351 スティーブン・フォスター
04/05/19

 フォスターといえばアメリカ民謡の父とまでいわれるほどポピュラーですばらしい名曲を残している。オールドブラックジョー、草競馬、夢見る人、金髪のジェニーなどなど。あらためてメロディーを聴いてみれば、そのすばらしさにひと時をわすれてしまいそうなほど。以前道長だよりで紹介した『旅愁』(犬童球渓訳詞)などで有名なオードウェイというやはりアメリカの作曲家と同時代にあたります。

■生い立ち
 スティーブン・コリンズ・フォスターはペンシルベニア州ピッツバーグに1826年7月4日、50周年のアメリカ建国記念日に生まれました。ちなみにヨーロッパではこの次の年にベートーベンが没しています。地元名士の家系に8番目として生まれたものの、時すでに斜陽時代で経済的には恵まれませんでした。しかしながら彼は音楽的才能に恵まれ、13才のときにすでに『ティオガ・ワルツ』という曲を残しています。

 そして34歳という若さでその生涯を閉じるまでに、200曲以上を残している。そしてそれらの多くがアメリカだけでなく、世界の人々の心のふるさとのようなものばかり。

■当時の音楽とは
 音楽というと現代ではレコードやカセット、CDなどで聴きたいときに好きな音楽を聴けます。さらにラジオやテレビ、インターネットと音楽情報はあふれんばかり。聴きたくなくても流れてきてしまうというのが現実です。でもフォスターの生きていた時代にはまだそのようなものはなく、人々が音楽をたのしむ方法としては

・生の演奏を聴く
・自分で歌ったり奏でたりする
・楽譜を買って譜面を読んで楽しむ  というような方法しかありませんでした。

 フォスターは1849年23才のときプロの音楽家になったといわれていますが、いったい何を糧に生活をしたのでしょうか。当時クラシック音楽の作曲家たちは、出版社に楽譜の版権を売ったその利益と、演奏会での入場収益で生活をしていました。またもっと昔には、宮廷などで専門の音楽家として召し使える方法もありました(この場合、ご主人好みの音楽をしなければいけなかった)。とにかく、今のようにCDが何万、何十万枚売れて大儲けというわけにはいきませんでした(ベートーベンはなんと出版社を二股にかけて版権を売ったりという不正まで平気でしていたそうです)。

 当然フォスターの楽譜も出版社を通じて売られたわけですが、あまりに親しみやすいメロディーゆえに、人々はそれを買う必要がなかった。だからみなが口ずさんでいる割に、売れて儲かるというわけにいかなかった。

 演奏会にしても、当時巡業のミンストレル・ショー(当時大衆音楽を広めるもっとも一般的なメディア)に曲を提供してその使用料を受け取るくらい(今ではカラオケで歌うだけでも・・)。

 それでもおそらく、当時フォスターは人気の音楽家であったことは間違いありません。彼が新曲を発表するたびに、音楽好きは本屋に走り、フォスターのメロディーをむさぼったことでしょう。そして得意げにその曲を友に口ずさんで、あるいは奏でて聴かせたことでしょう。まだ本屋へ行っていない者や、楽譜の読めない者はそれを目を輝かせ聴き入ったのかもしれません。

 そこには人々がともに音楽という『ことば』を詠い、奏でながら、同じ時間を共有するという至福のよろこびがあったのではないでしょうか。それは現代人がカーステレオやウォークマン、自宅のステレオなどで、独り占めの音楽を楽しむのとは実に対照的なもの。

 だれもが認める美しい音楽をみなで共有する喜びと、ジャンル別に分けられた音楽を『好み』という偏屈なフィルターにかけて、目いっぱいの音量でヘッドフォンで一人聴く喜びとではどこかに大きな違いがある。満員電車のなかに静かに流れる大音響の音楽は、むなしくも個人の耳に押し込まれる。共有されることのない音楽とは、これほどさびしいことはありません。

 フォスターよフォーエバー。

Stephen Collins Foster


352 露店・見世物
04/05/25


 子供のころ、四季にあわせて毎年決まってある行事というのがあった。春一番が吹くころに天神まつりがあり、4月には桜まつりで花見、夏休みになって大花火まつりといった具合。

 そんな行事が訪れるとそのまちの人という人は、それがあたりまえでもあるかのように朝な、みな同じ方向に歩く、バスや市内電車に乗って行くという具合。世の中がまさにひとつの流れとなっているかのように、人々は動くのだった。

 あれは岡崎市の岩津天神だったと思う。当時の人々はなんと気長というか、健常というか、数キロの道のりを平気で徒歩で出かけるのだった。当時目抜きの『電車通り(市内電車が走っていた)』は満員の電車にあぶれてひたすら歩く人々(当時歩くことをタクシーと掛けてテクシーといいました)。

 やっとのことで行き着いた天神様。ゆくときまって沿道に連ねていたのが露店だった。そういった行事のときにしかお目にかかれない店ばかりなので、ものめずらしさも手伝って興味津々だった。ちょっとした人だかりでもあれば、その中心で行なわれていることが気になってしようがない。そんな露店を見聞しようと必死な子供たちと、そんなことに係っていては時と金の浪費、そうはさせじとばかりに無理矢理それを引きずってゆこうとする親との根競べ。

そんな露店のなかで、わすれられないものがいくつかあります。
○アメ細工:
 湯煎をしてあるのか、水あめ状になっているアメを割り箸様のもので取り出し、色粉を足したりして、動物などの形を作って販売。これが以外に高額で、あらかじめの完成品の陳列におもわず気をとられ、親がそれに気を許したすきに販売完了。このアメ屋さん、どんなリクエストにも答えてしまうところがすごかった。実に見事な手際でしかもさっさと完成させてしまうところがすごかった。たまにおかしなものを要求されて『困り顔』ということもあった。そんなアメ屋さんを見るのも、見物客のたのしみでもあったのだ。

○がまの油売:
 これは当時すでに消え行くまぼろしの存在だったように記憶している。ぼくもそう何回も見たことがない。白い着物に袴(はかま)姿のひげ面の男は、なにやらわけのわからない口上(こうじょう)をのたまいながら真剣とおぼしき一物を抜き、半紙を切って見せたりなんかするのだった。そのうち自分の腕に白刃をあてると、さっと・・・。『あっ』と思う間もなく半紙で腕を押さえてしまい、何がなんだかわからない。そのうちに取り出したあやしげな軟膏をつけると、なんと傷口も失せてしまっている(はじめから血なぞ出ていなかったような気もするのだけれど)。

○万年筆売り:いわゆる『泣き売り』というやつ。
 煤(すす)だらけの万年筆が裸のまま山に積まれていてひとりの男が言葉も無く座っている。だれともなくひとりの見物人Aが、「なにをやっているんだ」などと聞くと、その男は何かぼそぼそと重い口を開く。それを見物人Aが人に聞こえるほどの声で代弁するのだけれど、どうやら自分の勤めている有名万年筆メーカーの下請け工場が火事でやけてしまった。かろうじて取り出された万年筆は煤でまみれ、親会社は買ってくれない。路頭にまよって仕方なくここへきたが下請け製造なので有名メーカーの名前も入っていない。素人なので一本も売れない。このままでは帰れないし困っている。というようなあわれな身の上を説明するA氏は実に人のよさそうな男で「それではわしが一本買ってやろう」といって万年筆男の差し出す一本のキャップをとって試し書き。それが実にすらすらとしてすばらしい書き味。確か一本1000円(当時の物価からするとかなり高額だけれど、高級万年筆なのだから当然安い!)ほどだったと思うが、これがどうして一人か二人の見物客が買ってしまうのだった。それを指をくわえてみている見物人も「おれもほしいなあ」と内心思ってしまうほど。

○傷痍軍人:
 露店とはちがいますが、ラッパや太鼓、アコーデオンなどを持った軍服すがたの『腕がない』『足がない』などの男たちが『美しき天然』なぞの哀愁のメロディーを奏でながら参道の途中で道の両脇をはさんで立っている。参拝の人たちはつかまってはならじとばかり、無視をよそおって通りすぎるのだけれど、子供たちに「あれはなんだ」と聞かれ説明するうちに「かわいそうだ」ということになり、慰労金を差し上げることになってしまったりするのだった。

○見世物小屋:
 なにやら大掛かりな小屋の外で、まことに巧みな口上の弁士が小屋の中で繰り広げられている見世物を語るのだけれど、これには興味津々。「さあ、さあ、さあ、さあ」の掛け声に何が何でも『見たい』『いやだめだ』という親子のせめぎ合いの結果、こともあろうに親子そろっての見物と相成る。ご期待の『蛇女』とは、実は蛇をおもちゃにしているだけの女であったり、一体全体それのどこがそうなのか今もなぞのままの『牛男』だったりするのである。そんなこんなで、第一巻の終りで総入替えで出てくる見物客の顔は、どことなく「納得がいかない」の風情。それにまぎれて「すごかった」という声もまじる。「見るは法楽、見らるるは因果」とその口上師が言ったか言わぬか定かではないが、あのような口車に乗ってしまうとは、まったく大衆の性(さが)の哀れなりき。

 今のいかがわしい商売はいかにもまことしやかでスマート。テレビや新聞でも宣伝している。こんなのも岡目八目、ちょっと冷静に眺めれば判断はつくのだけれど、やはり大衆にはスキがあるのだろう。ひっかかっちゃうんだなこれが。


353 愛知県と名古屋の『食育教育』
04/06/01


 先日『遺伝子組み換え食品を考える中部の会(以下中部の会)』で愛知県農水部と名古屋市(教育委員会と緑政土木課)をそれぞれ訪問し、『食農教育』について話をうかがう機会をもちました。

 中部の会では去る2/15にシンポジウム『わたしたちの地産地消』を行ないました。そこで一番大きな問題として挙げられたのが、『食』と『農』についてでした。これからわたしたちが『食』の安全を保ってゆくためには、その基本となる『農』をしっかりとさせなければならない。そのための『食育』は欠かせません。さもなければ現在40%の食料自給率はさらに悪化し、日本の農業は立ち直れなくなってしまう。

 輸入など、遠方からの農産物の流通には複雑な生産・流通の『履歴』が必要になり、それ自体の信頼性も落ちてしまいます。つまるところ地元で採れたものを地元で消費するという『地産地消』のかたちがもっとも自然で、安全な食のためには欠くことができない。その社会のかたちを作るためには、小中学校での『食の教育』が非常に大切なのです。

愛知県農水部(農林総務部、調査・食品流通グループ)との会見
 担当者の話では愛知県産農産物の県内需用を拡大するため、『特別栽培農産物』の制度とは別に『いきいき愛知』という『特栽』に準じた認証をしています。しかしながら『特栽』もこの制度も消費者の間には浸透していないのが現状です。

 『食育』をすすめるうちでもっとも注目したいのが『学校給食』です。食と農の重要性を教えるには小・中学校のうちが肝心。しかしながらそのための基本である『地産地消』というシステムが学校給食に積極的に取り入れられているとはいえないのが現状です。そのひとつの要因として、給食費230円(小学校)での貧しい献立があります。これでは地産地消を食育に取り入れるのはむつかしいという発言がありました。

 それに対し中部の会からは、給食費自体が安すぎる。二年ほど前に給食費がアップされたことがあったが、週に3回のデザートがついたりしたことがある。フランスでは一食あたり1000円もかけている。そんなことより地産地消のために値上げをしてでも予算を使うべきだ。もう戦後の食糧難の時期とはちがうという意見もありました。

 なにぶん予算も人員も限られているため、農水部の調査・食品グループとしての活動も進んでゆかないというのが本音のようでした。

名古屋市教育委員会、緑政土木課(農業振興のための課)との会見
 なんと名古屋市では教育委員会と緑政土木課が協力しての『食育』は、今年がはじめての試みとのこと。『地産地消元年』なのだそうで、席上両者メンバーが名刺交換をしてしまうという始末。そんな状況なのでまだ『食農教育』はほとんど手付かずといった感。

 会見の席上おおいに問題を感じてしまったのは、緑政土木課では『地産地消』にこだわるあまり、学期に一度の名古屋産の日という非現実的な試みを打ち出している点。それよりも県内、東海産でもりっぱに『地産地消』なのではないかという声があがりました。

 教育委員会では学校給食の食材を12万食確保することを第一目的としてしまうあまり、市場経由の一括仕入れをしてしまっている点に「問題あり」の声があがりました。これでは納入業者は産地の特定どころか、その安全性すらも二の次になってしまう。それぞれの学校での特色を生かした給食への取り組みがあってもいいのではないかという指摘がされました。

 いずれにしても『食と農』の教育と『地産地消』は切っても切れないきずなで結ばれている。最低限それがワンセットで実行されない限り、子供たちの食の安全はありえない。さらに将来我が子たちに教える立場になるはずの子供たちに、今しておかなくてはならない『食農教育』なのだから、大胆かつダイナミックな政策が必要なのではないでしょうか。

 今回が中部の会としても行政とは始まったばかりの関係作りですが、なんといってもこれほど地道でなければ進んでゆかない活動もないのだな、と実感もしました。


354 感性の違い
04/06/08


 「色彩感覚がちがう」といわれたりする。これには個人差もあろうけれど、国民性によるちがいもあると思う。よくファッションで衣服やバッグ、靴などの染色がその国々で微妙に違う。自動車の塗色なんかも。

 音楽が好きなのでレコードを少し集めているのだけれど(最近はCDが主)、これにもその微妙なちがいがあったりする。これは70年初めのころのレコードでの事実。たとえば英国発売のオリジナルレコードがあるとする。それが同時期の米国で発売された場合にはどうなるかということなのだけれど、この場合明らかにその色合いがちがっていたりする。英盤の色彩に深みとちょっと『もや』のかかったようなくすんだ感じがあるのに対し、米盤では明確なスカッとした、リアルな感じに仕上がっている(ちょっとニュアンスがむつかしい)。さらにもうひとつ、英盤では芸術性を追求するあまり地味なデザインであるのに対し、同じものの米盤ではいかにも売れそうな商業的なまったくちがうデザインに変えられてしまっていたりする。

 そんな違いはさておき、おどろいてしまうのは英盤・米盤のちがいは『音質』にもあったのだった。このちがいにははっきりいって舌を巻いてしまう。米盤の音質がすっきり明瞭なのに対し、英盤では大げさに言えば耳にワタでも詰めて聴いているような感じ。いいかえればこれもどことなくやっぱり『もや』でもかかった感じ。これは英盤に限らず、欧州ではある程度共通している様。ちなみにその当時の日本盤は米盤と同じといった感。

 一体こういう色彩や音質の『ちがい』はどこからくるものなのだろう。思いつく理由を挙げてみると、@気候のちがい。A湿度のちがい。B太陽の光の量(日照時間も)のちがい。C感性のちがいなど。こういったいろいろなちがいによって視覚や聴覚にいろんなことが影響しているのかも知れない。そしてそのおかげでそれぞれの国での心地のよい音質や色合いがあるのだと思う。

 そういえば、ちがいはそればかりではなさそうな気もする。例えば音楽のメロディーでいえば、英国のそれは一言でいえば『哀愁』といえるかもしれない。では米国ではどうかというと『郷愁』なのではないかしらといつもぼくは思う。欧州という異民族同士が国境を隔て、それぞれ自己主張しながらあるとすれば、心のよりどころを歌うことになり『哀愁』なのに対し、移民で祖国を離れ、ふるさとを思う米国人には『郷愁』ということになるのだろう。アイルランド民謡(ダニーボーイなど)と米国のフォスター やオードウェイ(ケンタッキーの我が家、旅愁など)の表現するところには、微妙なちがいがあるように思える。もしかすると、これらのちがいはちょっとした耳の形・つくりのちがいや、目の色のちがいなどの民族的な体型体質のちがいなどにもよるのかもしれない。

 世界中にはいろんな人種のひとたちがいろんな気候風土のちがう国々にくらし、宗教もちがい地理もちがう。それぞれが感性のちがいをもって暮している。みなが互いの感性を美しいとみとめ尊重したら、それだけで世界中は彩りゆたかで個性的ですばらしいものになるのだと思う。

レコードジャケットひとつをとっても、国によって色彩感覚はちがいます


355 アクシデント
04/06/22


 アクシデントというのはどうして起きてしまうのか。交通にしても作業、料理、スポーツ・・、どれをとっても人(生物)が活動する場合に偶発なのか必然なのか、とにかく「どうして?」と首をかしげたくなるようなときにアクシデントは起きるもの。ぼくなぞ、自動車の運転には安全第一主義をつらぬいているのだけれど、それでもボーっとしていたのか方向指示器が出ていなかったり、左右の確認ができていなかったり、自分でも不可思議に思うような不注意があったりするもの。

 かなり以前、ぼくが車である主道を走っていると見通しのよいわき道から主婦運転の乗用車が出てこようとしている。彼女は左右に首をまわし、こちらのほうへも顔を向け安全確認をしている様子。それなのに彼女はなんとこちらを見ながら自分の車を発進させたのだった。ガンッという衝撃とともに、ぼくの車の後部側面はベコン。そのときの彼女の弁は「確認したのに見えなかった」ですと。というような具合で、不覚にも事故というのは起きてしまうもの。まったく情けないけれど、これが不注意というものなのだろう。

 きょうこそはなんとか出かけようということで、ひさびさの釣り。今年まだ1匹しか釣っていない黒鯛(ちぬ)を夢見て、最近かぎつけた浜名湖の穴場へ向かったのだった。忘れ物をしていると、出掛けに後ろ髪を引かれる感がするのだけれど、本日は万全。釣り場に到着。ゆっくりと日没となり、ぼくの心はその薄闇に考えられない速さで隅々まで解き放たれる。

 釣り竿を伸ばす。仕掛けを作りウキを付ける。棚取り(深さをはかる)をして仕掛け投入。ここまでは至って順調そのもの。がしかし、根掛り。簡単に外れるつもりがだめで、糸を手繰ってハリスを切ってしまおうとすると、あれまあ、仕掛けはウキ(千円也)をつけたまま道糸で切れてしまったのだった。

 その場にあるタモでは長さが足りないけれど、車に戻れば長い柄のがあったっけと車に戻る。扉を開けてみると、なんだ、携帯電話を置き忘れていました。早々どこかのポケットに入れたのかどうなのか・・・。釣り場に戻ってウキは何とか回収でひとまず安心。「さて仕掛けを作り直してと」っとかがみこんだとき『カポッ、ボシャ』。「何を落としたのかしらん」としばし考えるも、なんとこれは不安的中なのかもしれない。石組みの中を懐中電灯でのぞいても見えない。一つふたつ石を引き上げても見えない。手探りならどうだと手を突っ込んでる。なんと指先に得た感触は、不安的中のご本尊であったのだった。すでに2、3分の海水没となってしまい、どんなやぶ医者が観ても『ご臨終です』。本来脱落防止のクリップ付きだったのに、まったく不覚とはこのこと。でも奇跡的に回収だけでもできてひと安心(そんなはずなかろうに)。愚かなる釣り人はとにかくひさびさのひとときを堪能するのだった。釣果は放流サイズのチンタ(黒鯛の子供)一枚と貧果。

 翌日朝一、携帯ショップへおもむき、おねえさんになんとか温情を賜らんとするのだけれど報われず。「明日ならキャンペーン期間ですので3千円お安くできますが、いかがなさいますか」。「はいまた明日出直します」くそっ。


356 楽京の「洗い」
04/06/30


 家庭で食べる分くらいの楽京を泥付きで購入して漬け込むくらいなら、たいへんとはいいながら、それなりに楽しんでできるというもの。ところがこれが仕事ということになって何十キロ、100キロということになると話がちがってくる。ぼくのところでは今から10年位前まで、それこそ自前で泥付き楽京の『洗い』の作業をしていた。

 泥付きの楽京は長い間放っておくと茎が伸びてしまい品質が落ちてしまうため、早々に冷蔵庫に入れるか作業に取り掛かってしまわないといけない。というわけで、包丁(我々はプロであるからして、そのこだわりゆえ3千円もする小包丁2丁を購入したのだった)、洗濯機を用意。この『洗濯機』は、それぞれの農家が楽京の外皮を取って洗う作業をする場合の必需品で、水を流しながらの『すすぎモード』で楽京はウソのようにきれいになる。

 細かい砂粒のおかげで包丁がすぐに切れなくなってしまうため、まずは楽京の泥を洗い流す。梅雨時で蒸し暑いので締め切ってエアコンを入れるということになるのだけれど、こうするとひとつ問題が起こってしまうのだった。

 楽京は玉ねぎやネギとおなじく、ユリ科の多年草で、包丁で切ると硫化アリルとかいう揮発物質が発散して目を刺激する。 ただし楽京の場合、この刺激物質は玉ねぎほど強力ではないため、『人によっては』ということになる。

 この個人差のおかげで、連合いとぼくとで楽京の根と茎を切る場合、目に来る、来ないでトラブル発生。神経の若干ゆるめの連合いには、やはりというかまったく気にならない様子。それに引きかえ純血種にありがちな、か細い神経の持ち主のぼくにはとうてい我慢ができないのだった。作業がすすむにつれ、泣き虫小僧に変身してしまうあわれな中年男なのであった。こんなことをしていたら仕事が終わらない。

 ということで苦肉の策、急きょ水中メガネ手配。ここでもプロとしてのこだわりから、スポーツ用品店でしっかりした競泳用を購入。かくして髪振り乱した中年女と、ゴーグル装着の不審男の密室作業ということになるのだった。そのうち、熱気でゴーグルが内側から曇ってくる。はずして拭く。また付ける。曇る。はずす。メガネの曇り止めをシュッとやる。また付ける。とかなんとかやっているうちに、なんのこともなく、ゴーグルを付けていても外していても同じことで、やっぱり目が痛いということになってしまうのだった。当然連合いとぼくとの意気もあがらない。「仕事の能率があがらないのはお前のせいだ」という、罪の擦り付けあいなどもはじまる始末。

 結局はそのような季節の恒例の行事が何年か続いたのだった。とうとうこれ以上楽京漬は作れないということになり、安城市の天野グループに無理矢理お願いしたのだった。そして楽京の『洗い』作業を手伝ってもらえる農家を探していただくこともできた。おかげで今年も楽京漬をつけることができるというわけ。

 農家でのこういった細かい手先の仕事、それも延々の単純作業のあげくいずれは終わるという作業といえば、なんといっても年寄りの出番。若い者は仕事も速く、馬力もあろうけれども、楽京の『洗い』のような作業には向いていない。田舎での年齢に応じた役割の分担が実に効率的にできているのだな、とつくづく思ったものだ。

ナエ子さんと道子さん
はじめて天野グループを訪ねたとき、天野さんを探すのには苦労しました。だってこの部落のほとんどが天野さんだったんです。

天野グループについてはこちらをごらんください


357 おかしな道
04/07/01/


 鎌倉街道という道があるというのを、最近になってはじめて知った。この『鎌倉街道』とはその名のとおり、鎌倉時代に各地と鎌倉をむすんだ主要幹線道。江戸時代になって東海道や中仙道、奥羽路、山陽道などに取って代わられてしまい、今では半ば忘れられた街道。にもかかわらずこれはれっきとした『国の道』なのだそう。

 ここ音羽町は東海道は赤坂宿で栄えた宿場町なのだけれど、ほぼ同じ道筋をたどって鎌倉街道というのがある。岡崎市矢作町などでは鎌倉街道の標識が残ってはいても、自転車がすれ違いできないほどの路地であったりもする。さらに鎌倉街道の本道(?)に通じる支道がまたとんでもないところを巡っていたりして、土地の登記などの際、忽然とその実態を現したりということもあるのだそう。

 長年のゆめをかなえようと、今年道長は3反5畝の農地を取得。晴れて名実ともに『農家』の称号を得ることができたのでした。今までは農協の『準会員』、これからは直接の発言権のある『組合員』となるのです。すごい。

 あたらしく手に入れた田畑の図面を見るのも楽しみなのですが、この中でもふと気付く点がある。現実的にはそんなもの見当たらないはずなのに、図面には『道』が存在している。これがいわゆる『赤線道路』というもの。

 明治9年、道路が「国道」「県道」「里道」に区分された。さらに大正8年の『旧道路法』で、里道のうち重要なものが市町村道として認定されたのだけれど、その他の里道は、道路法の適用されない認定外道路として国有財産法上の公共財産として管理されることになったとのこと。これがいわゆる『赤線』というわけ。

 ここ音羽町では『赤線』とよばれる部分はそこかしこにある。たとえば農業用の水源として重要な沢や小川の両脇などは赤線である場合が多く、草刈や普請などは隣接する地主の管理にゆだねられている。こういう場所は道としての役割をちゃんと果たしているわけだけれど、そうでない場合には話はちょっとちがってくる。

 たとえば、道長の作業所の裏の竹やぶの一部は赤線になっているにもかかわらず、その地主はその事実を知らなかったり、その隣の家なぞなんとまあその赤線の上に屋敷が建ってしまっている。(今となっては納得できるのだけれど、その家主は古屋になったその家を新築せずにちがう場所に家を建てた。その家を貸してほしいとたのんだのだけれど、なんとなく変な感じで断られたという経緯もある)。またよくある例として、赤線を自分の屋敷への通用路として、または土地の一部として使ってしまっていたりする。

 家を新築しようとする場合などに、忽然とその赤線の部分が『国有財産法上の公共財産』として存在を主張する結果となる。建物さえ作ってしまわない限り、「知りませんでした」では済まされないけれど、「知っていました」でも済んでしまうのがこの『赤線』のくすぐったくもなんとなくありがたいところ。

 そんな『赤線』を含んだ農地を得ることができ、10年目にしてやっとのことで正式に『農家』となることができたよろこびはちょっとありません。『農家資格』ではなく、道長の『農家』元年なのです。


358 夏の日
04/07/07


 今では川で泳ぐということはあまりなくなったけれど、ぼくが子供のころには夏になると当たり前のたのしみだった(水もきれいだった)。もっとも学校にもプールがあったし、夏休み、内緒でとなりの中学のプール解放に紛れ込めばなんとそこは50mの公認コースがあり雄大な気分で涼むこともできた。にもかかわらず、川で泳ぐ魅力というのはなんとも尽きないもの。ぼくの住むところからはなんといっても目当ては一級河川『矢作川』だった。当時は用水などへの利用もあまりなく、広い川幅にゆたかな水量もあり、小柄な小学生たちにとっては『大河』そのもの。

 国道1号線をまたがる矢作橋の下なぞは日陰もあり浅瀬で、さながら海水浴場の雰囲気をかもしていた。涙ぐましくも海に行けない庶民たちは、夏の休日をそのビーチで長々と過ごすのだった。ぎらぎらと照りつける太陽、清流、日陰、弁当、橋のたもとにはカキ氷屋と気分は最高なのだけれど、それでもそんな贅沢はひと夏に一回あればよし。

 ぼくたち子供だけで矢作川へ行くときは、矢作橋より少し上流に掛かる橋の近くにある父親の在所をめざすのだった。行けば必ずもらえるスイカを持って堤防を越えると青々とした矢作川が力強く流れる。当然ながら学校では「子供だけでは行ってはいけない」ことになってはいるのだけれど、川であそぶおもしろさはプールでのそれとは比べものにならない。砂浜、スイカ割り、魚たち、自由、そして危険もあるところがその魅力だったのだとおもう。

 人にはあまり話したことはないけれど、そこでぼくは溺れかけたことがある。橋の橋脚のあたりは深さもあり、スリルもあった。あるときいつものようにもぐったつもりが、何かの力で引き込まれるようなふうにぼくのからだはどちらが水面なのかわけがわからなくなり、水底まで落ちていってしまった。そのときのコンクリートの橋脚の根元を泳ぐ魚たちの姿、水流に舞う砂、遠くから聞こえてくるコポコポというような水音が今もあきらかな記憶としてのこっている。一瞬の後、ぼくは照りつける太陽の中に頭をだしていた(だれにでも一度や二度はある危機一髪)。

 また当時は(ガンジス河ではないけれど)なんでも川に流してしまえというわけで、いろんなものが川岸に流れ着いたもの。茶だんすの古いのだとか、各種ゴミ、はたまた動物の死骸など。浅瀬を泳いでいて突然でくわすブタの腐乱死体・・・。思わず『身の毛のよだつ』という代物だった(鼻が曲るほど臭かった)。

 我が家の愛犬も連れて矢作川へ行った。ふだんは録な散歩もしてもらえないものだから愛犬の喜びようといったらなく、矢作川までの道中を走り回るのだった。そんな愛犬をあるとき悲劇が襲ったのだった。ぼくらの脇の畑の中を走り抜けていたと思うと、忽然と愛犬の姿が消える。なんと地続きに見えたのは『肥溜め』で、哀れ愛犬自慢の嗅覚を誇る鼻は悪臭地獄でキューン、キューンと鳴るのだった。「なんとかしてくれ」と駆け寄る愛犬。「臭い、汚い」と逃げ回る子供たち。矢作川について水遊びとなっても愛犬は子供たちから仲間はずれにされ、めったに落ちないくさいにおいに悲しみの「キューン」。ぼくらの愛犬は家に帰ってもなおくさく、今度は母親の噴水地獄と石鹸地獄の責め苦にあうのだった。

 今よりも何倍も暑かったような気のする夏の日。


359 農家住宅
04/07/13


 今年とうとう3反5畝の畑を取得し、おまけに農家住宅までも借りてしまった。これは道長にとって歴史的な出来事といえるかもしれない。ここ音羽に作業所を移転し、住所変更をし、さらに村の行事にはすべて参加してはいるものの、夜になれば岡崎の家に帰るという生活ではやはり音羽に根をおろしたとはいいにくい。

 ここへ来て住む場所を決めることができて、やっと農家の第一歩という感じ。ただし道長の場合、畑で野菜もつくるけれども、農産加工をする農家というのが目標。できれば住宅の敷地に道長の加工所も持っていけたらというのが今の夢。農家になるために田舎に移住する人たちも少なからずという時代だけれど、漬物製造業という農家もちょっと少ないのかもしれない。

 ところで借り受けた住宅というのは、なんとぼくの岡崎の家とは比べものにならないほど壮大なもの。二階造りでなんと建坪65坪ほどもある。さらに元の家主様、山師の家系ということで建材にはこれでもかといわんばかりの贅沢ぶり。けれどもうーんすごい、大きい・・、とばかり喜んでもいられないのだった。

 台所の床が破れている。居間の床の合板がくたびれて破れそう。ガラスが割れている。障子紙を貼りなおさないといけない。網戸が破れている。二階の物置部屋の畳が無い。風呂の湯沸しが壊れている・・・などなど。

 自慢ではないけれど、畑の取得でお金を使い果たしているので、家の修理にお金をかけられない。どうしようもない風呂の湯沸かし器なんかは仕方ないにしても(それでもガスの湯沸かし器をインターネットで50%オフで購入、取り付けも知合いに)、ほかは全て日曜大工で切り抜けたのでした。

 まず肝心な床はといえば、シロアリの駆除、床の張りの取替え、床板の張りなおし。こんなこともあろうかと、旧東海道の取り壊し旧家からいただいてきてとっておいた床板が大いに役立ち、見事な仕事振りの台所完成。居間もやわになった床にそのまま上から合板を張って修理完了。二階の物置部屋も床板張り『完』。障子張り、網戸張替と苦労の末『完』。これで畳と『・・・』が新しかったら、とため息をついているのはぼくだけでもなさそう。

 そんな中、不可思議な出来事発生。普請の区切りを付け、確かに消して帰ったはずのテレビが次の日来てみると、また点いている。気のせいかとも思ったのだけれど、またまたその次回も・・・、というぼくの談に連合いの「まさかァ」。しかしながらぼくらがテレビを消してちょっと畑まで行っている間に、なんとまたテレビが点いているのでした(たぶんタイマーの不具合が原因)。「ゾ、ゾー」。これでは気味が悪いというので、やっぱり『お祓い』をしてもらおうということに。

 もうじきなんとか住めそうな感じとなって来、いよいよ布団をはこんで引越しとなるか・・。岡崎のいままでの家が本家とすれば、こちらは別荘とも言えるのかもしれない。それにしても、自分の家よりも別荘のほうがずっと大きいというのもちょっと妙な気もするのです。


360 獣害
04//


 こんなこと人事だとおもっていたのだけれど、とうとう我が身にも獣害の災難が襲ったのだった。今回取得した畑のうち小高く水はけのよいところに、5月の連休のころ梅の苗木7本を植えた。そのために、背丈以上もある笹の原を草刈。穴掘りして堆肥を入れ、植え付けをして水をやり、すこやかに大きく育てよと苗木に声をかけたもの。

 その梅の苗木のために、もう2回も草刈をした。にもかかわらずなんとなく成長が今ひとつという感じ。葉の茂りもいまいちだし、それに枝もなぜか折れているところがある。ぼくが植えるときにキズでもつけたせいかしらん、と思っていたのだけれど、しばらく振りに様子を見に行ってあっと納得してしまった。

 鹿の仕業なのでした。無残にも枝を折られているもの、すべての葉をもぎ取られたもの。まったくどうなってるんだ、チクショー。今まで、道長の作業所の近くでも鹿には出くわしたこともあるし、愛犬キクの散歩の折には動物の足跡をよく見かけているし『今さら』とも思うのだけれど、腹の底から湧き出してくる、これは確かな『怒り』。

 そうとなるともう居ても立ってもいられない。手塩に掛けるわが苗木、いかにして守らんや。自動車の雨よけに使ったビニールハウス用の鉄パイプの残りをまっすぐに伸ばし、はやる気持ちで十数本の杭棒を作る。梅の苗木をぐるりと守るため、鉄棒をハンマーで打ち込んでの下穴あけ。そして鉄パイプの杭棒のセット。あとはそこに張巡らす鹿除けネット60mをやっとのことで購入して来たのだった。いよいよネットを張る作業に取り掛かり、おおかたを張り終えるころ、ぼくの心はここに来てはじめて和やかなものになってくるのだった。

 梅の苗木を植えたところは、東から登る朝日を先ず受けるところ。その背後は茂みになっていて、よくみてみると獣道らしき土肌のあらわなところがある。ここから降りてきて、先ず目に付くであろう梅の苗木。それがうまいのかはたまたそこに苗木があるからなのか、とにかく鹿たちの遊び道具、おつまみにされていたとは情けない。

 どの地方でも、獣害にあっているところの人たちはみな、獣に対する怒りを語る。そしてその対策にネットを張ったり、電気柵、罠の檻を仕掛けたりする。運悪くというか罠に掛かった獣はもう行く先がないため、つぶされて肉にされてしまうけれど、多くの場合はネットで除けることで良しとしている。時には猟友会のひとたちの出番もあるものの、限られた時期での話し。

 悪さをするイノシシ、鹿、猿は憎いけれど、どこかやっぱり可愛げがあったりする。そのおかげで、日本の獣たちはかろうじて里と山を行き来しているのかもしれない。

 イネを作れば田んぼで、トマトを作れば畑で、百姓たちはあいさつ代わりに鹿を見たとか猿が出たとかいう話題でしばしの歓談。その言葉の端々に、人が自然と共存しているのだという『言いきかせ』があるような気がする。

 ぼくも鹿除けのネットを張ってはじめて感じたことだけれど、「悪ささえしなかったらそれでいい」と。「悪さをするなら除ければそれでいい」とも思うのだった。

一安心といったところ