八 雨、飢餓、屍(しかばね)
◇ペグー山系の悲劇
◆屍から装具を失敬
やっと山系の西の入り口の部落まで到着した。我々は他の師団より一ヵ月も遅れており、更に同じ兵兵団の中でもしんがりであった。現地人は既に誰もいない。しかも、大きな部隊が通過した後なので、もう米も無く家はもぬけの殻で死体が散らばって残っているだけである。まだ死んで一日ぐらいだろうか、形が崩れていなく、蝿(はえ)が沢山集まっていた。黒い大きい蝿が一杯で気持ちが悪い。その死人の飯盒、水筒は既に取られて無い。もちろん背負い袋の中に米は無さそうである。死を見届けた後に誰かがもらっていったのだろう。この頃は、いろいろの事情から兵器は勿論、飯盒や水筒さえ紛失した兵隊が多く、こうして必要でなくなった死人の道具を譲り受けるのだ。
そんなある日、山岡伍長が戦場で飯盒を無くして困っていた。ちようど道端で死んだ兵隊が飯盒を手に持ったまま倒れており、息もしていないし足でちょっと蹴ってみたが動かないので伍長は飯盒を取り上げた。その瞬間「はんごうー」とやっと聞こえるかすかな声がした。死んでいると思っていた兵隊はまだ生きており、大切な大切な飯盒を取られたことだけは分かり必死で叫んだのだ。まだ生きていたのだ。そのうらめしい細い声がいつまでも耳に残り忘れられないと、彼は話していた。
人情は人情だが、臨終の人に飯盒はもう必要ではない。生きて歩いている人には、飯盒は片時も無くてはならない命の次に大切な物である。無残、憐れなことであるが、戦争とは絶体絶命どうしようもないこんなものである。
上着も軍袴(ぐんこ)(ズボン)も、自分のものが焼けたりボロボロになったり、無くなったりすれば死人のをもらう。自分が裸足なら死者の靴、それも大分くたびれているのでも脱がせて失敬することもある。
ペグー山系の悲劇がこのように始まるのである。
◆米を確保し、最後尾で山系に入る
ペグー山系に入る前、米を集めるために、今まで他の部隊が入ってなさそうな部落を探した。運よく現地人はおらず、籾と岩塩を手に入れ、たばこの葉と、置き残した鶏五羽、豚一頭を捕らえた。
長居は禁物、さっさと村落を引き揚げた。
ちょうど一日行程ばかり山系に入った所で、鉄帽に米を入れて搗いた。これからペグー山系の中に長い期間、滞在することになるらしい。しかも輜重聯隊は師団司令部の将兵の分も確保してこいとの命令を受け、もう一度引き返して部落に取りにいった。その部落はこれまでに日本軍の部隊が通過した形跡がなく、現地人の姿もなく、敵襲にも会わず、相当量の籾と木製の臼を持ち帰ることができた。二日をかけて山の中で皆で籾を搗いて白米にした。しかし、兵兵団の司令部や主力は四、五日先に山の中程へ前進しており、我々はしんがりで山の中を追及(ついきゅう)することになった。
ペグー山系はアラカン山脈のように高い山ではなく、標高二百メートルぐらいで、南北に約四百キロメートル、東西に約八十キロメートル伸びる山塊である。この広大な山系には殆ど民家はなく、行っても行っても山と谷、森林と竹薮の連続である。道といっても獣道(けものみち)を日本軍が最近急に歩けるように開いた山道で、細く柔らかく、ぬかるみ曲がった緩急の坂が混じったものであった。
坂を登り、下り、谷を越え、水に浸かって河川を渡り、ひどいぬかるみの所もあり、困難を極めた悪戦苦闘の道であった。臼で搗いた白米をそれぞれに分配し、五〜七キログラム程度を持ち山系の奥に入って行った。師団司令部へ渡す米を皆で分けて携行しているのだから、衰弱した体には堪え難く重い荷物で、肩に食い込んだ。
もう、完全に雨期に入っていて、雨の降らない日はなく、豪雨性の雨が降るかと思えば、しとしとと降り続く雨もある。よくもこんなに雨が降るものだ。よく降ると感心すればする程、なおさら降ってくる。しかし、我々は全くの野宿だ。雨に濡れながら歩き、雨に打たれて寝る。内地の乞食でも橋の下があり雨宿りできるが、我等にはそれさえもない。
今までに大部隊が何組も何組も通った後のため、赤土の山道は粘っており、田植えする田に入っているようである。いや、それよりもっと粘っこく、赤土で壁土を作っているのと同じような粘さであった。最初の二日は所々だったが、三日目からは、このぬかるみが延々と続くのである。一歩、歩いては、ズッポン、二歩、歩いてはズッポン、ズッポンと、膝までぬかるみに入り足を抜き出すにも力がいり大変である。
一日歩いても四キロぐらいしか進めない。泥濘膝を没すと聞いたことはあるが、まさしくその通りである。力尽きた兵隊が道のほとりにうずくまり息絶えている。息絶えているが小銃をここまで持ってきておる。立派なものだ。一歩ぬかるみ、次の一歩もまたぬかり込み、グッショ グッショ ビチー ビチーと粘り込んだ。粘った土の中に地下足袋はずるりと入る。その足を抜き出すにも力がいる。強く引き出さなければ抜けない。やっと抜いて、次の足を泥の中に突っ込んで進んだ。
どこを通っても泥だらけである。こんなひどい道を私は見たことも聞いたこともなかった。
例えが悪いかも知れないが、臼で搗いた餅の中を歩いているぐらいの粘さである。ここら辺りのビルマの土はきめの細かい赤土で、日本軍によって急いで造られたのでバラス等は全く入っていない。雨期でなければこんなひどいことにはならないが、雨期の最中、大部隊がニヤクリ、ニヤクリして通った後を、最後尾の我が部隊が進んでいるのだから、このようにねばい泥濘になっているのだ。
そんなある日のこと、私が泥濘の中を一歩一歩足を運んでいると、前方のぬかるみの中に兵隊が立って動こうとしない。追いついてよく見ると、自分と同じ班の三方(みかた)上等兵ではないか。動かないはず、息絶えているではないか。立ったまま死んでいるのだ。彼は丸々と頬の張った、ユーモラスな男であったが、その顔も痩せ垢と土に汚れている。しかし彼であることはすぐに分かった。小銃は持っていなかった。足がねばり込んで、抜けないで力尽き果て死んだのだ。重心がそのまま残り、立ったままの姿である。私は唖然とした。世にこんな死に方があるのだろうか?酷(むご)い!
その頃私の班の者は皆銘々勝手に散り散りバラバラに歩いていた。ここでなんと処置してよいか、判断も思考能力もなく弱り果てた。まごまごしていると自分も落伍してしまうことになる。困惑の極みのところへ運よく玉古班長代理と他に二名の兵隊がやって来た。
玉古兵長は「三方(みかた)か、酷(むご)いこと。立ったまま死んでいるのか?」「力が尽きたのか。みんなで道の縁(へり)に運んでやれ」とテキパキと指示した。四人がかりで、やっとぬかるみから引き出し道の縁に寝かせた。
「せめて右親指を切り取り、遺骨として持って行こう」と言った。誰かがビルマのダアー(斧)で指を切り取った。「お前持って行け」と私に指示された。その頃一枚の紙も無いので、私は木の葉に包みポケットに入れた。この遺骨が内地の三方家に届いたら、どんなに悲しまれるだろうか。しかし、考え方では、親指一本でも届けられれば、まだよい方である。今までにも行方不明になった人の遺骨等どんなになっただろうか?遺骨の無い人が大勢あるのだから。
瀬澤小隊長の親指の遺骨も本山上等兵が大切にして持っていたが、彼が行方不明となってしまったし、大西主計大尉や林兵長はコレラだったので屍に近寄れず、遺骨を持ち帰ることができなかったと聞いている。このように、遺骨のない人は大勢いるのだ。「三方君きっとお前の遺骨は郷里に届けてやるからな」と誓った。
その日も夕方までぬかるみの中を歩き露営した。飯盒炊事の時、その火の中で三方上等兵の親指を火葬にした。尊厳なはずの火葬と炊事が一緒で申し訳ないが、負け戦の最中はこんなことである。誰かが小さな布切れを持っていたのでそれに包み、背嚢の奥に遺骨を収めた。
自分のことだがその頃、私の地下足袋には土がべったりひっ付いて重いこと重いこと。
泥濘中の行軍が続き一日の行程が予定の三分の一にも達せず、全く遅れてしまい、ペグー山系横断に予想外の日数を要することになった。もう、靴を無くして裸足(はだし)で歩く人も大勢出てきた。私の地下足袋もこの泥道で急に傷み、ゴムと布との間が口を開けて、履くことができなくなり、裸足になった。
裸足のままでは頼りないので、ビルマ人のロンジの布端を引き裂き、足に巻きつけることにした。しかし、つるりと滑っては転び、滑っては転び、布にも土がべっとりとつき、数日のうちにそれも破れてしまい、いよいよ裸足の行軍が始まったのだ。幸いペグー山系の中では森林が多く敵機に見つからない。昼間の明るい間の行軍ができたので、地面がよく見え障害物を避けて進むことができた。
しかし、裸足でぬかるみを歩くのだから堪(たま)らない。水気で足はふやけて泥だらけ、木の株や竹の折れ端で足を痛めないように用心して歩いた。ここで足を痛めたら最後であり、命取りになるのだ。ひどいぬかるみだが、その中に石も砂もなく、粘土だから割合足を傷めないで歩くことができ助かった。
我々が平地より運び込んだ籾を白米にしたが、それを師団司令部に相当量渡し、残りをそれぞれが分けて持ち、山に入って来たが、日数を重ねるうちにだんだん少なくなり心細い。
蛙を捕まえて食べたこともあるが、めったにいるものではない。食物が無いので、誰かが「この木の実は食べられるぞ」というので、その実をちぎって食べたこともあるが、味もなくがさがさとしたもので、食べられるような物ではなかった。
◆盗まれた米
携行している米が少なくなり、みんな困り始めたある日、道の縁にごろ寝した時のことである。疲労困憊(ひろうこんぱい)した体はいつしかぐっすり眠った。朝、目が覚めてみると背嚢の中の米が無い。『靴下の中に入れていた米がごっそりない!』一粒もないのだ。体の中の血が逆流しそうだ。確かに、昨夜は枕元に背嚢を置いて寝ていたが、眠っている間に一升五合(二・二キログラム)の米が、ごっそり抜き取られてしまったのだ。米がなければ死ななければならず、そうでなくても、ここ数日、米を節約し食い延ばし、ひもじい目をしているのに。だが、誰が盗んだのか証拠がない。聞いて歩く訳にもゆかず、盗まれた盗まれたと騒ぎ立てない方がよいだろう。我慢、我慢、今日一日は食わなくても死なないだろうと思うことにした。
だが、残念でならない。悪い奴がいるものだ、儂を殺す気か。一日中食べずにふらふらと皆について歩いた。腹が立ち、腹が減る。畜生め!
この日は昼歩き、夕方山の凹地で大休止となった。皆は銘々炊飯をして食べているが、私には炊飯すべき米がなく食べるものがない。ああひもじい。何か食べたいけれども何もない、体が弱るが仕方がない。心やすい戦友にねだれば少しぐらいは、くれたかも知れないが、これから何日ももらうばかりはできない。あえて誰にも言わず我慢した。水筒に湯を沸かして飲んだが腹の足しにはならなかった。『今夜盗み返すのだ、それより他に方法がない。飢え死にしてたまるものか。』
乾坤一擲(けんこんいってき)やるのだ、と決心した。この凹地には我が中隊の一部と他の部隊や落伍者達が入り乱れて休んでいた。腹が減って眠れない。それに今晩こそ何とかしなければ自分が死ぬのだと思えば、じっとして夜が更(ふ)けるのを待つより仕方がない。眠ってはいけない、時間を待つのだ、興奮して眠れない。
木の繁った山の谷で、真っ暗い夜だった。自分の休んでいるところを這いだして少し離れた所で四、五人が並んで寝ている場所に行き一つの背嚢の口を開き、靴下に入った米五合を静かに失敬した。更に離れた場所の兵士の背負い袋の中から、靴下に詰めた三合ばかりの米をも失敬した。
一つ取るのも二つ取るのも同じだ。闇の中で半ば手探りで事は成功した。
参考までに軍隊では、内務班にいる時から員数合わせすることが重要なことで、そのためには常に人の持ち物を盗むことが行われており、世間一般での盗みの感覚とは異質なものがあった。
そのような軍隊生活の中でもあり、この場合はまさに生死の明暗を分ける時である。取られた物は取り返さなければ、生きられない絶対の場面で、静かに反省している余裕のない時である。
腹が減って仕方がなかったので、夜中であるが残り火をおこし、早速炊飯して食べた。暖かいご飯が喉を越した時は久し振りで美味しかった。
この米でこれからしばらく命を繋ぐことができるとほっとした。その時一人の兵隊が闇の中からこちらへ歩いてきた。私は飯盒の飯を食べている最中であった。彼は夜中であるが自分の米が盗まれたのを何かで感じて起きてきたのだろう。こんな真夜中に飯を食うている私を闇を通して見ておかしいと思ったのだろう。
「お前飯を食うているが、わしのを取ったのだな?」「わしのを返せ」ときた。私は「自分の物を食うているのが何が悪いか、腹がへったから、自分の米を炊いて食うているのが何故悪いか、人を疑うのも程々にせい」と切り返せばよかったのだが、そう嘘が言えなかった。
黙っていると彼は私が取ったと感じとってしまった。私はとっさに、嘘をついてしまえなかった。「米を返せ」「わしのを返せ」と迫ってきた。「返してやるわい」と言って米の入った靴下をポイと放り出した。かの兵隊はそれを拾ったが、闇の中で私を睨(にら)みつけ三発ゲンコツで殴った。
私は抵抗しなかった。既に腹に入れただけは儲(もう)けである。少々殴られても腹の中では消化されているのだから。それにもう一つの袋の米は私の背嚢の中に納まっているのだから、歩留まり五十パーセントだと思い、殴られるにまかせた。その兵隊は暗闇の中に消えて行った。暗闇の中の出来事で、お互いに顔は分らないままであった。このようにして私は幾らかの米を入手でき生命を繋ぐことができた。
夜が明け山中の行軍が始まった。この頃は飢えのため顔も痩せているはずなのに、殴られて顔が腫(は)れていたので、溝口曹長が直感で「小田、お前顔が腫れているがどうしたのか?」と尋ねられた。私は「蜂に刺されて、腫れたんです」と体裁を整えて答えた。でも久し振りに腹が満ちて元気よく歩けた。
◆筍(たけのこ)で命を繋(つな)ぐ
ビルマの山には竹薮(たけやぶ)が多く、いろんな種類の竹が生えているが、ペグー山系に入った頃ちょうど筍の生える季節で幾らでも生えていた。これ幸いと筍の先の柔らかい部分のみを採ってきて、灰の汁であくを抜きゆがして食べた。お陰で空腹を満たしてくれた。
私は中学生の頃、筍を食べてジンマシンが体一杯に出て大変困り、医者へ行って注射してもらっことがあったので、筍を食うことに抵抗を感じていたが、腹が減るし米を節約しなければならないので用心しながら、少しずつ食べた。しかし、幸いにジンマシンは出ることもなく助かった。初めのうちは塩の手持ちがあったが、塩がなくなってからは、ゆでただけの筍を口にしたが、それは味がなくて食べられなかった。
誰かが「こんな物は栄養にならない」とか、「腹の中を通るだけだ」とも言ったが、食べる物が乏しいのでこれを食べた。沢山食べ過ぎ消化不良を起こした人もいた。中にはこれが原因で体調を崩し命を絶った人も出た。でも全体としては飢えを若干でも凌ぐことになったのではなかろうか。
私は筍のせいではないだろうが、毎日水に浸かり、冷えと体力の衰弱のためか、この頃また下痢が始まり回数が増え苦しい。どこにも下痢止めの薬などあろうはずがない。物知りの兵隊が炭を食べればよいと教えてくれていた。炭は吸湿性がある。内地にいる頃腹痛の時、黒い粉の薬を飲んだ覚えがある。それに燃やしたばかりの炭ならば黴菌(ばいきん)はないはずだ。「そうだ、これを食べよう」と決心した。
早速、飯盒で炊事した後、燃え残りの炭の奇麗そうなところを拾いあげ、ガシガシと噛んだ。甘味も辛味も何もない。燃えさしで炭になっていない部分は吐き出した。炭を口の中に入れてもなかなか喉を通らないが、このまま下痢を続けていると命取りになるから、治したい一心で、薬だと思いかなりの量を歯で砕いて粉にして食べた。確かに効いたようで次第に下痢が治り、ここでも命拾いをし本当に嬉しかった。炭のお陰である。
---ともあれ、ペグー山系の筍は忘れられない。私は、いまだに食卓に筍が出ると一瞬ペグー山系で食べた筍のことを必ず思い出す。複雑な感情で簡単には表現できないが、普通の野菜とは異なり、筍に対しては特別な心の動きをするのである。
◆次々と落伍してゆく
私と一緒に二月に召集を受け、同じようにこの野戦部隊の金井塚隊に転属してきた戦友の小林君や山田君が自決したとか、大井君がポウカン平野で敵弾に倒れたとの悲しい知らせが風の便りに次々に耳に入ってくる。あのしっかり者の小林君、あの機転のきく大井君。姫路に入隊した頃、美人の妹さんが大井君のもとへ面会に来ていたのを見たことがあるが、それももう昔の夢となってしまった。
しんみりと弔う時間も落ち着いて悲しむ余裕もなく、現実に直面して茫然とするのみである。敵弾と飢えと疲労に死にそうな日々が続く。自分の人間らしい温かい感情は薄れてしまったのだろうか。
ペグー山系の転進で、将校も下士官も兵隊も下痢を起こし衰弱し、またはアメーバー赤痢になり歩けなくなり置いてきぼりになる。自分から、「ほおっておいて行ってくれ」と言う者もある。みんな、元気になり病気が治れば、本隊に必ず追い着こうと思っているのだが、実際は一度皆から遅れ山の中に残ると、もう追いつくことはできない。「落伍してはいけない、必ず追及するのだ」と決心はするものの、体がどうにもならない。
僅かな米を持っていても数日分しかない。そこで飢え死にするか、ある時期に自決するかである。このようにして一人、二人、三人と落伍してゆく。彼等はその後どうなったか、実のところ分からない。殆どの人は、その地に朽ち果てたのではなかろうか。
取り残され、動けず、次第に無くなる一握りの米を眺め、自分に残された命の日数を数えることが、どんなに大変なことか。望郷の念耐えがたく、息を引き取って8c5cかれた将兵の心中やいかに。敢えて言うならば、最後に手榴弾を抱いて自決した人にしろ、次第劣りで自決する判断力すら失い、餓死した人にしろ、敵の弾丸に当たり一瞬にして死ぬのに比較すると、考える日にちや時間があり過ぎる程あったはずで、一層哀れである。
内地の土をもう一度踏みたい、父や母の顔を何回も何回も思い出し、一度でよいから会いたいと念じたことだろう。妻子のある人は、写真を出して頬摺(ほほず)りをして別れを惜しんだことだろう。残酷な時間が継続したのだ。あまりにもあわれで悲惨なことである。これが戦争で負け戦である。
私はこのようにして別れた多くの戦友のことがいつまでも忘れられない。同じ班だったかどうか覚えていないが、笠原上等兵は、私と一緒に馬の作業をし、わたしの輜重車が脱輪し引き上げるのに困った時助けてくれたことがあった。軍隊では共同作業が多く助け、助けられるのである。落伍する彼が最後に「小田、わしはもう動けない、少し休んで行くから」と寂しく弱々しい声で言って道端にうずくまってしまった。細い雨が降り雨霧が辺りの山々を包んでいた。彼の顔と山河の光景が網膜に焼き付いており、歳月は流れても忘れることのできない悲しく遠い日の出来事である。
---衣食足りた平和な今日では、到底想像もできないことであるが、日本の国を守り、民族と家族を守り、祖国の発展を祈りながらこのようにして多くの若い戦友が散っていったのである。半世紀を経過した今も、白骨は雨期の豪雨と乾期の炎熱にさらされたままペグー山系の山深くに朽ち残されており、痛恨の極みである。心よりご冥福をお祈りするばかりである。
二十一世紀の若人よ、祖国を守り日本国の発展を願いつつビルマに散っていった二十万人の霊魂が、無念の思いをしながら残っていることだけは、心に銘記しておいてもらいたい。
◆命がけの糧抹収集(りょうまつしゅうしゅう)
ペグー山系の中を苦難の転進をしている頃、我が第一中隊の主力は手島中隊長以下約七十名に減っていた。
内訳は私の所属する第二小隊では、瀬澤小隊長戦死後は誰が小隊長の代理をしていたかも、浜田分隊長戦死後は誰が分隊長代理をしていたかも明確でない。片岡邦夫軍曹が小隊長代理をし、若い森伍長が分隊長代理をしていたのかも知れない。次々に指揮者が戦死し、兵士達はぬかるみの中を息も絶え絶えに歩いている頃で、人事の任命も我々兵隊までには徹底して知らされる余裕もなく、指揮系統も明確でない状況であった。
第三小隊も当初の黒田小隊長の後任である岸本小隊長が戦死されており、各分隊長も次々に戦死され、その頃には片岡東一軍曹が小隊長代理を勤めるなど、指揮者が激減していた。
私には確かな記憶がないが第一小隊は福田中尉が指揮し、別の方面に転進していたのだろうと思う。
いずれにしても、これまでに第一中隊は、編成当初の半分以下に激減していたと思われる。七十名といえば一個分隊の人数より少し多いだけである。そして既に将校は手島中隊長のみで、溝口曹長が指揮班長として細部の命令を直接兵士達に伝達し取り仕切っていた。
第一中隊は手島中隊長以下で、この頃から師団司令部直轄(ちょっかつ)部隊として行動をすることになった。
ペグー山系に入ってから半月以上苦難の行軍を続け、山系中を流れるピュー河を渡り、山系の東に到達した。眼下にシッタン平野が見える。更に進み山を下り、平地に近い山麓の林が覆いかぶさる中に野宿することになった。これから折りを見て平原を突破しシッタン河に挑(いど)むのだろう、もうあの屍の塁々とした苦難の山系へ逆戻りして歩くことはないだろうと私達兵隊は思っていた。
師団司令部は山系の中程に宿営しているのだろうが、手島中隊に米を取って来るようにとの命令を下してきた。我々自身も米が無くなっているので、とにかく糧秣を収集することになった。
山裾の中隊がたむろしている場所から、シッタン平地に点在する現地人の部落へ取りに行くのだが、なかなか容易なことではない。
夜明け前に起き、山を出て平地にある部落を探し、払暁(ふっぎょう)に襲うのである。私達三人は斥候を命じられ、暗闇の中を一足先に部落の様子を探り、報告するために引き返していると、いきなり友軍が機関銃で撃ってきた。まだ夜が明けておらず、薄暗いので、私の方からも機関銃を構えているのが見えず、機関銃手の方からも私達三人の姿が見えなかったから、こんなことになったのだが、命令の不徹底があったためでもある。
私達三人の方向を目掛けて、いきなり薄暗い所から機関銃がダッ ダッ ダッと火を吹いた、ちょうど七、八メートルの至近距離からである。私はびっくりして「友軍だ!友軍だ!」と叫び、仰天し横跳びに走った。他の二人はどう逃げたか知れないが銃口の前を飛び退いた。機関銃の銃口の高さは三十センチぐらいで私の股の間を弾が通ったと感じた。それも三発点射だから三発全部が股の間を通ることはない。どうなったのか知らないが足に当たらなかったのが奇跡的で不思議である。
機関銃は部落民を追い払うために威嚇射撃(いかくしゃげき)をしたのだが、我々斥候三人は撃ち殺されるか、重傷を負わされるところだった。当たるはずの関係位置であり、極めてタイミングもよく、当然撃ち抜かれているはずだが、当たらなかったのだ。その時足をやられたらもうおしまいだ。どうすることもできなくなり死ぬより他に手段のない戦況であった。神様は私を助けて下さったのだ。不思議だ。今思い出しても戦慄を覚えるし、復員後二、三回、夢でこの恐怖を見たことがある。
---この時の機関銃手であった光畑上等兵は、私と共に復員し現在も元気で活躍中である。戦友会で会う度に、「あの時はびっくりした、いきなり闇の中から大声で『オイ!オイ!』と絶叫し小田君が飛び出て来たので『撃ち殺した』『しまった』と一瞬血が逆流した」と話す。「当たらなくてよかった、当たったと思ったがほんとうに幸運だった」と当時を懐古するのである。当たっていれば、光畑君も一生重い心の負担を背負っていただろうから。両者にとり何事もなく誠に運がよかったのだ。
光畑上等兵は戦争中元気で重い機関銃を常に持ち、部隊の先頭に立ち敵軍を懲(こ)らしめ、味方をよく守り、ある時は宮崎師団長閣下の直接護衛をするなど、輜重隊の名誉を高からしめる貢献をした勇者である。彼は終始マラリヤにもかからず、下痢にも悩まされず元気者で通してきた。こんな人は極めて珍らしい。
---戦後彼は私達と共にビルマへ数回慰霊団の一員として参拝して来ているが、今日では数少ない生存者の中で、私と親しい戦友の一人である。彼は敵に直面した回数も多く、激烈な戦闘の話をよくしており貴重な存在である。
話を元に戻すと、平野の中にある十戸ばかりの部落に入る前に、機関銃で威嚇射撃して部落民を追い出した。現地人は素早く反対方向に逃げだしたので、家に入り、米と塩そしてたばこの葉を取って帰った。その時一頭の牛を連れて引きあげた。成果は上々というところであった。この成功で師団司令部に渡す米も目標の三分の一程度と自分用が少し貯えられた。早速飯を炊き久し振りに腹が膨れるぐらい食べた。塩と米だけでも美味しかった。
翌日は昼、斥候に出ることになった。中村伍長と古角上等兵と私の三人が一組の斥候となり、どこに部落があるか道順はどうか等を調べ、明日の未明に糧秣を失敬に行く部落の様子を偵察するためであった。
三人は山麓の隠れ場所を離れ、平地に通じる約二メートル幅の道に出た。そこに西岡軍曹と小谷上等兵、富田上等兵の三人で一組の斥候が道端に休んでいた。私達の中村国男組は先に行くからと言って追い越して前にどんどん進んだ。
三百メートルぐらい先に行った時、敏感な中村伍長が「自動車の音がする」「おかしい、自動車のエンジン音だ、隠れよう」と言って、道の縁(へり)に沿った川の茂みの方へ下り隠れた。隠れるや否や敵のトラックが、英印軍の黒人で頭にターバンを巻いた兵隊十人ばかりを乗せて、目の前を通り過ぎて行った。私達は川の中から見上げた。三メートルも離れていない至近距離だ。気味の悪いこと、見つかればそれまでだ。エンジンの音が軽いのによくも中村伍長は感じたものだと感謝した。西岡組はどうなるだろうかと心配していたら、銃声がパン、パンとし、何発もの射撃音が続いた。見つかったのだ。やがて銃声は聞こえなくなったが、どうもやられたようである。
私達中村組は、もう前進して行く元気もなくなり、さりとて後方に敵がいるのだから、この道を後退するわけにはゆかない。道から直角の方向に離れ、雑木林を横切り大回りして、中隊がたむろしている山麓にやっと帰った。しばらくして西岡軍曹が一人で帰ってきた。「小谷上等兵と富田上等兵は二人ともあそこでやられてしまった。敵は自動車から降りてまでは追って来なかったので、自分は助かったが、二人やられてしまった。残念でならない」とのこと。さすが下士官、激しい攻撃を今受けたばかりなのに、慌(あわ)てず焦らず泰然(たいぜん)とした態度であった。
翌日の夜明けに二人の死体収容に行った。現地人に服を剥ぎ取られており痛ましい姿になっている。誰かが二人の親指を切り取り持ち帰った。たいした弔(とむら)いもできないが許してくれと合掌し、皆で別れを惜しんだ。その日は米の収集はしなかった。
---小谷君は私と同じ二月に召集を受け、後に私と一緒に金井塚隊に転属になってきた兵隊なので縁が深かった。岡山県御津郡(みつぐん)馬屋村(まやそん)の出身だと聞いていたが、こまめによく動き、さわやかな感じの青年であった。小谷お前も死んだのか!小柄でやや角張り気味で少し日焼けした顔が、何故か五十二年前のタイムカプセルを通して現われてくる。
もっと米を集めなければならないので、次の日に、ある部落を目指して五十人ぐらいで徴発(ちょうはつ)に行った。小さな小川があり冷たい砂と水を踏むと気持ちがよい。砂もきめが細かく足ざわりもよかった。靴を履いている兵隊はほんの一部で、私を含め多くの兵士は裸足であった。その時はなんともなかったが、これが後に大変なことになろうとは誰も予測しなかった。
それはさておき、目指す農家は二十軒ばかりの集落である。その部落は約二十メートル幅の川を隔てて向う岸の小高い所にあり、未明の薄暗い中に静かにたたずんでいた。
手前の川岸から機関銃で威嚇射撃をした。それに呼応して、皆一斉にザブザブと腰の上まで水に浸かりながら、川を渡り部落に入った。その時誰もいないと思っていた民家の中から、小銃で撃ってきた。現地人は兵器を持っていたのだ。一昨日のことがあり部落を守るために武器の用意をしたのだろうか、パン パン パンと音が交錯した。変だなと一瞬感じたが、私はかまわず家の中に入って行った。そして約一斗(十五キロ)の米を袋に入れた。かなりの量が取れたので、それ以上は何も捜さなかった。外では銃声が響き犬が気が狂ったように吠えている。中隊の皆も活動が鈍いようだし、家の中に入って来ない。おかしい気配を感じた。
私も早く出ようとしたが、銃声が激しく危ないと感じた。とっさに床の下に米を持ったままもぐり込んだ。しばらくそこにしゃがんで様子を伺った。夜がだんだん明けてくるし、犬はますます吠えたてる。このまま時間を経過すると逃げ出せなくなる。
危ない!と判断するや否や床下より這い出て、一目散に川に向かって走り、重い米を背負い川へ飛び込みザブ ザブと水の中を走った。走ったといっても水の中は歩く程しか進めない。その部落から私を目掛けて弾が飛んで来る。前後左右にその水面に弾着を示すように飛沫(ひまつ)があがり、もう駄目かと思った。だが彼等は現地人だから射撃は上手でないだろう、などと考えてもみた。もし、背中に背負うた米に当たれば、一斗の米は貫かないだろうと思いながら一生懸命に水の中を走った。
走った、といっても、腰の上まで来る水の中では容易に進めない。折角取った米を捨ててはならぬ。濡らしてはならないし転んでは何にもならない。ああ息が苦しい、ああ苦しい。敵からの照準を惑わすように、ジグザグに進んでみたり走ってみたりした。きつくてたまらないがもう少しだ。よろけては駄目だとザブザブと水を分けて走り、やっとのことで岸にたどり着いた。一気に土手を這い上がり土手の頂上から転げ落ちるように反対側の斜面を降りた。
しばらく動けなかったが助かったのだ。引き返してきた中で私が一番最後のようであった。殆どの兵士は状況不利と感じ、部落の中に入らず、米も取らずに引き上げたのだった。結局三人が米を取って来ただけで成果は上がらなかった。それよりもここでまた三人の戦友が帰らぬ人となった。
一昨日斥候に一緒に行った中村伍長は気合いの入った鋭敏な下士官で、今日も真っ先に民家に入りかけ階段を四段程上がった時、家の中から小銃で顔面をまともに撃たれ「う、う、う」と言って倒れ、階段をゴロゴロと転げ落ちた。見ると払暁(ふっぎょう)の薄明りの中で、べっとりと赤い血で顔が覆われ、衣服も真っ赤に染まっている。
だが彼は「わしは、もうおしまいだ」「これを頼む、これは、瀬澤中尉の遺品の拳銃だ、持って帰ってくれ、頼むぞ」と言い終わらないうちに、ぐったりとなってしまったということである。上官瀬澤小隊長の遺品をこれ程までに大切に思い、内地の御家族に届けなければならないと責任を感じていたのである。
私は通信班で中隊本部に一時所属していた縁で、中村伍長には特に親しく可愛がってもらっており、また一昨日の斥候に出た時も彼が敵の自動車の音を感知し敏速な対応をしたお陰で、命拾いをしたばかりなのに。その彼が今日はもう帰らぬ人となってしまった。彼を思い心の中を大粒の涙が流れ、運命の変化の大きさにおののいた。
中村国男伍長は中隊本部で、川添曹長の下で、人事のことなど中隊の重要な仕事を手伝っており、将来が大いに嘱望(しょくぼう)されていただけに一層哀れで悲しかった。
この時縄田(なわた)兵長と、もう一人の兵士も、やられたのか逃げられなくなったのか分からないが、帰って来なかった。結局三名が戦死し糧秣はほんの僅かしか徴発(ちょうはつ)できず、大失敗に終わり中隊はすごすごと山へ引き揚げた。糧秣の確保掠奪(りゃくだつ)も死に物狂いで容易ではなかった。
◆女性哀れ
このペグー山系で米が無くなり糧秣収集もうまくいかない頃、看護婦であったか誰であったか知らないが、婦人三名ばかりが、それも兵隊の汚れた服を着て、山道をあえぐように、いや這うようにしていた。泥に汚れ血の気の無い顔をし本当に痛ましい姿である。
「兵隊さんお米がないの、助けて下さい」と哀願したが、我々自身が自分の体を運んで行くことさえできかねていた時でもあり、やっとお粥で飢えを凌いでいた状況で、可哀相(かわいそう)にと思ったが、どうすることもできず別れた。御国のために御奉公をと誓いながらここまで来て、このような哀れな姿になり気の毒で可哀相でならなかった。
その後再び彼女達の姿を見ることはなかった。当時の状況、場所等から、おそらく助かっていないだろう・・・・心が痛む。泥にまみれ垢に汚れ、痩せ衰え、よろめきながら歩いていた女性達の姿を私は一生忘れることができない。戦争、負け戦は苦しく悲惨で悲しいものである。
◆迫撃(はくげき)砲弾(ほうだん)炸裂(さくれつ)
次の日の昼のことである。突如、迫撃砲弾が山の中で樹木に覆われ絶対見えないだろうと遮蔽している我が中隊を目掛けて飛んできた。
正確に弾が落ちてきた。こちらからはどこから撃ってきているのか見当もつかない。迫撃砲弾は放物線(ほうぶつせん)を描いて来るから、見えない向こうの谷から発射し、弾は途中の山を弧を描いてこちらの谷に、斜め上の方から落ちてくることになるのだ。
敵はどうしてこんなに正確に我々が隠れている所が分かるのだろうか。最近飛行機が私達の隠れ場所の上に飛んできたり、偵察飛行に来た様子はないのに、どうしてこんなに正確に撃って来るのか分らない。
まともに砲弾はヒュル〜 ヒュル〜 ヒユル〜と音がして落下しパン パン パンと癇高(かんだか)い音がして炸裂(さくれつ)するのだ。思いがけない攻撃を受け、私はどこへ避難しようかとあわてたが、少し先に五メートル四角ぐらいの大きな岩があり、それが半分に割れており、ちょうど人間が入れる程度の裂目が自然に出来ていたのをあらかじめ見ていたので、とっさに思い出し、その割れ目に滑り込んだ。願ってもない程よい場所で、よほどのことが無い限りこの裂目に弾が落ちて来ることはないと思った。
息つく暇もなく、ヒュル〜 ヒュル〜 ヒュル〜 パン パン パンとひっきりなしの集中攻撃である。ピン ピン ピンと炸裂音が耳の鼓膜(こまく)を襲う。激しい勢いである。土煙と硝煙(しょうえん)の臭いが岩の割れ目に流れてくる。皆はどうしているのだろうか。誰の声もしない、じっと耐えているのだろうか。そのうちの一発がすぐ近くで炸烈した。生きた心地はなく、思わずお守りを持っているかと確かめた。
かすかに「やられた」とか「ううん」と叫ぶ声が聞こえた。約二十分間続いただろうか、迫撃砲の攻撃は終わった。
しかし、私はしばらく岩の間から出ていく気になれなかった。次第に兵士達の声が多く聞かれるようになってから外へ出てみた。その辺りの木の枝は折れ、葉は飛び散り幹も裂かれ、様子が一変していた。
皆のいる所に行ってみると、隣の十一班の班長である山本嘉兵衛兵長が首をやられ一筋の血が流れ出ている。破片が首に入り、「痛い、痛い」と首を押さえている。
私は三角布を出しガーゼで血を拭き、リバノールをガーゼに湿(しめ)しその上を押さえた。大体流れる血は止まったがガーゼに血が滲んで出て来る。私は首だから助からないのではないかと思うし、山本班長自身も首から出る血を見て、助からないと思ったようである。しかし首の中でも致命的な部分から三、四ミリ外れていたのであろう、命を落とさずにすんだのだが、山本班長はこの傷のために以後の転進や行軍で非常に苦労をされたのである。
その傷をかばうため装具や兵器を背負うにも非常に気を使い、傷が化膿(かのう)しないように手当てをしなくてはならない。しかも薬は無く天候は悪いし、疲労して体力は弱っており毎日の行軍で傷は治らない。傷口に蛆(うじ)がわかないようにしなければならず大変だが、彼は終戦の日までよくぞ頑張ってこられた。戦後収容所生活中、いつも首を傾けていたが、そのまま固まったのであろう。
戦後、俘虜(ふりょ)生活中にも、また復員後も、この破片を取り出す手術をしたものかどうかと考えられたようだが、危険な場所なので、不自由ながらそのまま今日まで生活されてきた。
---最近の戦友会の会合の時にも「わしはよう助かったのだ。首をやられ駄目だと思った。転進中蛆虫がわいて多くの人が苦しんだが、俺は幸運だった。皆に助けてもらい感謝する」と言っておられた。
また、この迫撃砲の攻撃で左肺上部を撃ち抜かれた中村上等兵が、ふら〜っ ふら〜っと私達の所へ歩いて来た。顔は蒼白で襦袢(じゅばん)は胸の所に血がべっとりとつきギラギラと光っている。襦袢は次第に大きく血で彩(いろど)られてゆき、我々の所にたどり着くと同時にばったりとうつぶせに倒れた。背中の側にも血が出て、血塗られた襦袢が体にベットリと着いていた。伏せたままで「苦しい、苦しい」と言っている。
我々は、あまりにも大きい負傷のためどうしてよいか分からず唖然とするばかりであった。そこへ志水衛生下士官がきて「皆の携帯する包帯と三角布で傷の所を縛(しば)ってやれ」と怒鳴った。皆で中村上等兵を抱き起こし襦袢をようやく脱がせたが、深い傷が前から背中まで通っているようで、どす黒いどろどろとした血が固まりかけ体中血だらけで呼吸の度に血が滲み出てくる。
私は気持ちが悪くなり、顔をそむけた。志水衛生軍曹が応急の手当をしたがガーゼはすぐに真っ赤に染まってしまった。頭を高くし仰向けに寝かせたが、彼は興奮のため震え、顔は苦痛のため歪(ゆが)んでいた。
「休んでおれ、治るさ」「元気を出すんだ」と志水衛生下士官は大きな声で言い、もう駄目だろうと思っても、駄目だとは決して言わなかった。
中村上等兵は私の隣の班で、古年兵であったが、私の郷里と同じ赤磐郡(あかいわぐん)で旧西山村(現在は山陽町)(記憶が間違っているかも知れないが)の出身だと聞いていただけに、格別親しさを感じていた。血塗られたこの姿に苦しいだろうなあと、気の毒でならなかった。
今でも山陽町のあたりを通ると、一瞬彼のことが脳裏をかすめる。
また、三木兵長と山岡上等兵は先日分捕(ぶんど)ってきた牛を殺して、肉の料理を始めたところを迫撃砲の直撃を受け即死したのである。三木兵長は炊事班の班長として中隊全体の賄(まかな)いを長い間手がけてきたが、中々上手に料理を作り、皆から三木さん三木さんと慕われていた。激戦中は銘々飯盒で炊くのだが、戦況が落ちついている時は三木兵長がまとめて炊事をしてくれたのである。この日も牛をさばくまでは彼の仕事と考え、山岡上等兵の協力を得てやっていたのだが、そこを襲われたのである。
長い間マラリヤに罹(かか)ることもなく元気で、炊事の料理長役で中隊を支えてくれていたのに、砲弾の破片が帽子を貫き右の頭に入っており、あっという間もなく散っていかれたのである。
山岡上等兵も三木兵長と同時に即死したのだが、殺した牛の傍らで、今まで元気だった二人がこのようになってしまい、我々にはどうすることもできない。
三木さん、貴方はその日も、中隊全員に肉の料理を食わせてやろう、衰弱した兵士に少しでも栄養のある牛肉でスタミナをつけてやろうと、一生懸命に炊事班長としての本分を尽くしておられた。その最中の出来事ゆえ、せめても本望であったのではないかと、敢えて慰めの言葉を探して捧げたい。
日焼けした丸顔、前歯の金がよく似合い、大鍋の汁の味見をされていた姿が今も目に浮かんでくる。
野宿の場所も敵に見つかってしまったし、これ以上糧秣収集することはできず、ここにおればおる程、攻撃を受けるだけである。
我が中隊は一刻も早くここを引き払い、師団司令部本隊に合流しなければならない。師団司令部はこの頃ペグー山系の中程に宿営し、他の地点に集結しその方面からシッタン平野に出る予定にしていた。我らの中隊は糧秣を集めるために今の地点に来ていたのだが、山系中程の司令部の所まで引き返し、更に師団司令部が転進した後を追い他の集結地点に行かねばならないのである。そして、その集結地点からシッタン平野に出ることになるのである。
結局我が中隊は山の中を、行ったり来たりで、十日も十五日も余分に歩かなければならないのだが、総て師団からの命令であり仕方のないことである。
◆ペグー山系を引き返す転進命令
手島中隊長から出発の命令が出された。引き返しとは、ペグー山系を東から西に逆に登って行くのだ。夕方からの出発予定を更に早め、ただちに出発となり銘々米を分けて運べるようにしたり、兵器や装具をまとめた。これからもと来た道を山系の真ん中辺りまで引き返し、そこから分かれ、山の中を迂回して他の地点に集結し以後、別ルートをシッタン平野に向けて出るそうだが、十日間もの行軍がまた始まるとのことである。全く、うんざりだ。ああ、またあのぬかるみの道の行軍か、裸足(はだし)の行軍が続くのかと思うと悲壮な気持ちになった。あの死の行軍が続くのかと思っただけでもたまらない。
しかし、今の地点から糧秣収集したシッタン平野に出て、ここを東に通り抜けるには敵の警備が厳重で敵弾にやられることは明々白々だとの上層部の見解と判断だから仕方のないことである。
出発準備ができた。その時、中村上等兵は動けず、歩いてついて行けない。今誰一人として、元気な者はおらず、担架に乗せて運ぶことなど到底考えられぬ。皆自分の体が運べなくて次々に死んでいる状況である。
手島中隊長は、師団そして聯隊長の命令により中隊を指揮していかねばならない。中隊長は「行軍について行けない者は仕方がない」「片岡軍曹はその旨を、中村上等兵に伝えよ」と命令した。片岡邦夫軍曹は中隊長の命令であり、中隊としてもそうしなければならないのだとは分かっていたが、悪い役を仰せつかったものである。
躊躇(ちゅうちょ)する暇はない。中村上等兵が横たわっている所に行って静かに言った。「中隊は再び、山の中に逆戻りし、行軍することになった。これから出発するが、どうするか?」「ついて行けるか?」
しばらく黙っていた中村上等兵は、「ついて行けません」と答え、またしばらく沈黙が続いた。「自分はもう動けない、どうすればよいか教えて下さい」と言った。彼の体は重傷を負い、自分の装具や兵器、自決用の手榴弾を置いている場所まで、取りに行くことさえもできないのだ。
「自分は、決して恨みません。殺して下さい」「その小銃で」と苦しい呼吸の間でやっとこれだけ言った。息詰まる沈黙の時間が続いた。
軍曹は、この小銃で撃ってしまおうか、本人の願いでもあり、中隊長の命令でもありと思ったが、しかし、共に戦ってきた戦友を自分の手で殺すことはできない。いくら助からない命でも、そんなことはできない。できるはずがない。だが、出発の時間を遅らせることはできない。それに敵がいつまた攻撃してくるか分からない。
早くしないと中隊長に叱られる。考えることはない。断あるのみで軍曹は小銃に弾を込めた。しかし、彼の生命を断つことは忍びなかった。
幾ら戦いに明け暮れたために荒(すさ)んだ気持ちになっていても、また、多くの死体を見ていささか人間の温かい感情が麻痺していても、自分の友を手にかけることはできない。
「これに弾を込めたから、自分の足で引き金を引け」といって銃を渡した。中村上等兵は、死ぬ覚悟を十分していたのだろう、もう静かに考える程の余裕も感情も無かったのだろうか。与えられた銃の銃口を顎の下にあてがい、助けを借りて引き金に足の親指を乗せたと思った瞬間、引き金は落ちてしまった。
顎からも口からも血が流れ落ちた。軍曹は銃を取り上げ、そして手を合わせ心から成仏(じょうぶつ)を祈った。それから、右手の親指を切り取りポケットに入れて別れた。中村上等兵の悲壮な気持ち、片岡軍曹の立場、その心境は図り知れないものがある。
中隊長と兵隊との間に立つ下士官の苦労と心痛は大変なものであった。人の情けと勇気と正しい理性を備えた片岡邦夫軍曹も、それから二十日余り後、シッタン河を渡河した地点で戦死されたのだと後日聞いたが、哀れというか残酷というか、戦場はこのように次々と尊い生命を奪い取ってゆくのである。何ということか。
更に出発に当たり、またあの山を登り歩くのかと前途を悲観して三、四名の者が相次いで自決したと聞いた。
後日聞いた話によると、この迫撃砲で小林軍曹が片手の上腕部を引き裂かれ石川軍医が直ちに止血し手術した。麻酔薬も無く、手術が進むにつれ、激痛に耐えかね、「殺してくれ」と叫んだ。森脇衛生下士官が手助けをして、どうにか、励まし励まし手術は終わった。
しかし片腕を切断する大手術を受けた小林分隊長は負傷の重さに耐えきれず、今後の転進ペグー山系の厳しい行軍について行くことは困難だと前途を悲観し「死にたい」「殺してくれ」と叫んでおられた。本当に悲痛な最期が・・・・その様子は語るに忍びないと、終戦後に森脇衛生下士官から聞いた。
その他、迫撃砲弾で軽傷を受けた人も何人かあったようであり、マラリヤで動けなくなったり、砂擦(ず)れで足を痛めてしまったりした人も多かった。そんな中でついてゆけないと判断した人の手榴弾の炸裂(さくれつ)する音が、谷間に何度こだましたことか。
結局、糧秣収集の一週間だけで、一中隊七十人中十三、四人がこの山麓で命を落としたことになり、さしもの気丈夫な手島中隊長も「優秀な下士官、兵士を次々と失った」と慟哭(どうこく)されていた。
シッタン平野をそこにしながら、また山の中に引き返し東から西に向かい坂道を登ったが、だんだん疲労は募るばかりである。敵機に発見されにくい山中なので昼間の行軍だった。二日ばかり歩いた日の小休止の時、私は下痢のため皆の出発に間に合わずほんの五分ぐらい遅れた。追いつこうと一生懸命に歩いたがもう追いつけない。とうとう日が暮れた。落伍してしまったのだ。中隊がまとまって歩くのは早いが、一人で歩くのはどうしても気ままになり遅くなり追いつけない。この山道は細くても一本道だから間違えるはずはないのだが、完全に落伍してしまった。
夕方から激しい雨が降ってきた。一人で木の枝に携帯テントを括(くく)り着け雨を凌いだが、飛沫(しぶき)や漏れる雨でぬれる。火を作ることもできなくて飯をたくことをあきらめ、死んだように眠り一夜を明かした後、朝からまた歩き始めた。一休みしていると、そこへ玉古班長代理と他の小隊の顔見知りの光畑上等兵と中島上等兵が後から追いついてきた。「どうしているのか」と尋ねる。私は「少しのことで落伍して困っている」と答えた。「では、一緒に行こう」と励ましてくれた。この三人は中隊長から「少し遅れて最後尾を守れ」と命令を受け、三時間程出発を遅らせてきたのだ。
後衞尖兵(こうえいせんぺい)を勤めるぐらいだから元気な三人であった。結局私はこの三人に救われたのであった。
このことがなかったならば、私は追及(ついきゅう)できず、必ず死んだであろう。よい人に合流でき勇気を出し歩いて行った。有難いことであり何という幸運な出会いだっただろうか。
しばらく行くと道端に一人の兵隊が休んでいる。我々中隊の神田上等兵である。「どうしたのか」と尋ねると、「いよいよ、動けなくなってしまった」と答えた。小さな焚火(たきび)をしており、そこに飯盒をかけていた。
「元気を出して、一緒に行こうではないか」と勧めたがすぐに返事は返ってこなかった。「一緒に歩くのも苦しいので、しばらく休んでから」と答え、我々と一緒に行動しようとはしなかった。無理に引っ張って行くわけにもいかずそのまま別れた。その後彼はどうなったか?
山道をあえぎあえぎ登り、時々小川を渡るので、下半身はいつも濡れながら転進した。でも、四人だから心強い、この十日余りの行程を落伍して、一人では生きて行けるはずがない。自決か餓死で九十九・九パーセント死んでいたであろう。これこそ私に運があったのだと、しみじみ思う。
道端で小休止すると堪え難い臭いが鼻をつく。近くで人が死んでおり、その屍の腐乱(ふらん)した臭気である。自分も死んだらあんなに腐るのかと思うとやりきれない。玉古班長代理が私に向かって「小田よ、あんな姿にならないように頑張って行こう」と励ましてくれたが、自分に言い聞かせているようでもあった。私も一層、何が何でも頑張らねばならないと心に期した。そう言った彼もまた、半月後には帰らぬ人となる運命だったのだが・・・・
小休止で一度そこへ腰をおろせば、我々は臭(くさ)いにおいがしようとも、動く元気がなくそこで休むのである。少しでも体力を消耗しないように、余分な動作はしなかった。実際は何をしようにも、できない程弱ってしまっているのである。
毎日雨の中の行軍で携帯テントを頭から被っているが、古びた一枚の薄いテント布だけでは役に立たず濡れ鼠(ねずみ)である。凄い雨が叩きつけてくる。痩せこけた体に容赦なく降り注ぐ。雨が頬を濡らすが、時には自分の涙も一緒に流れていたようだ。体温を奪われて寒い。だが熱帯地方だからこれぐらいですんだのだ。もし、寒い地方であったならば、もっと厳しい苦しさだっただろう。
米は濡らしてはいけない。米は靴下に二重に入れ、塩は小さい缶に入れるか飯盒の中盒に入れていたので、どうにか雨に濡らさずに助かった。
殆どの兵士が裸足で脛(すね)から下はいつも濡れており、冷えと下痢の原因となっていた。私は相変わらず耳鳴りがしており、血の小便をしていた。多くの兵士がマラリヤにやられアメイバー赤痢に侵され、疲労困憊(ろうこんぱい)の極みに達し落伍し取り残されていった。
◆ピュー河を渡る
山坂を歩くうちに、シッタン河の支流でペグー山系の中を流れる、幅三十メートルぐらいのピュー河に出た。この十日程前に渡った時は一番深い所で腹の上あたりであったが今日はもっと水嵩(かさ)が増しているようである。今度は引き返すのだから、下流に向かって左岸から右岸へ渡るのだ。降り続く雨で水は濁り、中程は私の背丈ぐらいありそうだ。
渡れないかも知れない、流されるかも知れないと不安だ。水嵩が少なくなるのを待つ訳にはゆかない。一時も早く中隊の本隊に追いつかねばならないし、水はこれから増してくるかも知れない。今、河を渡る決心をするより他に方法がない。
米の入った背嚢や脱いだ衣服等を頭の上に乗せ河に入っていった。だんだん深くなって背の低い私の首までくる。しかも、かなりの強い流れで、体が流されそうになる。流れては大変と、足を強く踏張り前へ進む。足の下は岩だらけでゴツゴツした所があるかと思えば砂の所もあり、足を踏張れば踏張る程、足元の砂が掘れるので、首から顎まで水がきて流されそうになった。頑張った。更に進むと口まできた。体が浮きそうだ、もう駄目だ、浮き上がり流されそうだ。一瞬不安な気持ちがよぎったが、いよいよ駄目なら荷物を捨てて泳げば、弱っていても五メートルや十メートルは泳げると腹を括(くく)った。若い時から多少の泳ぎはできるので最悪の場合の心構えはできていた。だが、そこが一番深い所だった。次第に浅くなり対岸に上がった。やれやれ一難を凌(しの)いだ。
しかし、若干の兵器等はもとの岸に残したままなので、もう一度取りに帰らなければならない。引き返して、ようやく残りの銃などを運び渡り終わることができた。
もしここで、あと三センチ水位が高かったなら、命は助かっても装具一式は流され、間接的にそれが命取りになっていたかも知れない。このピュー河はそれより一時間後には奥地の降雨によって増水したと推測されるが、まさに、間一髪で命拾いをしたのである。ここでも生死の境を越え本当に幸運であった。
余談になるが、私は均整のとれた丈夫な体だが、背丈が高くない。一般的にはそのことが健康とか生命に直接関係することはない。だが、この渡河こそは身長が命を左右することになろうとした数少ない体験である。幸い三センチのことでギリギリ助かったのだ。また一時間そこに到着するのが遅かったならば事態は変わっていただろう。思うだけでも恐ろしい。
ピュー河を渡った所で大休止することにした。そこに竹を四本突き立てて、木の葉で屋根を作ったお粗末な雨しのぎの小屋が二つあった。夜中に雨が降ってもよいし、露天よりは有難い。新しく作る元気もないし、元気であっても作業は一時間はかかるだろうし大変なので、早速四人は喜んでその一つに入った。
しかし、そこにはお客さんの屍が二体あった。いずれも死んでから日数がたっていないのか、形もはっきりしていた。
まだ臭いもかすかであった。
外に運び出した。いくらお粗末でも小屋は小屋、有難く泊まることとして、濡れた衣服を焚火で乾かし、少しの米を炊いて食べた。
このように死人の近くに並んで寝ることも、次第に麻痺したのだろうか、あまり怖くなくなり当たり前のことになりだした。それよりもなるべくエネルギーを使わないように心掛けるのが生き延びる手段である。不要な労力を費やさないようにし、体をいたわらねばならない。
河の岸辺に馬が死んでいた。内地から運ばれてきた馬だ、可哀相に。誰の乗馬であったか、どこの部隊の輓馬であったか知らないが、もう腐って、河岸の砂の上に屍をさらしている。異様な臭いがする。馬は大きいだけに臭いも激しく、範囲も広くなる。もうこの頃は兵隊が死んでも馬が死んでも、穴を掘って埋めるにも道具一つなく、兵士にそれをする元気も体力も無くなり、残念だが、もう行き当たりばったり死体はそのまま放置される有様であった。
この馬もここまで来るには随分苦労をしたことだろう。人間が食べる物がないぐらいだから馬が食べる物は無く、酷暑の中で作業に従事し、我が軍のために尽くし犠牲になったのだ。このぬかるみの道を人を乗せ、荷物を乗せて歩いて来たのだ。どんなに苦しかったか、どんなに悲しかったか。馬は涙を出さないし言葉は言えないが、心はあるのだ。人間と同じような心を持っているのだ。
馬といえども、平和な内地の自然と愛情に満ちた飼い主のことを、懐かしく思い出し、郷里に帰り楽しい生活、馬として平穏な生き方をしたいと思ったのではなかろうか。馬は賢い動物であるだけに、悲しみながら苦しみながら、死んでいったことだろう。ビルマに渡った何千何万という馬は殆ど全部が、このような状況で死んでいったのだ。可哀相に異境の果てで戦争の犠牲になった馬達を心を込めて弔らってやらなければすまないと思う。
◇屍が道標(みちしるべ)
◆白骨街道を行く
本隊に追いつこうと毎日歩くがなかなか追いつけない。この山道を早い部隊は一ヵ月も前に転進し、十日前に通った部隊もあり様々である。我が手島中隊は半日ほど前に通ったはずである。
そのことを示すようにいろいろの屍が残されている。一ヵ月以前のものは白骨となっており、もう臭気も薄らいでいる。蝿は食べる部分を食い尽くしたのだろうか、もう一匹もいない。虚しさを感じる。「夏草や兵どもが夢の跡」の句を思いだす。
一週間程前の屍は非常に臭く何とも形容できない臭さである。どす黒い汁が流れ出ており見られたものではない。屍によっては黒い大型のピカピカ光った蝿(はえ)が群がっており、黒い大きな固まりがそこにあるように見える。蛆(うじ)がわき、ぞろぞろと、腐った肉を食べているのだろうか這(は)い回っている。気持ちが悪く視線をそらす。
自然で一応清潔な山の中なのにどうしてこんなに沢山の蝿がいるのだろうか?最初は不思議に感じたが、蝿の好む腐れかけの肉があれば旺盛な繁殖力で一気に増えるようだ。
屍、それは尊い命であり、日本軍の兵士の姿なのである。歓呼の声に送られて出征し頼もしかったその人なのである。あまりにも酷い姿であり、あまりにも悲惨な姿である。
半日前とか一時間程前に息を引き取ったのは、道端に腰掛けて休んでいる姿で小銃を肩にもたせかけている屍もある。また、手榴弾を抱いたまま爆破し、腹わたが飛び散り真っ赤な鮮血が流れ出たばかりのものもある。そのかたわらに飯盒と水筒は大抵(たいてい)置いている。また、ガスが屍に充満し牛の腹のように膨れているのも見た。地獄とは、まさにこんなところか。その屍にも雨が降り注ぎ、私の心は冷たく震える。
そのような姿で屍は道標となり、後続の我々を案内してくれる。それをたどって行けば細い道でも、迷わず先行部隊の行った方向が分かり行けるのだ。皆これを白骨街道と呼んだ。
この道標(みちしるべ)を頼りに歩いた。ここらあたりは、ぬかるみはなく普通の山道で緩い登り下りである。
雨があがり晴れれば、さすがに熱帯、強い太陽が照りつける。暑い、衰弱しきった体には暑さは格別厳しく感じられる。
米はどうにか食い繋いでいるが塩がない。ここ何日か全然塩分をとっていない。塩分不足のためか、体がだら〜っとした感じでピリッとしたところがない。今までに経験したことのない気怠(けだる)さである。食物不足と疲労だけでない何か別の、ぼんやりして体がなまけたような感覚の苦しさである。自分自身塩分不足と感じた。しかし、塩はどこにも無い。暑いので汗が出た。その出た汗を舐(な)めた。少しでも塩分不足を補うために。体を守るためにいろいろ考えやってみる、これが戦地であり窮地に活路を見出す方法であろう。だがそんなことでは、塩分不足はどうにもならず気怠さが続く。
ところで、相変わらず裸足のままで歩いているが、数日前、糧抹収集に行った時、砂の小川を気持ちよく歩いたが、砂でふやけた足の皮が剥(は)がれ赤裸(あかはだか)になり、ザラザラという表現がよいのかも知れないが、痛いこと痛いこと大変な痛さである。粘くても軟らかい土はよいが砂が悪かった。足の甲あたりの皮膚がむけて痛く、砂・む・け・である。ザラザラで赤裸の足の皮膚である。これは、なった人でないとその苦痛は分からないが、なかなか治らない。そんな時、誰かが豚か鶏の油を塗ればよいと言い出した。何とか油身をもらってきて暇がある度に塗った。これは、痛さを和らげよい治療になった。有難いことであった。兵士達はいろんな知恵を出すものである。
◆私の体調
前にも書いたが私の耳鳴りは続いており、立って歩いている間はいつも脈拍と共にドッキン ドッキン ドツキン と響いており、休憩して横に寝るとその間だけドッキン ドッキン が止まるが、何とも言えない気持ちの悪い苦しさであり、聴力も次第に衰えたようだ。
それに大きな声も出せず、ぼそぼそと弱い声しか出ない。声帯が疲労してしまっているせいか、肺から出る空気の圧力が乏しいためなのか、瀕死(ひんし)の患者が細く弱い声しか出せないのと同じである。力んでみても、ハキ ハキ とした声にならない。
いつの頃からか分からないが両眼とも視力が次第に衰え、真正面が薄暗くしか見えない。上下左右は明るく普通に見えるが、足元が見にくく歩きにくい。恐らく栄養失調と体力減退によるのだろうが次第にその程度が進んでくる。
この頃から小便の終りに、血が赤い雫(しずく)となりポタリ、ポタリと落ちジーンと沁みる。小便中も血が交(ま)ざっているのだろうが見えないだけであろう。弱り果てた体からさらに血が外に出ているので心配だ。おそらく、毎日水に浸かり下半身が冷えているせいか。膀胱炎(ぼうこうえん)だろう。
下痢のことは度々述べたが、絞るような粘液の下痢が続いた。食べていなくても排泄があるということは、体内に蓄えられている成分が体外へ放出されていることになる。下痢は止まったり始まったりの繰り返しである。これによる体力の消耗は激しく、相変わらず一日数回の下痢。お尻をふく紙など無くなって久しい。木の葉を選んでそれで間にあわせる。気持ちが悪いが他に方法がない。この頃は便といっても便らしい便でなくズルズルした物であった。
軍隊では皆んな褌(ふんどし)だがその頃私はその褌も汚れてしまい、予備も無くスットコで軍袴(ぐんこ)(ズボン)をはいているだけであり、それも垢だらけになり、時には便もくっついて汚れに汚れた物であった。その軍袴は雨や水に濡れて腐り、それを火に当てて乾かすのだから、焦げて痛み破れ始めており、裏の縫い目にはシラミが一杯鈴なりに着いておりギラギラ光っていたが、そんな服で体を包んでいた。このように下痢はしていたが悪性のものではなく助かった。
またマラリヤらしい熱が出たり、引いたりしていたがこの頃は、特別激しい悪性のものではなく、かろうじて持ちこたえていた。タンガップでかかったような激しいものだったなら、死の道へ直行していただろうが、いつもすれすれに死の淵(ふち)を通り抜け不思議に助かった。
重い荷物はだいぶ処分していたが、痩せ衰えた肩に背嚢が食い込む。だが小銃だけは持っていた。手が神経痛になり疼(うず)き、麻痺してしまい両腕とも水平より上に挙がらなくなってしまった。もちろん腕の力も無くなり、だらりとぶらさがっている状態である。横目で自分の肩を見るとポキポキと、骨が突き立っているようであった。裸になって自分の胸のあたりを注意して見る暇も余力もないが、どうも肋骨が筋になっており痩せているようだ。そう感じると、心も傷つき弱く弱くなってくるようだ。
だが、自分の命を保ち体を運び、皆に遅れないように歩かなければならない、それが精一杯で自分の体を点検する余裕も、気力も、無いのである。
戦友をよく見ると、頭髪と髭(ひげ)が長く伸び放題で顔は土色で垢に汚れており、それも相当な汚れかたである。若い勇士の顔ではない。顔を洗う暇も元気もないのだ。自分自身の顔は見えないが、同じように汚く痛んでいるはずで、もし自分の顔を鏡に写して見えたとしたら、びっくりしてしまったことだろう。毎日雨に濡れ川を渡り、すぐそこに水が沢山ありながら、皮肉なことに顔を洗うゆとりがなく、ただ生きるために必死なのである。
もちろん水浴するような暇と体力は既に無く、もう二ヵ月も三ヵ月も着たままで体中垢だらけである。先日ピュー河を裸で渡ったが、それは渡るために裸になっただけで、顔や体を洗ったり点検することはしなかった。そのような心の余裕と体力は既になかった。
裸足で砂・む・け・の足をかばいながら歩く。足を傷つけてはいけない。傷つけて化膿でもすれば命取りになる。幸いビルマはきめの細かい土の所が多く、小石や割れた石がなく助かった。昼は足元が見えるが、暗闇の中を裸足で歩くのは、並み大抵の苦労ではなかった。
この頃のことであるが私にとり悲しいことが起きた。前に述べたように、私の班長は寺本班長で、ビルマに到着してから半年程で他の聯隊に転属(てんぞく)になり、その後戦死された。次に戸部兵長が班長をしていたが、この方も敵の陣地攻撃の時戦死され、その後、玉古兵長が班長代理をしていた。
私はこれらの方に終始気に入られ可愛がって頂いていた。入隊以来、上下関係や戦友関係で辛いと思ったことはなく、特に玉古兵長には「小田よ」「小田よ」と言って大事にしてもらっていたのに、ある時急に「馬鹿野郎!」「小田お前はこの頃、何をやらせても動作が遅く、ハキハキしない。隣の班の白髪上等兵等よくやっているではないか、シャンとせい、早くやらんか」と大きな声で叱られた。白髪上等兵は私と同期である。
当時、叱られるのは当然なのだ。悲しいが思うように動けない。今まで信頼してもらっていた先輩上司の信頼を失ったことは、大変悲しく辛い。人間は信頼が最も大切なのに。しかし、残念だが体がどうにも動かない。彼に叱られたことは私には大きなショックで非常に悲しいことであった。
後になってみれば、この頃玉古兵長自身も疲労しており、思うように何事もできず焦っていたのだろう、無理からぬことである。私はこうして気合いを入れられ奮起して頑張った。それが結果的には命を繋ぐ助けとなり、すべてについて彼に有難く感謝している。
体調と言えば生命には直接関係ない軽易な事だが、転進作戦に入る前のタンガップにいた時のことである。ビ・ル・マ・か・い・せ・ん・という風土病の皮膚病にかかり、全身、特に手足一杯にできものができて苦しんだ。親指で押さえたぐらいの大きさだが、無数にできた。片腕に十個ぐらい、片足に十個ぐらい、なぜか顔と頭それに胴体部分には出なかった。痒(かゆ)いこと、痛いこと、できものだから膿(うみ)が出て汚い。数が多いし所構わずだから、包帯の仕様もない。
それらは手の指や足の甲や、男性のシンボルの先端にまで出来、誠に始末が悪い。痒く痛く汁が出てくる。男性ならばおよそどんな様子か想像できるだろうが、深刻で笑いどころではない。石川軍医に見てもらい、薬をもらって約二ヵ月苦しみやっと治った。五十二年経過した今もその痕跡が太股当たりに、薄く残っている。私は幸い戦争による負傷は無いが、このビルマか・い・せ・ん・の痕が当時の戦線の証拠と言えようか。
◆雨中の宿営
晴れの日もあるが、雨に濡れながら歩き、やっと日暮れになり宿る所を探す。なるべく先行部隊がたむろした所で、焚火をし火の気の残っている所、そして一メートル四方でも木の葉で覆いをした場所があればそこにもぐり込んで休むのだが、それは、運がよい場合である。
大抵の場合は地面にごろ寝である。雨が降っているときは竹を背丈ぐらいの長さに切り三、四本並べ、その上に寝転び直接濡れた地面が背中に当らないようにし、装具を枕にし破れかけた携帯テントを体にかけて横たわるのだ。雨が滲み込むので、野生の草や、木の葉で大きいものがあれば、それを携帯テントの上に置き覆うのである。
それでも激しい雨が夜中に降ると、体に巻き付けた携帯テントを通して雨が透つて濡れるし、下からは並べた竹の上まで水が流れてきて浸かり、背中が濡れてくるので起きないわけにはゆかない。熱帯地方といっても、真夜中に背中まで雨に濡れると寒い。
明りが一つもないので地面がどうなっているのか分からない。どんな降り方をしているのか知れないが頭から被った携帯テントを雨が叩き雫が頬を流れる。雨は瀕死(ひんし)の兵士に降りかかり、これでもかこれでもかと苦しめる。
前に通り過ぎた部隊が火の気を残している場合は稀で、大勢の部隊ならマッチを所持する者もいるが、四人や五人ではマツチはもう持っていない。器用な兵隊が布で縄(なわ)を編んで火縄を作り携行していた。それも雨にあい長くはもたなかった。
何とか発火する物を持っていても、燃やし始めになる紙一枚も無い。雨の山中ではグッショリ濡れた竹や木しかない。生の木や竹の密林である。小雨も降っている。
火を燃やし付けるのには困った。しかし窮すれば通じ、人間は考える。生きるために誰かが何かをやる。青い竹の表面の皮の部分を剥ぎ、これを擦って乾かし、細かく割って燃えつきやすい細さにする。竹の表面の皮は湿っていないし、いくらか油気があるので苦労はするが案外燃え始めやすい。だんだん大きい火にし水筒で湯を沸かし、煙に咽(むせ)びながら僅かな米を粥にする。
この頃、ひもじさを癒(いや)すに十分な物はなく飢餓の状態が続いた。私達四名は中隊主力より遅れ、半ば落伍しかかりながら、いよいよしんがりを行った。そんなある日そこらあたりに、馬の蹄(ひずめ)が二個転んでいた。先行した友軍が死んだ馬を心ならずも、処分したのだろう。食べられない蹄のみが捨てられてあった。日にちがたっていたが、蹄だから腐っておらず、何とか食べられないものかと、思案の末、時間をかけて刻んだり削ったりして飯盒に入れて煮た。更によく煮た。塩がなく味がなかったが、少しでも動物性蛋白源になればと思いガツガツと噛み砕いて食べた。そのために下痢が激しくなることはなかった。また、それを食べたためにどれだけ生き長らえたか、どれだけ体力の維持に役立ったかも分からないが・・・・
◆命を支えた二合の米
ペグー山系を行ったり引き返したりしているうちに、日にちの経過とともに、お粥で我慢していたのが、遂に一握りの米も無くなってしまった。夕方露営の地に着いたが、私には炊飯すべき米がない。他の兵隊達はそれぞれに持ち合わせに応じて米を加減し飯や粥を炊いた。私は、仕方なく筍と木の新芽を煮た。食事が始まると中島上等兵が「小田、米がないのか、これを食え」といって、二匙(さじ)、三匙のお粥をくれた。その後で、彼は「小田、米が無いのか、俺は少々持っているから、お前の持っている象牙(ぞうげ)の印材と物々交換しょうではないか?」と言いだした。元々彼は力持ちであり、最初から沢山の米を背負っており、実際「まだ二升ぐらいは持っているから大丈夫だ」と言った。
私のこの象牙は、昨年ラングーに無線技術教育を受けに行ったとき、財布をはたいて買った宝物で、米三十キロにも相当する値段で内地に凱旋する時に持って帰ろうと考えていた大切な物であった。しかし、命には替えられないと判断して、二合(三百グラム)の米と交換した。
彼は私を可哀相に思い、いくらか象牙に関心もあった。私は生きるために米が絶対に必要であったから、この交換ができた。受け取った米を背嚢にしまった。だが、腹が減っていたので、早速、少しを炊いて食べた。美味しかった。身体が暖まり息を吹き返した。この二合の米が二、三日間の命を繋いでくれた。この二合が無かったならどうなっていたか、生命をこの頃落としていただろう。米を沢山持っていた中島上等兵が一緒におり、私の命を助けてくれたのだ。これも誠に幸運である。
七月十九日までにペグー山系の最後の集結地に集まるように命令が出ていることを誰からともなく聞いていたので、一生懸命に歩いた。急がなくては間に合わない。我々四人は、いよいよ最後尾で中隊本部を追いかけて行った。白骨の道標に沿うて裸足で歩き続けた。
◆落伍しながらもたどり着く
さきに象牙の印材と交換した二合の米を、少しずつ粥に炊いて、食い延ばしながら毎日歩いた。
しかしそれも無くなってしまった。みんな弱っていたが、少し元気な玉古班長代理と中島上等兵が先に行き、一人の兵隊と私が更に遅れてしまった。
とうとうその夜は二人きりになってしまい、マッチも火の気も持っておらず、炊くべき一粒の米も無いので、そのまま雨に濡れた地面に倒れるように横になり眠った。幸いその夜は雨が降らず夜が明けた。
朝になりトボトボと杖に縋(すが)りながら歩いて行くと、火を燃やした跡に僅かに火の気が残っていた。そこで一休みし、湯を沸かして飲んだ。少しでも食べていないと今夜が危ぶまれるが、食べる物がない。力なく二人で励まし合い歩いた。「もうあと五百メートル先が集結地点のようだ」と道端にごろりと寝ている兵隊が教えてくれた。そう言えば、その向うに大勢の人の気配を感じる。最後の力を出して歩き、やっとのことで師団司令部などの本隊に追いつくことができた。
決められた集結日の午前中にどうにか、輜重聯隊の手島中隊長配下の自分の班にたどりついてみると、私が遅れていたその十日程の間に、戦友達も途中で落伍して中隊の人数は更に減ってしまっていた。そこにいる者も悄然として衰弱しきっている。
午前中は筏(いかだ)にする竹を切り出すことになり、直径二十センチ長さ二メートル余りの太く大きな筒一本を各自切ってきた。シッタン河を渡るには竹を組んで筏を作り浮きにして、四人ぐらいが組になり筏に掴(つか)まって泳がなければならないので、竹の筒が是非必要である。疲労困憊(こんぱい)し食べるものがなく、足元はふらつき、弱い細い声しか出ないし汗も出ない状態であったが、その体に鞭打ち、やっと竹を取ってきて筒を準備した。
「夕方五時から下山行動開始」との連絡があった。山を下りて平野に出れば何か食う物があるだろう。それまでもう半日の辛抱だが、命が続くだろうか? ひもじいひもじい、少しでも腹に入れておきたいが何もない。耳鳴りが一層激しくなるうえに、体は寒さを感じる。
たまたま、平井兵長が黒く煎(い)った籾を持っていた。私は彼にねだって、一握り足らずをもらった。これは、籾を飯盒の蓋に入れて、火にかけ煎(い)ったもので、殻(から)が黒く焦げたものである。
田舎育ちの私は、玄米の屑米(くずまい)を鍋に入れて煎り「焼き米」にしておやつの代わりに食べたことはあるが、焼いた籾を食べるのはこれが始めてで、普通では食べられるようなものではなかった。
しかし今は違う、焼けた籾の一粒一粒を噛み砕いてガシガシと食べた。籾の焼けた苦みが味となっていた。湿りがこない間はポロポロ砕けるが、湿ると砕けにくく、籾のガサガサした外の殻が喉に引っ掛かりそうだ。しかし、この黒く焼いた籾の百粒ばかりで、幾らかのエネルギーが蓄えられたように思われた。涙が出る程有難く平井兵長に感謝した。
考えてみると、十日間もの間、本隊から遅れながらも、一緒に行動したからこそ本隊に追い付くことができ、下山の日にどうにか間に合ったのだ。一人で落伍しておれば絶対に本隊に追い付くことが出来なかったはずである。もし出発時間に遅れて到着したらペグー山系の中に取り残されてしまっただろう。誠に奇跡的な幸運に恵まれたのだ。一緒に助け合って行動した戦友に感謝の言葉もない。

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