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普遍的原理をみずから唱えたときには、負ける この点で、私が危惧を覚えるのは、部落問題を人権に一般化しようとしているかに見える傾向である。人権に一般化したら、負ける、と私は思う。 もちろん、人権が普遍的な原理として唱えられているときに、「それじゃワシらの人権どないなっとるんや、ワシらを差別しておいてなにが人権じゃ」という ことはまったく正しい。現憲法のもとで社会権としての生存権、教育を受ける権利、勤労権などが普遍化されているのに対して、「ワシら差別のためにそれを保 障されておらんよ、なんとかせい」と怒ることも、もちろん正しい。 だがそれは、「一君万民、みんな天皇の赤子といっていながら、ワシらが差別されているのはどういうこっちゃ」というのが正しいのと同じ意味で、である。 むこうのタテマエが正しいのかどうか、とはかかわりない。「タテマエがそうなら、その通りやれや」というのは正しい、ということだ。 けれど、一君万民を普遍的原理として自ら唱えたとき、部落の運動は基本的に支配に包摂された。国家の枠組みに呑みこまれた。それと同じように、人権を普 遍的原理として自ら唱えたら、支配に包摂される。呑みこまれる。 それは一君万民がまちがっていて、人権が正しいという考えかたに立ったとしても、そうなのである。ともかく、そういうやりかたでやったら、負ける。 一君万民であれ、人権であれ、国家が何を普遍的な原理にしようが、差別というものは、常にそれとは独立して存在するものなのだ。 だから、差別に対する闘いを、それ独自の具体的な運動として闘わず、普遍的な原理を追求する運動に解消したとき、おのずから負けは明らかなのである。 そもそも近代社会における人権とはなんであったか。・・(後略) (P401〜P463より抜粋) (「序章としての終章」より) |