381 ない
04/12/15

 あれがない、これがないと、何かがなくなるとかなり真剣にさがすのだけれど、やっぱり出てこない。何年か前にメガネ屋で買った携帯用の老眼鏡。丸い円筒状のケースに入っていて、側面の突起を押し上げるとフタが開き、老眼鏡が出てくるというの。レンズが横長なので縦書きの文字は読みにくいのだけれど、とにかく携帯に便利ということで重宝していた。

 その老眼鏡がどこかへいってしまい、わからなくなってしまった。たしかあのあたりのペン立てに差してあったのかな、と思って見てみても、ない。自宅のコタツの近くのペン立て。道長の作業所のペン立て。事務所の、借家のペン立てにも、ない。仕方なく、今度は事務所のガラクタ箱、自宅の。パソコン用のカバン、コートのポケット、あっちの引き出し、こっちの引き出し、書類の山の裾野のあたり。車のグローブボックスだ、連合いのかばんだなんだかんだと探しても一向に出てこない。このペン立てを探すのは何度目だったかしら。

 このような捜索劇をはじめてもう三日目となるだろうか。とうとう連合いも駆り立てての捜索活動とあいなる。不思議にもぼくの連合いは第一級の探索係で、よほどぼくが探しあぐねたものでも、一発で探し出したりする。もっともどこかに出しっぱなしにしてあるぼくの持ち物をどこかに仕舞うか片付けるのが連合いの仕事なのだそうで、それをただ引っ張り出してくるだけなのかもしれない。とにかく時としてそのあまりの手際のよさには舌を巻くというのか、恐れ入ってしまう。だから大いなる期待を込めて今回の探索係に抜擢したのだけれど、さっぱり。やはりこれはぼくがどこかへ仕舞いこんでいる可能性も高いのかもしれない。蒸発、雲隠れ、神隠し。

 むかし高校へ通っていたころこんなこともあった。学校が終わって帰ろうと思うのだけれど、どこを探してもぼくの自転車がない、おかしい、盗まれた。家でそんな話をしたら、きっとぶつぶつ小言をいわれ、自転車なぞ買ってもらえないかもしれない。がっくり打ちひしがれて家に帰ってみると、おどろいたことに、なくなったはずの自転車があるではないか。どうしてなのかしらんとよくよく考えてみたら、今日は歩いて登校していたのでした。

 この粗忽ぶりは母親ゆずりなので、当然母親にも恥辱の数々がある。彼女は当年とって78歳。いまだに○×化粧品の自称セールスウーマンを細々しているのだけれど、もうこれが40年以上になる。若いときは自転車に商売道具一式の入ったカバンを縛り付けてセールスにいっていたのだけれど、ある日彼女が出かけたあと、玄関の上がりはなに例のカバンがドカンと置いてあり、自転車がない。しばらくしてあわてて帰ってきた母は、お客さんの所へ行ってはじめて気がついたの由。気が抜けてものも言えないぼくなのだった。

 しかしながら、行く方知れずとなっているぼくの携帯老眼鏡、一体どこにいってしまったのだろうか。歳古くなるに従い、度重なる粗忽というかものわすれの数々。こんなことでは『訪れるもの』も意外と早いのかもしれない。桑原桑原。でも先天性なのだから、それとは別ものなのかもしれない。どうでもいいけれど、出て来い老眼鏡。


382 師 走
04/12/28

 月日の経つのは実に早いもので、もう年の瀬、師走と相成りまする。むかしからぼくらのまずしい感覚では、この『師走』というのはたとえば正月前に檀家廻りをするのに坊さんが忙しく走り回るとか、お師匠さんが弟子の未払いのお月謝を集めて廻るのに忙しいとかで年の瀬のせわしい月を師走という、なぞと理解しているのだけれど、ほんとうのところ、この語源は不詳というのがただしい説なのらしい。

 この『シハス』の語はなんと日本書紀で『十有二月』と綴っているとのこと。おおかたその時代には数字の十二をシハスと発音していた。そんなわけでこの『師走』というのはまったくの当て字ということになる。それではどうして12月のことを『シハス』と読んだのかしら。坊さんも先生もそれに相当しないのは確か。後の世に誰かがハスの音に走るを連想し、さらにその上についている『シ』にそれらしい人物を充てたことになる。

 それにしてもぼくの師走のイメージといえば、どういうわけかいつも決まって(江戸時代かなにかに)、風呂敷包みを持った丁稚のようないでたちの子が草履を擦りながら駆けてゆくの図ばかり。確かに丁稚も忙しいのだけれど、どちらかといえば、彼らは一年中そんなふうに小走りする役回り。優雅にのそのそ歩いているというのは丁稚のイメージには合わない。一体全体ぼくの師走のイメージといったら皆目わけもわからないといったらない。

 この『師走』の文字が当てられたのがいつのことかといえばどうも江戸時代であったらしい。もっとも元禄時代の『日本歳時記』(貝原益軒)には四季が果てる月の意に解釈して『シハツ』→『シハス』と解釈しているとのこと。以外に人々が勝手に『シハス』の語を『師走』にしてしまったのかもしれない。

 それにしてもこの記録的な暖冬のせいなのか、なぜかさっぱり師走という雰囲気のまったくしないような年の瀬となってしまっている。とはいえ、このぼく、どちらかといえば案の定気ぜわしい性質のため、この『師走』の文字に正直にこたえてしまう。

 だからというわけでもないのだけれど、12月はやっぱりいそがしいのがいい。クリスマスや大晦日を優雅にくつろぎながら過ごすなんぞ間尺にあわない。だから自分にとっての年末年の瀬を、あの手この手で忙しく立ち回らなくてはいけない時期に仕立て上げようと躍起になる。それにつられてぼくの連合いや息子もそんな渦に引きずり込まれ、散々な目に合わされるということになる。

 ぼくの師走のイメージになっているは風呂敷包みを持って草履履きで小走りする丁稚、とさきほど書いたのだけれど、この場面の続きがまだ先にあるのでした。先を急ぐ丁稚どん、なにかにつまづいてか、荷物をもったままペタンと転んでしまうという不甲斐なさ。

 足腰のおぼつかない素人商人(あきんど)が師走の風にそそのかされてうかつに走ろうとすれば、そんな丁稚どんの二の舞ともなりかねません。小走りはやめて、早足くらいにしておくのが身のためというものなのかしら。



383 正月
05/01/03


 今年も新たな年が明け、今年初めてのあいさつを『あけましておめでとう』で人々は交わす。ぼくはこの歳になっても思うのだけれど、一体何がめでたいというのだろう。

 ぼくらが子供のころ、学校が冬休みともなれば、それこそ楽しみなことばかりがその短い2週間ほどの間に詰まっていた。まず学校が休みとなり、隙間だらけの教室で寒さにかじかんだ手に息を吹きかけ震えることもない。コタツはあるし火鉢もある。いつもより寝床の暖ったかさを満喫することもできる。

 さらに冬休みにはなんといっても超目玉ともいうべきクリスマス、大晦日、正月という一年中でこれほど楽しい行事が目白押しというのもちょっとない。

 クリスマスイヴはケーキだカレーと贅沢な食卓。その存在を信じて止まぬ子供たちに、サンタはけなげにもプレゼントを奮発。その興奮もさめやらぬ年末大晦日。夜更かし、テレビ、除夜の鐘。近くの神社では厄年の男たちの甘酒の振る舞い。ありったけの廃材を集めての大掛かりな焚き火。

 年が明ければさらに気分は楽しくお正月。父親の前に正座させられ、ありがたくいただくお年玉。おせち料理とお雑煮。数の子だけは山ほどあり(とにかく安かったから)、へき易としたけれど・・。

 火鉢に起きたほのぼのとした炭火の五徳に網を置き、お餅を乗せればしばらくしてプクーっとふくれて焼もち。しょうゆに海苔巻き。きな粉もちもうまかった。

 親類の家に行くともなれば、さらにいただけるであろうお年玉。町は新春正月の日差しを楽しむかのような、ゆったりとした時間がすぎていた。


お客様からいただきました。何よりもうれしい年賀状です。ありがとう。
 そんな年末正月だったものだから、年明けは心を込めて『あけましておめでとう』と言えたもの。ぼくの心の思い出に正月とは鮮やかなめでたさで彩られている。

 今度はぼくらがおとなになって、我が子やなんかにクリスマスのプレゼントや、お正月のお年玉を与える立場となってしまうと、それほどのありがたみというか楽しさ、喜びがなんとなく薄れてしまうこともあるのだろうか。それとも、世の中に『高度成長』という祭り騒ぎが起こったせいなのか。はたまたそんなもんちっともありがたくもなんともないことに気付いてしまったからなのか。クリスマスや正月がどうして毎年訪れるのかということの意義がなかばわすれられているのかもしれない。

 ぼくらの子供、孫たちにも間違いなく毎年めぐり訪れるお正月。その意義はそれぞれの年代で少しづつ違うのかもしれない。または昨年多くの天災地変や人災戦争などに苦しめられた人たちにとっても同じなのかもしれない。

 今年も一年という時間の経過のおかげでクリスマス、大晦日、初日の出、正月。正月とはその年一年という未来を思いやる節目。『おめでとう』と言わなくして、なんでその年に夢を託せようか。『あけましておめでとう』。


384 環境の世紀
05/01/12


 西暦2001年になるころ、21世紀は『環境の世紀』なるといわれた。18世紀の英国で起こった蒸気機関は第一次産業革命。19世紀後半から起こった石油燃料、電気の利用で急速に伸びた第二次産業革命。そしてさらに現代の原子力によるものを第三次・・ともいうらしい。

 とにかくこの産業革命により、世界の科学技術は驚異的に伸び、それにともない経済も。この波はとくに北半球の欧州から米国へ。さらに文明開化の明治時代からこの日本でも急速な発展をしてしまった。

 このような科学技術とは、その結果発生する二酸化炭素やその他のガス、副産物など、不要な物質を無視できるうちは、まことに都合のよいものといえる。単純に、エネルギーを得るためにはただ燃やせばいいわけだし、化学反応をさせてやれば未知のなにか新しい物質だってできる。それがなにかの役に立つものであればさらにいい。

 当たるも八卦当たらぬも八卦、現代の工業技術にしてみても、それが都合のいいことに向けられればこの上もなくすばらしく役に立つというもの。しかしながら技術大国といわれた日本では、人件費が高い、工業生産に伴う不要というか、有害な化学物質をおいそれと排出できないなどの厳しい現実。そこで渡りに船、現在急成長をしようとしている中国なぞでは、まだまだそれが問題になっていない。それをいいことに安い工業技術、生産を中国にもとめようというのは、当然のことといえるのかもしれない。

 海を隔てた隣の国日本で、松の木が枯れる、酸性雨が降るなどの目に見える悪影響から、それこそ目にも見えない影響も今後密かに増えてくるのかもしれない。きっと当の中国では、無視されるがためにさらに大きく進む環境破壊が現実なものになってゆくにちがいない。

 地球環境の行く先を懸念しての『京都議定書』や『カルタヘナ議定書』といった国際条約が用意されているのにもかかわらず、工業化の波は場所を変え、さらに品を変えてただただ進む。それに連れる経済もおなじこと。

 科学技術、工業技術から生まれる商品が経済の力を借りて世界中に売り込まれる。一見便利一辺倒な工業製品はそれこそかつての錬金術にも似て経済至上主義の企業、国には魅力いっぱい。小手先で振り回される科学・工業技術。まったくたまったものではない。

 さらにその考え方は農業にも当てはめられ、米国内はすでに農産物も工業生産という体制に進んでいる。工業生産された農産物は世界に押し売りという形で輸出されようとしている。GM作物もそのひとつといえる。

 工業生産の結果が取り返しのつかないほど世界を苦しめる結果になったことを人類はいやでも理解しているはずなのに、まだそれを進めようというのは正気の沙汰とはとてもいえない。

 この地球が『母なる地球』だとするならば、その子供である人類に対して怒っているのかもしれない。あらゆる転変地変、温暖化原因の異常気象から地震・津波にいたるまで。もういい加減にしなさい、という声が聞こえる。


385 タイ国とGM
05/01/26

グリーンピースという国際的な環境保護団体の招きで、タイ国で開催された『ライスキャラバン』に参加してきました。タイ国はいうまでもなく世界一の米どころ。その輸出先は欧州はじめ世界中。その有機米の生産地である東北部で自動車でのキャラバンを組んで、遺伝子組み換えイネに反対するキャンペーンを展開しようというもの。このキャラバンはタイ国の首都バンコクを出発し、東北部のロイエト県 → ウボンラチャターニ県 → ヤソトーン県→ スリン県の各有機米産地を廻る。日本でいえば新潟魚沼コシヒカリなどにあたるのでしょうか、この地域の『ジャスミン米』は世界のブランドといっても過言ではありません。そしてこれらタイ東北部のことを『イーサン』といいます。

日本からは米農家をということなので、音羽米(減農薬米)を生産している『音羽米研究会』の鈴木農生雄さん。そしてぼくも愛知県農試のGMイネ研究(すでに中止)などについて、ということで参加させていただきました。

イーサンは熱帯地方なので猛烈に暑いと思うとそうでもなく、日本でいえば冬にあたる乾季には朝晩は軽い防寒着が必要なほど寒い。そしてまさにその期間は雨はほとんど降ることがなく、草や農作物のほとんどは育たない。日本の冬を見る以上に枯れ野の風景が広がるのみで、緑を保っているのは深く根を張れる樹木だけ。タイ国にとって季節とは雨季と乾季のふたつということになります。

ぼくたちはヤソトーン県でのキャラバンに参加、ロイ・エトでは米国の有機農家、スリン県では日本の『遺伝子遺伝子組み換え食品いらない!キャンペーン』の代表が消費者の立場で参加しました。

ヤソトーンでのキャンペーン(1/18-19)
18日、ヤソトーンに向かう前にまずキャラバンが訪問したのは、ウボンラチャターニ・イネ試験場。そこで試験場のスタッフからその概要、研究の内容とその目的、場内の設備、ほ場などについて説明があり、さらに見学もさせていただいた。これはこうした研究機関の重要なはたらきだと思いますが、地域の農業のために役立つ農業技術、品種の確立に向かって運営されることの重要性を語る研究員の生真面目な態度が印象的でした。他の試験場については知らないが、ここでは遺伝子組み換えの研究は行なわれていないとのことでした。

ヤソトーン県クッチュムでは約30年前から農薬の使用をやめ、かつて行なわれていたむかしの農業に立ち返っての自然農業の運動が始まったそうです。そして今から約15年前有機への転換を実現。

日本でも米が足らなくなったときには輸入するほどに、タイは世界一の米の輸出国。そのため顧客のニーズに答えるべく様々な米も作られるほど。日本のコシヒカリ、みそや酒の原料米なども。

タイ国は北部、東北部、中部、南部に分かれていて、東北部から中部にかけてが穀倉地帯となっている。ただし水の豊富な中部では二毛作も可能ですが、10月の収穫が済んでからの乾季にはほとんど雨の降らない東北部では、その間、灌漑設備なしでは作物はまったく期待できません。そのため一年に一作しか米は作れませんが、それをカバーすべく付加価値のある有機米への取り組みがごく自然に行なわれたのかもしれません。そしてなにより欧米からの安全な有機米への需用が伸び続けているのも、大きな要因となっています。

二毛作の可能な中部では機械化による米作りもできますが、標高200メートルほどの高原地帯のイーサンでは、稲作に使える水は雨季にしか期待できません。今後、それを克服するための灌漑施設の充実も望まれるところだと思います。

話しが飛んでしまいましたが、クッチュムには強力に有機米の生産を進めている『ヤーソー』という組織があります。キャラバン隊はその精米施設を訪ねましたが、その規模の大きさにおどろいてしまうほどでした。

ヤーソーは約1200世帯の農家で組織されていて、そのうち有機認証を取得しているのが200世帯。新しい農家の参加も増えているが、有機を目標にするものしか入会してもらっていないとのこと。

有機米は慣行農法で作られたお米の2倍の価格で業者に売ることができ、1000Kgで1万バーツとのこと。

農家一戸あたりの水田の面積はかなり広く、3町歩前後にあたります。その広さの田んぼを夫婦と家族だけで苗作りから田植え、稲刈りまでほとんど手作業でこなすというのですからおどろいてしまいます。イーサン地方の標準的な農家にはまだ自動車はあまり普及しておらず、耕運機のみが農耕から運搬までをこなしています。

GMイネに反対する集会に参加して
1/19、2時間近くをぼくたちの話のためにいただくことができました。とはいっても通訳の時間があるので、実質はその半分。そのなかで反対運動の結果2002年に中止となったGMイネ(愛知県農試とモンサント社の共同研究)と、ナタネ輸入港周辺で現在問題になっている『こぼれ落ち』によるGMナタネの自生についての報告をしました。


これは本当におどろきでしたが、ぼくたちの報告は集まった200人以上のヤソトーンの農家に、ことのほか真剣に聴いてもらうことができました。ぼくたちがGMの判定に使うテスト用試験紙を使ってGM大豆のチェックを実演したところ、おおきな人だかりができるほどでした。昨年タイ国でも問題になったGMパパイヤ(リングスポットウイルス耐性)の判定のできる試験紙はないのか、とか、日本の市民運動はどんな風に行なわれたのかなど、質問の内容は現実的なものばかりでした。

ヤソトーンでは副知事による、今後の有機農業への積極的な取り組み、GMは使わないという言葉があり、スリン県では知事のNo−GMの署名が得られたりと、今回の『ライスキャラバン』ではタイ国の農業のすばらしい未来像を予感させてくれました。

これからの日本は徐々に過去の農業に立ち返る努力がなされ、タイ国では有機に配慮されながらも、合理化され近代化されながらの農業が展開されてゆくのでしょう。

たとえば20年後日本とタイ国の農業はどんなになっているんだろうと、ふたりの日本人は顔を見合わせるのでした。
熱弁を振るう鈴木さん


386 タイ東北部(イーサン)の有機農家
05/02/02


 イーサンのヤソトーン県でのGMイネ反対集会の前日は、ヤソトーン市から30Kmほど離れたクッチャムの有機農家に泊めていただきました。そこで垣間見せていただいた農家の暮らしはことのほか質素で、そしてまさに自然と暮らすという言葉がふさわしいもの。

農家のつくりはどこも二階建て
 どの農家も基本は二階建て。これは雨季の洪水と毒ヘビや虫から身を守るために絶対に必要な造りです。泊めていただいたピーディーさんの家も二階建て。一階は居間兼食堂といったところで余分なものは何も置いてない。電話はなく、文化を象徴するような調度品といえば、テレビ、ラジカセ、冷蔵庫、そしてプロパン用のガスコンロ。照明は蛍光灯一本。調理をしたりは外の軒下。風呂はなく水道の出るのシャワー室でトイレがいっしょ。トイレはまたいでするタイプで手おけで水を流す水洗式。おそらく客人の接待は玄関外のテーブルと腰掛といったところ。そこは上が二階になっているので雨はかからず涼しい一角になっています。
水道はあるのだけれど

 水道はちゃんと引けています。でも飲み水は天水桶にたまった雨水を使っている。水道はあっても飲めないなんてちょっと考えられませんが、これは日本以外のほぼ常識なのかもしれません。
 二階にはご夫婦の広い寝室と娘さん(高校生でひとり)の部屋の二部屋。部屋には扇風機がある程度(娘さんの部屋には入りませんでした)で、他にはたんすが二振りあるだけで寝間には蚊帳が張ってある。ぼくたち男二人はそれをたんすで隔てた場所に布団をひいて寝ました。

 夜明け近く、あまりの寒さに目を覚ましてしまいました。カバンからフリースジャケットを取り出し、それを着て布団をかぶりなおしたほど。朝起きてみるとなんとカーテンの外のガラス戸を閉めるのをわすれていたのでした。
Pideeさんの奥様(中央)


Pideeさんの畑にはスプリンクラーの設備がある
 イーサンの農家では乾季には農作物がほとんど育たないため、多くの農家はこの季節、出稼ぎに出なければなりません。しかしながら、ぼくたちがお世話になったピーディーさんのところでは、その必要がありません。それはなんと潅水用のスプリンクラーの設備があり、乾季でも農業収入があるからです。近くに水源があり、そこから水をひいているとのこと。

 潅水設備のある畑はまさに森の中にあり、作物の育て方は混植が基本になっている。そのため無理な耕土の必要がなく、連作障害も少ない。もちろんこじんまりとした畑もあり、たくさんのハーブ類が育っていました。森を利用した畑なので、木々の半日陰のおかげで直射日光を避けることができ、せっかくスプリンクラーで散水した水の蒸発も防ぐことができる。

 もう一軒の農家を見学させていただきましたが、そちらのご主人は土木機械の運転ができるため、借りてきたユンボで溜池をつくり、乾季でもそれを利用して果物の生産をすることができます。バナナ、パパイヤ、レモンなど。また食用の魚も獲れる。

 イーサン地方は水持ちのわるい砂土なので、乾季にはとくにすべてが乾ききってしまう。日本の冬よりもっと冬景色という感じ。雨季に降る雨は川を流れてくるというものではなく、次第にたまってそこら中が水の世界になるという表現がふさわしい感じです。雨季の雨は日本のようにじめじめだらだらしたものとは違って、毎日夕刻にちょうどバケツをひっくり返す感じで一気に降ってさっと止むというもの。

 耕運機が運搬から農耕、乗用にとすべてをこなす。自動車はなく、電話も、もちろん携帯もない質素のというか簡素な生活がイーサンの片田舎にはあります。日本ではもうとっくの昔に忘れられてしまったかのような自然とともにある静かな暮らし。

 でもひとつだけ、スイッチを入れられたテレビからは、そんな暮らしに似つかわしくない、しかし甘い魅力を発散し続ける極彩色の映像の数々が、電源を切るまで延々と映し出されているのでした。


387 朝寝坊
05/02/09



 若いうちはなぜか朝決まった時刻に起きるということが苦手。反対に歳をとるにしたがって早起きになる傾向があるというもの。そのわけを考えてみると。@若い人は生活が不規則なので疲れやすく、どうしても朝起きられない。A若い人は力のセーブをしないので疲れやすく、朝起きられない。B大事な責任がないため気楽なので、自分が早起きしなくてもよいと考える。

 反対に年寄りほど早起きになる傾向は、A)規則正しすぎる生活をしている。B)若いもんが@ABなので、おちおち寝ていられない。C)人生残り少なくなってくるので、何かに促されて早寝早起きをしてしまう。ぼくなぞも確か学生のころ、やはり朝きちんと起きるのが苦手だった。

 明日はこれぐらいの時間に起きないと学校のうん時間目の講義には間に合わないぞ、と前の晩に仕掛けて置いた目覚まし時計。翌朝その時刻、いったんはそのやさしいベルの音に促され精神だけは覚醒するのだけれど、あたかも何かに憑かれてでもいるのか、身体のほうが一向に起き上がらない。名古屋まで通うという大仕事を思うとそれだけで疲れてしまうのかどうなのか、とにかく面倒くさいのがその理由。時計の針はぼくが気付くたび、瞬く間、30分きざみで進んでいる。そんなわけでお日様はもう結構な高さまであがってしまっているのだった。

 夏ならさっと起きようと思うのだけれど、冬の寒さはさすがにきつく、ひょっとすると何かに憑かれて起きられなかったと思ったのは寒さのせいなのかしらん。といまさらながらに考えていると、おもむろに今感じている寝床の温かさがなんとなくとてもなつかしいというか安心感というか、えもいわれぬ極楽気分に浸るうち、ふたたびおとずれるおごそかな睡魔。自分が天国に召されるときにはこんな風にいけるといいのにな、などと考えていると、訳のわからない感じになって来てそのままあっちの世界へ。

 目覚まし時計のほかに一応は予備対策は講じておく。目覚ましのベルが鳴ったら起してほしいと家人にたのんでおくというわけ。しかしながらそのリクエストにはなぜか『絶対に』という言葉が付け加えられていないところもまた味噌。

 また頼まれて朝起せば「わかった」だ「うるさい」だのふてセリフ。へき易、家人の起こし方もいい加減形式だけとなる。そんなわけで今日もまた朝寝坊。一体、家人はベルの音を聞いた後、ちゃんとぼくに声を掛けたのか、揺り起こしたのか。挙句の果て「どうして起してくれなかったのか」などと力無げな非難を浴びせるのだけれど、それも所詮無理な話。自分の失態をカムフラージュするにはとうてい及ばない。

 そんなようなことがまた翌日も繰り返され、日々は無為に過ぎ費やされてゆくのだった。情けなくも若き日々。


388 外来魚
05/02/16


 ぼくが中学のとき、修学旅行は関東地方でその途中で芦ノ湖へ行った。そのとき大きな水槽に見慣れない魚が展示されていた。その魚はブルーギルだったかオオクチバスだった。食用と釣りの両方の目的のために芦ノ湖に移植しているという話をそのとき説明された覚えがある。そのときのぼくの印象は、ここでしかお目にかかれないめずらしい魚なのだなというもの。実際にはオオクチバスが1925年、ブルーギルが60年にそれぞれ芦ノ湖に移植された。

 そんな印象のめずらしい魚も今となってみると、どこの池、川、湖にも当たり前に、しかも在来の魚種を駆逐する勢いで拡散してしまっている。在来の水生生物の自然界での多様性に悪影響があり、琵琶湖や諏訪湖などでは漁業への影響も深刻となっている。環境省と農水省からは『特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律』というのを制定すべく、現在パブリックコメントを求めている段階だそうだ。

 ぼくの意見としては、この法律の制定は行なわれるべきだとは思う。しかしながら、この法律が問題の外来魚の拡散を抑制、鎮圧することに有効性があるかどうかについては大きな疑問がある。バス釣り愛好家たちがこの法律を守るという確証なぞどこにもないからだ。

 本来、魚を食べるという習慣のない北米では、ただゲームという娯楽性のみためにルアーフィッシングが行なわれる。食べもしないものを持ち帰る必要がないのだから、当然その場でリリースすることになる。昔からの生態系のなかで行なわれる釣りなのだから、キャッチ&リリースは立派に自然保護につながるというわけ。しかしながら、日本ではそうはいかない。成魚になっても数センチという魚種にとっては、危機的な天敵の襲来ということになる。

 諏訪湖などでもワカサギやエビ類の保護のため外来魚の駆除をしているようだが、かなり困難を極めているというのが現実のようだ。春に浅場で繁殖するこれらサンフィッシュ科の魚類は、ご丁寧にも自分の卵、稚魚を外敵から守るという子育ての習性をも持っている。ある程度の大きに成長するまで親の保護下にあるのだから、稚魚の生存率もぐっと高まるというのがこの魚種の性格といえる。

音羽町の隣の額田町の貯水用雨山ダムにて。小さな投網を入れると簡単に捕らえることができる。関連記事。
 おそらくはこれら外来魚を日本から抹消することは不可能なことだと思う。釣った魚を再放流したり、ほかの水域に放したりという行為を『マナー違反』とするならば、それを守らない釣り人が必ずいるからだ。これは何も釣り人のマナーが悪いということで決してない。路上で平気でごみを捨てる輩がいるように、それとほぼ同じ確立で釣り人の中にもそういう連中がいるからだ。

 オオクチバスの問題はおそらく解決するにほぼ困難なところまで行ってしまっている。しかしながら、ここで問題にしたいのは、今後日本国内に拡散してしまうかもしれない、あるいは拡散しては困る生物があるのかもしれないということ。それを今の段階で特定するのは非常にむつかしいだろうが、だからこそ非常に慎重に外来種や本来ありえない、たとえば遺伝子組み換えをした生物の取り扱いには、慎重すぎるほどの注意が払われなければならないものと確信する。


389 30周年
05/03/02

 毎年やってくる記念日のことをアニバーサリーなどというらしい。ぼくらにも結婚記念日というものが年に一度めぐってくる。そしてどうやら今年は特別な年であるようで、なんと30周年だそう。思い起こせばぼくも奥方も23歳の2月だった。もうすぐ卒業のまだ学生で、反発心の固まりみたいな青少年だったぼくなんぞ、片意地張ってギターなぞ結婚式場に持ち込んで、トゲのある歌を歌ったおぼえがある。長女、次女が生まれ、漬物屋になり、長男、次男と続き、年月が経ち今日に至る。

 なんのことはなく、こんなに経ってしまった。実は話せば長いことながら、いろんなことがたくさんあった。その間「ぼくの生涯はきっと一冊の本にだってなるだろう」とさえ思ったほど。でも今となってみれば、きっと世の中のだれもがそんなようなことを考えているのだろうなと、あたりまえのように思えるようにもなった。

 漬物の仕事を続けてきて、その間いろんなことに首を突っ込んできた。どうも首は突っ込んでおかないと気がすまない性質なのかもしれない。そして今も首を突っ込んでいる。もちろん漬物の仕事にも首を突っ込んでいる。

 ぼくの首はひとつしかないのだから、二つのことに首を突っ込むのはむつかしいのかもしれない。つじつまの合ういい方をするなら、両足を漬物ダルに突っ込みながら、頭をほかの事に突っ込んでいるといえばいいのかも。

 でも最近気付くようになってもきた。自分の足と首がとんでもなくちがうところに突っ込まれているのかしら、と思っていたのだけれど、当たらずしも遠からず、むしろけっこう同じ部分でつながっているところに突っ込んでいるという感じになってきた。要するに、最近では突っ込んだ頭に付いている両の目で見回してみると、自分の足を見つけることができるようになってきた。

 話しがおかしくなってしまったけれど、自分のしていることはまんざら間違ってはいないのかもしれないということ。「あんたは変な方向に向きすぎる」といちゃもんばかりつけてきた我が奥方も、最近ぼくのことをちょっとわかってくれるようになった感じもしないわけではない。

 食の安全と漬物、大豆の発酵食品、米飯食と農業、食文化。考えてみるとどれをとっても日本人の生活からは欠くことのできないものばかり。そしてそれぞれがしっかりとくっつきあってひとつの文化となっている。

 結婚以来30年。そのうちの20年以上を漬物屋につぎ込んできた。そこから得てきたことも少なからず。これからはせっかく身につけた経験や確信、思いがあるのなら、それを人に伝えてゆく努力をしなくてはいけないのではないか。かつての日本の食文化のすばらしさ、だがしかし改良すべきところがあるのなら、それがどんなかたちであるべきなのか。

 結婚30周年を期して、日本食のすばらしさ、そのなかで漬物の役割がどうなのか。またそのたいせつさについても、道長としてしっかり伝えてゆくために、これからの一年一年に捧げてゆきたいと思う。


390 ラン・ローラ・ラン
05/03/03

 独映画『ラン・ローラ・ラン』 (98年作品)をビデオで観た。監督はトム・ティクヴァというひとで、この映画の他にウィンタースリーパー、へヴンがある。主演フランカ・ボテンテという女優。

 ストーリーはいたって単純なもので、ローラの恋人マニが密売のお金の運び屋をするのだけれど、取引の10万マルクをうっかりなくしてしまう。このままだとマニはボスに殺されてしまうだろう。20分後にはボスに渡さなければならないそのお金の工面をマニはローラに頼む。バイクを盗まれてひたすら自分の足で走るしかないローラは、ただ一人の金づるである銀行頭取の父親に泣きつくこうとアパートから駆け出してゆくのだった。走りに走って走りぬくのだけれど金の工面に失敗。窮地に陥ったマニは何をしでかすかわからない。

 20分の時限はいかんともしがたく、最悪の結末となってしまう。っと思いきや、ストーリーはローラがマニからの電話を受けてアパートから駆け出す『ふりだし』にリセット。ふたたびローラが走り出すのだけれど、その行動のどこかがちょっと変わって時間差が生じる。それが20分の間に今観たストーリーとはちがった展開となってゆく。その結末は先ほどとは違っているのだけれどやっぱり最悪。

 ところが再々度ストーリーはリセット。今度の展開は先ほどの2回とはまったく違う。むしろ「そんなことあらへんやろ」というようなもの。結局観客は3番目のストーリーに、手に汗握ってしまう。

 もしあの時ああしていたら、私の人生はこうではなかったかもしれない。もっと変わっていたかもしれない。と誰もが思うこと。ぼくもそんなこと思わないわけでもないけれど、ほんとうにそうなんだろうか。

 『ローラが走る』というこの映画は微妙なタイムラグのおかげで、その人の人生が大きく一転することもあると納得してしまうのかもしれない。確かにそういった例はいくらでもある。遅れたか早かったために事故から逃れることができたとか、またその反対とか。しかしながら、それは単純に時間差が原因でおこる不可避的な現象。

 この映画での1・2回目の展開と3回目とでは、おおきな違いがある。つまりはじめの2回は成り行きでそうなった。けれども3回目は、ローラの岩をも通す執念というか、精神のパワーというか、とにかく「なんとかなれ、ギャーッ」という叫び声でガラスが割れるほどの『気』のおかげで、その運命がそんな馬鹿なという方向へごろりと変わってしまう。

 この映画のほとんどの部分がローラの疾走シーンばかり。その躍動感を駆り立てるドイツテクノのタイトなリズム。2度のリセットの間、ロールプレイングかなにかのゲームの主人公にでもなったような気分の観客は、なんとか土壇場をクリアーしたいと思うにちがいない。

 最後のリセットされた展開は、製作者の観客に対する心行くまでのサービスというか、「なせばなるのだ」という熱いメッセージなのかもしれない。