九 敵中突破
◇マンダレー街道と鉄道突破
◆闇夜の中を
夕方前に集結地を出発した。何千人何万人もの死体と落伍者を残し、地獄のペグー山系と別れた。
みんな、あまり装具も兵器も持っていなかった。私は三ヵ月にわたる死の行軍で、小銃も無くしており、持ち物は帯剣と自決用の手榴弾と、空の背嚢、その中に空の飯盒があり、水筒をぶらさげているだけであった。
筏を組むために用意した青竹はかなり重いが、それをかついで山を下った。平地に出た頃には日は暮れており一回小休止をした。
「間もなく街道と鉄道を横切るが、音を出さないように静かに素早く渡るのだぞ」と改めて注意がなされた。
闇夜の中を歩いた。平原の中、小川の中、田んぼの畔(あぜ)の上を滑り滑りよろめきながら歩いた。水が一面溜まった水田の中をも横切り歩いた。誰もものを言わないで、前の人に遅れると道が分からなくなるので一生懸命に歩いた。
なかなか道路も鉄道も現われてこない。原野の中の道無き道を、ひたすら西から東へ向かって歩き続けた。
どの部隊が、どのような順序で撤退しているのか分からないが、千人余りが私達と同じ梯団(ていだん)を組み師団司令部も一緒であった。
小川を渡る時は腰まで浸(つ)かり、畔(あぜ)を歩くと小さな刺(とげ)の草が裸足にチクチクと刺さり痛かったが、野いちごの刺のように固い物でなくて我慢できた。ぬるぬるの土の上は滑りやすく、暗闇の中に転んだ者もいた。しかし、軟らかい土の上を裸足で歩くのだから、多人数であっても足音を立てずに進むことができた。数時間も休みなく歩きに歩いた。
疲労衰弱した兵士達は喘(あえ)ぎ喘ぎ、ゴチャゴチヤになりながら歩いた。我々の中隊も一丁の重機関銃を銃身と脚に分解し、重いので交替しながら担(かつ)いで行った。私も銃身を担いだ。歩くことがやっとの自分には、五十キロもある銃身は大変な重さである。闇の中を一緒になったり、バラバラになったり取りはぐれたり、よろめきながら歩いた。
三メートル程の溝を渡り土手を上がると、そこに舗装した道路が横に伸びていて一気に横切った。幅約十メートルのマンダレー街道である。続いてマンダレー鉄道をも踏み越えた。感激の一瞬である。しかし立ち止まり感傷にふける時間はなかった。
一刻も早くその地点を離れる必要があった。この幹線は敵の支配下にあり敵が厳重に警備しているラインである。昼間は敵の機動部隊が頻繁に行き来しているので、我が軍は警備の薄い夜、闇に紛(まぎ)れ鼠(ねずみ)のように越えるしかないのである。後日、輜重隊の記録によると二十年七月二十一日午前二時と記されている。
横切り終わると一層速度を早め、田んぼの畔道を東へ東へと突き進んだ。真っ暗闇の中を、前の人に遅れまいとして歩いた。誰がどこを行っているのか全く分からない。直ぐ前を行く兵士の姿のみが頼りであった。
畔を歩いていると畑があった。暗いのでよく分からないが、どうやら砂糖きび畑らしい。急いで一本折ってみると砂糖きびだ。皮を剥(む)いて噛(か)むと甘い汁が口の中を潤してくれる。美味しい、むさぼるように汁を吸った。腹の空いた体に沁み通るようであった。二、三本食べた。重い竹の筒を持ち、歩き歩き食べるのだから、落ち着かないし前を行く人を見失ってはいけない。砂糖きび畑も終わった。
うねうねと曲がった畔を、小休止もせず歩き続けた。もうマンダレー街道を横断してから三〜四時間たっただろうか、夜が明けはじめた。それでも辛抱強く道無き道を東へ向かって進んだ。
こんもりと木の茂った部落に到着した。百軒程の村が田んぼの中にぽつんとあった。部落に入るや米と塩を探した。部落の現地人は驚いた様子で、全く予知しない出来事であったため、逃げるにも逃げられず、抵抗することは無駄であり、親切にしてよいものか、英印軍に知らすべきか否かと迷った様子であった。日本軍が直接ビルマ人に危害は与えないと分かっていても、ろうばいしていた。
その内、ビルマ人は部落の外に逃げて行った。我々は米を手に入れ、早速飯を炊き久し振りにご飯らしいものを食べた。私は玄米しか手に入れることができず、それをよく煮て食べた。玄米だから消化がよくないだろうと思い、よく咀嚼(そしゃく)して食べた。長い間飢えに苦しんでいたので、腹一杯食べた。やれやれ一眠りしようかなと思った時、敵が砲撃をしてきた。
これ以上部落内にいることは危険だと判断し野原に出た。大平原には大きい木もなく、遮蔽物がなかった。我が軍はクモの子を散らしたようにばらばらに散って逃げた。敵の射つ弾丸があちらこちらで炸裂した。しかし、大事に至らないうちに夜の帳(とばり)に包まれ、長い一日が終わった。
分かれ分かれになっていたが、いつとはなしに集まり、中隊はまとまった。昼間は行動ができないので、その日もまた夜道を歩き始めた。一晩中歩いたが夜が明けてみると、元の所に舞い戻っていた。「骨折り損のくたびれ儲(もう)け」といったところで、ビルマの荒野の中ではいろいろのことが起きる。ブツブツ言っても仕方がない。弱りきった体は余計に疲労するだけである。これも戦争だ。
またも下痢が始まった。玄米を食べたのがいけなかった。長い間ろくに食べていないのに、一気に米のご飯を食べたので、胃腸がついてゆけず下痢となった。下痢が以後も長く続き私を苦しめた。
今夜も夕方から行動を開始し、闇の中シッタン平野を東の方向に歩いた。夜明けに小さい農村にたどりついた。やれやれ大休止だと思い、地面に身体を横たえた。この部落よりシッタン河までは、後三日の行程らしいと聞いた。
◆重機関銃(じゅうきかんじゅう)を収容(しゅうよう)に行くが
その時中隊長から、「伊多(いだ)軍曹と小田、長代(ながしろ)、米田(よねだ)の兵隊三名は、三日前マンダレー街道を横断した際、所在不明になった兵士と重機関銃を助け収容(しゅうよう)してこい」との命令を受けた。「必死の覚悟で捜(さが)し助けてこい」と念を押された。大変なことである。
重機が取りはぐれたのは三日も前のことであり、夜々(よるよる)歩いて来たので道は分からない。分かるのはここより西の方角ということだけである。しかし中隊長にしてみれば、師団司令部から預かった大事な重機関銃を無くしたとなると、幾ら状況が悪いといっても責任を感じることは当然で、この「収容命令」となったのである。丸山班長以下五、六名が取り残されているので、助けてこなければならない。考えてみると、丸山班長以下全員が責任感強く、重機関銃を運ぶために中隊についてこれなくなってしまったのである。それほど重機は重かったのである。
伊多(いだ)軍曹は大変困難なことと思ったが、返す言葉もなく命じられたとおり「行ってきます、ただ今出発します」と答えた。伊多軍曹は三人の兵隊に対し、「我々は生きて中隊に追及できないと思う。ここに一握り砂糖がある。お前達よく味わっておけ」と言って砂糖を少しずつ分けてくれた。この砂糖は昨日か一昨日部落で、せしめたのだろうが貴重品である。
私も決死の覚悟をした。西の方角に向かって出発、とにかく西の方へ草原を歩いた。ある地点で小休止をしたところ、一度休んでしまうと体の自由がきかなくなり、草むらの中に寝込んでしまった。目を覚ますと真昼になっており、太陽が上から照りつける。背丈程の草むらの中だが、日陰が無いので、暑くてたまらない。敵の飛行機が三機飛来してきた。私達は見つからないかと心配したが飛行機は、上空を飛んで旋回(せんかい)し向こうに見える部落を攻撃した。間もなく火の手が上がった。雨期の間でも今日はよく晴れた日で、空には雲一つなく、西には先日まで我々が苦闘した痛恨(つうこん)のペグー山脈が見え、東は果てしなくペグー平地が続き、遥か遠くにシャン高原が見える。
夕方になり目指す西の方向に歩きはじめたが、日が暮れ方向も定まらず、道も分からないので田んぼの中の民家に入り休んだ。飯盒で飯を炊き食べ、弱った体を休めるため眠った。野宿と違い幾ら粗末な家でも、家の中は有難い。それに薪は家の一部を壊せばすぐに間に合うので簡単に炊事ができた。濡れた衣服も乾かすことができて助かった。
翌日も、当てのないことだが、とにかくマンダレー街道の方向を目指し四人で歩いた。雨期の最中だからどこも水びたしで腰を下ろして休む所がない。それに私は下痢をしているので、余計に苦しい。
その時、前方に小さな部落があり、そのとっかかりに寺院があり、その端に二階建てのハウスが目についた。そこに行って休もうと畔道(あぜみち)を伝って進んで行き、もう後五十メートルぐらいまで近づいた時、そのハウスから「パン」「パン」「パン」と突然銃撃してきた。田んぼの水面に弾が当たり水しぶきを上げた。思いもかけないことでびっくりした。
四人の前後左右に弾丸が飛んできた。三丁ぐらいの小銃で狙い射ってくる。とっさに水田の中に身を伏せた。広い水田の真っ只中(ただなか)で遮蔽物は何もない。
我々四人の姿は相手から丸見えだ。いつまでも伏せしている訳には行かない。お互は、めいめい勝手に立ち上がり田んぼの中を走って逃げた。走るといっても水田の中は走れるものではない。
それに敵から真っすぐ逃げたのでは照準(しょうじゅん)にされるので、ジグザグに逃げては伏せ、伏せては逃げ、息の続く限り走った。我々を敵弾が追ってきて水面に「パッ」「パッ」「パッ」と飛沫(しぶき)を上げた。
水面に伏せたり、ジグザグに逃げたりして、敵から四百メートル程離れ一息ついた。幸い誰にも弾が当たらなかった。だが全身水浸しで泥だらけである。背嚢の中まで濡れていた。敵といっても、現地人だろうから、鉄砲の扱い方が上手でなく、我々をもっと引きつけておいてから射ってきていたら、誰かがやられていただろう。彼等も怖かったので早い内から撃ってきたので私達は助かったのだ。ここでも泥んこになりながらも、紙一重スレスレで命拾いをしたのだ。
次の日も天気だったので夕方まで灌木の茂みに体を隠して休んだ。夜になり方向が分からないので、あばら小屋を見付け潜(もぐ)り込んだ。
昼間は敵に見つかるので行動しにくいし、夜は道が全然分からない。疲れ切っているので行動が緩慢で体が動かない。重機収容の任務を帯びているが如何(いかん)ともしがたい。悶々(もんもん)の内に二日三日四日が過ぎて行く。師団司令部や私達の一中隊はシッタン河へ向かって前進しただろう。そんなことを思うと、早く中隊へ追い付かないとシッタン平野に取り残されてしまうことになる。この平野は敵の勢力下にあり動くことも容易ではないのだ。
重機関銃はどうしても見つからない。仕方なく中隊へ追いつくことにした。シッタン平野に下りてからは、米にありつけ塩やガピー等も徴発(ちょうはつ)することができたので、体力も少し回復しつつあった。しかし私は玄米を食べて以来下痢(げり)が続き、一日に幾度も排便するので体調が良いとは言えなかった。焚火の後の炭を下痢止めと思いガシガシと噛んで食べた。
次の日は朝から本隊に追いつくべく東に向かって歩いた。だが、本隊は既に東へ移動し、シッタン河手前二キロの地点に行っていた。月明りの夜遅く師団がたむろしている付近まで追い付いた。これでやれやれひとまず安心だ。シッタン河の手前に取り残されることはないと思った。
翌朝中隊長に重機収容ができないまま復帰したことを告げた。叱られはしなかった。この責任を負わされた伊多軍曹は、それまでに、ペグー山系で迫撃砲弾で頭を負傷し包帯をしていたのに、重い任務を果さなければならない心境はいかがだっただろうか。一兵卒の私とは責任の度合いが違うが、よく判断され、的確な措置を取られたことと感心した。さすが優秀な下士官だと思った。
その後、私は自分の十二班に帰った。帰るといっても散り散りばらばらで誰もいなく、道端で力なくたたずんでいた。
◆玉古班長との別れ
そこへ溝口指揮班長が来て「あそこで玉古(たまご)班長が死んでいるから行ってみよ」と指示された。
遺骨を収拾して葬ってやれとの意味である。
玉古兵長は貧しい民家の中、その片隅の押入れのような所で壁にもたれかかるようにして死んでいた。触ってみるとまだ温もりが残っていた。一週間程前には私は彼と一緒に四人で行動し、彼が引っ張ってくれたからこそ私はペグー山系を歩き通せ助かったのに。私にとって命の恩人がこんなことになってしまった!
思い返せば、私が青野ヵ原に転属した時から「小田よ」 「小田よ」と言って可愛がってくれ、何かと感化を受けていたのに。軍隊では先任の古年兵に好意を持ってもらえることは、特に嬉しく有難いことだった。思い出は尽きないが、今は感傷にふける間はなく、何とかしなければならなかった。
自分もヘトヘトだったが私一人だけである。農家に鍬(くわ)があったので庭先に穴を掘った。土は黒い色をしており雨期でもあり、軟らかくて掘り易かったが、体力が無いので深くは掘れなかった。穴を堀り終えると家に入り彼を抱きかかえ自分の背中に背負った。薄い肌着を通して彼の冷たくなりかけた体が、私の背中にべったりと覆いかぶさってきた。
死人を背負うのはむずかしい。死人は手を貸してくれないから背負いにくかったが、彼は小柄で痩せていたので、どうにか背負って外に出て穴まで運んだ。できるだけ大切にし滑らかに優しく穴に入れようとしたが、私に力が無いので、ぎこちなくドタリと音がして穴に入った。生きた人ならこんな落ち方はしないが、もう一つの物体なのである。丁寧に土を被(かぶ)せて合掌した。疲労しきった自分にはそれだけのことしかできなかったが、悔いは残らなかった。
---その時のことは、今でも鮮明に脳裏に焼きついており忘れられない。私と関係の深かった玉古源吉班長の最期のお世話ができ、いささかでも御恩に報いることができたと思って御冥福を心よりお祈りする。この文章を書いている今も、玉古班長が機敏に動かれていた姿や、額(ひたい)が広く、冴えた目元の顔が思い出されてならない。また彼は大工さんで、頭もきれるタイプで、我々の住む小屋を建てる時にも大いに活躍し、機関銃手としてもよく任務を果たされ、我が班で無くてはならない重要な人であったことを思いだす。
私の属する十二班の歴代班長がこのように次々に去ってゆかれ悲しく、残念至極である。
◆血に染まったシッタン平野
重機関銃収容に行った私達四人は田んぼの中で敵に射たれた時に、筏にする竹の筒を無くしたので、それに替わる物を作らなければならなかった。
それがなければシッタン河は渡れないのだ。この辺りには竹薮がないので、ビルマ人の家を壊しその材料の竹を取り出し何本かまとめて筏を作るのだが、古い竹で割れたのもあり細くて頼りないものだった。それを縛る紐がないのであれこれ算段して、苦心して作るのに一日かかった。
夜になり河を偵察に行ってみた、なるほど凄い。星明かりで対岸はよく見えないが二百メートル以上はありそうだ。その土手一杯に盛り上がるように黒々と水が流れている。岸の近くでも流れは早く、中程では渦を巻いているとのことである。雨期の最盛期で大変な河だ。
これを見て、よほどしっかりした筏でないと駄目だと思った。それに疲労困憊した今の体では耐えられないだろうと思った。そこで筏の組み替えを考えた。「バナナの太い軸が浮力があるのだ」とも聞いたが実行はむずかしい。
ペグー山系を出発してから、シッタン河に差しかかるまでに、我々の梯団(ていだん)は約一週間を要したが、その間にも多くの犠牲者を出した。飛行機の銃撃に倒れる者、落伍してしまい行方不明になった者、弱り果て自決する者等いろいろである。確実に兵士の数が減少している。
今日も、マラリヤで苦しんでいた北浜上等兵が遂に死を選んだ。一軒のボロ家に長代上等兵達四、五人が休んでいた。彼は仲の良かった長代上等兵へ「お世話になったが、わしはゆく」と小さな声で伝え外に出て行った。みんな弱っており、もう誰も止める者もいなかった。止めたところでどうなるものでもない。
彼は死期が近いと覚悟したからだろう。可哀相にと思ってもどうする術(すべ)もなかった。お互いにみんな重病人であり自分の命を支えるのに精一杯、お互いに死に直面しており、冷静に考えるゆとりもなかった。私自身もそうであったが、死んだ方が楽だとさえ思ったことがある。
二十五歳の青年北浜上等兵。目元の美しい彼も、長い敗走の間に髪は伸び放題、髭(ひげ)は顔を覆い今は見る影もなく痩せ衰え、垢に汚れ黄色くなった顔、おそらく高熱に冒されていたのだろう。
彼が外に出て行ってからしばらくして「ドガン!」という手榴弾の破裂音がした。彼は自ら命を絶ったのだ。こんなことが随所に起りシツタン平野は阿修羅(あしゅら)の巷(ちまた)となった。
今晩渡河予定だったが、予定変更となった。近くに舟があるのを見つけたのでそれを取りに行くことになり、私もその一員となった。シッタン河に沿って四キロばかり上流に行った所に民家がありその軒先に舟があった。十人ばかりで担いだり田んぼの水の上を引いたりして持ち帰り、その夜は数名で舟の整備をした。『舟で渡れるぞ』と喜びゆっくり休んだ。
ここ三、四日は不思議と天気が続き、今日も朝からよく晴れている。いよいよ今晩は渡河だと思うと、大きな期待と恐怖が入り交じってくる。
ところが、日本軍の作戦を知った敵は空陸一体となって攻撃してくる。シッタン河に沿った部落を何回も空襲し、機関砲を射ち、小型爆弾を落としてゆく。我々は家の床下に隠れたり、部落外の田んぼの間にある木の影に隠れたりした。
私は背丈ぐらいある竹で編んだ大きな籾の槽(おけ)の間にうずくまり、一日中そこにいた。敵のするがままで他に良い方法はない。嵐のような機関砲の弾、耳をつんざく爆弾の破裂音、逃げたとてどうしょうもない。弾が当たれば当たれだ、当たるなら即死するように当たれとさえ思う。
ふと母からの手紙を思いだした。母が金光教(こんこうきょう)を一心に信心してくれているから大丈夫だ、敵弾は当たるものかと信じると妙に心が落ち着いた。また、西澤とよ子さんから来た手紙の一節「米沢のさくらんぼが待っています」を思い出し、私は死なないと予言してみるのである。
部落の一部が燃えだした。固唾(かたず)を飲んで様子をうかがい思わずお守りを握りしめていた。この空襲で隣の十一班の班長小田兵長と二階堂上等兵が機関砲の弾を頭に受け最期を遂げた由、苦労してここまで来たのに誠に残念で悲しいことだ。
このように、我々手島中隊は師団司令部と一緒に行動し戦火の被害を受けているが、その他の聯隊でも大変な犠牲者があり多くの血がこの平野に流されたのである。
英印軍(えいいんぐん)の優勢な力にシッタン河河畔に追い詰められた我々は、竹の筏につかまり泳いで渡河を決行するか、渡河を諦めここで最後まで戦いとおすか、自決するかの決断に迫られた。多くの者は渡河手段を選択したが、既に負傷したり、体力が衰弱した者は泳げないのでここに残らざるをえなかった。残った兵士は、以後数日間、敵弾にさらされ、生命を落とすこととなったかと思われる。
---終戦後に分かったことだが、傷つき意識不明となり、いつの間にか、現地人に助けられた者もあった。また、自決できないままやっと生きているところや、昏睡(こんすい)状態のところを、英印軍に拾われ捕虜になった者もあった。戦争中に、あるいは抑留(よくりゅう)期間中にビルマ人になった人が沢山あると当時から聞いていたが、このような状況の中で、いろいろの運命をたどらざるを得なかった。
余談になるが、竹山道雄の「ビルマの竪琴」とか、梶上英郎の「ビルマ曼陀羅」などの書籍にビルマ人になり生活している状況が書かれているが、多くの日本兵がビルマ人となってしまった。その経過はいろいろだろうが、辛く、悲しく、耐えがたい困難があったに違いない。私が想像するような単純なものではなく、大変な犠牲を被(こうむ)られた方々である。戦争のために、生きていながら日本に帰れず、人生が全く変わったのである。
---私は昭和五十八年一月、ビルマ慰霊の旅に行った際、トングーという町に泊まった。トングーは、我々がシッタン河を渡河した地点の近くで、多くの戦死者を出した所である。この町にはホテルが無いので、校長先生の家に泊まらせてもらった。朝市を見てぶらりと歩いていると、一人の中年の女性が私の傍に来て、「日本人か?」と尋ねる。「イエース」と答えた。すると、手真似とビルマ語でこちらに来てくれと誘う。女に誘われて行くのは危険かとも思ったが、普通の女であり朝市の買物帰りである。それにビルマ人だから日本人に好意を持っての話であり、悪だくみがあってでないことはすぐに分かった。その時私は一人であったので多少の警戒はしながらついて行った。
二百メートルばかり行くと、醤油屋のような大きな構えの家に案内された。家族で朝食をしている様子であったが、家の主人を紹介してくれた。この主人は英語で話かけてきた。「日本人ですか、ごくろうさん、ちょっと待ってください」と言って、十六、七歳の女の子を連れてきた。
「この子のお父さんは日本の兵隊さんです」「この子のお父さんは日本人です」と紹介してくれた。私の心はジーンと痺(しび)れた。この可愛らしい娘の中には日本人の血が流れているのかと思うと、いじらしく不憫(ふびん)に感じられた。彼女はもちろんビルマ語しか話せない。ビルマ人の多くは中国系で日本人と殆ど変わらない。見た目には普通のビルマ人であるが、とにかく日本の血を引いているのかと思うと胸にこたえ、戦争の落とし子の幸せを祈らずにはいられなかった。
「お父さんは今いますか?」と尋ねると、「二年程前に死にました」という答えが返ってきた。
お父さんは実際はまだ生きているのかも知れないが、何かの都合で出てこない方がよいので、死んでしまったことにしているのかもしれない。せんさくは無用である。戦争の影響の大きさとその深さを肌で感じさせられた。
この子のお父さんは、どのようなことで生き残り、ビルマ人にならざるをえなかったのか知る由もないが、あの戦争で生死の境をさまよっている間に、このような運命を歩むしかなかったのだろう。誠に気の毒なことである。私の心は疼(うず)いた。彼女はビルマ語、私の英語を主人が通訳して伝えてくれるもどかしさはあったが、宿に帰り日本から持ってきた土産物、日本製の布地、シャープペンシル、ライターなど沢山持ち出し彼女に渡し、「幸せにやりなさい」と祈り別れた。
これは、私が直面した一例であるが、ビルマに残った人の幸せと、日本ビルマ混血児の幸福を心から祈った。
話を本筋に戻そう。
◇シツタン河の渡河作戦
◆小舟で渡れる
我々手島中隊の者は舟でシッタン河を渡ることになった。昨夜舟を収拾(しゅうしゅう)してきた苦労が報われた訳だ。
私はその時、日にちの感覚は明確でないが、輜重兵ビルマ戦線回顧録(かいころく)によると、シッタン河は五つの作戦区分に分かれ渡河したが、第一中隊は師団司令部等と同じ右縦隊中央突破縦隊に属しており、渡河した日は二十年七月二十六日と記されている。
日が暮れると行動が開始された。渡河地点まで約一キロを歩いて行った。部隊ごとに順序よく並ぶ。舟は小さいので四人しか乗れない。漕ぐ人が別に二人乗り計六人である。この突破縦隊は何百人もおり、一晩では渡りきれない。この地点に、もっと部隊がいたのか、他にもう一艘あったのかも、私にはよく分からない。私達は三時間程待つ内に順番がきたので河岸に行き、装具を持って舟に乗った。暗闇の中に水は岸に溢れんばかりにと・う・と・う・と流れていた。水はどれ程濁っているか分からないが黒いうねりのように見え、大変な水量で圧倒されそうである。流れの速さも凄く目測で毎秒三メートルと記録されている。
岸を離れ兵隊二人が一生懸命に漕いでいる。我々は兵隊の指示どおりに飯盒で舟の底に溜まる水を汲み出した。舟の整備もしたのだろうが、かなり浸水しているようである。みんな祈るような気持ちで乗っていると、舳先(へさき)を上流に向けて漕いでいるのに、流され流されしている。暗いのでよく分からないが流れは渦を巻いたり、わき上がるような所もあった。
河の中程を過ぎると、対岸が黒ずんで薄く見えだした。次第に近づく。もう直ぐだ。舟が岸に着いた!岸にしがみつき草の根を固く握りながら這(は)い上がった。三、四メートルも土手をよじ登った。こちらの平地の方が水面に比べ大分高いようだ。とにかくシッタン河を無事に渡ったのだ。筏を押して泳いで渡るのではなく、舟に乗り労せずして渡れたのだ。
漕手の兵士に心から「有難う、有難う」と感謝のお礼を言った。まさに「生」への喜びの一瞬である。
小舟は次の人を迎えるために帰っていった。舟の着く位置も多少異なるし、暗闇の中では先行した人がどこにいるか分からない。岸の小高い草むらに腰を下ろして暗黒の流れを振り返り眺めていると、私達は非常な幸運に恵まれ、小舟のお陰で渡れたのだと感激一入であった。
誰が漕手をしたのか知らないが、その兵隊だって弱っていたはずである。もともと漁師か何かで舟を漕ぐことに慣れていたのかも知れないが、大変な仕事だったと思う。その漕手で、皆を渡してくれた人は、果たして最後まで転進をし内地に帰ったのだろうか?幸運に私達の第一中隊主力は夜明けまでに渡河を完了したようだ。
---最近本誌の執筆に当たり、当時指揮班長をされこの渡河についても細部の取り仕切りをされていた溝口登元准尉に聞いたところ、その時の漕手は堀、三枝、山崎の各上等兵で、この人達がよくやってくれたので、みんな渡河できたと感慨を込めて教えて下さった。
他の部隊の一部は、夜が明けてしまい渡河できずそこに残ったままと思われる。昼は敵の飛行機が偵察し、流れている日本軍兵士がいると機関銃で撃ってくるし、下流の岸からは敵や現地人が撃ってくるので、舟であろうと、筏であろうと渡河は不可能である。それに長時間水の中にいると、弱り果て筏から手が離れ溺死してしまうのである。
私は、渡河地点近くに民家があったがそこには入らず、バナナ畑に入って休んだ。日が高くなった頃敵機が数機飛来して、昨日まで我々がいた対岸の部落を目がけて銃撃し始めた。ここから見ると約千五百メートル離れた所であるが、こちらが高台なので手に取るように見える。小型爆弾の炸裂する音や、機関砲の音も聞こえてくる。やがて、火の手が上がり煙と炎が遠望される。まさに地獄絵図さながらである。あれ程やられると全滅したのではないかと思われた。よくぞ昨夜、十時間前に渡河していたものだ。一日遅れていたらあの硝煙の中にいるのだ、と思うと何とも言えない戦慄(せんりつ)をおぼえた。
敵は、我々が渡河点前に集結していると思い、徹底的に攻撃をしているのだ。またまた、シッタン平野に多くの若い血が流されているのだ。敵の攻撃を受け傷つきながらも、運のある人はその夜、筏にすがり渡河してきた。だが多くの人は濁流の藻屑(もくず)と消えた。
その夜渡ってきた人に聞いたところによると、その日の攻撃は物凄く、大変な犠牲者が出て、屍が累々として重なり、渡河も各人の筏で銘々(めいめい)に泳いできたので、多くの人が流された、とのことであった。
◆シッタン河の悲劇
既にビルマの主要部分は敵の支配下に落ち、このシッタン平野も英印軍に制圧されていた。敵の勢力下にある地帯を突破する悲壮な作戦である。そのために突破梯団が組まれ、渡河区分も大きく五つに分かれ、渡河地点も三十キロにわたる長い展開であった。場所によって河幅も流れの速さも異なり、またペグー山系を下りた所からシッタン河までの距離も異なるし地形もマチマチ、敵の警戒度合いも場所により異なっていたが、どこも厳しいものであったことに違いはなかった。 シッタン河渡河は我が軍団にとり、最大の難関であり、決死の一大作戦であった。世界の戦史に末長く残る極めて稀な激しい渡河作戦であったといえる。
渡河した将兵の殆どは竹の筏に装具を乗せ四、五人で組になり筏に掴(つか)まり泳いで渡ったのである。それも夜の闇に紛れての行動である。人間の体力のみではどうにもなるものではない。流れは右に曲がり左に折れ怒涛(どとう)の如く荒れている。波も立ち、目線も筏につかまっているのだから低く、周囲の様子も分かりにくい最悪の条件である。それにみんな疲れ切っている。
対岸を目指して泳ぎ出したものの、浮かぶはずの筏はアッという間に沈み、乗せた兵器は流れ去り、筏は身軽になって再び浮き上がり、これに取り縋(すが)った兵士は急流に押し流され、多くの命が奪われた。濁流にほんろうされ、激流に呑まれ、泳いでいても筏から手がずるずると離れ激流の波を頭から被る。筏はぐるぐる回ったり、バラバラに分解したりして、「助けてくれ!」「助けてくれ!」と叫びながら多くの人が流されていく。やっと対岸に近づいたと思ったら、アレヨアレヨという間に沖に押し戻されてしまう。もう諦(あきら)めようとしながらも、また岸に向かって泳いで筏を押したという。
私は、渡河できた人からの話しか聞いていない。渡河できなくて流された人、即ち死んだ人の話を聞くことはできないが、その人達は下流へ流されている時どんな目に遭いどんなに悲痛な思いをしたことか。そのことを忘れるわけにはいかない。
私達の中隊に舟が無かったならば、私は筏で泳ぎ渡る体力はなく、急流に流され渦に巻き込まれ死んでいただろう。
元気な時には、二百メートルや三百メートル泳げる人も、水泳の選手でいくらでも泳げた人も、今は痩せ衰え極度の栄養失調で半病人、体が駄目になっているからこの流れを泳ぎ通すことは到底困難なことである。
次から次に「助けてくれ!」「助けてくれ!]と叫びながら流されていく声。「軍旗(ぐんき)を持っているのだ、助けてくれ!」と絶叫しながら流される、元気な旗手が腹に巻きつけて泳いだのだろうが、何分重い旗であり、しかも水に濡れれば重く体の自由がきかなくなったのかと想像する。後になって聞いたのだが、幸いにこの軍旗は渡河に成功し、終戦まで大切に守られてきた由である。
「助けてくれ!」という声は聞こえても暗黒の闇、どこを流されているのか分からない。よしんば声の所在が分かっても、長い棒やロープや浮き輪があるわけではなく、せいぜい「頑張れー」と声援するだけで、なすべき手段がない。その人自身の努力と運しかないのだ。流れの表面に沿って岸に近づくのを待つだけである。熱帯地方とはいえ夜の水の中、次第に手も足もしびれ、筏から離れ沈んでゆくのだ。心臓麻痺で死ぬ人もあろうし、流れて行く内に夜が明け敵に撃たれた兵士もあっただろう。私は後日、他の河の橋桁(はしげた)に白骨を乗せた筏が引っ掛かっていたのを見た。体は本人がロープで筏に括(くく)りつけたのだろうが、そのまま息が絶え、朽ち果てて骨のみが筏の上に残されているのだ。誠に哀れというより言葉がなかった。
筏につかまり流され、息絶えるまでの相当の時間、この戦友達は何を思い何を願っていたであろうか?故国を思い、父母妻子を懐かしみ、どんなに残念無念の思いをしながら死の時を待っただろうか。
流れる間に放心した者もあるかも知れない。また理性的に自決を覚悟した人もあっただろうが、装具の中から手榴弾を取り出すことも、流れる水の中ではままならず流れに身を任すだけとなり、死ぬに死ねず、最期を待ったのだろうが、こんなに酷(ひど)いことがこの世にあるだろうか?
不利な戦とは、こんなものである。歓呼の声に送られ、勇ましく征途についた将兵が無情にも、おびただしい数、こうしてシッタン河の藻屑(もくず)となってしまったのである。
終戦後の抑留期間中に、他の師団で当時シッタン河の下流に布陣していた兵士から聞いた話だが、「毎日毎日おびただしい屍が筏と共に流れてきて、禿鷹(はげたか)が舞い降りて屍の肉を食べその惨状は実に目を覆うものがあった」「河口付近は満潮で筏が海に流れず溜(た)まり、死者の腐臭(ふしゅう)が一帯に充満していた」と聞いたが悲惨の極みというほかはない。
シッタン河に流された確かな人数を把握していないが、英印軍の集計によると、六千の遺体が流されていたと記録されている。しかし沈みながら流れているものや、岸に引っ掛かった屍などを合わせると一万にも達するのではなかろうか。
これも後日聞いた話で、一例であるが、岡山の歩兵聯隊では、渡河前千人いたものが渡河直後五百人に半減していたとのことで、各聯隊共に似たような惨状であったことが想像される。
このおびただしい死体を河は飲み込み、大部分は流れて海に行ったのだろう。しかし途中に引っ掛かった屍の処理を現地人はどのようにしたのだろうか?これも大変な作業だったことと思う。
全世界のどこにこんな河があるだろうか。世界の戦争史の中で稀に見る悲劇である。永遠に流れるシッタンの流れよ、この河に散っていった日本兵士をいつまでも弔ってくれ。私達はシッタンの悲劇を永久に忘れてはならない。私の命ある限り無き戦友に哀悼の誠を捧げなければならない。
ペグー山系の餓死、シツタン河での水死、ここに数万人もの犠牲者をだしながら、撤退作戦は更に続けられた。
◇シャン高原での戦い
◆シッタン平地からシャン高原へ
渡河後昼はバナナ畑に退避、夜は民家に入り食糧を集め、飯盒炊事をしてどうにか飢えを凌ぐことができた。三日ばかり集結のためその辺りに止まった。幸いに敵の攻撃は河のこちら側には及んでこなかった。
渡河により各梯団とも人数が激減していた。またしても夜間の行軍が始まった。目指すはビルマの東南のモールメン地区で、ビルマ方面軍司令部は既にその地区へ後退していた。そこまでの道程はまだまだ遠く二百キロも先であった。シヤン高原の道はくねくねと曲がり細くなったり太くなったりしていた。平地を過ぎ森林部を抜け、なだらかな山間部へと、毎日夜間の行軍が続いた。敵の地上部隊はまだここまでは来ていなかったが、飛行機による追跡と機銃掃射は続いた。
また、いたる所に地雷が仕掛けられていた。我々より先行していた兵士が地雷にやられ倒れており、死体があちらこちらに散らばっていた。
ある日のことである。道の真ん中に将校が座っている。なんで端に座らないで真ん中にいるのかと不審に思い近づいて見ると、地雷にやられ上半身のみが路面にドッカリと倒れずに立っている。下半身は吹き飛んでいるのだ。また、ペグー山系程ではないが、シヤン高原の道端にも、体力が尽き果て自決した兵士の屍がいたる所に残され惨状を呈していた。
終戦後、秋田衛生下士官から聞いた話だが、彼も落伍しないように一生懸命に歩いていた。路傍に屍が点々とあるのは当時としては珍しいことではなかった。
彼がふと見ると、仰向けの死体の口の中から芽が青く出ている。よく見ると、生の籾を食べようとして口の中に入れたが、そのまま息を引き取った姿だ。死体の兵隊は米が無くなり、やっと籾(もみ)を現地人の家から取ることができたが、これを白米にする力も無く、火に掛けて焼いて食べることもできないまま体力が衰え、籾のままを食べようとして口に入れたが、そのまま息絶えているのだ。そこへ雨期の雨が適当に口の中に降り注ぎ、籾から芽が出て青く育っているのである。屍の口の中で籾が発芽して青い芽が育つ、そんなことがこの世にあってよいのだろうかと思ったとのこと。
我々はコウモリのように夜歩き、夜明けと共にあばら家でもあれば潜り込み、敵の飛行機に見つからないようにして、東南モールメンの方向に転進を続けた。しかし、敵英印軍は日本軍の動向をよく偵察しており、飛行機で山林の上空にも飛来し機関砲で撃ってくる。
シャン高原はアラカン山脈のように高くはないが起伏が連続しており、雨期で谷川は、増水し激流となっている。幅十メートル程の川でも、岩を咬(か)み飛沫をあげて滝の如く流れており、歩いてこの川を渡ることはできず行き止まりである。
幸いなことに、先行の工兵隊だろうか、上手(じょうず)に大木を川の上に切り倒し、向う側からも大木を切り倒し、川の中程で交叉させて曲がったり上下しているが、とにかく橋をこしらえてくれていたので、難なく川を越えることができた。でも、丸木で先の方は細く、他部隊の将校は滑り落ち死んだとも聞いた。そんなことをして激流を越えたこともあるが、激流でなく腰までつかって歩いて渡れる所が多かった。
ここの道は、ぬかるみはなく歩きやすかった。しかし、相変わらず裸足で竹の杖に縋(すが)りながらの後退である。
山の間を細い道に沿って行くと、時に山間民族チン族の部落が十軒〜十五軒点在していた。住民は我々が行く前に素早く逃げており、顔を合わすことはなく、豚や鶏はそのまま置いてきぼりになされていた。辺りには水田もなく家の中には米は無かったが、部落には椰子の木が何本かあり、バナナが何本かあった。我々は当時大部隊としてではなく分散して行動をしていたので、案外食物にありつくことができた。
吹けば飛ぶような竹細工のあばら家でも、雨に打たれて地面にごろ寝するより、家の中は、はるかに有難かった。ある部落で、柵の中にいる子豚に目をつけ、兵隊三人で追いかけたが、豚は必死に逃げるので捕まらない。仕方なく小銃で仕留めた。豚の料理も荒いことだが、肉を裂き薄切れにし肉汁や焼肉にした。
椰子の実がなっているが高い木を登るのにも技術がいる。それに弱った体では登れない。たまたま大きい鋸(のこぎり)があったので、引き倒した。その方が労力がいらなかったので悪いと思ったがそうした。高い木がバタリと音をたてて倒れた。椰子の実がたくさん着いており、皆で分けて食べた。長い間果物らしいものも食べていないので、たまらなく美味しい。現地人に対しては椰子の木を切り倒してすまないと思ったが、許してほしい、我々は今命を繋ぐのに一生懸命であり、食べなければ死ぬのだ。
一度や二度、豚や鶏を食べたとて急に元気になるものでもない。人によっては急に食べたので、体が腫(は)れたり下痢を始めるものもいた。こうして我々が通った後は、部落は荒らされ、食物は無くなり、家の一部は焚火に燃やされ、後には日本兵の屍が残され、あるいは瀕死(ひんし)の兵隊がそのまま残っているだけであった。
こんなことは不本意なことであり、現地人に対し誠に気の毒なことである。しかし我々は戦いに破れ敵に追われ、食物がなく毎日をやっと生きているのだ。
雨期の最盛期は過ぎたが、まだまだ雨は激しく降る。ボロボロの携帯テントにくるまりながら、とぼとぼと歩いて行くだけである。雨の中で地面に竹を敷き、体の上に木の葉を覆い寝るのだ。時には焚火で被服を乾かすこともあるが、濡れたまま寝る場合が多い。疲れきっているのでそれでも眠れる。
恨めしい雨は小降りになったが、まだ続いていた。その頃はシャン高原の中程ユアガレという部落を目指して歩いていたと思う。
私達第一中隊本部に有吉(ありよし)獣医下士官がいた。敵弾に右足下腿をひどくやられ、太い木を松葉杖のようにして、体の半分の重さを乗せ片足で歩いていた。傍にマウンテンという青年がつき添い装具等を持ち手助けをしていた。この人はビルマの獣医で、ずっと以前から有吉軍曹を慕い気が合い、日本軍に協力し転進中も苦労を共にしていた。この青年の並々ならぬ援助のお陰もあり、普通なら重傷でついて行けるような状態でないのに、毎日早めに出発し途中の小休止もしないで歩きぬかれており、その精神力、その忍耐強さに敬服した。私は、転進中の長い期間気の毒な姿を見ていたが、本当によく辛抱(しんぼう)されたものであると驚いた。負傷していない私がヘトヘトなのに、足に重傷を負いながら、よくぞ歩かれたものだと感心した。
---彼の若い奥さんが、青野ヵ原から姫路までの最後の行軍の時、和服姿で彼の傍を離れないようにして見送りされていた。六月下旬の暑い日で軍馬車両が濛々(もうもう)と砂塵をたてて進む中を一生懸命歩いておられた姿が目に浮かんできた。
その真心が通じあったのではなかろうか。その後無事復員され、元気で今日を迎えておられる。
今だに、歩き方に後遺症が残っているようだが、有吉獣医軍曹の忍耐強さを尊敬し、簡単にここに記す。
---有吉義夫氏は、最近私宛に、あの重傷で転進中マウンテン君に助けてもらったのに、何のお礼をすることも出来ないままになっており心残りだ。恩人マウンテンさんに感謝のお礼を、ビルマの人達に心からお礼を申し上げたいと、切々とした手紙を送ってこられた。ここに明記しておく。
◆輜重隊の活躍
私は一兵隊だから全体のことはよく分からないが、当時第一中隊は手島中隊長の指揮の下で、私達の第二小隊と、片岡東一軍曹や光畑上等兵等の第三小隊、及び溝口指揮班長や志水衛生軍曹等の本部指揮班の総勢約七十名が固まって行動していたと思う。中隊長以外の将校は既に戦死されていたので、指揮班長の溝口准尉が細部の指示を与えていた。戦力が貧弱になっており、これが第一中隊の主力であった。
こうして、第一中隊即ち、手島中隊長以下の主力は師団司令部と一緒に行動をし、師団長の直接警護をしたり司令部の食糧を調達したりしていた。
シッタン河渡河の折も、我が中隊の光畑機関銃手が師団長の舟に乗り、直接身辺をお守りした。
師団司令部の参謀達を小舟で渡したのも我が中隊の兵士であり、そんなことで師団参謀を近くで見る機会も多かった。
前にも述べたが、編成最初からの太田聯隊長は二十年五月十一日戦死され、金井塚聯隊付き大尉も負傷され、その後は植田中尉が聯隊長代理をされていた。
我々がペグー山系に入った頃、畑聯隊長が着任されていたが、聯隊や中隊は分散し転進していたので、我々は直接拝顔することなしに、指揮命令を受けていた。内地にいる時とか一ヵ所に集結している時であれば、聯隊長の着任は全員揃って厳粛(げんしゅく)にされただろうが、こんな戦闘中で特に状況の悪い最中では、末端には徹底されなかったが、仕方のないことであった。ともあれ、我々は畑聯隊長の指揮下で、後半の転進作戦を実行したのである。
手島中隊長は、頑強な身体の持ち主で鳥取県出身の方であった。中隊がタンガップ方面の警備に当たっていた頃の昭和十九年十一月中旬、聯隊本部付きから当第一中隊へ着任され、以後一番苦しい時に中隊を掌握し転進作戦を指揮されたが、途中、敵弾で片腕を負傷し、三角布で吊しながらも、常に勇敢に陣頭に立ち、中隊を終戦まで率い大任を果されたのである。武士の魂を立派に備えた方のようにお見受けしていた。無事復員をされたが残念なことに昭和二十六年頃逝去された。もっと長生きされ、日本の発展を見守って頂き、輜重隊戦友会にも来席して頂きたかった。堂々とした体躯で先頭指揮されていた当時の雄姿が懐かしく今も目蓋(まぶた)に浮かぶ。合掌
◆生と死の境
その頃、師団司令部の藤井中尉を長とする将校斥候(せっこう)が編成され十名が選ばれ、五名が輜重隊から、他の隊から五名が選ばれた。重要な斥候であることが想像された。
この将校斥候は、師団司令部及び輜重第一中隊等は迂回ルートを行くが、それと分かれて近道が行けるかどうかを、偵察するのが任務であったようである。
約一週間の予定で別行動をするのだが、この道は後続する者が来ないルートであると聞かされていた。溝口指揮班長より「小田 この斥候に行け」と命令された。
私は長い間下痢が続いて衰弱し、その上悪性マラリヤではないが三十八度の熱が引き続いていたので、斥候に出て行くと、途中で落伍してしまうような気がしてならなかった。命令を断わることは軍隊では出来ないこととよく知ってはいたが、以前から溝口指揮班長に可愛がってもらっていた甘えもあり、体の不調を訴え「自分には出来そうにない」と懇願した。しかし「弱っているのは皆だ」「行ってくれなくてはいけない。他に行ける者はいないのだ」とガンとして断られた。いくら可愛い部下であっても、発令者の立場からいえば当然のことであり、ここは一刻を争う戦場なのだ。「ああそうか、そうか」と聞いていたのでは節度がつかない。
溝口指揮班長を恨む気持ちは全くなかった。命令に従うのは当然だと思った。しかし大変なことになった。任務が果たせるだろうかと心配になった。途中で皆に迷惑をかけてはいけない、石にかじりついても斥候の任務を果たすのだと改めて自分に言い聞かせた。
藤井中尉の指揮下に入り出発した。私は機関銃の弾薬を携行する役となった。シヤン高原の山の中を登り、谷を渡り水に浸かり細い道を進んだ。
時々中尉はセルロイドのファイルに入れてある地図を出して見ておられたが、大分くたびれたものだった。磁石と照らし合わせていたが、こんな地図では今我々が歩いているような細い道は無いはずなのに、どんなにして進路を間違いなく定めているのだろうか?師団司令部のこの中尉の才覚と方向感覚に頼る外はない。
小川を日に何回も渡るので、下半身はいつも濡れて冷えが起き小休止の度毎(たびごと)に下痢をしに走った。便の量は少しだが腹が絞(しぼ)るような感じで粘液のようなものが出るだけである。ここ数日が特によくない。
将校斥候に出て二日目の午後は小さな雨が降っていた。私はついて歩けなくなった。激しい熱に襲われ、足に力がなくなり体を支えることができなくなった。戦友が「頑張れ」と勇気づけてくれたがどうにもならない。
自分が持っていた機関銃の弾薬を他の兵隊に渡した。持ち物は自決用の手榴弾と飯盒と水筒、空に近い背嚢だけである。それに肌身離さず持っているお守りである。私は「自分はもう歩けないのでここで休むから置いて行ってくれ」と八木兵長に言った。八木兵長は「休んだらついてこいよ。いずれ俺達も、夕方になり今日の目的地に着けば休むのだから」「ついてくるんだぞ、あきらめてはいかんぞ」「あきらめてはいかんぞ」と力を込めて言った。
しかし、誰もがこれで終わりだと思い、私も最後の別離だと覚悟をした。藤井中尉から特に叱られはしなかった。みんな私を残して行ってしまった。
私は道端にへたばったままで動けない。高熱のため目も眩(くら)みそうで、精根尽き果てしゃがみ込んでしまった。
みんな行ってしまったし、誰も後からこの道を来る兵士がいないことは決まっている。孤独であり、ただ一人自分だけなのである。
すべてを諦(あきら)めねばならないのだ。意識のある間に、するべきことをしておかないといけない。意識が朦朧(もうろう)としてしまえば、自決する決断もできなくなり、のたれ死してしまう。それではいけない。今自決をすることだ。『自決だ』手榴弾を腰から外した。目の前が黒い帳(とばり)に覆われるような感じだ。これで自分もビルマの土になるのだ。両親の顔が目に浮かぶ。「お父さん、お母さん、長い間大変お世話になりここまで育てて頂き、恵まれた日々、楽しい人生を過ごさせて頂き有難うございました。先に行くことになりますがお許し下さい。兵隊として立派に今日まで尽くしてきましたからご安心下さい」
幼い日のことから、青野ヵ原行きの汽車の中で最後の別れをした時のことが思い出され、何とも言えない気持がした。「妹よ、兄は御国のために命を捧げるが、お前は元気で両親に孝行をしてくれ、俺の分までも」と心で言った。
学生時代の親友内田富士雄君、情緒豊かな君に学ぶことも多かった。俺はビルマに散って行く、青春の日々を懐かしみつつ。
会社の上司や、先輩の方々が、東京駅で送って下さった時の歓呼の声が思い出され震える。
米沢の西澤とよ子さんからの、懐かしく心をときめかし、勇気づけられた便り、「米沢のさくらんぼが小田さんのお帰りを待っています」の一節が思い出された。あれ程祈ってくれているのに、もう内地へ帰ることはできなくなり、今自分はこの世を去ろうとしている。可憐な彼女の姿が目蓋に浮かぶ。「さらばだ、今生の別れだ」悲痛な覚悟。手榴弾の安全栓を抜いた。
先端の突起を固い所に打ち着けて発火を確認し、敵陣を目がけて投げると四秒後に爆発するのだ。本来は敵を損傷させる兵器で、なかなかの威力を発揮するものだが、それが今は自決するために、確実に死ねる方法として使用されており、腹に手榴弾を抱いて死んだ姿を数限りなく見てきた。
いざ突起(とっき)を打ちつけようとすると、固い地面がない。雨に濡れた柔らかい道だけである。近くに何か固い石でもないかと探したが、無い。
十メートルほど離れた所に大きい木の幹があるが、弱りきった体はそこまで動いて行けない。打ちつける所がなく困った。
困ったなあー、と思うと一気に緊張が弛(ゆる)んで力なく横にころんだ。高熱で朦朧(もうろう)とした体は、すぐに眠ってしまったようである。
冷たい雨に打たれ、ふと気がつくと、「まだ生きているではないか!」「自分は生きているのだ!」の実感。二、三時間眠ったのだろうか、大粒の雨が頬を濡らしている。自決しなかったのだ、手榴弾をそこに置いたままである。高熱が下がったのだろうか、頭も痛くない。
しばらく茫然(ぼうぜん)としていたが、いくぶん疲労が回復しているようだ。不思議だがまだ若い体だから、眠っている間に少し元気になったのだろうか。こんどのマラリヤは悪性でなかったから熱が下がったのか?それとも、体が免疫になったのでこの程度ですんだのか知れないが、とにかく歩けそうだ。
前に行った斥候の一団に追いついてみようと心が動いた。抜いていた手榴弾の安全栓を元に差し込みきっちりと締めた。立ち上がり歩き始めた。
あれだけ高熱で弱っていたのに歩けるではないか。奇跡だろうと何であろうと歩けるのだ。ぼつぼつ歩いた。山道を十人が歩いているので、柔かい土の上に足跡が残っており、道を間違えず容易に後を追うことができた。その間どこにも家はなく人にも出会わず、あえぐように黙々として細い山道を歩いた。
三時間ばかり歩いた頃日が暮れだした。次第に薄暗くなり道が分りにくくなってきた。「ああ、駄目か、追いつけない」一人で野宿すると、この地方では虎が少ないが出てくるかも知れない。
ガックリと力を落とし再び自決をすることを思い・・・・寂しさと、迫りくる闇の恐怖を感じ、道も見えにくいのでもう歩くのを諦めようかと思っていた。その時、忽然(こうぜん)と目の前に柱が二本、鳥居のように立っているではないか。
部落の入り口であることがすぐに分かった。部落だ、嬉しい、有難い。山間に小さい家があり、近づいて様子をうかがうと現地人の声だ。おかしい、確かに一行はここへ来ているに違いないのに?更に十軒ばかりの集落の奥の方の家に行き、耳を澄ますと、今度は日本人の声がする。
もし、五分間、日が暮れるのが早かったなら運命はどうなっていたか分からない。すべてを諦めていたかも知れないのに。
やっと追いついたのだ。転げるようにして家の中に飛び込んだ。八木兵長や他の者が「小田お前来たのか」 「びっくりした」 「よく来たのう、もう会えないかと思って心配していたのに、よう追いついたなあ」 「よかった、よかった」と皆で迎えてくれた。藤井中尉に追及できたことを報告した。
この頃は、一度落伍したら最後、追いつくことは殆どできないのに、それが二、三時間も遅れて追いついて来たのだから、皆がびっくりするのも無理がない。誠に幸運中の幸運であり、神霊の加護によるものであると思わざるを得ない。地面が軟らかかったのも、地獄の閻魔(えんま)さんが受付けてくれなかったからだ。それに私に人一倍粘り強いところがあったからかも知れない。
夜になっており、皆の炊事もできていた。誰かが煮物を分けてくれ、それを皆と一緒に食べた。
ご飯と芋蔓(いもづる)を煮た汁物、それにガピーが少しあった。
疲れた体で炊事をするのではなく、できあがった物を食べるのだから、大変助かった。焚火の明かりがチョロチョロと皆の顔を照らしていた。野宿でなく家の中で休めるのは何といっても有難かった。「疲れているだろうから、早く休めよ」と誰かが言った。疲労していたので間もなくぐったりとなって眠った。
次の日の朝、藤井中尉将校斥候長から「近道をしたので、目的地に早く行けそうだ。今日と明日はこのまま、ここで休むから十分休養しておけ」との指示があり、皆は大喜び。子豚を捕まえ料理してみんなで分けて食べ、体力回復に努めた。私もこの二日間の休みで幾らか元気になった。この休みが無くて続けて強行軍していたならば、再び落伍したかも知れないのに。
三日目の行軍にはどうにかついて行けた。四日目も五日目も楽な行軍で、中隊本部や師団本隊と合流した。本隊は毎日歩いたのに、私達は近道をしたので二日間十分休みながら悠々と到着できたのである。これも幸運だった。考えてみると、私が斥候に行かず、師団本隊と共に行動していたら、迂回路なので毎日歩き通しで、ついて行けなかったかもしれない。運とはこんなもので不思議である。
ここでも二重三重四重の幸運に恵まれ生死の境を乗り越え、斥候の任務を終えた。運命は分からないが、神霊の加護により、母の信心により、生かされたことを私は感謝しなければならない。
この辺りが、シヤン高原のユアガレという地名の付近であった。
◆戦友友田上等兵を残して
シヤン高原に入ってからは敵の地上部隊に追い回されず、空襲を警戒すればよい。食物も所々に小さな部落があるので、どうにか飢えを凌ぐことができた。
小さい部落さえないペグー山系の中よりましであった。大きい集団で行動することは山の中とはいえ、昼間は避けて夜しなければならなかった。昼は林の中に隠れ、煙を出さないように炊事をして休み、夜の行軍を続けた。
その日はよく晴れた月明かりの夜行軍であった。だが林のある所は暗かった。私と友田上等兵は、弱った者同志で一中隊主力部隊の最後尾を遅れながら、竹の杖をつきトボトボと歩いていた。
彼は割合元気で、数日前私がひどく弱っていた時に、私の装具を持って助けてくれたこともあったのに、ここ一両日でマラリヤにかかり弱っていた。
三叉路にさしかかった時、部隊は右に行ったのに私達二人は月明かりでよく見えなかったので左へ進んでしまった。
しばらく行った所で、友田上等兵は「もう歩けない」と言って座り込んでしまった。私は「元気を出して行こう」と声をかけたが「もう一歩も歩けない」と言って青い顔をしている。
「ここでくじけてはだめだ。苦労してここまで来たのだ、もう一ふんばりだ」と言って励ましたが動かない。私は持っていた竹の杖で彼の背中を一発殴った。「どうにもならない、体が動かないんだ、ほっといて行ってくれ」と彼は答えるだけであった。
「さあ、立て」問答が続いたがどうにもならない。お互いの頬に涙が光った。
「元気になったら後から行くから」と答えた。私は「じゃあ仕方がない、必ず後からついて来るんだぞ」と励ました。彼は「小田よ、気をつけて行けよ」と言った。「有難う、では行くぞ」と言い残し彼と別れた。
私は本隊に追いつこうと歩いた。その頃は夜が明け朝になっていた。三、四百メートル程行くと道が消えるように無くなってしまい途方に暮れた。これはどこかで道を間違えたのだと初めて感じた。山の中で方向が分からなくなり迷いそうになったが、やっと引き返して来ると友田上等兵がいる。
「道を間違えた、逆戻りしているのだ。一緒に行こう」と誘った。しかし、彼は首を横に振るだけである。もう一度「友田、行こう、元気をだして行こう」と励ましたが、彼は「小田よ、ビルマの道は分からないから、気をつけてゆけよ」と注意してくれただけで、立とうとはしなかった。「では、行くぞ。元気になったら着いて来るんだぞ。では先に行くぞ」と言った。それが最後に交わした言葉であった。嗚呼(ああ)!
もと来た道を引き返していると、滅多に人に会うことがない山の中なのに現地人二人が向こうからやってくる。山男のような格好をしていた。細い道だからどちらかが、縁(へり)に寄らなければ通れない。私は武器としては手榴弾一個しか持っていなく、しかも弱った体であるが、まだ日本人のプライドがある。こちらが縁(へり)に避けることはない。もし彼等が危害を加えてくればそれまでだと覚悟を決め、にらみつけながら道の真ん中を進んで行った。相手が避け道を空けてくれた。
ビルマ人の中には日本人に対し好意を持った者が多いが、いろいろの事情から反感を持っている者もいた。戦況が日本に不利な現在では、おかしくなりかけてきたが、普通は積極的に日本兵に危害を与えなかった。この二人は彼の所を直後に通ることになると、私は気になったが、どうなったか分らない。私の想像ではビルマ人は友田上等兵を無視して通り過ぎたであろうと思う。
---その後、彼は自決しただろうか、すべて分からない。私が彼と別れた最後の戦友だったので、復員後早い時期にお墓にお参りしたいと思いながら、機会を逸してしまい、心残りとなっている。
あれから五十二年が経った今も、あの別れた悲しい場面が思い出されて仕方がない。ひたすら友田勇喜雄戦友の御冥福をお祈りするのみである。
更に引き返すと三叉路があった。ここを間違えたのだと分かった。部隊は右に行ったのに我々二人は気がつかず左へ行ってしまい、こんなことになってしまったのだ。あれこれしている間に部隊より約一時間余り遅れたことになり、追いつこうと懸命に歩いた。
午後遅く、やっと本隊へ追いついた。本隊は大休止をしていた。戦友達は「小田、よく追いついて来たなあ。一度遅れると殆ど駄目なのだが、お前はよく頑張るからなあ」 「頑張り屋だ」と言って迎えてくれた。しかし、そんなことより、彼のことを早速上官に報告した。
友田上等兵を残したのは、私の責任のような気がしてならない。彼は隣の班であるが私と親しい戦友で、玉島市近辺の出身で、銀行員であったと記憶している。良き戦友を失い残念でならない。いつまでもいつまでも心に残る辛い別れだった。
◆旧友との再会
シャン高原に入り半月ぐらい経った頃だろうか、敵機が飛んで来るが爆撃も銃撃もしなくなった。
「おかしいぞ」と誰かが言い出した。「そう言えば、敵の飛行機が撃ってこないぞ。もしかしたらソビエットが仲裁に入り、戦争が終わったのではないか?」と誰ともなく言いだした。これだけ戦況が悪くても負けたとは考えられないし、負けたと思いたくないのだ。
日本が勝つことはむずかしいが、負けることはないと信じて戦っているのだ。「講和が出来たのかも知れないぞ」その頃から大きい部隊でも、昼間の行軍に切り替え、いろいろの部隊が相前後して歩いている。岡山の歩兵聯隊も三々五々といった形で東に向かって歩いていた。
その時、中学(旧制)同級生の内田有方君に会った。五ヵ月前に第二アラカン山脈の中で奇遇して以来、これで二回目である。岡山の歩兵聯隊に所属しており、今度も偶然の出会いであった。この前は元気でたくましい将校姿であったが、今度は力なくひょろひょろと歩いている。服は着ているが装具は何も着けていない。丸腰といった姿。マラリヤの高熱に侵され、夢遊病者のようにふらふらしている。
すぐにお互いが分かり視線が合った。直ぐに彼の所に近寄り「おい、内田か」「小田よ、元気かい」「この前アラカンで会って以来久しぶりだが元気かい」と懐かしく声をかけあった。
元気かいと声をかけたが、お互いに痩せ衰え元気でないことは分かる。哀れな姿でお互いに手を握り頑張ろうと励ましあった。彼の手は高熱で熱く、目は黄色く濁り光がなかった。私は、彼はこんなに弱っているが悪性マラリヤではないか。大丈夫だろうかと心配した。彼もまた、小田はあんなに骨皮になっているのに、持ちこたえることができるだろうか、と心配した様子。でも、彼に会ったことが大きな気力の支えになった。
---そのように疲労衰弱していたが、不思議に二人共幸運に恵まれ、九死に一生を得て終戦を迎え、更に二年間の抑留生活を別々の地方でしたので会うことはなかったが、昭和二十二年七月にそれぞれ無事復員した。復員後しばらくして中学の同窓会で会い、お互いの無事を喜び合った。
その後は、更にいろいろのことで会うことも多く密接な関係を保っているが彼は岡山県ビルマ会の世話をよくしており、後に私もその会員となり関係行事に参加している。
特に、慰霊訪問団の一員として、私が二回ビルマへ行く機会に恵まれたのも、彼の勧めによるところが大きい。今だに、彼は「あの時は苦しかった、生きて帰れるとは思わなかった。小田、お前はメガネを糸で括り耳にかけていたが、痩せこけていたぞ。お互いに運があったのだなあ」と語り合った。
その内田君も平成七年二月永遠の旅に出てしまった。彼が健在ならば、私が今書いているこの原稿作成を支援してくれただろうに。今は心よりご冥福をお祈りするばかりである。みんな老いてきて、学友も戦友も次第に旅立ち寂しくなり、時は容赦なく過ぎてゆく。
◆うわさ
誰からともなくうわさが流れてきた。敵の飛行機からビラがまかれ、それには「日本が降伏した。戦いは終わったのだ」「日本軍は兵器を捨てて降伏してこい」「アイサレンダー アイサレンダー(降参の意味)と言って、手を挙げて来い」「戦っても無駄だ」と書いてあるとのことだが、誰も信じなかった。
しかし、嘘だと決めつける情報も根拠もない。ビルマ方面軍司令部とか策軍司令部とか、師団司令部等の友軍側の正確なルートによる情報は全然入ってこない。当時師団司令部にある通信機は既に使用不能になっており、それにこれら司令部も聯隊も分散しており統一性を欠いでいた。伝令の兵士が直接徒歩によって連絡するしか手段がなく、連絡に何日もかかる状況であった。
情報といえば、信じたくない敵のこのビラしかないのだ。嘘かも知れない?敵側の「日本が負けた」というこのビラは英印軍の謀略(ぼうりゃく)かも知れない。でも敵は、ここ数日攻撃をしてこなくなっている。飛行機は飛んでくるが撃って来ない。不思議だが、負けたということは信じられなかったし信じたくなかった。それは八月二十二、三日の頃である。
◆さまざまな戦い
敵の飛行機が射撃して来ないので、昼間の行動ができるようになった。遮蔽物の少ない丘陵地帯を進むと、道端の屍が目につく。
手榴弾を抱いて自決したばかりなのか、腹がポッカリと吹き飛び、真っ赤な血が流れ出ている。
夜間の行軍なら幾ら死体があっても見えないが、生々しく見えすぎる。
また、地雷にやられて二人が道の真ん中で折り重なり死んでいる。死体がまだ新しい。蝿が二、三匹来ているだけでまだ屍臭(ししゅう)も気にならないぐらいである。屍の傍らを避けるようにして通る。このように、所々に地雷が仕掛けられているが、退却してくる日本軍を殺傷するために、現地人が仕掛けたとするならば、その地雷はどこから入手したのか不思議である。だが、現実我々は被害を被っている。
山の谷間に行き奇麗な水を汲もうと近寄ると水を汲んでいる者がいる。動かないのでよく見ると、その姿勢のままで息絶えている。そうなるとそこで水を汲む気になれない。幅十メートルぐらいの浅い小川を歩いて渡っていると、そこにもうつぶせに倒れた屍がある。どこの部隊の兵士なのか分からないが、このように点々と屍に出会う。ペグー山系に比べると、やや少ないが、ここにも幽気が漂っている。
今までに数えられない程の死骸を見てきており神経も麻痺しているはずだが、可哀相にと思うと同時に、臭く見苦しい姿には目をそむけ、自分だけはあんな姿になりたくないと思った。戦争はこんな場面を数知れず作っているのである。
小休止になりシラミ取りをしていると、どうも股の間が痒(かゆ)く痛みを感じる。よく見るときん玉の近くにもう一つの玉があり、大きく紫色をしている。ヒイルが喰い付いて思う存分血を吸い、膨(は)れあがっているのだ。取ろうとしても固く喰いついてなかなか取れない。やっと引きちぎってみると、大きなヒイルだ。私は痩せ衰え血液も少なくなっており一滴でも惜しいのに、こんな吸血鬼に血を吸い取られているのだ。この憎いやつは木の枝におり、動物や人間が下を通ると、上から落ちてきて衣服に止まり、やがて体に喰らいつき皮膚から血を吸うのだ。気持ちが悪いぐらい大型で凄いヒイルがいるものだ。
次はダニだ。いつの間にか顔や耳などに喰らいついている。戦友が顔をこちらに向け、この辺がおかしいので見てくれと言う。よく見ると目尻にポッリとほくろのようなものが少し盛り上がって黒く見える。ダニだ、ちょっと摘もうとしても、摘めない。爪を立ててやっと引きちぎった。
潰すと赤い血を一杯吸うていた。所かまわず、ダニがさばりつき血を吸う。山の中には物凄い数のダニがいるようだ。
次はサソリだ。青黒い大きな奴を何回か見た。また小さな茶色をしたのも見たが、刺されたことはなく、刺されて困った話も私は聞いたことがなかった。
次は蛇だ。首を持ち上げたコブラを一度見たことがあるが、それは一回だけ。滴るような緑色をした五十センチぐらいの蛇を見た。それは灌木に登っていたが、美しいだけに気持ちが悪く忘れられない。猛毒を持つ蛇だということだ。
アラカン山脈シンゴンダインで二十頭の猿の群れに会った。その時自分一人だったので気持ちが悪かった。野性の象の群れを見たと誰かが言っていた。このようにいろいろの生きものに出会ったが、大した被害は聞かなかった。前に書いた虎についての被害と恐ろしさだけは格別だった。

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