諸学(思想、哲学、情報、言語、歴史、古典、等)

(更新日の新しいものが上です)

索引

28.ジョン・ダービーシャー著、松浦俊輔訳 「素数に憑かれた人たち」(2009/12/09)
27.長岡亮介 「本質の研究 数学T+A/U+B/V+C」(2009/11/26)
26.リヴィエル・ネッツ/ウィリアム・ノエル著 吉田晋治=監訳 「解読!アルキメデス写本」(2009/03/13)
25.山本七平 「昭和天皇の研究 その実像を探る」(2005/01/16)
24.尾本惠市 「日本文化としての将棋」(2003/03/22)
23.黒崎政男 「デジタルを哲学する」(2003/03/21)
22.ヒューバート・L・ドレイファス 「インターネットについて 哲学的考察」(2003/03/09)
21.西垣 徹 「ペシミスティック・サイボーグ」(2002/10/14)
20.キム・ワンソブ著、荒木和博・荒木信子訳 「親日派のための弁明」(2002/09/16)
19.J.P.マッケボイ文、オスカー・サラーティー絵、治部眞理訳 「マンガ量子論入門」(2002/02/16)
18.黒崎政男 「カント「純粋理性批判」入門」(2002/02/16)
17.池 東旭 「韓国の族閥・軍閥・財閥」(2000/04/23)
16.諸星清佳 「中国革命の夢が潰えたとき」(2000/04/23)
15.氏家幹人 「大江戸死体考」(2000/03/26)
14.小長谷正明 「ヒトラーの震え 毛沢東の摺り足」(2000/03/26)
13.デーデキント 「数について−連続性と数の本質」(1999/11/14)
12.西垣 通 「こころの情報学」(1999/11/13)
11.石川九楊 「二重言語国家・日本」(1999/07/03)
10.黒崎政男 「となりのアンドロイド」(1999/07/03)
9.石川栄輔、田中優子 「大江戸生活体験事情」(1999/05/05)
8.梅原 猛 「あの世と日本人」
7.DANIEL BELL 「知識社会の衝撃 THE IMPACT OF INTELECTUAL SOCIETY」
6.金田一春彦 「日本語」
5.末木文美士 「日本仏教史 -思想史としてのアプローチ-」
4.杉本苑子 「利休 破調の悲劇」
3.小沢健志 「幕末-写真の時代」
2.芭蕉 「おくのほそ道」
1.「広重の大江戸名所百景散歩」

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「素数に憑かれた人たち」
ジョン・ダービーシャー著、松浦俊輔訳 、日経BP社、2004/2008、2,600円
現在もなお解明されていない(正しいかそうでないか証明されていない)リーマン予想(1859年の彼の論文で触れられている)について解説した本です。著者は最初に、「リーマン予想は、本書で用いたものよりも初歩的な数学を使ったのでは説明できない。私はそう思っている。したがって、本書を読み終えてリーマン予想が理解できなければ、これから先も理解できないことを確信してもいいだろう。」と述べている。思わずたじろいでしまう。読後、果たして理解できたか、できたようにも思えるが全てが腑に落ちた訳ではない。本書では数式について丁寧な解説がほどこされているが、あるレベル以上は割愛・飛躍せざるを得ない。その意味で本書に示された内容を完璧に理解することは大学レベル以上の数学を本格的に学んだ人でなければ無理だろう。ただし本書に示されたレベルで理解することは高校数学レベルを理解できれば可能と思われる。構成は基本的に奇数章が数学的な内容、偶数章が関係する人に関する記述になっている。人に関する記述では時代背景が18、19世紀ヨーロッパという歴史的にも地理的にも一種複雑な時代なので、こちらも理解するのにやや骨が折れた。また、余談だが、最終章での数学者たちの問題に対する動機についての記述・吐露も印象的である。ハーディ曰く「私は「役に立つ」ことはしたことがない。私が発見したことは、直接にも間接にも、いいことも悪いこともしていないし、これからもしそうにない。世界の住みごこちが変わるわけではない・・・・・実用的な基準からすれば、私の数学人生の価値はゼロである。」ただし、著者はこれは悲観的にすぎると述べている。では、リーマン予想が解決されたらどうなるのか。著者は「ただその結果がとてつもないものになることは確かだ。探求の末に、われわれの理解は変貌するのである」と述べている。
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「本質の研究 数学T+A/U+B/V+C」
長岡亮介著 、旺文社、各2008/2008/2007、各1,900円/2,200円/2,200円
思うところがあってこの一年間、中学入試の算数、中学数学、高校数学を勉強し直してきました。かつては感じませんでしたが、こうして通してみると高校数学の質・量が中学数学に比べて桁違いであることに気が付きました。その高校数学の勉強に使用したのが本書です。帯にもあるように理論が詳しく深く解説されています(あくまで高校のレベルですが)。構成はその章の内容の解説から始まり、例題を通して理解を深め応用をし、章末問題(大学入試問題)でさらに理解と定着を図るという筋立てになっており、著者の意図が一貫して表現された大変優れたものだと思います。現役の人達にとってはその人のレベルや数学が得意か苦手かなどで、本書の位置づけは変わるとは思いますが、私のように高校数学をある程度きちんとやり直したいと思う人には価値のある本だと思います。もっとも著者も私のような読者は想定していないかとは思いますが。(T+A:464頁、U+B:640頁、V+C:448頁)
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「解読!アルキメデス写本」
リヴィエル・ネッツ/ウィリアム・ノエル著 吉田晋治=監訳 、光文社、2008、2,100円
羊皮紙のキリスト教祈祷書に隠されたアルキメデスの論文を現代の技術を駆使して読み解く物語です。写本解読プロジェクトを推進している学芸員とギリシャ数学の専門家(このような専門があることも初めて知りました)の二人が交互に各章を担当しており、アルキメデスの論文を如何に解読可能な形に持っていくか、ということと論文そのものの内容の解読とが、うまくミックスされて一冊の本として成功している。もともとアルキメデスの論文であった羊皮紙を削って再利用した祈祷書から、元の文章や図を蘇らせる技術や情熱に驚かされるが、内容の解読により古代ギリシャに生きていたアルキメデス本人の肉声を聞くような感覚に包まれ大変おもしろい。アルキメデスというと例の「お風呂に入ってお湯があふれ、、」という故事が思い浮かぶが、それも真実とは思えないらしく、数学を大いに発展させた科学者と捉えた方が正しいようだ。また、古代ギリシャの科学では図が中心であったこと(例えて、アルキメデスの墓標には図が書かれているが、アインシュタインから思い浮かぶのはE=mc2の数式である)を知り、今まで全く別物と思っていた「数」と「幾何」が実は一体となっていたことを知り蒙を開かれた思いです。
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「昭和天皇の研究 その実像を探る」
山本七平 著、詳伝社、1995、700円
古本市で300円で購入したものですが、実に読み応えがあります。著者も最初に断っているように本書は「天皇論」ではなく「天皇の自己規定」の「研究」であり、昭和天皇が自己をどのように規定し何を規範に行動していたのかを天皇自身の発言や、周囲の証言から明らかにしようとするものです。それは実に憲法の遵守にあり、その背景までを論証していきます。このような形で天皇というものと昭和史を見させられると、歴史を学ぶ意義がよく分かります。今年は特にイラク戦争や北朝鮮の拉致問題、改憲議論、さらに「終戦」60周年と、このような書物により戦前戦後を顧みることで歴史に学ぶことは特に有益であろう。さらにこの本が戒めているように感情論ではなくいかに正論を保持できるかが重要であろう。
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「日本文化としての将棋」
尾本惠市 編著、三元社、2002、2400円
国際日本文化研究センターにおいて平成9年から二年間に亘り行われた共同研究「将棋の戦略と日本文化」の成果を元に、各研究者が寄せた論文、随筆を集めたものである。また、プロ棋士の羽生善治三冠、谷川治惠氏の寄稿も含まれる。将棋の歴史、戦国武将の陣立てとの関連、ゲームとしての特徴、特に敵駒を再利用する持駒使用に関する歴史的文化的考察、あるいはコンピュータとの勝負など幅広い論文が掲載されていて様々な観点から将棋というゲームを眺めることができる。ただ、紙幅の関係上仕方のないことかもしれないが、それぞれの論文、考察がもう一段詳細なものであればもっと読み応えのあるものになったであろうと思われる。
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「デジタルを哲学する」
黒崎政男 著、PHP新書、2002、660円
本書の題名に表されているようにさすがに著者は現代の問題の核心をついている。日進月歩で変化し、成熟化する前に陳腐化していくデジタル・テクノロジーによるデジタル革命が進行中の現代にあって、筆者の言うように百年単位のスパーンの視点を持つことが確かに有効であり必要であろう。現代の様々な問題が突きつけるのは結局「人間とは何か、モノとの関係をどう捉えるのか、何を己の規範とするのか」であり、その答えは自ら見つけだしていかなければならない。それが哲学するということであろう。この本の最も好ましいのは、現代の諸問題に対して筆者が解説するのではなく、自らの格闘を素直に吐露している点である。
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「インターネットについて 哲学的考察」
ヒューバート・L・ドレイファス 著、石原孝二訳、産業図書、2002、2000円
インターネットの限界を原理的に、哲学的に論じた本です。キーとなるのは人間の「身体性」であり、精神と肉体との二元論における肉体の貶めに対する反駁です。また、「匿名性」に潜む無責任と混沌の問題です。身体性に関しては、欧米の人たちの感性はよくわかりませんが、日本人の感性ではここに論じられていることは既に感覚として捉えているのではないかという気がします。したがって、何か当たり前のことを真面目に論理的に論じられることへの退屈さを感じてしまうのです。現実はともかくとして精神における「職人」文化が未だに生き続けている日本では身体性を抜きにした知や教育に対しては、その上辺としての受けは別にして、まだまだそこに胡散臭さを感じる精神は生き続けていると思います。ただ、インターネットにおける技術的な限界からくる一種のまやかし(検索エンジンなど)と「匿名性」によって失われるものについてはより啓蒙が必要だろうとは思います。
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「ペシミスティック・サイボーグ」
西垣 徹 著、青土社、1994、2200円
副題に「普遍言語機械への欲望」とあるように現代人工知能を西洋人文学の伝統である「普遍言語」という観点から論じ、日本の国家プロジェクトであった「第五世代コンピュータ」(今となっては忘却の彼方ですが)の結末を、文化的にとらえ直そうとしたものです。コンピュータを「普遍言語機械」と見なすことによってその背後にある文化的、思想的な本質を見つめようとしています。また、評論とは文体を換え、解析エンジンを作ろうとしたチャールズ・バベッジを描いた「N氏宅にて」と日本人の思考法を示した「当世文明膝栗毛一幕」はなかなか面白い読み物に仕上がっています。この本に納められている評論は80年代後半から90年代初頭のもので、筆者は現代文明はサイボーグへの道をひた走っていると位置づけているわけですが、たとえば最近のロボットの登場の仕方、扱われ方は日本独自の文化的背景と共にその線上にあると思われます。
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「親日派のための弁明」
キム・ワンソブ著、荒木和博・荒木信子訳、草思社、2002、1500円
副題にまずは驚きました。韓国人による日韓の歴史に関する評論ですが、日本でも多くの議論、異論が出されるような内容です。私自身知らなかったことが多くあり新たな発見でした。日韓の間には様々なレベルあるいは人の間での多重の関係、建て前と本音の関係があるように感じていますが、その多くに影響を与えうるものだと思います。著者の日本に対する考えには賛同しかねる部分もあるのですが、この本が韓国では「青少年有害図書」の指定を受けているということは、韓国にとって大変残念なことであり、そうした事が韓国社会の現実を如実に表してしまっているのではないでしょうか。
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「マンガ量子論入門」
J.P.マッケボイ文、オスカー・サラーティー絵、治部眞理訳、ブルーバックス、2000、800円
量子の概念ほど訳の分からないものはありませんでした。光は波であり、粒子である、とか2つの状態を同時に持つ、とか、とにかく量子とつくとどうしてもイメージを描くことが困難でした。この本はマンガと題名につけていますが、マンガで量子論を説明しているわけではなくて、量子論を構築した人たちをマンガで登場させて、時間的流れに沿って彼らに理論を語らせるというスタイルをとっています。その結果十分には分からないながらも興味を失うことなく読み進めることができました。やはり物理理論も人が作ったものであり、そこに人間くささを感じることができると、俄然身近に感じられ理解しやすくなります。ただ、内容の理解にはもう一度読み直す必要がありそうです。
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「カント「純粋理性批判」入門」
黒崎政男著、講談社選書メチエ、2000、1500円
カントとの出会いは高校時代に倫理・社会の時間にグループに分かれて各々担当の哲学者、思想家の作品を読み発表するという授業で、たまたま選んだのがカントの「道徳形而上学原論」であったことによる。おそらくそれが哲学との最初の出会いであり、それをきっかけにしてその当時、いろいろな哲学書や思想書を読んだ記憶がある。ただ、カントに関してはその主著である「純粋理性批判」は読もうと思いつつも本屋で少し立ち読みすると何とも難解でついに30年間これまで買ったことがなかった。本書については黒崎政男に以前から興味があったことから、彼が書いた入門書ということで手が出たのである。プロローグで紹介されている彼自身の疑問から始まって、出だしから引き込まれてしまう。著者がガイドとなってカント・ワールドを案内する形で展開され、興味を持続できるようになっている。内容も上辺の紹介ではなく著者自身の長年のカント解釈の積み重ねを感じさせる真に迫った迫力が感じられる。カントの人間の認識、真理は客観的妥当性を持つ時間と空間に基づく限りのものである、という枠組みはまさに現代科学の主題とも重なって大変興味深い。また、カントが「純粋理性批判」第一版を出版したのが57歳の時というのもこれから50歳にならんとするものにとっては大変勇気づけられる。
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「韓国の族閥・軍閥・財閥」
池 東旭著、中公新書、1997、660円
日本による植民地統治の時代から現在までの韓国現代史を族閥・軍閥・財閥の三つのキーワード、ベクトルで解析したものである。韓国人である著者は韓国および韓国人を時には辛辣と思えるほどに描写しているが、そのため読者にとっては大変分かりやすい面がある。韓国の現在に対する日本の植民地統治の影響の深さもそうした韓国人の気質、心情を描いてこそ理解されるのだと思う。北朝鮮との分断という姿に日本による侵略、第二次世界大戦、朝鮮戦争がまだ現在進行形の形で韓国では残っているのだということが痛切に感じられる。そしてつい最近まで軍事政権であったという事実も改めて認識されられる。翻って戦後日本がどのような歴史を作ってきたのかを改めて問いたくなる。
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「中国革命の夢が潰えたとき −毛沢東に裏切られた人々」
諸星清佳、中公新書、2000、720円
日本の敗戦から毛沢東が建国宣言をするまでの間に焦点を当てて、中国の民主化がなぜ成されなかったのかを国民党、共産党、各民主勢力の動きをもとに論じている。その視点は次のまえがきの文章に表されている。−−1978年12月から中国は現在の改革開放路線に大きく転換したが、その政策の多くは本質的に、建国構想として提起されたいわゆる「新民主主義」的発想に酷似している。つまり中華人民共和国は30年の長きを経て振り出しに戻ったわけだ。そしてその間、大躍進政策の失敗で少なく見積もっても1500万、文化大革命で約40万もの人間が命を落としている。−−現在でも民主化されたわけではなく、共産党の一党独裁が続いており、経済面だけでは先進国各国との交流を深めているが、香港、台湾の問題も含め、政治的な面での安定性は独裁であるが故に非常に危ういと言える。何千年にもなる中国の歴史は血と征服の歴史であり、それが再び繰り返されるとすると21世紀には政治的な大変動がおきるかもしれない。
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「大江戸死体考」
氏家幹人著、平凡社新書、1999、680円
ごく日常にあった死体の扱いや心中した人たちへの対応にはじまり、試し斬り(様斬)や首切りのプロであった代々の山田淺右衛門を中心にどのように試し斬りが行われていたかを検証することで、結果的に優れた江戸時代の社会制度論、文化論になっています。将軍家や大名の刀の切れ味を確かめるために、死体を使った試し斬り(据物斬り)あるいは生きている人を斬る「生胴」なるものが、一種忌避されつつも、プロの技として尊重されていた江戸時代の文化的基底に大変興味を引かれました。また、人の肝(胆嚢など)(ジンタン!)が貴重な薬として売られていたことも改めて認識させられました。死体を扱うことからかなりショッキングな内容ですが、江戸時代を理解するには不可欠なことではないかと感じました。なぜなら江戸時代までの武士とはまさに人殺しのプロなわけで、彼らが作り上げた制度や文化には人を殺すことに関わる様々なことが暗黙の前提として存在するはずだからです。この本を読んだあとで、改めて「幕末−写真の時代」で大刀を携えた高杉晋作の写真などを見ると、その凄みが感じられるのです。また、常々本当に日本刀で時代劇のように人が切れるのだろうかと思っていましたが、優れた刀と技術により日本刀は想像以上に恐るべき武器だったことが分かりました。
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「ヒトラーの震え 毛沢東の摺り足」
小長谷正明著、中公新書、1999、660円
神経内科医である著者が歴史上の人物を残された映像、文献から診断しその所見をまとめたものです。表題にあるヒトラーや毛沢東の他にもレーニン、スターリン、ルーズヴェルト等々20世紀を語るには外せない人々も登場します。神経内科医は著者が書いているように「脳や脊髄、末梢神経、筋肉などのはたらきの異常を診るのが専門」で精神科とは違うものだそうだが、脳の血管障害ではマヒだけでなく、言葉を失ったり痴呆になることもあり、ときには精神異常もきたす、とも述べているように、国のリーダー達の病気は歴史を変えるものである。国のリーダーになるような人は体質的にもある傾向を持っており、神経的な病になりやすいのではないかとも思えるのである。ところで、人の人格・思想とは何なのだろうか。この本でも多く出てくるパーキンソン病にかかった場合何らかの精神的な影響、例えば考え方が一つのことがらに執着するといった傾向が出てくるそうで、そうした人の人格・思想は病も含めた形で現れているわけで、その人の言動としては病による影響も切り離されて捉えられるわけではない。そうした意味で神経系の病が精神に与える影響は、その不確定さ、見えにくさによって一層大きな幅を持っているのではないかと言わざるを得ない。
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「数について−連続性と数の本質」
デーデキント著、河野伊三郎訳、岩波文庫、1971、50円
娘の学校の文化祭で売っていた古本を買ったものです。実は本文は少ししか読んでいないのですが、訳者による解説が大変優れていて、数学における数と連続性の問題を歴史的に分かりやすく解説しているため、とても参考になりました。特に無理数という用語は訳を誤ったものであり、本来は無比数、すなわち整数の比にならない数とすべきであった、などはこの一言で数学嫌いの生徒をかなり救えるのではないかと思えるくらいのものです。無理数を最初に教える先生方には是非この解説部分を面白く生徒に聞かせるような授業をしてもらいたいものです。
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「こころの情報学」
西垣 通著、ちくま新書、1999、660円
情報とは何か、人の心とはどういうものかについて理系の知と文系の知を駆使して解き明かそうとする興味深く、野心的な作業と言えるでしょう。情報化社会(デジタル社会)になると言われている21世紀に向けて、「情報」の意味を問い人の心との関係を明確にしようとする過程を丁寧に分かりやすく論述しています。そして「情報」とは、生命現象と密接にむすびついた概念であり、地球上に生命が誕生した38〜35億年前に、情報も同時に誕生したとする。そして機械情報が圧倒的に氾濫するデジタル社会のサイバースペースにおける人の心にとって急務なのはヒト特有の「言葉の力」を高めることであると主張する。
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「二重言語国家・日本」
石川九楊著、NHKブックス、1999、970円
著者は書家であるが、かつてある新聞に連載されていた論説によって著者の考えには同感とともに蒙を拓かれる思いをしたことが幾度かあり、意識していた論客の一人です。この本はこれまでの幾多の日本文化論・日本論にとどめを刺さんとしたものあり、文化を構築する基本を言語に置き、日本の特性をその言語に求め、さらに日本語が元々中国語であった漢語と和語との二重言語であることを積極的に認めることで展望を拓こうとするものです。そして「和心、漢魂、洋才」の立体的構造を持つ日本語の再構築によって、世界大の思想を語りうる言葉を獲得する努力が必要だと主張する。日本語が英語などの音声中心言語とは異なる文字中心言語であり、それ故その名の「片」が片割れ、不完全を意味する不完全な文字である片仮名語は社会に根拠を持たない一時的な仮り物であると喝破している。著者が言うように、どうにも訳語が生まれないような言葉を除き、ある言葉が片仮名である限り、それはただ浮遊して社会に根をはっていないと判断するのは正しいかもしれない。ワープロ、パソコンも然り。また、著者は次のような面白い指摘と提案もしている。「国語・国字」問題は、漢語=中国語と漢字を悪玉に仕立て上げるが、問題は、漢語と漢字の側にはなく、どちらかと言えば、和語=辞の煩雑さの側にあることに早く気づくべきであり、「です・ます」調にするか「だ・である」調にするか、あるいは「私は」か「私が」か、「東京へ」か「東京に」か、「れる」か「られる」かといった和語、つまりは「てにをは」の煩雑さこそ克服すべき課題であり、それをあれこれいじくろうとする態度がこれをさらに複雑にしている。「わたし」か「わたくし」か「ぼく」か「おれ」かという「気配り」の必要な言語生活は尋常ではない。克服法として「テニヲハ」などの末梢的な言葉づかいの表面の形式はいったん捨象して言わんとする意味内容を表現の本質を直線的につかむ言語生活のスタイルを構築することを提案している。
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「となりのアンドロイド」
黒崎政男著、NHK出版、1998、1800円
本書は1997年に東京大学文学部心理学科で行なわれた集中講義の再現である。筆者の本を読むのは初めてであるが、以前から教育テレビ等でコンピュータと人間を巡る議論で筆者の考えを聞いており、そのときから筆者には興味をもっていた。また、同い年生まれということもあり、一度著書を読んでみたいと思い入手したのが本書である。本書は人工知能を扱ったものであるが、コンピュータを専門にしている人とは違ってやはり人間に対する洞察が鋭く深いように思う。また、例えばチェスで世界チャンピオンのカスパロフを負かしたディープ・ブルーに対する考察にしても、多くのコンピュータ業界の人間よりも的確に本質を捉えていると感じる。
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「大江戸生活体験事情」
石川栄輔、田中優子著、講談社、1999、1700円
火をおこすことから暦の使用まで可能な範囲で江戸時代の生活を再現して実際にある期間体験することによって、江戸時代の人々の生活のために必要とされるエネルギーや生活知識、感覚を知ろうという試みである。石川氏は小説をはじめこれまでにも多くの著作で江戸時代と現代とのエネルギー消費の比較を行っているが、江戸時代になぜ現代より遙かに少ないエネルギーで高度な文化生活が営めたかを生活知識に求めている。端的な例が米を炊くことである。炊飯器で米を炊くためにそのバックにはどれほど膨大なエネルギーが消費されていることか。片や火を熾すことから始めおいしいご飯を炊くためにはどれほどの知識と技術が必要とされるか。言い換えれば生活知識、技術を膨大なエネルギー消費によってカバーするというのが現代の「便利さ」ということになる。その便利さを中心にテクノロジーの進展と、経済活動が回っているのが現代の仕組みである。なるほど江戸時代には不可能であったことが現代ではいとも簡単に、ただし膨大なエネルギーを消費しながら実行可能となっている。これがいわゆる進歩である。ただし失われた生活知識、技術が多いのも事実である。また、田中氏は江戸時代の道具を使う課程で忘れられていた感覚に気づくのである。それは行灯の下で見る浮世絵の美しさであり、「手間」と「手入れ」による道具への愛着である。江戸時代に戻ることを望むのではなく、これからの時代をいかに生きていくべきなのかを模索するような試みであり、時代という大きなうねりの中にありながらも個人の生き方を模索する試みとも言えよう。
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「あの世と日本人」
梅原猛 著、NHKライブラリー、1996/1998、 971円
とりもなおさず日本人から、日本人は無宗教だと言われることがよくありますが、決してそのようなことはないと思っていました。この本はある意味でそのことを明快に論じてくれています。そして著者自身が語っているように、この本の功績は、仏教以前の日本人のあの世観と仏教渡来以来のあの世観とのつながりを明らかにしたことにあるでしょう。そして自分もそのようなあの世観を共有し、それが連綿と受け継がれてきていることに文化の本質を見る思いがします。良くも悪しくも現在の日本の宗教は縄文以来の日本の土着宗教、土着思想の上に成り立っているものであり、そういう意味でも著者が今後日本の神様について考えてみたいと言う成果に期待したい。
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「知識社会の衝撃 THE IMPACT OF INTELECTUAL SOCIETY」
DANIEL BELL著、山崎正和ほか訳、TBSブリタニカ、1995/1996、 2000円
これまでに出版されたいくつかの論文をまとめたもので、「情報と技術」「イデオロギーと知識人」「現代と未来」の3つのカテゴリーに分けて収録されています。各論文において、政治・経済・文化を明瞭に区別して社会を見ていることに、ものの見方のヒントを得たように思います。「情報と技術」では、現在の主要産業、すなわち鉄鋼、自動車、電力、電話、航空といった「科学の基本的法則や諸成果をほとんど知らない発明家」によって作られた産業とは違って、最初の現代産業である化学工業から、次の「脱工業化社会」においては「知識と情報が社会変革の戦略資源になる」こと、「あらゆる社会にとって重要な変数は、基礎研究や科学・技術力の強さ、すなわち大学や研究機関における科学・技術の開発能力に関する強さということになる」ことが指摘されている。「イデオロギーと知識人」では”疑わしき「文明の衝突」”でサミュエル・P・ハンチントンの論文を、文化と政治を取り違え、経済の要素を完全に無視していると批判している。その中で日本は「西洋」(すなわち立憲主義、民主主義、法の支配、個人の基本的尊重などに立脚している国)であり、文化的、精神的な「西洋」への紐帯を断ち切ることはしないと述べている。「現代と未来」では、イスラムにせよ他の宗教にせよ、原理主義にとっての最大の障害が、「平等」の原則(法の下の平等、機会均等、権利上の平等)、さらに過去50年のうちに新たな姿を獲得してきた「男女間の平等」である、と指摘しているのは興味深い。
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「日本語 新版」
金田一春彦 著、岩波新書、1988/1997、 上下各660円
国語の授業がどういうものだったか余り憶えていないが、改めて日本語について勉強してみると中々面白い。常に他言語と比較しながら日本語というものを炙り出しにしているので、大変分かりやすい。また、他言語についても例えば英語・仏語・独語でもかなり異なるし、他の西欧語もまた大きく異なる点を持っているなど、決して十羽一からげでは済まされないことが分かる。漠然と日本語とは曖昧な言語ではないかと思っていたが、決してそうではないことも認識させれられたし、日本語がいかに日本人の感性や生活あるいは環境に根付いたものであるかも再認識させられた。身体的な意味では改めて言語というものが他の言語とは置き換え不能なものであることが感じられる。また、漢字や日本語についての著者の提言には頷ける点が多い。
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「日本仏教史 -思想史としてのアプローチ-」
末木 文美士 著、新潮文庫、1996、 560円
少し前から仏教に興味を持ち始めました。宗教としての仏教そのものよりも、それを信じ継続させてきた人々の感じ方や考え方に素朴な関心を持つようになったからかもしれません。また、意識しなくても自分たちの考え方や生き方に、日本の仏教を取り巻く諸相が深く影響しているのではないかとも感じ始めたためかもしれません。そうした関心からこの書の副題に魅かれて読み始めました。著者が「日本には西欧の哲学のような論理と思弁で構築された壮大な思想空間は存在しない。だが、思想がないわけではない。しかし、その思想は概念的に規定しようとするとするりと逃げてしまうようなところがある。」と書いているように、仏教における思想だけでなく、一般に日本の思想史というものが確立されていないのは、こうした事情によるものと思われます。この書では聖徳太子から近代までの仏教思想を概観することによって、そうした日本の事情を踏まえて日本の仏教思想史の枠組みを提示しようとしています。入門的な概説書なので個々の議論が浅くならざるを得ないのは仕方がないところです。ただ、私の関心にある程度応えてくれたことは間違いありませんし、思想と信仰という課題が新たに付け加わったようにも思います。
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「利休 破調の悲劇」
杉本苑子 著、講談社文庫、1996、 360円
利休の死は秀吉に命ぜられたものですが、この小論はその理由を解き明かそうとするものです。それを各々の人間の個性と時間的空間的に置かれた位置、大きな歴史の流れによって明らかにしようと試みています。主題は利休の死ですが、作者としては歴史の捉えかたを述べたかったのだと思います。確かに我々が歴史上の人物を捉える場合、非常に限られた見方でしか見ていないことは確かです。それは一般に流布している情報が乏しいことが原因ですが、それはむしろそのように見たいという願望からくるものではないかとも思うのです。作者の言うように、まさにたった今、体をぶつけ合って、死を賭けて相手を組み伏せ、首を掻き切った血みどろの手をざぶざぶと洗い、まだ爪には血がついているであろうその手で茶を飲むというような状況は、我々の想像を絶したものではあります。そうした状況の中で生きていた人々を現代の感覚や発想で捉えようとしても無理があるのは当然です。ただ、やはり信長だの、秀吉だの、家康だのと言って論ずる気持ちの中には、そうした人々を正確に捉えることよりも、その人たちの名を借りて自分の言いたいことを言わんとしていると考えるべきでしょう。それにしても、そうした人達が生き抜いていた時代からたった400年程度しか経っていないというのも、改めて驚かされます。
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「幕末-写真の時代」
小沢 健志 著、ちくま学芸文庫、1996、 1000円
ちょうど幕末の頃に日本に写真技術が伝わり貴重な写真が数多く残されています。この本は撮影対象となった人物や景観を紹介しつつ写真技術の解説を載せています。どうしても勝海舟、坂本龍馬、木戸孝允、伊藤俊輔、井上聞多、高杉晋作、徳川慶喜、近藤勇、土方歳三、等々といった有名人に目が行ってしまいます。それに当時は再び武士の持つ刀が大いに使われた時代で、写真に写された武士達が差す刀がとても重みをもって感じられます。幕末物の小説などを読みながらこの本で当時の人間達や景観を写真で確かめると、一層現実感が沸いてきます。それにしても、当時からまだ130年程しか経っていないというのは、あらためて驚きを禁じえません。
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「おくのほそ道」
芭蕉 著、萩原恭男 校注、岩波文庫、1979/1996、 570円
今まで何度か古典(古文)に挑戦しては途中で挫折していましたが、この書は読み通すことができました。本文自体は短いものですが、当時の識者達が持っていたであろう教養がないので、注を頼りながらの通読でした。短い言葉に複数の意味を重ね、時間を素早く移っていく言葉使いに興味をそそられ、俳句の味わいなど一つも分からないのですがそれなりに楽しめました。また、およそ350年前の人の文章を読んでいると、その当時にタイムスリップしたような感覚にも捕らわれ今という時間をしばし忘れさせてくれます。なお、私のようなものにはもう少し注が易しく丁寧であればもっと深く理解することができるだろうと思います。それでも、また読み直してみようという気にさせる本です。
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「広重の大江戸名所百景散歩」
人文社、1996、2500円
当時と現在の地図が対比でき、絵の視点まで記入されているので、一層視覚的に当時の様子に想いを馳せることができます。このように美しい江戸(東京)がどうして今のようになってしまったのだろう。当然時代の推移に応じて変化もするし、震災、空襲と不可避的な破壊もあった訳だが、やはり都市建設に対する識見の無さが切ないまでに感じられるのです。
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