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![]() 彼らの「共に」の思想は、かなり教育現場には広まってきたと思う。ただ広まりが深まりをともなう場合も多いけれど、言葉だけの一人歩きや表面をなでただけの取り組みになってしまうこともある。彼らの「思い」がどこから来たのかをあらためて知り、熱を失わないようにしたいと思う。 |
「できないことも特性です」 翌檜(あすなろ)は立派な翌檜に、檜(ひのき)は立派な檜に 知能に重い障害をもった子どもたちと街を歩いたり、乗り物に乗ると、よく「あれは止揚学園の子どもや」という声を聞きます。この場合、多くは<あれはアホなんや。勉強も何もできず、役立たずの悪い子なんや>という意味があります。 しかし、私は<勉強のできない子は悪い子や>という考え方が、どうしても理解できません。何故なら、勉強のできる子はできるということが、勉強のできない子はできないということがその子の特性であり、みんな良い子なのです。そして、できる子はできることを大切にし、できない子はできないことを大切にしていくものが教育なのです。 私は「障害はその子の特性です。だから、克服する必要はありません」と四十数年間、知能に重い障害をもった子どもたちと共に歩み、皆に語ってきました。障害が悪いもの、無駄なものなら克服しなければなりませんが、それを特性と捉えている私にとって、<その障害を大切にして、立派な知能に重い障害をもった人間に育てることが障害児教育や>と考えています。 しかし、この頃、新聞などに「障害を克服し、コンピューターを身につけて自立した」「障害を克服して、マラソンで完走した」と、克服という字がよく使われた、感動的な障害者物語の記事がよく目につき、<これでよいのやろうか>と思うことがあります。 さて、勉強のできない子や障害をもった子を「翌檜(あすなろ)」という木に讐(たと)える人がいます。翌檜は檜(ひのき)科の木で、材質が檜よりも劣るのですが、<明日になったら檜になろう>と毎日、努力している木だと言われ、日本人の感情によく合う木なのです。 そこで、勉強のできない子や障害をもった子に「お前は翌檜や。今はできないけれど、<明日になったら檜になろう>と努力したらできるようになる。だから、頑張れ」と、このような意味で翌檜という言葉が使われます。しかし、私はこの考え方に問題を感じるのです。 檜が翌檜に向かって「劣等感をもたないで、明日になったら檜になろうと努力しろ。そして、檜になれたら〃立派な木だ〃と言われるから頑張れ」と励まします。翌檜は「檜より劣っているけど、努力して檜になるんや」と思います。この物語はとても感動的です。 しかし、よく考えてみると、檜はいつも翌檜の上に立ち、励ます存在で、そこに上下関係、差別関係が根強くあります。檜も、翌檜も立派な木です。だから、檜は立派な檜になる努力を、翌檜は立派な翌檜になる努力をして、両者がお互いにその立派さを認め合うことが大切なのです。この時、檜と翌檜は対等に心を合わせ、共に歩むことができるのです。 私は<このような差別的な「あすなろ観」が早くなくなってほしいなあ。その時、素晴しい教育が生まれ、他者を尊敬し、愛し合える優しい心をもった子ども たちが育つんや>と考え、総ての子どもの笑顔が消えないことを祈る毎日です。 (P180〜182より抜粋) |
もう一つ、「福祉企業を共に育ててみませんか」から | |
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この「福祉企業」の考えは、かつてBOOKコーナーで紹介した『戦後思想を考える』の日高六郎さんの価値観、平等観を企業という現実イメージとして示すものだと思う。
でも「現代はその考え方とは反対の方向が進み・・」と言う。「あなたは何処に行くのですか」と問われたら、わたしはどうこたえようか。 (2002年10月) |