西明寺村字茂佐谷内という所は、昔茂佐之丞なる者の住める所なり。
此人常に病弱にして足腰の痛みて立居も不自由となり、随って家ますます貧に陥り、
遂には口腔にも窮まるに至れり。家貧しうして孝子現われるという世の諺の如く、
一子茂佐之助は幼にして孝子なり。山に薪を拾い売りて薬価に替え、昼夜父の看護
怠りなし。或日、山より薪を背負うて帰る折り、足を傷めたる牡鹿が湧き出る泉より
上りて山に馳せ登り、峰近く山の皺に至りて光明赫耀たる薬師尊像に化して消え失せたり。
(今に其所を佛ケ谷という)是を拝したる茂佐之助は、彼の泉こそ霊水にして薬師如来の
お告げなりと合掌礼拝して、直ちに其水を汲み沸かして入浴に或は服用にと用いて、父の
看護に怠りなければ、其効験忽ち現われ病気全癒したりという。地方の人々是を伝え聞きて
此水を常に病に養生に用いたりという。
其後康元元年西辰六月、時の執権北條時頼公入道して最明寺と号し諸国行脚し給うに、
長途の旅路に病れ給い足痛み給うとて、此里に宿を借り静養遊ばされけるに、宿の主人
此霊泉の物語りをして霊水を汲み来り、投薬にまたゆあみに勧め参らせたるに幾日も
経ずして壮癒あらされたりという。のち此里を最明寺村と改称せりと伝う。
其後此所に浴場を開設せるも収支つくなわず、興廃数回ありて後、享和年間の頃祖先
孫兵衛外数名により共同浴場を佛ケ谷の山麓に創立せるも恰も幕末の頃にして発展を
見ること能わず、遂に彦兵衛と二人の経営となるにや。後漸く隆盛に向かうや、分離
して増築す。明治聖代に至り繁栄を極む。一方彦兵衛氏は浴場を売り、本村に転ず。
尚其後数回の変遷ありて昭和4年火災に罹りて全滅す。此所に当館は愛浴者各位の
便宜を計り、元地を三丁余出て復興して今日に至れり。
平成10年の大晦日に平成9年の大晦日以来一年ぶりにまたまた訪問し、飲用、入湯しました。
風呂からあがって玄関先に掲げてある上記の「西明寺鉱泉の由来」をメモしていて
湯冷めして、正月早々風邪をひいてしまった私メです(・・,)グスン。
国道8号線を金沢方面へ、福岡町大滝の信号を右折、花尾カントリーへ向かう途中約4km
にあります。
伝承・薬効の湯(富山県版) の
「西明寺鉱泉」も見てくださいませませm(__)mペコッ。
霊水を容器に汲んで持ちかえるときは、薬師大明神にお賽銭を!
西明寺湯の守護神 薬師大明神 遥拝所(社殿三百六十余米の山奥にあり)