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人権「親と教師の人権教育」  北窓 正明  【カランカン書房】
親と教師の人権教育  北窓正明さん(前大同教)が昨年亡くなったことを、今年の10月になって知った。つれあいに知らせるとやはりショックの様子だった。とくに私たちと深いとつきあいがあるわけではなく、私が10年ほど前に事務局をしていた研究会の大会に講師として講演していただいた、そのたった一度の出会いでしかないのだが。
 講演の前日、ちょうど九州からの帰りだから寄ってもいいということで、駅に数人で迎えに行った。サングラスをかけた姿で歩いてきたので少しいかつい人かなと思ったが、少し話をすると、全く違って本当に気さくな人だった。ホテルでゆっくりしてもらう時間もそこそこに、私たちは、北窓さんを囲って「green」という焼き肉屋でともに語り明かした。彼が大好きな?高級なたばこを手放さず、(よくもまあこんなにしゃべり続ける人がいたもんだ!)と思うぐらい、しゃべり続け、私たちを逆に元気づけてくれたことを思い出す。
 暑がりなのか講演中ハンカチで汗を拭き拭き、軽妙な大阪弁でみんなの肩の力をもみほぐしながら話をしていた。笑わされながらも話に引き込まれ、涙腺のかたいはずの私だが、舞台の袖で、・・我慢していた。客席で聞いていたつれあいは、(案の定?)、笑って聞きながら、涙がぽろぽろ流れてしかたがなかったと言っていた。
 わが家の本棚には、これから紹介する「親と教師の人権教育3」と「その1」と「人権教育の明日を拓く」が何故か2冊ずつある。(同じ本が2冊あるのはわが家ではたまにあることなのだ。二人がお互いが買ったことを知らずに、同じ本を買うことがあるので・・。)その他にその時に買った「地下水脈」、「伏流水」などもある。
 その後、彼からもらった書籍の請求書に添えられていた手紙は、わが家の宝物の一つとして今でも大切にしている。 

 まずは第1章「新しい世代へ引き継ぐもの」から、私好みの箇所の抜粋。


小学生への講演 「力いっぱい生きてほしい」
(『結婚のころ』から)

 二人の結婚が具体的になってきましたら、ムラのなかからもわたしの親戚からも、いろんな反対がありました。部落の若い娘たちが部落の外へ嫁いったときに、これまでどんなにつらいことが多かったことか。彼女の親戚、親、きょうだいがこれまで体験してきたことが大きな不安となっていました。それがこの結婚への抵抗として出てきました。わたしたちは主だった親戚を説得しようと、何軒か行きました。
 みなさん、ここのところはしっかりと聞いておいてほしいんですが、本来、社会というものは人間が生きていきやすくするためにつくられたものなんです。そうでしょ。人間が生きにくくするためのものではないんです。しかし、その社会の体制がまだ不充分だから、生きにくくしてるしくみがあるんです。それが差別問題、人権問題なんです。さらに環境破壊の問題、公害問題などがあるんです。それは、人間のことを考えてつくった社会がね、人間をおろそかにしている、わたしは人間を最も大切にする社会こそをつくるべきだと思うんです。部落に対する偏見や差別も、人間を大切にしない社会のなかででてくるんです。
 彼女の姉さんのつれあいとお酒をいっしょに飲んで、本音での話をしました。その結果、この男はなかなかええ人間やと、わたしのことわかってくれて、他の親戚との話にも大変協力してもらえました。
 一方、わたしの親戚からは随分とひどい差別が出ててきました。しかし、そんななかでわたしの大きな支えになってくれたのは母でした。実は、今も、わたしは母と16歳しか年が違わないんです。いうのは、16で産んでくれたということなんです。母は女学校に通ってるころに、お腹がふくらんできまして、女学校を中退しました。1947年12月31日、大晦日の日、わたしの実家のすぐ裏に本泉寺というお寺がありました。そこの寺の鐘が除夜をうつのを合図に、母は陣痛を起こしました。ゴーン、うーん、ゴーン、うーん、わたしは見てませんから知りませんが、きっとこんなだったでしょう。明けて1948年1月1日の朝にわたしは誕生しました。ですから毎年、わたしの誕生日には、全国のみなさんが「おめでとう、おめでとう、と祝っていただけるという、そういう大変珍しくもめでたい日に産んでくれました。
(中略)
 わたしが中学2年のとき親父が死んだことは先程話しましたが、このとき母は30歳でした。母はこのときから働きに出るようになりました。しかし、女性が30歳をすぎて働こうとしても、条件のいい仕事はそう簡単にはありませんでした。
 母は時には道路工事に働いてました。学校の帰り道、友だちといっしょに帰ってるときに母の姿を見つけて、友だちにそれがわたしの母とわかるのが恐くて、友だちの腕を引っ張ってその横を早足で通り抜けてたわたしでした。また、回転焼きって知ってますか?太鼓まんじゅうとも言いました。端っこまであんこの入ってる店で買いなさいよ。そこで働いてたこともありました。
 そんな母に、わたしたちは結婚のことを切り出しました。すると、その時、母の返事は一言でした。
「相手が部落出身なんて、関係ない!」
わたしは思うんです。条件の悪い仕事のなかで、母は部落の人たちや在日朝鮮人の人たちといっしょに働いてきたんです。そのなかで、「しんどい思いもってる人が、とことん優しい」ということを、母は身をもって体験してきたんです。このように母に逆に励まされてきました。わたしたちはこの母の大きな支えのなかで、いっぱいの人びとに祝福されて結ばれてきたんです。

(P29〜P31より抜粋)

もう一つ、第2章「人権主義の生き方を求めて」から
(P85〜86より抜粋)
差別事象は実践の弱さの投影

 たとえば、次に紹介しますのは、小学校二年生の「おてがみ」の学習のなかでのことです。この作品はアーノルド・ローベル作、三木卓訳で、大阪の解放教育読本『にんげん』にも載せられているものですが、友だちのいないガマくんのその寂しさを自分のことのように感じたカエルくんが、ガマくんにおてがみを出すといったストーリーのものです。
 誰からもてがみのこないガマくんは、「とても不幸せな気もちで……」というところの「不幸せ」を、先生は子どもたちに聞きました。「みんなにとって、不幸せってどんなことかな?」と。その言葉にひとりの子がたった二行つづったのです。

「ぼくのふしあわせ。スブ、きのしたひでお、たかだひでお、ぼくはわからないです。」

担任の先生はこの子の書いた作文を私の前において、大粒の涙をボロボロと流されました。
「きのしたひでお」というのは、お父さんの通名です。「スブ」っていうのは朝鮮名、本名です。そして、「たかだひでお」はお母さんの姓です。「ぼくのふしあわせ」と題して書いた小学校二年生のこの子の頭のなかを、否、暮らしそのものが、この三つの名前をぐるぐると回っているのです。そのことが痛いほど担任の先生に見えているから、涙せざるを得ないのです。
 通名を名のり、本名を名のり、時には父さんと母さんが別れて、母さんの姓を名のり……。そういう暮らしの現実がこの子のなかにあるのです。
 子どもたちが現実にくらしのなかで抱く疑問、それにどうきちっと答えていくのか、それは何年生から部落問題を教えるのかということじゃないのです。就学前の子であろうと小学校低学年の子であろうと、生活のなかで持つ疑問やおかしいなと感じることがあります。それが自分なりに答えが出ない時に、子どもたちは日常的に引っかかりをもちいらいらし、そして高学年になり体力がついてくると「荒れ」るのです。それぞれの年令なりに深い浅いはあれ、部落問題学習が子どもたちの生活現実、生活意識から出発してすすめられねばならないのです。
(1990年発行)
 よくばってもう一つ引用させていただきます。北窓さんが「感動的な実践報告」、「子どもの姿を丹念に伝えて」いるという実践報告を別ページに抜粋する。
■「子どもが綴る、教師も綴る」『子どもが綴る、教師も綴る』に

今回読み直すうちに、まだまだ学ぶべきことが山ほどあるな、忘れていたことも数々あるということを・・思い出した。(2002年11月)
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