現地にある「富山県営かんがい排水事業常西地区の案内板」には次のような文言が。 『常願寺川は、全国有数の急流河川としてその名は広く知られており、流域一帯は古くから 洪水との闘いが繰り返されてきた。明治24年(1890年)9月の大洪水では常願寺川の堤防が 決壊し、数多くの尊い人命や田畑が失われた。そこで県は、当時来日していたオランダ人技師 ヨハネス・デ・レーケに改修計画の立案を求めたところ、彼は、常願寺川の上下流に分散していた 取水口を一箇所にまとめ、新たに幹線用水路を開削して導水し、そこから分水する合口用水計画 を提案した。事業は翌明治25年(1892年)に着手され、難工事であったがあくる年の明治 26年(1893年)に完成した。これが現在の常西合口用水である。』
常願寺川立山橋(大山町側)のたもとです。地鉄大川寺遊園駅より徒歩15分です。
明治時代に、常願寺川左岸の12の用水を合併してできた用水で、かんがい面積は、6,000haにも及びます。【2003年2月撮影】
佐々堤の跡
常願寺川の氾濫を防ぐため、天正八年(1580)戦国時代の富山城主佐々成政の陣頭指揮により、
巨石を集めて築いたと伝えられる堤防(霞提)跡。【2003年2月撮影】
太田閘門
合口前の旧太田用水の樋管。【2003年2月撮影】
殿様林の松並木
明和六年(1769)時の富山藩主前田利興(としおき)が防水林として
丹波の国(兵庫)より苗を取り寄せて陣頭指揮した6ヘクタールにも及ぶ植林の一部。【2003年2月撮影】