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「子どもが綴る、教師も綴る」
(P90〜P92から)
私はこれまでに、いくつもの胸に熱いもののこみあげる感動的な実践報告に接する機会を得ました。そのすべてが、子どもたちの姿を丹念に伝えてくださったものでした。「子どもを綴る」ことの延長線上にそれは位置しています。
そんななかの一つにこのようなのがあります。

 心閉ざすもの
大阪と京都の国境に、天王山がある。そして天王山のふもとに、大阪水上隣保館「はるか学園」は建っている。
一弘くんとゆかりちゃんは、ここから学校に通っている。一弘くんには母がいない。四歳のときに病気で亡くなったのだ。弟はまだ二歳だった。一弘くんの父は、「一家心中するよりはましだ」と考えて、身を切られる思いで二人を「はるか学園」に預ける決心をしたそうだ。
 子煩悩なお父さんは、日曜日には面会に来られ、一弘くんも弟も、そんな父にとてもよくなついているようだった。
 しかし、他の大人には人見知りのはげしい子だった。入学当初、どんなににこやかに話しかけても返事がなく、蚊のなくような声で「ウン」だけが言えた。
 一方、ゆかりちゃんはといえば、笑顔を見せることがまったくなかった。教材「おらたちにゃ口はねえだに」のあの「もりい」のように、心を固く閉ざしたまま口を開くことがなかった。
 抱きあげて笑いかけても、逃げるように腕をすりぬける……そんな子だった。
 ゆかりちゃんには両親がいるのだが、面会もほとんどなく、兄と二人「はるか学園」での生活を続けている。
 もの心つく頃に親の愛情を欲しいままにできなかったさびしさが、ゆかりちゃんの心の扉を閉ざし、さらに言葉をうばったにちがいない……、そう思った。

 こだわり
それは、7月7日のことだった。子どもたちに短冊をわたし、願いごとを書かせた。楽しそうに無邪気に鉛筆を走らせる子どもたちのなかで、まったく手を動かさない子が二人だけいた。一弘くんとゆかりちゃんだ。二人をよんで話した。
「ねえ、何かお願いごとないの?」「書けない字があるの?」「何書いてもいいんだよ」
うなだれる二人に、私はたてつづけに言葉をあびせていた。
 いま思えば、あまりにも冷たくひどい言葉だった。自分たちの願いごとが容易にかなわぬことを知っているからこそ、何も書かずにいたのかも知れないのだ。
 さらに私はぬけぬけと続けていた。「おとうさんやお母さんと会いたいでしょう」と。
二人は、じっと私の目を見つめていた。私の心のなかを見透かそうとするかのように。
私は、そのときすでに二人に、「感性の鈍い教師」として見切りをつけられても仕方なかったのだ。しかし、その場は救われた。
二人は短冊を書いてくれたのだ。

おとうさん たなばたです おとうさん  一弘

おかあさんと あそぶように してください  ゆかり

「ああ、書かせるんじゃなかった……」
私はもう後悔していた。それは、頭を鈍器で殴られたかのような衝撃だった。二人のすがりつくような思いをどうしてやることもできないくせに、無責任に書かせた自分がどうしようもなく惨めだった。
 実は私は結婚するとき、親の承諾の得られないまま強引に己の道を貫いたのだが、その代償は大きく、私は親から半ば勘当されたような形になっていた。
 親に会いたくて会いたくて会えぬつらさを、私は痛いほど思い知らされたのだ。だから、一弘くんやゆかりちゃんの心と重ねられるにちがいないと、勝手に思いこんでいた。
 しかし、二人の短冊はあまりに重すぎた。私は、この重たい思いを真摯にうけとめねばならぬと思った。私自身はもちろんクラスの子どもたちと、その重さを分かちあいたいと思った。
 この短冊にこだわり続けることから、学級の仲間づくりは始まった。

(『仲間をつなぐ人権学習』解放出版社P50〜53より)

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