『定年ゴジラ』重松清/講談社(1998)
1998.3.29読了・記

 贔屓の作家や歌手などが売れはじめると、「売れはじめてからつまらなくなったよね」などという人も多くいる。って、私がまさにそうなんだけれども。その妙な不快感は、今まで自分だけが知っているという優越感に浸れていたものが、急にメジャーになってしまった寂しさであるとか、過去を知らないのに今更知って、それだけで知っている風なこと言わないでよね、なんていう醜い嫉妬に似た感情からくるものもあると思う。でも、それだけじゃない。「売れる」ということは、作家にとってもちろん素晴らしいことだ。素晴らしいことである分、生活にも、精神的にも、作品にも大きく影響してくる。やっぱり売れると作家は変わる。あるいは、変わらないと、売れないのかな?

 重松清は刻々と、時計が針を刻むように変化してきた。私が好きになったのはデビュー作『ビフォア ラン』。針が12時を差していた頃。作家に対して「デビュー作が最高でした」なんていうのは、はっきり言ってものすごく失礼なことだと思う。それ以降、それ以上のものを出していないと言っているようなものだから。でも、とりあえず重松清に関しては、8冊目が出た今も『ビフォア ラン』がベストなんだから仕方がない。

 それ以降の作品が『ビフォア ラン』を超えられなかったのか、というと、多分それは違うと思う。ただ、書かれる物語の方向性が変わってしまったのだ。刻々と、アナログ時計のように、ゆっくりと、少しずつ。それがいい方向へ変わっていったのかどうか、というのはわからないけど、なんだか少しずつ私からずれていってしまったような気がする。

 何がデビューの頃と違うのか。年齢的なものもあるかもしれない。著者と、主人公の。ちなみに著者は1963生まれの34才。『ビフォア ラン』は高校生、『私の嫌いな私』は大学生、『四十回のまばたき』は29才、『見張り塔から ずっと』は中年に差し掛かろうとする頃、『舞姫通信』は27歳、『幼子われらに生まれ』は37歳、『ナイフ』は中高生の子を持つ親、そして『定年ゴジラ』は60歳。こうしてみてみると、まるで並べたように作品ごとに年齢が上がっていくことが分かる。私が『ビフォア ラン』をことさら気に入っているのは、自分も高校2年生の頃に出会ったせいで、やはり同年代の小説として読んだからということもあるかもしれない。でも、それだけじゃない。

 私は当時から読んだ本しか買わないことにしていたのだが、重松清は『ビフォア ラン』を読んで以来、新刊が出れば必ず買っていた。でも、それは『見張り塔』を買うまでのことだ。それ以降は図書館で読むことにした。それは『見張り塔』が山本周五郎賞候補になり、ああ、作家としてやっていけるようになったのだから、買わないでも作家としてやっていけるだろうな、と思ったということもある。でも、『見張り塔』を読んで、これは私の好きな重松清じゃない、と思ってしまったというのが本当の理由だ。だから、『舞姫』以降を購入したのは先日のこと。そろそろ品切れが近いらしいと聞いて、やっぱり買おうと思ったのだった。

 多分作家としての技量は、・・・上がっているのカナぁ? デビュー作のころから、もうその筆力はものすごいものだったので、あまり感じないけれども、多分上がっているとは思う。お話もいい。いいことはいい。とてもいいと言ってもいい。例えば、私が『ビフォア ラン』を知らずに重松清を知っていれば、こういう作家としてお気に入りに並べたとは思う。でも、これが『ビフォア ラン』を書いた作家の、あの『ビフォア ラン』の延長線上にある物語なのだと思うと、印象は違ってくる。

 要するに『ビフォア ラン』は若かったのだと思う。絶望的などん底の状況でも、無条件に未来がある。意固地になっても、自分を守ることが出来る強さと、勢いと、こぎみよさがあった。お話の中に、未来という救いがあった。今もそれはある。確かにある。それがデビュー以来ずっと暗い話ばかり書いている重松清の作品の、ほのかな明るさというか、どこかにある力強さ、芯の強さを感じさせているのだとは思う。でも、特に『幼子われらに生まれ』以降は、その下に、土台に諦観があるような気がしてならないのだ。その諦観は、本当に真っ当な諦観なのだ。当たり前の、現実で感じるような、切実な諦観。だから、非常にいい作品ではあるとは思う。主人公たちの心理描写も真に迫っており、本当によく人間を書けてはいる。ずぶりと抉り取るような、本当に深い書き込みがなされていて凄いと思う。そうなるターニングポイントが、『見張り塔』だったのだと思う。ただひたすら悔しい悲しい苦しい辛い小説だった。何も救いはない。何も。非常に恐ろしい小説だった。

 お話としても、『ビフォア ラン』から『40回のまばたき』までは、「こんなに凄いお話を思い付いたんだ!!」という勢いがあったと思う。家族小説が悪いわけではない。全然悪くない。私は家族小説も大好きだ。特に重松清が書くようなこういうタイプのものには弱い。でも・・・。違うんだ。

 『ナイフ』はやはり、ずいぶん売れているようだ。何しろ、これまでの作品が軒並み初版品切れ状態なのに、『ナイフ』は発売後4ヶ月半で3刷である。これはものすごい売れ行きだ。今回『定年ゴジラ』と聞いて私が「え?」と思ったのは、これが「小説現代」でつい最近まで連載していたものだったからだ。初出を見ると、最後の一編の初出は3月号となっている。うーん、いくら何でも早すぎない? やっぱり『ナイフ』が売れている今のうちに人気を定着させてしまおうという打算が働いたような気がしてならない。いや、いいんだけど、それで。

 『定年ゴジラ』を読んでいて、まるで『ビフォア ラン』を読んでいるようなデジャブを何度も感じた。ああ、そうそう、これ、重松清の癖だよね、というようなものを、何度も。文法的には何も変わっていない。本当に、久々に初期3作の重松清のパターン(笑)をなぞってくれた小説だった。でも、『ビフォア ラン』じゃない。これは、もう。

 34歳が描いた、ニュータウン住まいの定年退職したサラリーマンの老後の話。大甘かもしれないけれども、面白かった。もう二度と戻れない過去を思う虚しさなんかは、本当に上手い。そこにある過去としての、今の住まい、古びたニュータウン。それぞれの道を歩きはじめた娘たち。でも、やっぱり一番良かったのは『憂憂自適』で描かれる母親とふるさとだなぁ。立ち読みしながらマズイと思って途中で止めた話、モスバーガーで読みながら、ここだけは本で顔を隠してしまった。辛いです、すごく。

 さ、次は文芸春秋。『あなたの生きなかった未来』を早く出してね(^-^)。

 それにしても、見返しの著者紹介の「主な作品に〜」以下が『見張り塔』以降しかないのは、なんだか、とっても嬉しくないのだった。


=>重松清『ビフォア ラン』K.K.ベストセラーズ
『あなたの生きなかった未来』文學界'96.10P54-101(文芸春秋)

ざ・ぼん