371 昔のビデオから
04/10/07

 ひさびさ古いビデオテープを調べていたら、なつかしいのが出てきた。17年ほど前のビデオで、家族みなで岐阜県の恵那峡にお盆の旅行に行ったときのもの。6年前に逝ったぼくの父が撮ってくれたもの。

 今まだ元気なぼくの母、まだ若い奥方、4人の子供たちと甥っ子、ぼく、そしてビデオカメラを持っているので映像では見えず、声だけの父。

 家族の盆休み。当時貨物用のライトバンに総勢が乗りこみ、効きの悪いエアコンを回しながらのドライブをしたもの。あの時は確かよほど早朝に家を出たので、宿の近くに到着するのが午前中となってしまい、時間をつぶすためにどこかの河原で休憩をしたのだった。

 ビデオの中、水遊び、スイカ割などする子供たちがほほえましい。ぼくの奥方はどうやら車に酔ってしまったようで、「かぁさん大丈夫?」の掛け声に「頭が痛い」の返答をしている。

 19年前といえば、一番下の男子はまだ2歳にもなっておらず、やっと独り立ちしてヨチヨチ歩き。上の子供たちは長女10歳、次女8つ、長男5つ、そして甥っ子が9つ。ぼくの母が60、父が66。奥方32でぼくが33と、なんとまあ若いこと。

 父のカメラはひたすら子供たちの水遊びやブランコ、滑り台を淡々と写しているのだけれど、それぞれの子供たちの個性と兄弟づきあいの中のお互いの係わり合いが、今さらながらに明らかにされているのだった。

 まず主役はなんといっても生後1年半ほどの次男末っ子。もしかするとかわが身が将来人生最大の悩みに、あるいは『わが性格とはいかなるか』という命題に遭遇してしまった折、こんな我が身のかつてのけがれなき無垢の姿をあらためて拝見するならば、たやすくも解答というものはおのずと向こうから訪れてしまうというもの。

 長女(一番上)は周りに影響されることなく、自分の在るがままを自然に行くという泰然自若といったところ。次女は二番目に生まれてまた女の子ということもあってか、放って置かれがちな性格というか、それで育つというようなところがあって、結構たくましい。三番目の長男との恒常的ないざこざについて、親たちに泣きつくわけにもゆかず、ひたすらその場その場での弟との清算というか決着をつけてしまおうという強行さがあったりする。だからというわけでもないけれど、長男はそんな姉である次女には、なかなか頭が上がらない様子がこの夏の旅行の河原での水遊びでもよく現れている。今回もまた姉にやられてチキショーというような長男の悔しげなしぐさが見られたりする。そんな中で、我まったく関せずというのが末っ子の次男。なんと言っても上の3人からしてみればただただ小さくて可愛い存在がそこにある。

 4人とも20歳を越し、上の二人は嫁いで子供まである。時々揃い踏みを見るにつけ、和気藹々と和みあうのを見るにつけ、やはりその奥にはむかしの兄弟関係が源流にあるのかもしれないなと考えるのもまたおもしろい。


372 大運動会
04/10/13

 秋といえばなんといっても運動会の季節。運動会といえばぼくのように運動神経がもひとつ、という子供にとってははなはだ迷惑な行事。さらにぼくが中学のころ、運動会はそのための苦難の練習というのもあったのだった。

 ぼくらの担任教師は『鬼の何某』というあだ名があり、かれの担当教科である数学と体育の時間は極度に張り詰めた緊張の連続だった。その鬼が担任ともなると、とくに頭は体育系、身体は文科系というタイプの生徒にとっては地獄の一年間ということになってしまう。なんとぼくは1、2年生を彼の担任で過ごした。

 とにかく運動会の男子の学年演技ともなると、ぼくらの担任『鬼の何某』が登場、とんでもない演技をぼくらに強要するのだった。中学三年間というもの、運動会の演技の演出と指導が彼に一任となっていたため、はっきり言って「もういやだ」と言いたくなるくらいの日々が運動会の前には繰り広げられるのであった。

 1年生のときは確か組立体操。二人、三人、四人と次第にグループを大きくしながら『サボテン』だとか『扇』『橋』『テレビ塔』なぞと徐々に大掛かりな技(わざ)へと上り詰めてゆくという寸法。最後は一番ダイナミックな『ピラミッド』で10人が一組となり、一番下に一番体重のある連中が4人四つん這いで並び、その上に3人がやはり四つん這いに、さらに2人、そして頂上に一番体重の軽い者が1人やはり四つん這いで乗る。正面から見ればみごとな4段のピラミッドが構築されるという仕組み。しかもそのピラミッドが彼の笛の号令とともに崩落し、ぺしゃんこになるという勇壮なフィナーレのおまけつきとなっているのだった。

 運動会といえば10月も中ごろの行事。そのための練習はけっこうな寒さのなかで、それも授業が終わったあとで行われる。丘の上に建つわが葵中学校は夕方ともなると冷たい西風にさらされ身体も硬直、唇は紫。そんな中で彼だけはカッカと上気、赤ら顔で興奮状態(ここだけの話ですが、なんと、なんと酒が入っているのです)。組立体操に気の緩みは禁物とばかり、たるんだ生徒を見つけるが早いか、朝礼台から駆け下りて行ったかと思うとうぬを言わさずこん身の力をこめた張り手を食らわすのだった。ぼくらは緊張のきわみ。そんな稽古の日々が運動会の前日まで繰り返されるのだからたまらない。最後の大技『ピラミッド』はすべてが成功完結するまで繰り返され、厳しい連帯責任の稽古が続くのだった。宵闇迫る薄暮の運動場での『ピラミッド』。エジプトでも吹くであろう砂塵は、生徒たちにも容赦なく吹き付けるのであった。

 大運動会の当日はどんな様子であったのか。なぜかそのときのぼくの感想というと思い出せない。やったという充実感を味わったものか、もう二度といやだと思ったものか、なぜかまったく定かではない。

 さらに2、3年生の大運動会はどうだったかというと、今度はなんと、どこでそんなことを発案するものかひねり出すものか、なにやら『手旗体操』なる演技と相成るのであった。元海軍軍人『鬼の何某』先生はまさに、軍隊張りの演技をなんと二年間にも渡りぼくらに強要したのであった。


373 カギ
04/10/27

 書類や小物を入れるような小引出しを開けてみると、なんとなく入っているのがカギ。今は使っていないのだろうけれど、ひょっとしていまだにどこかで使いそうで、かといってここしばらく使った記憶がない。

 カギの種類を分類してみると、南京錠のだったり、自転車、自動車、旅行かばん、戸。それこそこんなにカギがあって、いったい何に使うんだろうと戸惑ってしまう。これはたしか裏の扉のカギだったなと思うのだけれど、まったく使ったことがないことも確か。ようするに、小引出しにただしまってあるだけのカギなぞ、とっくのむかしに使うあてがなくなった不要品。だからといって捨ててしまえばいいのだけれど、たいして場所を取るものでもないし、なんとなく『カギ』だからという理由で捨てきれないところがある。

 カギは何かを閉じてまた開けるもの。カギは何か大切なものを守るために掛ける。盗難から守る。他人の侵入を防ぐ。秘密を守る、などなど。要するにプライバシーを守るための自分だけの切り札。なくしてはいけないもの。

 最近ではコンピューターの導入で『ID』『パスワード』というような仮想のカギも増えている。銀行のCD機や、パソコン、ネットで買い物などなど。こちらのカギはどこかへ記憶しておかない限り、使わなければおのずから消えてしまうからいいといえばいい。しかしながら物ではないから何も残らないと思ったら大間違い。そのカギがあれば開いてしまう情報がどこかにちゃんとあるわけで、本人が知らない間にその人の情報が利用されたり、損害をこうむったりする。 この場合可能性として、合鍵はそれが取り消されない限りいくらでもあることになりおそろしいことこの上ない。

 ひとは大きなショックや痛手、悲しみ、苦しみがあったりすると心を閉ざしてしまうことがある。この場合、本人によってカギが下ろされてしまうからなかなか開けられない。さらに悪くするとその原因がわからなくなってしまい、本人すらも下ろしたカギをなくしてしまうというようなことにもなる。またはそのカギだかカギ穴だかがさびてしまうのか、とにかくカギはあっても用をなさなくなってしまうこともある。

 ひとはだれでも時と場合によって心にカギを掛けたり開けたりしている。通勤の満員電車なぞで心のカギを開けっ放しにしているひともいないだろう。そうしている間に錠前も油が切れてくる。そうなってくるとひととひとが関わるとき、お互いぎくしゃくとした人間関係もまた生まれてくるというもの。それを直すにはやはり潤滑油が必要で、趣味だ、酒だ、レジャーだとひとそれぞれ。その間にも他人は関わってくるわけだから、心のカギもスムーズに開閉できるようになる。ひとにより潤滑油は違っている。ぼくの場合は音楽であったり、釣りであったり。

 場合によっては閉める必要もあるのだろうけれど、開けなければいけないときに開けられないというのではまずいことになる。ひとの心のカギを開けてあげないといけないこともある。臨機応変、合鍵も必要だし、他人を思いやるパスワードも。カギにはやはり、ひとの心の思い入れというか思いというのがこめられているのだろう。



374 橋本さん
04/10/27


 「野菜作りのいちばん楽しいところは、おいしい野菜ができることです」。NHK教育テレビに出演した三重県白山町の橋本力男さんは語るのだった。

 橋本さんといえば、10年前音羽町に仕事場を移転したてのぼくに、農業にはまず土作りが肝心。そのためのたい肥づくりをたとえば生ごみを材料に『循環』という自然の力を借りて行なおう、と教えてくださった方。そんな彼の物静かな、でもその眼光の強さはぼくらの考える目先などではなく、ずっとその先の未来を見据えているのだなという実感さえ覚えさせてくれた。

 野菜作りはまず土作りから。そのことは農業をしている人ならだれにでも理解のできる、いわば基本のき。なのにそれが化学肥料や農薬の使用によるいうならば農業の商業化、合理化により、おかしな方向に行ってしまった。そして戦後急速な成長をした工業生産に右に習えをすることで『循環』という大切な自然との絆を断ち切ってしまった。作って、売って(買って)消費して捨てるという行為の果てから生まれるものは、廃棄物と有害化学物質。

 そんなこと誰にでもわかるはずなのに、工業生産、消費社会で致命的なことは、その一連の行為のなかに『後始末』というプロセスがないということ。世の親たちは自分の子供には『後片付け』をしっかりしろと、口すっぱく言うくせに、自分の仕事の場ではそれをしなかったことになってしまう。やりっ放し、やりたい放題。

 狭い部屋でやりっ放しで子供が遊べば当然散らかる。片づける手間を掛けないから気楽なもの。親たる行政もそれを奨励するからそんなやり方がどんどん進む。散らかったものを均してその上で生産と消費が繰り返される。幾重にも積み重なったごみの山はとうとう足の踏み場もなくなり、動きも取れなくなってきてしまう。さらに都合の悪いことには、たれ流しされ蓄積された廃棄物から汚染物質という『負』のおくりものまで返されてくる始末。

 かつては『公害』などといわれ、それはごく限られた地域での汚染だった。それが今では環境全体の問題となってしまい、私たちの生活の場、健康にまで及んできている。

 有機農業とは生活から発生した不要な有機物を工夫してまた土にもどし、ふたたび野菜作りのできる環境を作り直さないかぎり成り立たない。とくに生産者と消費者という関係がある場合にはなおさら。

 大学を卒業してインドを目の当たりにしたとき、橋本さんは自分の国に帰って農業をしようと開眼したのだと、ぼくに話してくれたことがある。

 その時以来、30年余りが経過したことになろうけれど、彼の考えの方向はその時とまったく変わっていない。今では三重県や県内県外の自治体や民間団体の生ごみのたい肥化の試みには、必要不可欠な人物となっている。

 三重県白山町の橋本さんと桑名市の消費者とは、生産された野菜の流通とともに信頼という心と心の有機的なつながりで強く結ばれている。橋本さんの土作りとはまた、人と人との関係作りも深めてくれる技なのだと思う。


375 ものわすれ
04/11/03


 生まれつきの性癖として、忘れっぽいというのがある。当のぼくも母親の粗忽な性格の遺伝子を挿入されてしまい、随分な恥辱の歳月を歩んできてしまった。今までの半世紀を克服というのではなく、その性癖とのお付き合いしながらの共存という道を選んできたというわけ。何とかは死ななきゃ直らない、という言葉もあることだし。

 それに加えて50歳を過ぎてくるといろんな意味で衰えてくる。体力なぞはもちろんのこと、その性癖に加速度が付いてしまうのだろうか。注意力、記憶力も10年前とはくらべものにならないほど鈍ってしまっているというのが深刻な現実。そしてときどきそれが原因で取り返しのつかない事態となってしまうことも。

 はたまた一体何がきっかけになったものか、今朝の目覚めの寝床で「はっ!!」とあることを思い出してしまったのだった。それはある方との約束で、あるところへ出席するというもの。「もしかしてその約束の行事はおとといの日曜日(10/31)だったんじゃないだろうか」と、突然その事柄が鮮明な記憶としてよみがえってしまったからたまらない。もしそうだったらどうしよう。

 そうなるともういてもたってもいられない。「わすれてました。ごめんなさい。」と誤るしかない。それにしてもご本人からは「どうして来なかったのか」という連絡をもらっていない(たぶん機嫌を損ねた)。昨日、おとといと自分でも完全にわすれてしまっていたことになる。ひょっとして31日じゃなかったのかも・・。あいにく送っていただいたその行事の案内が手元にない!。はやく事務所に行って確かめないといけない。でもまずまちがいなく31日だった。・・・謝らなくてはいけない。なんて言ったらいいのかしら。

 実は以前にもとんだものわすれのおかげで、えらいことになりそうになったことがあった(実際えらいことだった)。(その模様は道長のHP http://www.bea.hi-ho.ne.jp/michinaga/221-230.htm#01 の『健忘症』をごらんください)そのときも非常に苦しくも、なんとか取りつくろってその場をしのいだことがあったのだった。

 しかしながら、今回はそれは無理。完全にぼくの不祥があらわになってしまっている。次のような@〜Bまでの選択肢までが、脳裏をかすめるのだった。@だまって知らん顔をする。Aひたすらあやまる。Bどうにもいそがしかったと言ってウソでごまかす。この場合、@の知らん顔をするのは非常にまずい。いろいろにかんぐられてしまい、挙句の果てには無視されてしまうということにもなりかねない。Bのウソでごまかすは、それならどうしてそのとき連絡をよこさなかったのか。ということになりこれもまずい。だからAのあやまる、が最善の方法ということになるのだけれど、これもやっぱり苦しい。

 朝っぱらからすっかり落胆の色を隠せないというような、沈痛な面持ちのぼくは、作業所の事務所に出勤してほっと安堵の胸をなでおろすのだった。何のことはないそれはまだずっと先の話だったのだった。それにしても確かめる先に電話して謝ってしまわなくてほんとによかった。


376 ベートーベン
04/11/17

 ベートーベンが1809年、35歳のころ作曲したピアノ協奏曲第5番『皇帝』という有名な曲がある。手軽に聴けるというわけで、レコードの他にCDも持っていて時々聴く。そして(別にこの曲に限るわけではないけれど)そのたびにこの曲のすばらしさというか、ベートーベンの偉大さというようなものを満喫する。この曲を作ったときにはすでにベートーベンは聴力を失っていたことになっている。

 この曲に付けられている『皇帝』という名前はベートーベンによるものではないとのこと。誰かが、もしかすると皇帝ナポレオンをイメージして付けたのではないかといわれている。第3交響曲『皇帝』を捧げるつもりであったのに、ナポレオン皇帝即位の知らせを聞いて憤慨し、それを取り消したといわれるベートーベンなのだけれど、ここでもまた『皇帝』という通称を付けられてしまったというのはなんとなくちょっと皮肉な気もするというもの。

 とにかくピアノ協奏曲第5番を聴いていて毎回感動させられてしまうのが第3楽章のピアノ独奏の部分。そこでは静寂の中であまりにも平静な心というか精神の状態が表現されている。そしてそれがあまりにもダイレクトにぼくの心というか精神の中に展開される感じがする。

 音楽とは作曲者、演奏者が何かを表現するための手段。そしてもうひとつ大切なことは、伝えるということ。ベートーベンもまた自分の音楽を表現し、それを聴衆に伝えることの喜びを求めたのかもしれない。

 この世の歴史の中で多くの宗教というのが勃興した。キリストがいてマホメット、釈迦・・・。なかでもお釈迦様をはじめ、多くの仏教関係のえらい僧たちが夢見た解脱というか無我、悟りの境地というのがある。そういうものに行き着くために人生のすべてを捧げたという人たちがたくさんいた。

 ピアノ協奏曲第5番の第3楽章で極自然に表現されているものとはまさに、そのような心というか精神の状態なのではないかしら。このような表現はベートーベンのほかの曲にもあり、やはりすばらしい感動を与える。

 ・・ということはつまり、彼ベートーベンはそういった悟りの境地を知っているということになるわけで、これはすごいことだと思う。そしてそれがもっとすごいのは、彼はそれを音楽という言葉で聴衆に伝えることができたということ。そして伝えるだけでなく、それをベートーベンの音楽を聴くだけで、それを体験させてしまうことができてしまう。そしてさらにそれが人を救うことさえできてしまうというところがなんとすごいのだろう。

 キリスト教だろうが何々教だろうが、いくら分厚い経典を持ってしてもそれを理解し、その世界を体験することはちょっとむつかしい。にもかかわらず、ベートーベンは音楽という言葉でいともたやすくそれを実現してしまう。ベートーベンはすごい、そして音楽とはすごい。経典なぞなくとも、音楽という言葉が受け継がれてゆくかぎり、ベートーベンの音楽は不滅であろうし、不可欠なもの。おそらく人類が滅亡してしまうまで、ベートーベンのピアノ協奏曲第5番は失われることはないのだろう。その偉大さにあらためて感激。
ルードリッヒ・ヴァン・ベートーベン


377 ひょっこりひょうたん島
04/11/17


 ぼくが中学から高校のころ、テレビで『ひょっこりひょうたん島』という人形劇が放映されていた。サンデー先生率いる子供たちが遠足に来ていたひょうたん島が、火山の噴火と地殻変動のおかげで本土から離脱。さらには大海原への漂流ということになり、ひょうたん島の不思議でめくるめく世界旅行が繰り広げられてゆくのだった。

 1960年代後半の当時、東京オリンピックを契機に日本は大きく揺れ動いていた。先進国のレベルに追いつこうと必死で、なりふりかまわず、恥も外聞もなく人々が働きまくっていた時代。そして世界的にもベトナム戦争、中国の文化革命、南北、東西の問題、ソビエトと米国の冷戦と激動していた。
 そのような時代背景の中、当然世の中も相変わらずつじつまの合わない矛盾だらけで公害、反戦、反米、労組、安保、学生運動などと、今の日本とはくらべものにならないほど荒々しい時代だったといえる。

 人形劇『ひょっこりひょうたん島』という番組は当時まだビデオ録画が一般でなかったこともあり、すべてがぶっつけ本番で行なわれていたとのこと。だから世の中で起こっている一大事などの話題を、リアルタイムでパロディー風に取り上げることもしばしばありけっこう楽しめたのだった。
 たとえば学生運動が激化すれば、ヘルメット姿の子供たちがひょうたん島のおとなたちの矛盾を、ゲバ棒片手の覆面姿でアジったりデモる場面があったり。かと思えば、安っぽい権力欲や金儲けのためにえげつなく動き回ったりする愚かしいおとなたちを、コテンパンにやっつけてしまう子供たちの痛快な立ち回りなどもありとっても楽しい15分番組だった。ところどころに挿入される歌なども楽しかった。

 おもなキャラクターは天才少年の『博士』、教育に燃える『サンデー先生』、愚かなのだけれどひょうたん島のために尽くす政治家『ドンガバチョ』、「強欲は無欲に似たり」を地でゆく欲張り海賊『トラヒゲ』、お尋ね者のギャング(でも正義の味方)『ダンディ』などなど。とにかく個性豊かで人間味のぷんぷんする登場人物たちが繰り広げるどたばた喜劇に一喜一憂するのだった。

 ぼくなぞ、この番組の大のファンになってしまい、他の用事で視聴できない日には当時はまだオープンリールのテープレコーダーにマイクロフォンをつなぎテレビの前に置いておき、時間になったら家人に録音ボタンを押してもらうという番組予約までしたほど。ものわすれのひどいぼくの母は「またわすれた」「いや忙しかった」の押し問答にもめげず、録画ならぬ録音をしてくれたもの。

 当時そろそろカラーテレビが普及してきたころで、カラー番組の画面の片隅に『カラー』という目印が表示されるようになっていた。当然ぼくの家のテレビはモノクロの白黒だったので恨めしくも憎憎しく、『カラー』の目印が現れるたび「家にもほしい、でも買えない」のもどかしさから、しばらくしてそれが消えるのをいらいらしながら待つのだった。カラーテレビがまだぜいたく品だった時代の話。
ひょうたん島の一場面



378 青空の披露宴
04/12/01

 愛知県新城市の田舎に昨年から新規就農していた青年正木君(29)には、すでに意中の人というものが御座ったということで、今回正式に入籍、結婚という運びとなった。そして先日、その披露パーティーというのが小春日和の青空の下、彼らの借地の畑で盛大にとりおこなわれたのだった。

 紅白の鯨幕で囲われた畑(大豆収穫後の)の一角には陽光に輝くテーブルクロスの張られたテーブル。そこに本日お招きに預かった親類、友達や近所の人たちが背広姿に長靴だったり、野良着そのままだったりの井出たちで正座。ぼくらもその中でちょこなんと正座。そこへ飾り付けられた往年の耕運機に乗って新郎新婦の登場。新郎は黒のモーニング上下に新調の長靴。新婦は大胆にも純白のロングドレス姿。華やかに花火なんぞも打ち上げられて、満場割れんばかりの歓声、拍手。

 青空パーティーとはいっても、旬のものを使ったちゃんとした料理でちゃんとしたコックさんとお手伝いの衆。五平餅あり、タンドリチキンあり、シャンペン、ワイン、日本酒、里芋コロッケ、コールスローサラダ、その場でつく玄米もち、パエリアなどなど。そして手作りのケーキ。

 宴は関係者の祝辞で入れ替わり立ち替わり。若い二人の就農のため、農地から住家までの手配に奔走してくださった農業委員さん。豊橋有機農業の会のメンバー。いずれも高齢化が進む農業事情の中、新たな若いカップルの新規参入という久々の明るい材料に、参加者のどの顔を見てもしあわせいっぱい満面の笑みといったところ。

 新聞記者氏を交えての記念撮影も済み、新郎新婦のご退場はやはり耕運機で。ドレスのすそを泥だらけにした新婦。それを抱き上げ荷台に乗せる新郎。なんとも幸せそうで、この世に怖いものなんぞ何も御座らんといった風。ぼくもひと昔もふた昔も前のことだけれど、あんな幸せなひと時があったのだなとちょっと感慨に浸るひとときではあった。けれど近くのおばあさんに「若いころを思い出すね」と話しかけたら、「そんなもんとっくにわすれたワ」とそっけなく答えられてしまい拍子抜けしてしまったのだった。

 考えてもみれば、このような農村での風景はかつては日常で茶飯事であったのではなかろうか。農業機械もなかった昔、動力といえば牛や馬。若い衆は力仕事、子供たちは手伝い、年寄りは座り仕事と役割がそれぞれ決まっていて、田植えや稲刈りなどの大仕事には『由(ゆい)』という共同作業で当った昔。

 すべての作業がが自然環境とのかかわりの中で行なわれ、無理をせず、自然からの『恵み』で生活をしていた。ひとつの村が共同体としてあった時代。そこには若い男女の出会いもあった。

 便利で能率のよい農業機械の登場で、農作業はひとりで行なわれるようになり、土日以外は町に出稼ぎに出るようになった。いつの間にか田舎では若い世代を迎え入れることも少なくなってしまった。今回の披露パーティーで手作りの野菜、手作りのおいしさ、手作りの人間関係のすばらしさをあらためて思いなおした気がする。
耕運機で・・



379 もみ返し
04/12/01

 旧型で、メモリー、ハードディスクともに小さなパソコンに、最新の大容量のデーターをどんどん放り込んだ結果、とうとうオーバーワークでフリーズというのと同じ理屈でか、ぼくもそんなふうになってしまったのだった。蓄積疲労と風邪からくるのどの痛み、さらにはぎっくり腰も再発ということに。

 ぎっくり腰はからだの硬い家系に生まれたぼくにとって、数年かそこらの周期で訪れる災難。たまった疲労が腰のどこかの筋をつっ張らせてしまいそのまま戻らず、軽い炎症を起したりする。このときに伴う痛みというのがぎっくり腰の正体なのだそう。ひどい場合には、柱骨のずれまで引き起こしてしまうことも。いずれにしても、ぎっくり腰を内科治療で済ませたり、放っておいて治すというのはご法度です。しかるべき整体師のお世話になるのが得策というもの。

 とにかく、ぼくにはもう30年来お世話になっている整体師氏がついているため、痛みも限界ということで今回ももんでもらったのだった。いつもは施術してもらえば、何日かですっきりとなおってしまうからありがたい。久々整体師氏から当世のマッサージ業界の事情など、またぎっくり腰についてのありがたい解説などをいただきながらの整体のメニューは進んでゆくのだった。これで回復すればもとどおりの健康なからだに戻れるというもの。
 
 無事整体の施術をしてもらい、その日の晩をむかえる。ここは風邪をひいているということもあり、風呂にも入らず、早々寝床に入りラジオでも聴きながらやすらぎの睡眠の世界へと・・。

 しかしながら、その夜ぼくは、散々なというか地獄というような経験に遭遇するのだった。この手のけっこうハードなマッサージにはいわゆる『もみ返し』というのがあることをうかつにも忘れていた。このもみ返しというのは健康なときには翌日に多少の疲労感や脱力感をあらわす程度なのだけれど、極端にからだが弱っているときには気をつけなくてはいけないのだそうだ。ところがぼくの場合、蓄積疲労から風邪を引いていたからいけない。

 夜半にぼくの睡眠を破ったのはなんと今までに経験のない、咳も出せないようなのどの痛みと腰の痛み。トイレに立とうとするのだけれど、腰の痛みで階段の手すりにぶら下がりながら往復する始末。これではたまらないと、さっそく深刻な事態が起こってしまっていることを寝床を共にしている連合いに告げるのであった。やれ花梨のはちみつ漬けだ、咳止めシロップだと、夜中の寝込みを襲われたあわれ連合いはバタバタと走り回る羽目に。

 翌日クリニックに行き診察を受けるのだけれど、さほどの重病でもなく、熱も平熱より多少高い程度。喉の腫れもほとんど引いてしまっているというありさま。それでも調剤薬局で咳止めだ、抗生物質だと何種類かの薬を買わされてしまったのだった(かろうじてうがい薬だけは断った)。

 実はこの『もみ返し』、クリニックから帰って息子に言われてはじめてはたと気付いたのだった。そういえば整体師氏、以前にも言っていた。「衰弱しているときはこの手のマッサージは控えたほうがいいですよ」と。


380 漬物教室
04/12/08


 あるところで漬物教室というのを企画していただき、なんとその講師役をさせていただいたのだった。当然ながらヒゲ面のおやじが野菜を切ったり、漬物を使った料理の手ほどきなんぞしても仕様がないので連合いも共々ということで。時間も午前10時から3時までとたっぷりすぎるほど。さらに定員が30名の料理講習室で10名余りをお断りという盛況ぶり。これはいい加減には済まされないという感じ。

 ぼくはといえば漬物に使う調味料のことだとか、漬物のことだとか、発酵食品だとか、何だとかかんだとか説明することには事欠かないのだけれど、ぼくの連合いはといえば人前で目的があって話をするなぞはじめて。というわけで連合いは期待と不安で会場到着、といったご様子。

 というような感じではあったのだけれど、いざ講習会が始まってみると満場の熱気に拍車がかかってか、ぼくの連合い、相当鼻息の荒い様子となってきた。とはいえ、講習会には前置きが必要なので道長の自己紹介や調味料の話、やっぱりぼくたちは日本食がいちばん、などと話をしているといつの間にか時が過ぎ、連合いはなにやら待ちきれないといったような様子。間を持たせるつもりがかなり待たせてしまっていたらしい。あとは待ってましたとばかりに漬物の講習会の幕は切って落とされたのであった。

 漬物で何が一体おいしいのかといえばやはりぬか漬。初冬ともなればぬか漬のシーズンとしてはオフなのだけれど、やはり一年中ということでテーマはぬか漬。ぬか漬する前に野菜をまず下漬けをするとうまくできるとか、干し大根や干ししいたけ、するめなどを漬けると味もよくなり、余分な水気も取ることができる。すっぱくなってしまったぬかみそに塩さばなどを漬け込めばおいしく食べられる・・・などなど。実をいうと道長でも消費者の方たちにいちばん食べてもらいたいのが『ぬか漬』。けれどおいしいぬか漬は輸送途中で醗酵してしまい、どうしても商品として提案できない、などなど。漬物とは火とは無縁の冷たい食べ物なのだけれど、道長の連合いはぬか漬への思い入れを熱く語るのであった。
 そんな熱い思いが伝わってか、料理の講習室もここちよい熱気でつつまれ、連合いは益々意気高揚となる。さらに今度はキムチ鍋を作ってみんなで食べようという段になり、食欲も手伝いけっこうあわただしい雰囲気。話す、作る、食べる、さらには質問まで浴びせられ、漬物教室の時間は瞬く間に過ぎてゆくのだった。
講師になりきって

 道長は紆余曲折しながらも創業以来、漬物ひとすじでそれこそ頑張ってきた。その間の漬物にまつわるいろんな経験、苦行、笑い話などが、それこそこんなにもたまりたまっていたのだなと、あらためて実感、再確認できた一日。漬物は時代遅れだとか、年寄りの食べ物だとか、塩分取りすぎだとかなんだとかいわれるけれど、こんなにも日本の米文化、食文化に深く係り欠くことのできない食品なのだなとあらためて思う。日本人の健康は日本食にこそあるのだと、熱くかたい信念がむっくりとあふれ、これからが頑張り時だと決心する道長なのだった。
大好評!!