信線を切断するよう命じ誰かが切断した。
敵陣地の方に少し進み分散、散開、着剣、弾込め、安全栓を開放して、一斉に攻撃を開始した。雑木が点々と生えており、我らの攻撃を適当に遮蔽(しゃへい)するのに役立つように思えた。私も走ったり伏せたり、小さい灌木の間に体を隠したり、また、敵陣地めがけて前進し、走ったり伏せたりしながら突進した。だが、敵の陣地がある森は分かるが、完全に模擬(もぎ)遮蔽(しゃへい)しているので、いよいよどこに敵の兵隊がいるのか分からないので照準を決めて撃つところまでにならない。
そうするうちに敵の機関銃が撃ってきた。これは自動小銃なのだが連続発射してくるので、我々は機関銃かと思ったのだ。日本軍は自動小銃を持っていないのでそんな兵器があることを知らなかったのだが。ドッ、ドッ、ドッ、パリ、パリ、パリ、ヒュー、ヒュー、ヒューと弾が飛んでくる。しかし、敵陣地攻撃を命じられているので、弾の間を縫うようにして進み攻撃していった。
私の左手を突進していた戸部班長が「やられた!」と叫び転んだ。
ちらりと見ると右腕から赤い血潮が流れ出ているようであった。「うむ」と苦しそうな声を出した。それを横目でちらっと見ただけで、私はなおも進んだ。
次の瞬間、これも私の左側を突進していた藤川上等兵が「あっ、きんだまをやられたッ」と大きな声で叫んだ。「天皇陛下万歳!」と言いながら灌木(かんぼく)の間に倒れ込んだ。彼は支那事変の経験もあり、中隊の中でも一番のモサでならしていた古年兵。荒れ馬もこの人の前に行けばおとなしくなる程の歴戦の勇士で、私の隣の班で初年兵からは恐れられていた人だ。
私は彼の側に行って介抱(かいほう)したり見届ける余裕もなく、敵弾の中でどうすることもできなかった。
灼熱の太陽がギラギラと照りつけていた。感傷にふける場合ではなく、攻撃前進あるのみだ。
◆悲喜こもごも、大変な一日
私は、やおら立ち上がり敵陣目がけてなおも突進した。十歩ばかり駆け出した時、危険を感じ右前方に滑り込むように伏せた。その瞬間敵弾が三〜四発飛んできて、私が走つていた姿に照準を合わせていたのだろう、伏せした私の三十センチ左の地面に土煙をあげた。間一髪、十分の一秒の差で助かった。
更に止(とど)めの射撃か、確認のためか、もう一度同じ地点に三発撃ち込んできた。慌ててはいけない、動くと見つかるので伏せしたままじっと七、八分間辛抱した。長い時間に感じた。その後は伏せたまま後へ後へと這(は)いながら退いていった。二百メートルばかり退いた所に大木があり、その木陰に体を横たえて休んだ。彼我(ひが)の弾丸の音も静かになったようだ。
ふと見ると、地面に大豆が生えて双葉になったように、柔らかい芽が生えている。この数日間、飯もお粥も殆ど食べられず、マラリヤで弱っているにもかかわらず、攻撃隊員となり激しく戦った後だけに疲れ果てており、喉が乾いてたまらないので潤(うるお)いを得たく、若芽の水分を吸収したい衝動に駆られた。この芽が毒かどうか分からないが、この大木から落ちた種が生えたもので、大豆の双葉に似ているから大丈夫だろうと判断した。もしこれが毒で腹痛でも起こせば、それまでのことと決心し、引き抜いて口に入れてみた。噛んでみたが別に悪くはなさそうだ。一本二本と抜いて食べた。美味しいというのではないがまずくもない。水分が喉を僅(わず)かに潤してくれ心地よかった。
マラリヤで熱があるのに、不思議にこの双葉は水分が多いので、噛(か)んでいるうちに喉を越し食べられた。次々と二十本ばかり食べた。
遠くで「集合」と叫ぶ声がありその方に行くと、指揮官の田中中尉は腕を負傷し三角布で縛(しば)り吊っていた。数人が負傷しており痛々しかった。また何人かが戦死しており、みんな元気なく悄然(しょうぜん)としていた。
戸部班長を誰かが抱えてそこまで来ていた。私の直接の班長であり、真面目なお人柄、それに私には特に目をかけて下さった方で、近寄って「元気をだしなさい」と励ました。うつろな目で私を見ていたが、返事はなかった。顔は青ざめ頭から頬を伝って赤い血が細く流れていた。手と腕の方もやられていたのか服を通して血がにじみ出ていた。そのうち、がっくりと頭を落とし、息を引き取られた。
今も、その時の蒼白な顔を思い出す。岡山県阿哲(あてつ)郡の出身だと聞いていた。国に忠誠を誓いながら旅立たれたのである。
藤川上等兵の最期を見届けた兵士によると、草叢(くさむら)に倒れ込んだ後「藤川しっかりせい」と声をかけたが「苦しい苦しい」と悶(もだ)えながら息を引き取られた由である。
この方達は日本の発展を願い、国家に対しての忠誠心を、しっかり持っておられ立派な最期をとげられたのだが、本当に頭が下がる思いがする。
みんな奮戦死闘の攻撃をしたが、攻撃隊は無残に破れ、敵の陣地は攻略できなかった。
真昼中に、敵が陣地を敷いている所を正面より攻撃することは難しいことである。敵の兵力がどれだけあるか知らないが、陣地をまともに正面攻撃したことは無謀であったと、後で思った。しかし、上からの命令はすぐに攻撃し突破せよだったのだろう。夜を待って夜間攻撃でもするのが賢明だったかも知れないが、後から気がつくだけのことである。結局主力部隊約千人は大きく迂回(うかい)して転進するより仕方なく、あれこれと退路の捜索(そうさく)をしていた。
その頃敵の偵察機が二機上空に現われた。そこは大きい遮蔽物のない所で、僅かに高さ二〜三メートルの竹薮(たけやぶ)が点々と団子状に生えているだけで、空から見れば、兵士の姿は丸見え、若干の馬と車もあり隠れるわけにいかない。敵機二機は小癪(こしゃく)にも超低空で旋回する。充分偵察して帰るつもりだろう。
敵機は一発も撃たなかった。友軍からも一発も撃たなかった。この頃は敵機を撃っても無駄であることをみんな知っていた。敵機はしばらくして去っていった。この偵察の結果が報告されると、敵の大火砲や爆撃機にやられると心配した。しかし、その日は空襲がなくて助かった。太陽は容赦なく照りつけ、みんな埃(ほこり)と汗に汚れ顔は泥のようであり汗がギラギラと光っていた。
私は、幸いに食べた豆の双葉のエキスが効いたのか、マラリヤの熱が少し下がったようで凌(しの)ぎ易く感じる。不思議なことだが、この双葉が解熱剤になったようである。汗が出ており何にもまして嬉しく有難いことだ。汗が出れば熱を発散させ次第によくなるだろう。しかし、ここ十日間ばかり体は過労とマラリヤで弱り、食事も殆どしていないので息絶え絶えである。一日も早く完全にマラリヤから治り、体力を回復し元気にならねばならない。
今回のマラリヤは、タンガップで半年前、悪性マラリヤをしていたので、幾らか免疫になっていたのか、あるいは、いくらか軽い種類のものであったのか、とにかく行軍行動や激戦中ながら助かった。これも幸運、紙一重で命が繋がったのだ。
また、私が身を伏せるのが十分の一秒遅かったなら、三発の弾丸が私の体を貫き、更に追い打ちの三発が止めを差していたであろう。敵は、走りながら前進していた私を狙い撃ったが、瞬間早く右手前方に伏せしたので、私の体が過ぎた後、僅(わず)か三十センチの所を撃ち砂煙をあげたのだ。
不思議でならないが、食べられるものか、毒を持ったものか何か分からないが、渇(かわ)きを癒(いや)すため決心して食べた豆の双葉がマラリヤの解熱効果に役立ったらしい。神様のお加護(かご)を二重にも三重にも頂いた運の強い日であった。
大変な一日も日暮れになり、煙を出さないようにして飯盒で炊事をした。マラリヤの熱が少し下がってきたのか、久しぶりにお粥が喉を越した。「嬉しい。粥が僅かでも腹に入れば元気になれるのだ」と希望が湧いてきた。
◆平田上等兵、萱谷(かやたに)上等兵落伍
夕方になり出発となった。平田上等兵が「もう駄目だ、ついて行けない」と言って立上がってこない。「そんなことではいかん、シッカリセイ」と浜田分隊長が叱った。彼はスゴスゴとやっと立ちあがった。もう、小銃も持っていなく帯剣も外していた。持ち物は飯盒と水筒だけで杖をつきながらトボトボと歩きはじめた。
西の空が夕焼けしている。子供の頃、「ゆうやけ こやけで ひがくれて やあまあの おてらの かねが なる ・・・・」と歌ったことを思いだすような美しい夕焼けだ。
しかし、今、この夕焼けはそんな牧歌的なものではない。今夜も夜通し歩く厳しい行軍が待っているだけである。敵に追われ、その目を潜りながらの、逃げる時の夕焼けである。その真っ赤な夕焼けの中を平田上等兵は力なく歩いていたが、遂に道端に崩れるように体を投げ出してしまった。
「コラ、しっかりせんかい」と分隊長が強く気合いを入れた。「許して下さい。放って、行って下さい」と答えた。見上げた目には、キラリと光るものがあった。涙した目、赤い夕日がその雫(しずく)を真っ赤に照らしていた。
私は、彼が姫路駅を出るとき列車の中で、父が持って来てくれたぼ・た・餅・だと言って、私にも分けてくれた時のことが思い出され、そのお父さんが彼の今の姿を見られたら、どんなに悲しまれることだろうかと胸が痛んだ。
だが、部隊は容赦(ようしゃ)なく前進をしていくのだ。我々も部隊の流れに押されて、夕闇の中を声もなく歩くのみだ。真っすぐ進んでいるかと思うと、くねくね曲がって野原の中や部落の間を行ったり来たりした。ザブザブと小川を渡り進んで行く。そのうちに、どちらに進んでいるのか分らなくなったが、イラワジ河のカマの渡河点を目標にして闇の中を歩いていることだけは確かであった。
こんどは、「萱谷上等兵が落伍してしまった」と言う。彼も連日の強行軍と先日の敵陣地攻撃で疲れ果て、ついて歩くことができなくなり、闇の中に残ってしまったのだ。闇夜の落伍はいつの間にか姿がなくなっている。行軍の流れに押されて、前の人に遅れまいと歩いて行ったり止まったりしているが、落伍した戦友を探すために引き返すことはできない。隊列を離れると、方向が分からず自分も行方不明になってしまうから仕方のないことだ。
萱谷君も召集を受け、新兵として入隊以来苦労してここまでよく頑張ってきたのに残念でならない。こうして原稿を書いている今も、彼のやや丸顔で、やや唇が厚い感じや、着ていた服が何故か緑色の濃い目の物だったことなどが鮮明に思い出されてならない。
こうして一人、二人、三人、四人と同じ小隊の人が減っていき、残念で悲しいことが続く。とり残す、とり残される、行く人、止まる人、誠に悲惨な光景である。
◆米の確保
携帯する米も無くなり、一日強行軍しても一合(百五十グラム)の米を炊き、三回に分けて食べ、塩をなめながら空腹と疲労を癒(いや)すのだが、段々乏しくなりそれすらできなくなってきた。
その頃は部隊という形ではなく、切れかかったうどんのようにばらばらと三々五々弱った者同士で歩いていた。我々も同じ班の者七、八人で転進していた。
こんな様子で二、三日歩いたところ十軒程の部落があった。みすぼらしい家並みだった。でも久ぶりに家のある所に来たのだ。ビルマ人は既に避難しており誰一人もいなかった。
すぐに食物を探しに家に入り、沢山の葉たばこと塩の瓶を見つけた。だが、米はない、米は現地人が素早く持ち出してしまったのであろう。探してもどこの家にもなかった。しかし、籾があった。沢山あったが、籾は米にしなければ食べられない。幸い一軒の家に足踏みの石臼(いしうす)があったので早速搗(つ)き始めた。
疲労しきった身体には苦痛だったが、皆で交替しながらやっと玄米にした。籾殻と玄米をさ・び・分・け・る・にはテクニックがいる。でも仲間には農家出の人もおり皆手伝って、三時間ばかりかけてやっと約一斗(十五キロ)の白米をこしらえた。骨が折れたが成功だった。みんなに分け、これで安心だ。
井戸から水を汲み米を磨(と)ぎ、飯盒を並べて薪(まき)に火をつけ一方では水筒に水を入れ沸かした。玉古先任上等兵が班長代理として皆をよくまとめ協力したので、ここまでできたのだ。疲れた体をいたわりながら炊き上がるのを待っていた。
◆またも空襲
その時急に爆音がしたかと思う間もなく敵機が超低空で飛んで来た。ここは幅八十メートルばかりのなだらかな見通しのよい谷間であったが、その上手(かみて)から谷に沿って来た。みんな一気に横っ飛びに走った。家のない側に大きい樹木が二、三本立っていたので、遮蔽するようにそこへ滑り込むや否や、その瞬間飛行機三機が家並みに沿い、谷の上手より疾風の如く急降下しパリ パリ パリと機関砲を撃ち込んできた。弾着がはっきり砂煙で分かった。
旋回し二回三回と繰り返し攻撃して来た。三回目は小さな爆弾をそれぞれの飛行機から一発ずつ落として行つた。民家は燃えだした。よく乾燥した季節であり、木と竹で出来た家だからまことに燃えやすい。
飛行機が去ったことが確認できたのですぐに民家に引き返し、中に置いてきた装具や兵器、それに先程分配した米や塩等を、燃え始めた家の中からやっと取り出してきた。これもやっとのこと、二分も後なら火災が激しく取り出せないぐらい切羽(せっぱ)詰っていた。
飯盒炊事の方は、どうにか飯が炊けていた。だが、長代(ながしろ)上等兵の飯盒はぶち抜かれ、はね飛ばされていた。幸いに兵士に損傷はなく、必要な米や塩をとにかく入手することができた。焼けている部落を後にし、そそくさと荒野に出て行った。
あちらに一塊(かたまり)、こちらに一塊、落伍した者が一人二人三人と歩いている。皆イラワジ河の渡河地点を目指して歩いている。夜の行軍に疲れたのかどうか知らないが昼間もこうして歩いている。
小人数だから、敵機から逃れやすいし、昼の方が道が分かりやすいからであろう。
そこを、負傷し杖にすがりながら歩いている人がいる。よく見ると、先日敵陣地を攻撃したとき指揮を取ったあの歩兵の田中中尉である。元気のよかった彼も負傷したが、その傷の痛みと疲労ですっかり弱っていて、一歩一歩あえぐように歩いている。数日の間にこうも変わるものかと、驚くばかりである。足も傷ついているのだ、誠に歩きにくそうである。戦場で足をやられたら最後と思わなくてはならない。足は生命を支えるために絶対に必要なのに、気の毒な姿だ。私は一瞬靖国神社への道を歩いている姿であるように感じた。戦争に容赦はなく残酷非情(ざんこくひじょう)である。
◆瀬澤小隊長の戦死
とある林に差しかかったとき、他の経路を来た瀬澤小隊長ら二十名ばかりの一団と、運よく私達も一緒になった。合流して安心感も手伝い気分がよく元気になった。
小隊長は元気そうであった。玉古班長代理が手短かに、分かれて以後四、五日間の様子を報告した。再会を喜び小隊長を先頭に平地や森の中を進んだ。小休止があり、お互いに無事を確かめ情報を伝えあった。
更に林の間を行っている時、突如銃声一発、弾は一番前を進んでいた小隊長を直撃した。それも携帯していた手留弾に当たり爆発した。
一瞬にして腹が抉(えぐ)り取られ倒れた。即死である。温厚な丸顔はもう残っていなかった。壮烈な戦死である。その辺りを見回したが、それらしい曲者(くせもの)は見つからなかった。現地人による狙撃(そげき)と判断された。
巨星落つ。第二小隊の芯、大黒柱を失ってしまった。昭和十八年四月編成された金井塚中隊の小隊長として百二十名の部下を率い、温厚誠実な人柄で人望の厚かった方であったが、突如このようなことになろうとは思いもよらないことである。しかし、戦争は殺しあいの場であるから仕方のないことかも知れない。
私達は小隊長の右の親指を切り、遺品として拳銃と時計、万年筆を携行した。屍を埋葬するに道具もなく、疲れ果てた我々にはそれをする元気も無かった。それより私達は一刻も早く渡河地点にたどり着かなければならなかった。イラワジ渡河最後の乗船に間に合うように。残念無念の思いで、みんなで深々とお別れの拝礼をし、屍を残してそこを去った。皆、黙々と沈みながら歩いた。
ところで、私も瀬澤小隊長から信頼して頂き、タンガップの山中にいる時には将校当番を仰せつかった。充分なお仕(つか)えも出来ないのに、可愛がって頂いた関係の深い直属の上官である。
---私の軍隊生活、特にビルマ戦線で忘れられない大切なお方であり、尊敬する立派なお人柄であった。姫路市の出身だと聞いていたので、一度お墓にお参りしたいと思いつつも、年月が過ぎてしまった。せめてこの本に残すことで感謝と慰霊の心を捧げさせて頂きたい。
瀬澤小隊は前述の通り、クインガレからグワへの南アラカン山脈越えの輸送で虎との戦いもあったが、任務を完全に果たした。ベンガル湾タンガップ地区で約一年間、警戒警備、保守管理など苦闘の生活をする間に戦況は悪化した。昭和二十年二月からは更に激戦地のタマンド地区へ前進し海岸の警備をした。その時敵の砲鑑から激しい襲撃を受け、五月始めまで第二アラカン、シンゴンダインを最後尾部隊として守り通し、以後しんがりで転進を開始した。
イラワジ河の右岸で戦闘し敵陣地の攻撃等、瀬澤中尉指揮のもとで堂々と戦い、遺憾(いかん)なく任務を完遂し名声を挙げてきた。
小隊長戦死後、兵力が暫時(ざんじ)減少しながらも、中隊長の直接指揮下に入り、任務を遂行し、小隊の名誉を高からしめた。しかし、編成時百二十名の者が、終戦時には二十名少々になっていた。
悲痛、百名の勇士は帰らぬ人となってしまった。復員後五十年が過ぎ、今は数名になってしまった。以上が瀬澤小隊の戦史である。
ペグー山系辺りまでは誰かが、小隊長の遺骨や遺品を携行していたと思うが、皆が死んだり落伍したりして、その後どうなったのか私にはよく分からない。今は御冥福をお祈り申しあげ、合掌するのみである。
◇イラワジの大河を渡る
◆最後の渡し船
もうカマの渡河地点が近いと聞いて歩きに歩いた。それも工兵隊が渡してくれるのは今日限りで明日からはどうなるか分からないとのことである。やっと夜九時頃渡河点にたどり着いた。暗いから辺りの景色やたたずまいはよく分からない。舟着場近くの平坦地で約一時間程待つと「乗船せよ」の命令がきて、早速十トンぐらいと思える船に乗船した。思いのほか早く乗船できて運がよかった。
昼は船を河岸にある大きな木の下に遮蔽して敵機に発見されないようにし、夜陰に紛れて渡河行動を起こすのだが、その任務に当たる工兵隊の兵隊も大変なことと察する。それにぼろ船だから、兵隊の輸送の外に船の修理もしなければならない。
とにかく船に乗れた。闇の中で対岸は見えないが、河幅三〜四キロと言われている大きな河だ。
今は乾期の終わりで水嵩(みずかさ)も少ないが、雨期の最盛期には凄い水量だろう。船は木造の古いものだが、対岸に向かって案外スムーズに進み始めた。
夜中なので敵の襲撃もなく無事に大河イラワジを西から東へ渡ることができた。実に幸運、最後の渡し船にすれすれで間に合い有難いことだ。工兵隊の人達に感謝し、拝むような気持ちで「有難う」と言った。明日以後はどうなることか?
後で聞いたところでは、次の日の昼間に敵にひどくやられ、船で渡れたのかどうか判然とせず、それ以後カマの渡河地点に遅れて来た兵士達は置いてきぼりになり、自力で渡るより他に方法がなかったとのこと。乾期とはいえ大河で流れもあり、自力の筏(いかだ)で泳いで渡った人は極く僅かしか無かったようである。
◆渡河後
大河左岸の近くの山林に我が師団(兵兵団)主力は一週間程前から集結しており、我々が追いついてから後も更に五、六日間、後続の人が一人でも多く追及してくることを待っていた。私には自分の所属する輜重隊のこと、それも第一中隊の第二小隊辺りの小範囲のことしか目の前に見えないが、この山麓一帯に師団の大部隊が息を殺して待機していたのである。
復員後戦争史を読むと、我々がこうしてイラワジ河をやっと渡河した頃に、マンダレーやメイクテイラーで激戦が展開され、ビルマ方面軍総司令部は既にラングーンを放棄し東方のモールメンに退却しており、兵兵団のみが西地区に取り残された形になっていたのを知った。
ここに集結するまでは輜重聯隊(一◯一二◯部隊)も幾つかに分かれて行動していたため、瀬澤小隊以外の集団がどんな戦闘や苦労をしてきたか知る由もなかったが、ここで太田貞次郎聯隊長が五月十一日サンタギーの戦闘で、敵弾に当たり壮烈な戦死をされたのを聞いた。その時聯隊長の当番をしていた花田上等兵も同時に戦死した由。彼は私と一緒に二月召集で入隊した同年兵で、気持ちの良いにこにことした人で、入隊までは国鉄の職員をしていたと話していた。
またその頃の戦闘で、編成以来昨年十一月まで我々第一中隊の中隊長だった金井塚聯隊本部付き大尉も足を負傷され歩けなくなっているのだ、という暗いニュースも聞いた。更に戦況が大変悪いことも知らされ、その上誰々が行方不明になったとか、誰々が自決したのだというような話ばかりだった。
渡河の翌日午後、我々が昨夜乗船したカマの渡河点を遠望すると、敵の迫撃砲(はくげきほう)が射ち込まれたり、戦車砲も撃ってきているようだ。砲声が聞こえ砂塵が舞い上がっている様子が大河を隔てて遥かに見える。昨夜船に乗れなかった人達や、今日カマに到着したばかりの兵士達が撃たれているのだろう。どうやってこれを逃れ、どうやって船もなく筏で大河を渡ることができるのだろうか。気の毒に思い心配でたまらない。
翌々日の夜明けに四、五人の兵が渡ってきた。その人達の話によると、カマの部落は徹底的に飛行機と戦車でやられたが、どうにか昼間は山の茂みに隠れ、皆で筏を組み、夜になり裸でそれにつかまり命からがら泳ぎ着くことができた。大変な目に遭ったとのことだった。
今我々の部隊が集結している所はイラワジ河の東側(左岸)で、山が多く敵の支配が浸透しておらず、しかも大きな木に覆われた地点で絶好の隠れ場所であった。そのおかげで幸いに飛行機からも、地上部隊からも攻撃をされずに数日を過ごすことができた。
◆雨期のはしり
その二日ばかり後の夜中に大雨が降ってきた。五月中旬だが半年の乾期から雨期に入りかけたのであろう。雨足は凄く真っ暗闇の中だから、どれだけ、どのような降り方をしているのかよく分からないが、とにかく物凄い降り方である。「バケツの水をひっくりかえす」どころではなく、風呂の底が抜けたようで息もできないぐらいだ。それに我々は全くの露天である。
夕方までは、夜中に大雨が降ることなど全然警戒していなかったので、大雨の襲来に対し、あわてて携帯テントを頭から被り装具を中に入れ、じっと小さく縮んでいるだけである。携帯テントは約百二十センチ四角の布で防水も悪くなっており、雨が浸み込んでくる。身にまとった一枚のこの布にバサバサ、バリバリと雨の固まりが打ちつけてくる。雨の固まりは体をゆさぶるようである。南国とはいっても夜中の豪雨は体温を奪い寒気がしてくる。
私は岩の上に場所を取り眠っていたが、その岩にしがみついてこらえた。そこは周囲より少し高かったので幸い水びたしにはならなかった。しかし米を入れた雑嚢が携帯テントの外にはみ出ていたので、中の米が濡れてしまった。暗闇の中、どこがどうなっているのか分からない。以後腐った米を食わねばならぬ羽目になったのだ。
篠(しの)つくような雨は二、三時間も続いただろうか。動けば濡れるだけであり、携帯テントを体に巻き着け、固い貝のようになって長い時間辛抱した。その間誰も何も言わない。声を出しても雨の音で聞こえない。真暗闇の中であり、どこが高い所かどこが低い所か、どんな傾斜になっていて、どこが谷で水がひどく流れているのか見当がつかない。装具をしっかり体に着けていなかったり、少し低い所や谷がかった所にいた兵隊の中には、米も飯盒も装具までも大雨による激流に押し流されてしまった者もいた。
我々と行動を共にしていた衛生兵は、闇夜の鉄砲水で衛生用具や薬を入れた包帯嚢(ほうたいのう)を流されてしまい、夜が明けてから幾ら探しても何も無く茫然(ぼうぜん)としていた。
幸い我々兵士は一人も流されずにすんだが、とにかく大変な被害を被った。どうすることもできない程物凄く激しい雨であった。
夜が明け、昼過ぎてから炊事をするための水を汲みにイラワジ河の岸に行ってみると、濁り水が河一杯になり流れていた。昨日までは筏で泳いで渡ってきた人が僅かでもあったが、この水量ではもうどうすることもできない。何にしても私達はギリギリの最後の日に船で渡ることができたのだ。誠に幸運というほかはない。
ふと見ると、河岸に近い所をビルマ人の死体が流されていた。後手に縛られ、大きく風船のように膨れあがってプカプカと浮いて流れている。水死した場合男はうつぶせになり、女は仰向けになると聞いていたが、その通りにこの男もうつぶせになって流れていた。英国軍に協力したためなのか、日本軍に協力したためか知る由もないが、いずれにしてもビルマが戦場になって戦いに巻き込まれ、こんな憐れな姿になり、上流から流され全く可哀相なことである。
誰に罪があるのだろうか?後手に縛られたうえ、河に流されなければならない時の心境やいかに。彼も一個の人格を持つ人間だ。すべてを覚悟したとはいえ、生への執着は強くあったであろうに。仏教国であり、仏心の強い人達だろうが、どう思いどう諦めたのだろうか?戦争という名のもとにこんな悲劇が繰り返されてよいのだろうか。
集結待ちの時限がきたのか?それとも大河の増水で落伍者の渡河の可能性が無くなりもうこれまでと判断したのか、この集結地を離れて夜間行軍が始まった。
◆ポウカン平野を東へ転進
この平野は大河イラワジの東に沿い南北におよそ三百キロ、東西におよそ六十キロ幅でペグー山系までに広がる大平野である。その間を南北に幹線道路のプローム街道が貫き、ラングーンからプロームそして更に北へ延びマグエからエナンジョン方面に延びている。我々はそれを横断して東へ進むのだ。
初日は夕方からの出発だった。薄暗くなったと・ば・り・の中を、木立の間や草原を縫うように進んだ。谷や小川を渡り、山道を登ったり下ったり、うねうねと曲がった道無き道を、前を行く人の姿を頼りに歩いた。二時間ばかり歩いたところで、行軍は止まってしまった。今日はもう前進しないとのことだが、その理由は分からない。前方に敵が現われて進めないのか?それとも道が分からなくなったのだろうか。
その翌日は林の中をドンドン東の方向に進んだ。多くの兵士が、一列縦隊になっているのだから三978e四キロにもなっているのだろう。前方で何が起きていても分からない。時折パンパンと銃声がして曳光弾(えいこうだん)が飛んでゆく。この辺りは木が生えていない緩い起伏の草原である。星明かりで岡の稜線が見通せる程度であった。こんな隠れる場所のない所なので夜間しか動けないのである。
幾晩か歩いたある夜の行軍中、「陶山(すやま)大隊前へ」「陶山大隊早く来い」との命令が、取継がれ前から後方へ向かって伝達されてきた。最後尾を守っている陶山大隊は、早く先端へ来て任務に着けということらしいが、最前線と最後尾では数キロも離れていて、闇夜の細い道を進んでいるのだから、そう簡単に最前部の発令者の所へ追いつけないだろう。大変だなあと感じ、印象に残った。
後日聞いたのだが、陶山大隊は岡山歩兵聯隊の第一大隊であり、このように我々輜重隊は他の部隊と相前後して、転進していたのである。
◇プローム街道を突破
◆感激の横断
行動を開始してから三、四日目、この日も夕方薄暗くなった頃から行軍を始めた。今夜はプローム街道を横切るのだから、敵に見つからないよう特に注意しなければならないとの命令が伝えられた。前の人に遅れないように一生懸命に歩いた。遅れると闇の中、方向が分からなくなってしまうのだ。
その頃は既に主要道路は敵英印軍の勢力下にあり、昼間はプローム街道を敵軍の戦車や車両が往来していた。その警戒線を見つからないように、敵の警戒の手薄な所を夜の闇に紛れて突破し、東のポウカン平野に逃げ込まなければならないのだ。
真夜中頃に、アスファルトで舗装した幅十二メートル程のプローム街道へ出た。なるべく音のしないように静かに素早く渡った。感激の一瞬であった。前の部隊も後の部隊も幸いに見つからないで無事突破することができた。
我が師団は当時敵を攻撃するのではなく、できるだけ犠牲をださないよう敵中を潜り抜け、ビルマ方面軍の主流がいる東南端のサルウイン地区へ転進するのが目的であった。横断後も歩き続けた。少しでも早く本街道より遠くへ離れるように、小休止もなしに懸命に歩いた。
水筒の水はとっくに無くなり、喉はカラカラでどうしようもない。やがて夜が明けた。そこは大きい木の無い草原で所々に背丈ぐらいの灌木があった。私は草の露で喉を潤そうと試みたが、宿った露はあまりにも薄かったのでうまく採(と)れなかった。朝の内は敵の飛行機も来ないだろうと予測して、遮蔽できる大きい木や林のある場所を見つけるため、日が高くなるまで歩き続けた。
結局適当な場所がなく、干からびた砂漠のような感じの所に大休止することになった。所々に背丈程の葉の少ない刺(とげ)の木状の物があり、その下に休む場所を求めた。太陽が昇るとこんな物は日陰の役を果たさずカンカラ干し同様だ。それに敵機からも見つかり易い場所である。
ここでも先ず水を探したが、乾いた大地のどこにも水はない。よくもこんな所に大休止したものだと腹立たしく思ったが仕方のないこと。それでも誰かが一キロ程先にある井戸を見つけてきた。有難い!こんな兵隊がいるから助かる。井戸は小さかったが、充分に間に合う。飯盒で米をとぎ、水を張り、水筒に水を一杯入れて帰ってきた。橋本上等兵が弱っているので彼の分と自分の分を用意した。米の手持ちも乏しいので粥にし、いざ食べようとすると彼は白湯(さゆ)は飲んだが、マラリヤの熱に冒され米粒は喉を通らず、一口も食べることができない。
「僕は食べられないから、小田お前食え。お前の米は先日、水に浸かって腐っているだろうから、俺のを食ってくれ」と言う。私の米は腐りかけていたが、米の腐ったのは当たらないと聞いていたので、臭(くさ)いにおいがしてうまくなかったが、自分の飯盒から少しの粥を流し込むようにして食べた。
「橋本お前、食わないと今晩の行軍について行けないぞ。なんでも腹に入れておけばよいんだ。お粥だから流し込めばよいんだ」と促した。彼は「うん」と言っただけだ。しばらくして「バナナでもあれば食えるかもしれないが」と言った。バナナを欲しがる彼の気持ちがいじらしいが、この荒野のどこにも食べられそうな物はない。
たとえ高熱で粥が喉を越さなくても、本当に梨やリンゴやバナナもあり、設備の整った病院があり、特効薬の注射でもあるならば、悪性マラリヤでも治ることがあるかも知れない。しかし、敗走の道を毎日たどっているこの状況では本人が頑張るより他に方法がないのだ。患者に与えるマラリヤの良い薬はどこにも無い。衛生兵の手持ちも既に無く、先日の大雨で衛生兵は包帯嚢(ほうたいのう)を失っており処置無しの状況である。お互いに在るのは一握りの腐りかけの米と一匙(さじ)の岩塩のみである。
◆橋本上等兵との別れ
夕方になり、曇り空の間に夕日が残る頃出発した。橋本君も皆と一緒に歩き始めた。日が暮れて段々暗くなってきた。特に暗い夜で前の人について行かないと道がどうなっているのか分からない。広い広い草原で立ち木はなく、道といっても人が通ったので道になっているというもので、くねくねと曲がっている。路面は見えず、闇の中に前の人の姿をようやく写しだすようにして歩く有様だ。私は夜、目が他の人よりやや弱く苦労した。いつも一番前を行く人はどんな良い目をしているのだろうか?また、昼、偵察に行った人はこんな目印も無い野原の中の道を覚えておき、夜部隊を誘導するのだが、素晴らしい方向感覚を持っている人だと感心し、不思議に思うことがしばしばあった。
二時間ばかり歩いて小休止となった。私も崩(くず)れるように地面に腰を降ろす。転がるように横に寝てしまう兵士もいた。しばらくして出発となり、闇の中に立ち上がり歩き始めたが、間もなく「橋本がいないぞ」と誰かが言いだした。しかし、長い隊列は容赦なく暗闇の中を進んで行く。
私達の小隊もこの流れの一部となって最後尾辺りを行くだけで、誰も止まるわけにいかない。引き返し、先程休憩した所まで探しに行きたい気持ちはあるが、そうなると闇夜の中で方向を失い、自分も落伍者になってしまう恐れがあるので、どうにもならない。躊躇(ちゅうちょ)している頃、後方遠くで「ドーン」という手榴弾(てりゅうだん)の爆発音がした。橋本上等兵がやったのだろうか。誰も悲痛のあまりものも言わず黙ったままで闇の中を遅れまいとして歩いた。
私は最も仲良しの戦友を失ってしまった。これまでにも何回か落伍しそうになった彼を浜田分隊長が激励し、皆で支え合い、彼もよくここまで頑張ってきたのに、とうとうこんなことになってしまった。惜しい人を亡くしてしまったが、どうすることもできない。嗚呼(ああ)!
◆遺家族に思いを寄せて
私は終戦後、満二年間そのままビルマに抑留され、昭和二十二年七月に復員して郷里に帰った。
早い内に橋本君の御家族へ戦死された時の状況をお知らせしたいと思っていた。しかし私のみが生還し、彼は帰っていないのだから、御家族にしてみればどのように思われるか分からず、自分としては何も後ろめたいことがあるわけではないが、なかなか足が重く、また余計に悲しませることになるのではないか等と考え込み、お訪ねすることを躊躇(ちゅうちょ)していた。
そのうえ、戦後の混乱期であり、自分の仕事のことや、我が家の再建に追われてもいた。昭和二十四年頃になり思いきって、御魂へのお祈りと御家族への報告を兼ねて訪問した。私は小学生の頃、高梁(たかはし)に住んでいたので土地勘(とちかん)があり、それに彼からも高梁の商店街や彼の家の在る場所までも聞いていたのですぐに分かった。
亡き戦友橋本梶雄君のお父さん、お母さん、奥さん、小学二年生ぐらいの男の子がおられた。内地を出る前に姫路の貨物駅に見送りに来ておられたこの四人のお姿を私はよく覚えていたので、特別に気の毒でならなかった。見送りに来ていた時この男の子は、やっと歩けるぐらいであったと記憶していたが、この六年の間に大きくなっていた。橋本君が健在で復員されているならよいのに、一番大切な主人、大黒柱が欠けている家庭は何と言ってもひっそりと淋しく見受けられる。彼は仏壇に祀られているのである。
特に、ご両親は、私の父や母に比べると十二、三才も老いておられ、六十七、八歳だろうか働くこともできず、一層いとおしく感じた。奥様は彼の年から推測して私より六、七才上で三十二、三才だろうか、専売局に勤務されている由であったが、女一人で家族を養っていかねばならないし、大変なことだと思った。彼が召集を受けるまでは大阪で大会社の若手エリートとして社宅に住み、何不自由のない生活をされていたのだろう。いつの頃からか郷里の高梁に帰って生活し銃後(じゅうご)を守っていたが、彼の戦死公報が届いてからは一家の柱とならざるをえず、働きに出られたのだろうと想像する。一家の主人を失った遺族の家がどんなに苦しいか、淋しくどんなに困られているか、他人からは想像するだけで到底測り知れず、私自身ここに書きながらも、想像の範囲に過ぎず真実は分からない。
戦争はこのように寂しく悲しい家庭を数限りなく作ったのである。為政者は大きな罪を作ったのではなかろうか。
誰がその苦痛を償うことができるか。国は後年僅(わず)かばかりの年金を支払うようにしたが、それで遺家族の測り知れない悲しみや苦痛を癒(いや)せるものではない。
私は仏前に合掌して在りし日を偲んでいると、涙がにじみ出て仕方がなかった。彼と私との親密な戦友としての当時のことを御家族にお話をし、梶雄君が立派な兵士であったことや、素晴らしい人間性を見せていただいたことをお伝えし、最後の決別のことを率直にお話した。
御家族にしてみれば、そんな話は聞いた方がよいのか、聞かない方がよいのか分からない。聞けば余計に辛くなり、聞いたとて生きて帰るわけでもないのだが、私としては自分の心の中にいつまでも残して置くよりは真実をお伝えした方がよいと思いお話をした。子供さんにはまだよく分からなかったかも知れないが、ご両親様や奥様は我が子を我が夫を偲び涙されたことだろう。
その当時何回かお訪ねし心からお慰め申し上げていたが、次第にご無沙汰するようになり、歳月も過ぎた。その間一粒種の息子さんも優秀なお父さんの血を受け継がれ、お母さんの慈愛に満ちた訓育を受け、阪大を卒業され大手銀行に就職されていると聞いていた。更に歳月が二十年三十年と過ぎるうちに、失礼なことだが忘れかけていた。
平成七年秋、終戦後五十年に当たり私は戦争についての思い出の作文をある本の中に載せて頂いた。その作文の中に橋本上等兵のことを書いたので、昔を思い出し、その本を御家族の橋本家へお送りした。
それを機に奥様と二、三回電話でお話し、お墓参りを約束し平成八年春の連休に高梁のお家へ久々にお邪魔した。故人梶雄さんの息子さんは大阪方面の自宅から、郷里の高梁にわざわざ、若奥さん同伴で私に会うために帰ってきておられ、梶雄さんの弟さんも津山からわざわざ来て待っておられた。全く久し振りにお目にかかった奥様も年を召されていたが元気で迎えてくださった。息子さんは五十歳半ば前かとお見受けしたが、それこそ立派な紳士となっておられた。全く世代は交替していた。私も七十四歳、時は大きく流れていた。
平成五年十一月に私は二回目のビルマ慰霊の旅をして、世界で三つの指に数えられるビルマで有名な古代仏教遺蹟パガンを訪ねた。その霊地の原野から拾ってきた握りこぶし大の化石が家にあったので、この時それを持参して差し上げお供えした。それは、彼の遺骨は無く、戦後家族のもとに届けられた英霊の木箱の中には、ビルマのものかどうかも分からない砂が入っていたと聞いていたからである。遅きに失したが遺骨の代わりにでもして頂けたらと思い持参した。また彼が最期の日にバナナが欲しい、バナナなら食べられるかもしれないと言っていたことが脳裏に焼きついていたのでバナナをお供えした。
またこの二回目のビルマのイラワジ河の中洲で慰霊祭をした時に、慰霊文を捧げたが、それと同じものを朗読して供養申し上げた。それから、梶雄さんの立派な人となりや戦地での勤務振りをお伝えした。戦地で私と共に内地を懐かしみ、私に写真を見せてくれながら妻子のことを話されていたことをお伝えした。五十一年経過していても、思い出話をしているとしばしば涙がにじんできた。彼は私の心の中に生きているのだ。
いずれにしても父戦死の後、母と子は懸命に生き、このように成功されているが幼少年期は涙の出るような日々であったことだろう。今もなお、その後遺症が残っていないとは言えない。その傷跡が深く残った家庭、幾らか時の流れとともに癒されたかもしれないが、遺家族の人生はどんなに大きく左右されたことだろう。全国で幾十万幾百万の方々が遺族としていかなる苦痛に耐えてこられたかを心しなければならない。
ここに橋本さんのことを詳しく書いたが、これは私が直面した一事例である。私が特にお世話になった上官や親しかった戦友達、多くの方々のお墓参りを逐一すべきところを、身勝手ながら彼を私の心の中で代表とし参拝させて頂いたようなことであり、お許し願いたいと思う。
◆編上靴(へんじょうか)は破れ服も傷む
敵の監視偵察が厳しいので、我が軍が平地で遮蔽物の無い所を転進する時は夜間行動をせざるを得なかった。実際は退却であるが退却という言葉を避け、少しでも勇気を出すように奮起を促し転進と称したのである。山の中で大きな樹木や林に覆われていて、敵の偵察機から見えない所を進むのならば昼でもよいが、それでも敵は我が軍の行動を不思議によく知っていた。偵察機以外にも、日本軍が及びもつかない観測計器や電波兵器を持っていたのではなかろうか。
ともあれ毎夜の行軍が続き、ポウカン平野を西から東へ、曲りくねった道を横断するのだ。長い期間の行軍のため、履いていた編上靴(へんじょうか)もついに口を空けてしまった。修理できるような状態ではないので捨て、取っておきの地下足袋(じかたび)に履き替えた。この地下足袋が最後の履物だ。長くはもたないかも知れないが、大切に履かなければならない。これが駄目になれば、もう行軍にはついて行けない。これこそ生命の綱である。
各人は持ち物をだんだん捨ててしまい、背負い袋の中には、携帯テント一枚、上衣一枚、貴重品若干、靴下に入れた米、小さな缶に入れたガピーか塩を持ち、背負い袋の外には飯盒をくくりつけ、肩に水筒を掛けていた。ガピーとは小魚と味噌状の物を煮詰めた日本では塩辛のようなビルマの食物である。着ている物は肌着の襦袢(じゅばん)か七部袖のシャツ、ふんどし、袴下(こした)(ズボン)、帽子、地下足袋で、どれも垢と土に汚れた破れかけの物ばかりであった。帯革(たいかく)(バンド)には帯剣(たいけん)と手榴弾をぶらさげていた。小銃を持っていない兵隊もぼつぼつ増え始めていた。
元気な兵士は軽機関銃を担いでおり、軽機関銃用の弾薬を携行している兵隊もいたが、人員も減少し兵器も少なくなり戦闘能力は当初の三分の二ぐらいになっていたと思われる。
聯隊長戦死の後は、足を負傷しているが金井塚大尉が聯隊の中の最右翼で聯隊本部に所属しているので、とりあえず一時指揮をする形となっていた。担架に乗せられての行軍は歩く者以上に苦しいものがあったと思われる。平坦な幅広い道でないので、担架は前後左右に揺れ滑り落ちそうになったことだろう。でも担いでもらっているので文句も言えず、辛抱するより仕方がない。気丈夫な現役軍人の誇りと責任感で、担架の上から配下兵士に大きな声で命令と激励をされていた。間もなく植田大尉が聯隊長代理となって采配(さいはい)を揮(ふる)われたのである。
◆担架(たんか)搬送と耳鳴り
担架と言っても竹で応急にこしらえたお粗末なもので、担ぎにくいものであった。乗っている方も決して乗り心地のよい代物ではなかっただろう。その頃戦闘で歩けなくなった兵士は第一中隊でも五、六人もいたと思うが、見捨てて行くに忍びず担架で搬送するのだが一人を四人で担架に乗せ運んでいた。交替要員も必要であり、その人の小銃等の兵器を代わりに携行しなければならないので、都合直接十人の兵隊に負担がかかった。それでいて乗せられている者も楽ではなく不自由で、大変な気の遣いようであったと思われる。あるいはいっそ死んだ方がましだと思ったかも知れない。
私も毎日毎晩担架を担いだ。それまでに体力の弱っている体で担架を担ぐことは、大変な苦痛であった。こちらが担架に乗せてもらいたいぐらい疲労しているのに、担がねばならないとは辛いが、でも仕方がない。
この頃から私は耳鳴りが始まった。担架を担いでいると耳がガンガンと鳴る。今までに経験したことのない現象で気持ちが悪く、脈拍と同じ間隔でガンガンと継続して耳が鳴っている。えらいことになってしまった。自分の声も耳に響いてくる。しかし、小休止となり地面に横になり転がると止まるのである。起きて歩きだすとすぐにまたガンガンと耳に響いてくる。栄養失調と貧血からくるのだろうと思うが、この耳鳴りはだんだんひどくなり聴力も衰えたように感じた。この苦しさ、耐えがたさは本人でないと分からないと思う。
耳鳴りがする。そんなに弱った自分の体、だが、担架は担がねばならない。一人の負傷者の生命を助けるために、多くの人の労力が提供されたが、気がつくと、担架を担いでいる人が次々に衰弱し落伍したり、動けなくなりだしていた。このようにして私の班や隣の班の田中上等兵、松下上等兵、山本上等兵が行軍から脱落していった。
担架を担ぐために自分の方が先に弱り落伍して、死ぬ羽目になり犠牲になった兵は、どんな気持ちがしたであろうか。担架に乗せられている人も耐えられない思いであったことだろう。だんだん担架を担ぐ人の心もすさみ、戦友である担架に乗っている人を罵(のの)しり手荒く扱うようになってきた。
私も落伍し隊列から離れてしまえば、担架を担がなくてすむと思った。でも落伍したらもう道が分らなくなり、結局は自分自身が本当に行方不明者になり死を選ぶこととなるのが目に見えている。十日ばかりこのような形での夜の行軍が続いた。知らない土地をぐるぐる曲がり、細い道をたどり、岡を越え林を潜り、東へ向かって転進した。広いポウカン平野の間を道なき道が、勝手に作られ、勝手に消えながら部落間を繋いでいる。
その頃のある日、一晩中歩き小休止も何回かした。夜が明けてみると、前夜出発した部落に、回り回って帰ってきているのである。先導者が悪いのか、それとも敵の警備を避けているうちにそうなったのか知れないが、ビルマの道はそれ程までに分かりにくい。夜の闇の中のこととはいえ、不思議なことが起きるもので滑稽でもあり、全くの骨折り損であった。
ポウカン平野の中程、ポウカンという部落らしい所に集結した。そこには、我々より早く来ていた部隊も待っており、また、同じ輜重隊でも第一アラカンからイラワジ河をパトン方面で渡河し、他の経路を通って来た中隊本部や第三小隊等もおり合流した。久し振りに会う戦友達も以前の張り切った姿はなく、疲労し悄然(しょうぜん)としており垢にまみれていた。それに、上官や古年兵や同年兵が負傷したとか戦死したとかいうような暗い話ばかりであった。
とにかく、ここポウカンにはかなり大きな兵力が集まったことになった。その部落に四、五日滞在し、食料等を収集することにしたが、もう軍票は役に立たない。日本軍が負けているから軍票が役立たないことを現地人はよく知っている。従って部落民の米等を失敬するより他に生きる道がない。もちろん部落民は逃げており米と塩を捜した。椰子の実やマンゴーの実をもぎ取り、鶏を捕まえ豚を殺して食べた。「ビルマ人よ許してくれ、我々はもうどうすることもできないのだ、飢え死にしそうなんだ」と心の中でつぶやきつつ。
兵兵団も内地を出発した時は一万六千人だったが、この時点で約八千人に減っていたようだ。それにしてもこんなに大勢がこんな部落に集結したのだから、この土地の現地人には気の毒で大変迷惑なことである。米を取られ塩を取られすべてを失った上に、日本軍が通り過ぎた後には、沢山の屍と動けない瀕死の兵隊が残されているだけであった。
◆浜田分隊長倒れる
ポウカン平野を幾日もかけて歩きペグー山系に差しかかる頃、浜田政夫分隊長がマラリヤに罹(かか)り竹の杖にすがりやっと歩いている。一歩踏み出し、私に「小田よ、儂、もうあかん」と言った。私は「いくら苦しくても、頑張って行こうよ」と答え励ました。しかし私も弱っており大きい声は出なかった。体力が衰えると声も出なくなる。この頃から、声が弱々しくなりヒイー ヒイーというばかりである。かぼそい声しか出ない状態はこの頃から始まり、終戦後半年ぐらい続いたが、体力の回復と共に自然に治った。重病人が弱々しい声しか出せないが、それと同じである。浜田分隊長は続けて「悪性のマラリヤに罹り、飯が食えない。それに下痢をするんだ。高い熱が出て下らないんだ。儂も弱ったわい」と言った。気の毒に思うがどうにも助けてあげる方法がない。今まで、凛々(りり)しい顔立ちの彼、軍人らしい気合いの入った立派な人柄、そんな人が、よもやこんな姿になろうとは想像もできなかった。
「小田よ、マラリヤは苦しいのう。今までこんなに苦しいものとは思わなかった。儂も分隊長として、皆が病気したとき元気をだすようにと気合いを入れていたが、自分がなってみるとよく分かるのう。元気を出そうにも高熱で、ちっとも飯が食えないのだからのう」「水ばかり飲みたくて仕方がない」「どこかにマンゴーかパパイヤでもないだろうか。バナナなら食えるかも知れないが」と問いかけてくる。でも、どこの部落にも果物など残っていなかった。もしあっても、この高熱では喉を越さないだろう。
もう一度元気になりたいと願う彼、なんとしてもこの病気から抜け出さなければならないと祈る彼、しかし日に日に衰弱して行く現実と、迫り来る不吉な思いに悩まされたことであろう。
普通キリリとした服装で立派な下士官、模範的な態度のこの人が、もうそんな風情はなく、破れた靴を履き、小銃も帯剣も既になく、真っ黒に汚れた背負袋をだらりと肩に掛けているのみで、帯革(バンド)に自決用の手榴弾が泥だらけになりぶらさがっているだけである。
もう誰も、自分自身の体を運ぶのに精一杯で他人に手を貸すほどの余力も体力も持っていなかった。自力で治り自力で歩くしかなかったのである。
それから数日後、誰からともなく「浜田分隊長も自決されたのだ」と聞いた。私にとり直属上官の一人がまた亡くなられてしまった。寂しく悲しいことが次々と起きるが感傷に耽(ふけ)っている間はなかった。豪雨に打たれながら、遅れないようにと膝を没する深い泥濘(でいねい)の道を歩かなければならなかった。
ここで、編成当初からの第二小隊第四分隊の分隊長で、浜田分隊長の前任者であった藤野禎久軍曹のことについても記しておく。彼は細かいことに動じない豪快な性格と勇気を持った方であり、体格もよく力持ちであった。ビルマに到着後間もなく他の部署へ転属されたのでよく分からないが、シッタン河渡河前に敵飛行機の爆撃を受け、壮烈な戦死をされた、と風の便りに聞いた。
輜重車の車輪が六十キロぐらいあっただろうが、それをウエイトリフテングの選手のように頭上に差し上げ、ワッハ、ワッハと高笑いされていた豪快な姿が思いだされ懐かしくもあり、戦争の残酷さ、火薬の恐ろしさを痛感させられたのである。前途有為(ぜんとゆうい)なピカピカの青年がこのように帰らぬ人になってしまうとは、戦争とはいえ誠に残念なことである。
藤野分隊長にも父母兄弟があり、また思いを寄せる美しい人があったかも知れないのに、戦いはすべてを引き裂いてしまう。非情なものである。
---お二人の在りし日の颯爽としたお姿を思い浮かべて、ご冥福をお祈りする。遠い昔のことであるが、記憶は今ここに蘇(よみがえ)ってきて、まるで夢を見ているようである。ワープロを打つ手を休め、しばし夢を追う。
◆命を繋(つな)ぐために
米が手に入らない。だが籾のままならあった。ビルマでは籾のまま保存しておき、必要に応じて白米にする。その方が保存しやすく味も失われない。それにそれだけの精米機械が無いからでもあろう。この部落で籾を見つけたが臼がない。現地人が隠してしまったのか、いくら探しても無い。仕方がないので鉄帽に入れて、帯剣の頭で搗いて玄米にし、更に白米にしたのだが、一升(約一・五キロ)の白米を得ようとすれば半日仕事である。疲れ弱り果てた体には大変な労働であるが、食うためには省くことはできない。やっと搗き終わり正午頃飯盒炊事にかかった。
その時敵機の襲撃である。みんなできるだけ煙を出さないように心掛け遮蔽した場所にいるのに、敵はどこから監視しているのか分らないが、突如超低空で襲って来た。この時も三機が西の山を這(は)うように飛来したかと思う間もなく、パリ パリ パリと激しく機銃掃射(きじゅうそうしゃ)をしてきた。田舎道に沿うて弾着が土煙をあげていく。息つく暇もなく三機が次から次にと撃ってくる。ヒュンーという機体が空気を切る音が聞こえる。家の細い柱の陰に隠れたり、床下に隠れたりするが弾丸はそんな物は容赦なく突き破る。
小型爆弾だろうかドーンという大きな音がする。民家はよく乾いており、すぐに燃え始める。襲撃が終わるのを待って、米と装具と飯盒を持って部落を出て行った。
同じ班の妻鹿(めが)殿夫上等兵はこの襲撃で持ち物を失い、装具を焼かれ困っていた。以後の転進や生命維持に大変支障をきたしたことと思うが、どうしただろうか。
昔から鍋・釜提げていくと言うが、生きていくには飯盒と水筒が一番大切な物だ。これを打ち抜かれたり持って逃げる余裕がなくなったりして、置き去りにしなければならない場合もある。それに米と靴が大切であるが、激しい攻撃に遭えば、どうすることもできない。これが戦場であり、負け戦の現実である。もうこの頃裸足(はだし)の人も少し出始めていた。
追われ追われながらも、米を少しでも手に入れておくこと、そして、何かを食うことである。暇さえあれば地べたに転がり、寝て体力の消耗を防ぎ、体力を貯えて置くことである。もう顔を洗う元気もなく、もちろん体も洗っておらず汚れたまま二ヵ月以上が過ぎている。体も服も汗と泥だらけで、みすぼらしい姿であり、乞食より汚く憐れで臭(くさ)いにおいを漂わせ、痩せたドブ鼠(ねずみ)といった有様である。皆んなが臭くて煤(すす)だらけの顔をしているのだからお互いにはかまわないが、まさに死にかけた乞食の憐れな行列であった。
◆牛を食うて
食うことについてこまめな小山上等兵が、あそこの部落に牛がいるから取りに行こうと言い出した。皆疲れきって、牛をとりに行く元気のある者はいない。べったりと地べたに座り込んで、鉄帽に籾を入れて帯剣の頭で搗いて白米にしたり、また別の人は先日取ってきたたばこの葉を紙に巻いて、吸うている者もいた。しかもみんな半病人で、動くこともおっくうである。しかし、小山上等兵はしきりに「おい行こう、牛を取りに行こう、取って食おうではないか、牛を食うたらまた元気がでるぞ、さあ行こう」と強く誘った。六人ばかりが腰を持ち上げ、私も仲間に入った。
目指す部落に着くと、柵(さく)の中に赤毛の小柄な牛が一頭ポッンと立っていた。現地人が逃げる時急いだので、そのまま置いていったものらしい。牛は我々が行ったので、これはただ事でないと感じたのか、柵の中を急ぎ逃げ回りだした。ゆつくり捕まえる余裕はない。どうせ殺すのだから、射殺することにし、早速三丁の銃で頭を狙った。この可愛らしい目をした牛が逃げだした。しかし、一瞬立ち止まったところを狙い撃った。何の罪もない牛、可哀相だと思ったが仕方がない。
パン パン パンと銃声が辺りに響いた。牛は倒れた。一瞬足をピク ピクと震わせたが、そのままで動かなくなった。今まで生きていた牛をみんなで殺してしまったのだ。
誰かが、ダァーで首の皮を切り開いて頚動脈(けいどうみゃく)から血がよく出るようにした。皆で牛の腹に上がり踏み付けると首から鮮血が流れ出た。生(なま)暖かく、どろりとしたものであった。これ以上部落内に長くいることは無用、敵がいつ来るか分からないし、現地人が反感を持ち逆襲してくるかも分からない。大急ぎで四本の足を切り離し、皆で担いで林の中に引き返した。後足を担いだがズッシリと重く、肉量を感じた。みんながかりで料理をして、ありたけの飯盒で煮た。その他は携行でき、保存がきくように焼肉にした。
当時、肉を沢山食べる機会がなかったので、しゃぶりつくように食べたが、マラリヤで熱を出している者は、他人が喜んで食べているのを見るだけで食べられない。それも憐れであった。
その夕方から肉を食べた者の半数が急に下痢を始めた。我々の胃腸は美味しいものを長い間食べておらず、いつもひもじい状態にあったので、急にカロリーの高いものを沢山食べると、こうした異常な現象を起こすことになるのだが、誰もそんなことは考えず空腹を満たしていた。体力をつけるために食べたのがいけなかった。私も沢山食べたためか腹が痛み下痢が始まった。米と塩またはガピーしか食べていない私の胃腸に肉は強すぎたのだろう。一日三回の下痢が始まった。
なかなか治らない。今まで以上に体が弱ってくる。あの時牛肉を食べなかったら、こんな下痢にならなくてすんだのに、と悔んでみても後の祭りだ。夜ごとの行軍は下痢の体には厳しく辛かった。
痔の手術をしている私は、括約筋(かつやくきん)が弱く下痢が漏れそうになり堪え切れなくなる。といって自分だけ立ち止まりお尻をはぐり用をたすと五、六百メートル遅れ、取りはぐれてしまうことになる。汚い話だが、少々漏らしながら歩くこともあった。下半身便に汚れて臭く気持ちが悪いこと、この上もない。
もうポウカン平野の真ん中より大分ぺグー山系に近い所に来ており、やがて山系にたどり着けそうである。北へ向かったり、南へ向かったり、時には西に向かって細い道をたどりながらも、総体的には東へ向かって転進している。千人もの部隊が細い道を行くのだから、前の方で、何が起きているか分からずに、進み方が早くなったり、遅くなったり、止まったり、駆け足になったりし、苦難な行軍である。とにかく前の人に遅れないように、前の人を見失わないように歩くだけである。
いよいよ、雨期に入ったようで、厚い雲に覆われた夜道は一層暗く足元も見えない。大粒の雨が降って来てだんだん激しくなる。携帯テントを頭から被り雨を凌(しの)ぐ。しかし、行軍は続く。テントを通して雨が体を濡らし下半身はいつもずぶ濡れで冷たい。南国といっても、こんな時は寒い。凸凹の激しい道を探るようにして一歩一歩と歩く。冷たい雨が頬を流れる。涙は流していないが歯を食い縛り頑張った。足に豆ができようが、傷つこうが、歩くこと以外に生きる道はないのだ。
一人取り残されればすべてはおしまいである。餓死するか、自決するか、現地人に見つかり殺されるか助けられるか、また、敵英印軍に見つかり殺されるか、助けられて捕虜(ほりょ)になるかのどれかである。いろいろの場面が予想されるが、まず殆どは死神に取りつかれるだろう。何にしても当時の軍人ならば、生きて捕虜の辱(はづか)しめを受けたくない、絶対に捕虜になってはいけないと教育をされてきていた。
捕虜には絶対ならない覚悟であっても、自決する時を失い意識不明の状態の時、敵に見つかれば仕方がない。弾に当たり取り残され、動けないまま昏睡状態の時、敵軍に見つかり、気が付いたら英印軍の病院のベッドの上で生きていた場合もあり、それぞれ特殊な事情のもとにあったことを容認しなければならない。
闇夜の行軍でも、豪雨の中でも、時に十分間ぐらいの小休止があるが、ザーザーと降りしきる雨の中では腰を降ろして休むわけには行かず、立ったままである。しかし疲労が激しい時には、地面が濡れていても、へたへたとしゃがみ込んでしまうのである。どうせ濡れており同じことである。しかし休むとお尻から濡れてきて寒くなる。尻や下腹部が濡れるのが一番こたえる。
私の下痢はだんだんと回数が増え、小休止の度に行かねばならないようになった。近くの草原に駆け込みピイピイやるのだ。ろくに食べていないのに出るのは、どうなっているのか、体内に貯えられた養分が引き出されるのだろう。そのうちに便が粘液性になり、絞るような便通に悩まされる。この絞るような便意はアメーバー赤痢の前兆だとか。栄養不足の体はだんだん痩せ衰え一層弱ってくる。
下痢止めの薬等、どこにも無く自力で直すより方法がない。下半身を暖めればよいのだろうが、雨に濡れ川を渡ることがしばしばで、いつも濡れていたのでは治りようがない。
以前からの耳鳴りがゴー ゴー ゴーと相変わらず続いている。耳の鼓膜もおかしい。人が話しかけてきても、声が鼓膜に跳ね返り、おかしい響きがする。自分で話す声が耳に響きガン ガンして耳もおかしくなってしまった。どうすればよいのだ。
もう、この頃は負傷者を担架で運ぶことを止めた。運ぶ人が次々に死んだり落伍してしまい犠牲が大きいので止めたのだ。そうなると足をやられ歩けなければ自分で処置をしなければならなくなり、自決者が増加してきた。
◆歌に託す 林伍長
平素から優しく温和な人柄の林伍長は、聯隊本部付きで大阪外大の出身、本部でよく仕事ができる人だと漏れ聞いていた。その林伍長が草叢(くさむら)の中に転んでいた。色白童顔の面影は消え去り、昨日から激しい下痢で動くことが出来ない。しかもこの下痢はコレラであった。水を飲んではジャーッと下げ、嘔吐(おうと)もするのである。もう、誰も彼の近くに行こうとしない。「水が欲しい。水が欲しい」と言っている。しかし、その声にも力がなかった。
不治の病で伝染性の強い病気であること、余命一日ぐらいしかないことは彼もよく知っている。
体は弱っていても正確な頭と判断力は薄らいでおらず、決して治ることのないコレラに自分が侵されていると感じた時の彼の気持ちやいかに。数十時間しかない命と知り、悲嘆に暮れない人があるだろうか。荒野の果て薬品一つなく、灼熱の中で苦しんでいるのだ。幾ら冷静に心を保っても喉の渇きはどうすることもできず水筒の水を飲み干し「水が飲みたい。水をくれ」「誰か水を呉れないか」と言っている。水を飲んでは下げ、飲んでは下げして刻々痩せ、萎(しな)びてしまうのがコレラなのだ。
聯隊本部の山本上等兵が自分の水筒に水を汲んできて、竹竿(たけざお)の先に括(くく)りつけ林伍長に差し出した。彼はそれをゴクリと飲み「有難う、俺は助からない、死ぬ・・・・」「山本、わしはここで死ぬがお前が内地に帰ったら、故郷の父母にこの歌を伝えてくれ」と言った。『身はたとえ ビルマの果てに朽ちるとも とどめおかまし大和魂』という辞世の歌を。そして、「みんな、あっちへ行ってくれ」と言い、手榴弾を自分で叩き轟音(ごうおん)と共に散っていった。実に見上げた最期であった。
このことがあってから二、三日後、大西主計中尉もコレラに罹(かか)り自決された。主計は聯隊全部の女房役で財政全般を司る大役をされていた。不治の病気コレラと知り、自分のくるべき運命を悟り、部隊員が休憩している場所から少し離れた所まで這(は)うようにして行き、自分の拳銃でこめかみを撃ち抜いて逝かれた。昨日まで元気な人もコレラにかかれば、当時の戦場では薬も注射もなくもう助かるめどはない。愛国の気持ちに燃えながらも、多くの兵士がコレラやペストで死への道を選ばなければならないのである。私達はこの伝染力の凄(すさ)まじさに恐れおののいた。
◆戦車の攻撃
昨夜は夜間行軍をして昼間は細い道から入り込んだ灌木の間で大休止することになり、飯盒炊事をして飯を食べている最中、後の方向からドロ ドロ ドロという音がかすかに聞こえてきた。
「敵の戦車が攻撃してくる!」と誰かが絶叫した。すぐに兵器や装具を持ってその場を去らなくてはならない。瞬間ポン ポン ポンと戦車からこちらを目掛けて射撃してきた。みんなあわてて雑草や雑木の間に身を伏せた。戦車のキャタビラの音とエンジンの音が近づく中で、緊張し固くなり手を握りしめた。逃げ出せば余計に敵に見られやすいだけである。
とにかく、体を草叢(くさむら)の中に隠しているよりほかに方法がない。いよいよ近づけばその時のことで、見つかってしまえばそれまでだ。私達は戦車に対抗できる何物も持っておらず悲壮な覚悟を決めていたが、戦車は我々の方には目をやらず、どうしたことか通りやすい大きい道の方へ出て行ってしまった。
危機一髪、危うく戦車の攻撃を受けるところだった。山のような戦車を目の当たりにして、彼我戦力の相違を思い知らされた。昼はこのようにして、飛行機と戦車に攻撃され追われるので、できるだけ山の中や樹木の繁った所を選んで逃げ、遮蔽物の無い平坦地を行く時は夜行軍をせざるをえない状況であった。言うならば我が軍には、山の中の木の陰と闇夜だけが味方である。明るい昼と重火器と物量が敵の力であった。この頃、交通の主要点、幹線道路、鉄道、主な町、便利のよい平坦地は完全に敵軍の支配下となり、日本軍は山中に追い詰められ、ペグー山系を東へ横断しシッタン河を渡り、ビルマの東南マルタバン方面を目指して落ち延びて行くのみである。転進作戦と称していたが実際は退却であり、敵中横断一千キロの道程は容易なことではなかった。

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