421 カンゾー先生
05/10/12
 古くは『にあんちゃん』『黒い雨』など、最近では『うなぎ』という映画を監督している今村昌平の映画。原作は坂口安吾。昭和20年、終戦直前の岡山県が舞台。ある港町で町医者をしている赤城という『医は仁術』という言葉そのものの男がいる。町医者は往診が常識で、しょっちゅう家々を走りまわる医療をしている。

 戦争の時局は大本営の発表とは裏腹で、かろうじて首の皮一枚の状態。大陸でやりたい放題なことをした挙句、復員兵が持ち帰ったウィルス性の肝臓病(肝炎)が世の中で蔓延していた。だから診る患者診る患者『カンゾー』が悪いという診断をするので、町中で『カンゾー医者』とあだ名されている。しかしながら、実は彼は学者肌の医師で、東京の医学会の会合では絶賛を受けるほどの人物。だからなんとかして肝臓病の正体をつかみ、治療法を開発すべく、顕微鏡やアーク灯まで仕立て、さらには土葬したての死人から肝臓まで標本に取り出してしまう始末。

 カンゾー先生をとりまく人間模様として、個性あふれる人たちが登場する。麻薬中毒の外科医(腕は確か)。呑んだくれのクソ坊主。捕虜収容所から命からがら脱走してきたオランダ兵。そして淫売といわれながらも、そんなではまったくなく、カンゾー先生の看護婦役として献身するソノ子など。

 戦争という非常事態のなか、人々は愛国の名のもとでその個性、心を失ってゆく。その中にあって、その個性ゆえに、または人間性ゆえに身を崩してゆくもの、あるいはにもかかわらず自らを貫き通し、世の中を超越して生を抜くばかりでなく、人をも導いてしまうすばらしく人間くさい人物もまたいたりする。

 しかしながら、所詮やはり人は人。カンゾー先生といえども、学問の世界というか、学者としての『欲望』に心を奪われてしまうことにもなる。当時の国民病の正体を見極めるべく、顕微鏡システムを構築するという目的のため、自らの町医者としての本分を見失う結果ともなってしまうのだった。結果として『お国のため』という大義名分のため、老婆の死に目を看取るという役目を怠ってしまう。彼はそのことに深く後悔をするのだった。

 『偉大な』という言葉には『御国』とか『社会』という言葉が相応するのかもしれない。それほどに些細なというか瑣末な、ひとりひとりの人間の命というのは四捨五入してゼロに賦されてしまいもする。それに対して、ひとりの命を尊厳するとは、医療の分野でいえばまさに原点ということができるのかもしれない。一人の命とはやはりひとつであり、切り捨てられるべきではない。カンゾー先生はそれに気付き、本来の町医者としての生涯を全うする決意をするのだった。そんな町医者の一途な人間性にすっかり共感というか、ほれ込んでしまうソノ子。

 この映画のラスト近く、女としてのソノ子のすばらしく晴れやかというか、「私の愛するのはこの人だけ。私がこの男を何とかしてやる!」というたくましいまでの女意気が表現される。さらに映画を締めくくる映像とカンゾー先生の言葉が、世の中の、戦争の愚かしさを、彼のというか今村流の個性というか、本音で切って捨てているような気がする。山下洋輔の冷静なピアノ音楽と、熱く表現された人間性とのコントラストもとてもすばらしい。

前、唐十郎と右より、Jacques Gamblin、柄本明(カンゾー先生)、世良公則、麻生久美子。
ほかに、松坂慶子、田口トモロヲ、小倉一郎、小沢昭一、山本晋也など出演

音楽は山下洋輔


422 四 季
05/10/18


 この歳になると四季の巡るのがほんとうに速いものだと実感してしまう。ついこの間田植えをしていたと思ったら、梅雨が明け、真夏。お盆が来たと思ったら稲の穂は黄色く頭(こうべ)をたれる。そして稲刈りの秋。

 自然界の生き物たちはなおのこと、ぼくら人間でさえ地球の春夏秋冬を全身で、あるいは五つの感覚で感じ取ることもできる。草木の色彩で、香りで、味で、肌をなでる風で、枯葉の落ちる音、生物の声で、ぼくらは季節の移り変わりを知る。そしてその都度、その美しさに、生物の営みの躍動に、ぼくらは感動すらする。

 いったい全体、四季の移り変わりとともに、ぼくらを取り巻いている自然は何をしようとしているのかしら。子孫を保つための、本能のままに行なわれる生のための営み。そしてまた、一度は生まれたものが、ひとつの区切りとしてのその一生を終えるための合図。なるほど、日本の四季はあまりにも明確にその移り変わりを表現する。

 そんな中にあって、ぼくたち人間の生活とは『文化的』という居心地のよさへの合言葉とともに、一途に四季を平均化したような、年中春か秋かのお気楽な二者択一の快適生活。クールビズだ、ウォームビズだといったって、所詮窓の開かない電車やビルの中の、空調のゆきとどいた空間での話。そこでは噴き出す汗も似合わなければ、凍える寒さもない。もしかすると、人々の労働の目的は『生きる』ということよりも、『快適』とか『住みやすい』などといった広告やチラシのうたい文句のためなのかもしれない。

 けれどもひとたびオフィスや地下鉄から抜け出して、大自然に我が身を置いてごらんなさい。ひょっとすると情けなくも、その威力に萎えてしまうのかもしれないけれど、それが冬だろうが真夏だろうが、人は必ずその威力に感服することだろう。もっともこの母なる地球にとっては、太陽のまわりをめぐる何千、何万、何億年ものあいだにくりかえしてきたような、ごくありきたりな景色なのだろうけれど。

 私たち人間は、その一生でその年齢の数だけ四季をむかえることができる。少ない人もいれば多い人もいる。でも地球の歴史からすれば五十歩百歩。

 自然界の木々たち、動物、昆虫や目に見えぬ微生物たちと、地球上にはあまた生物が暮らしている。寿命の長いものもいれば、短いものもいる。多くの生物は四季の移ろいとともに生と死をくりかえしている。そんな彼らにとって、四季とは非常に大きな意味を持っていることになる。春の芽吹き、夏の燃え立つ緑、紅葉、そして冬。かれらにとって、もしかするとその一生に一度きりしか訪れない季節の合図を受け取って、われこそはとその生と死のいとなみを行なう。これは実はとてもすごいことかもしれない。そしてめくるめく感動の世界なのかもしれない。

 ぼくたち人間にとってさえ、こんなにも感動的な四季の移り変わりであるならば、一生に一度きりの春、夏、秋しかないものたちにとっては、もしかすると、ぼくたちよりも何十倍も、いえいえ、計り知れぬほど大きな感激をして、彼らはこの四季を味わっているのかもしれない。


423 飛行機雲
05/10/26


 秋晴れの澄み渡った夕空。また夕焼けの美しい季節がやってきた。その地形によるものなのか、それぞれの地域から見える夕焼けというのは、何か決まった様相というようなものがあるような気がする。道長のある音羽町から見る夕空も、毎年、毎秋見慣れた感じで、なにかあたりまえのような気もするのだけれど、それでもやっぱりお決まりの夕日を眺めるにつけ、その美しさには魅了されてしまう。

 そんな秋の夕空に、最近になって飛行機雲が頻繁に見られるようになった。知多半島に開港となった中部国際空港。通称『セントレア』を発着する飛行機によるもの。いうならば、飛行機雲なんて自然界に存在するはずのものとは言いがたい。それなのに、子供のころから青い空に引かれてゆく白いラインを見つけるたび、なにかとってもすごいものを見つけたような気がしたもの。そして、その飛行機雲を仰ぎ見るにつけ、すがすがしさというか、心が洗われてしまうのはどうしてだろう。

 もともと飛行機雲とは、気温が低く湿度が飽和状態の大気中を、ジェット機が湿気を多く含んだ排気ガスの熱気を出しながら通りすぎることで起こる現象ということになっている。あるいは、同じく飽和状態の大気を切って何かが通りすぎるときに、急激な気流や気圧の変化が起こり水蒸気が凝縮されて一時的に雲ができるため(この手の飛行機雲は発生後間もなく消えることが多い)。

 いずれにしてもとにかく、秋空のしかも夕焼けを受け、オレンジ色に輝く飛行機雲はすばらしい。飛行機雲が生まれているその先端では、きらりと光る機体。そっと息を潜めて立ち止まれば、そのずっと後のほうで飛行機のエンジン音がかすかに聞こえる。

 これから着陸のため、高度を下げながら西の空に向ってゆく飛行機雲もあれば、ぐんぐん高度を上げながら、今しがた飛行機雲を作り始めたばかりのもある。そのどれもが西の空に沈んでゆく、赤い夕日を受けて輝いている。あの銀色の点の中にはなにかそれぞれの目的で、百人だかそれ以上の人たちが乗り合わせているのだろう。または操縦桿を握っている人も。

 そういえば、ぼくの愛聴盤レコードのジャケットに、これとおなじような飛行機雲があったもの。それにしても澄みいった青い空を、一直線に切り込むような飛行機雲のすばらしいことといったらない。ぼくは高いところが苦手だけれど、あんなふうに空を、後ろに飛行機雲を従えながら飛んでみたいとさえ思う。

 あの飛行機に乗っている乗客の数の分だけの夢を託すかのように、秋の茜空にオレンジ色の飛行機雲。単なる排気ガスだし、ちっとも環境にやさしいとはいえない飛行機雲なのだけれど、それを見上げる人たちには、やっぱり子供のころに見たそれと同じ印象のすがしがしい白い線。なにかちがう世界のもののような、自分もあの銀色の機体の中に居たいような、希望のような。その軌跡が描く白い線。それが夕日に照らされて茜色に輝いている。


424 ごはん
05/11/02


 50歳を越えてこの歳になってくると、食べるということについてやはり何か自覚というか、納得するところができてきた気がする。どういうことかというと、「やっぱり日本の食べ物がいい」。

 日本食といえば、なにか質素な感じがするもの。朝はごはんとみそ汁、糸引納豆と漬物。昼はごはんとみそ汁、前の晩のおかずの残りと焼き魚、漬物。夜はごはんと冬ならあったかに煮た鍋物。季節の魚や野菜、漬物。といった具合。まったくあまり代わり映えしないというのか、でも四季の産物がそれに加わればがぜん色彩も鮮やかに、風味も折々で味わい深い。

 音羽の秋の味覚といえば、新米、栗、柿・・。柿といえば、今年は鈴なりともいえるほどの豊作。道長の作業所も借家も、採りきれないほどの柿。これだけ柿があるなら、何かおいしい食べ方でもあるのかしらん。と思うのだけれど、やっぱりそのまま食べている。朝昼晩と柿。柿。柿。まったく柿づくしで、柿を丸のままかじるか、切るかの違いだけなのだけれど、やっぱり柿はおいしい。柿を食べている間に、秋は深まり冬へ。

 柿のことはさておき、やっぱり日本食といえばむかしから『一汁一菜』といわれる簡素なかたち。『ごはん』と『みそ汁』、そして『漬物』。っと基本はこれだけ。あとは季節のものづくし。

 もともと日本の文化には肉を食べるという機会は非常に少なく、あるとすれば海からの幸として、魚貝類、まれに鯨。馬肉にしろ、牛、豚などの家畜を太らせて食べるという習慣はない。もっぱら動物性タンパクは、自然からの恵みとしてあった程度といってよい。仏教の影響もあったのだろうけれど、肉を食べなくとも体力を維持できるだけのごはんのパワー。そして明確にめぐる春夏秋冬の四季が与えてくれる、自然の恵みがあまるほどにあったから。乾季にも雨はちゃんと降ってくれる。

 世界にはふたつの食文化がある。『麦文化』と『米文化』。麦も米もいずれも穀物に違いはない。米は豊富な水が得られるアジア地域で主食。麦は米国や欧州などの、雨の少ない地域での主食。いずれも気候に合った作物。
 でも麦と米とでは、圧倒的に大きな違いがある。それは何かというと、米は火を通してそのまま食べられるのに対して、麦はそのまま調理しても食べにくいし、おいしいとはいえないところ。

 おにぎりを考えてみる。おにぎりは、ごはんに梅ぼしを入れて塩で結んだだけのもの。けれどこれがうまいんだな、また。どんな子どもも、おにぎりの嫌いな子なんてまずいない。ようするにごはんはおいしいということ。なんとうれしいことでしょう。それだけで一品の主食であり、おかずでもあるのです。

 麦を加工して小麦粉。それを加工してパン、パスタ。けれどそれにしたって、砂糖や油脂のおまけがなくては食べにくい。それにくらべて日本のどんな調味料も、みそ汁も、お菜もすべて、つまるところはごはんをおいしくいただくための付けあわせなのです。ごはんをよりおいしくさせる漬物づくり。道長の目標。ごはんばんざい。


425 結婚とは
05/11/07

 結婚とは一体なんなのだろう。それに関して、世の中の数多くの歴史上の著名人たちの格言が残っている。それらをあれこれひも解いてみればみるほど、なにかおかしいほどに「うーん」とある意味「そうかも知れない」と、なかばため息まじりで納得してしまうのはぼくだけかしら。

 ぼくもかつて、今から約30年ほどむかし、ある種の願望から結婚を望み、それに踏み切ったことがある。そして幸いというべきか、あるいはその逆なのか、貞淑にもひとりの女性を唯一の妻としてなかばひたむきに、またはほかに逃げ道がなかったのか、とにかくもかく年月のあいだひとつの状態を継続をしてきたもの。

 世の中の人たちは、たとえばまだ結婚したことのないものにとっては、結婚とは願望である場合が多い。そしてすでに結婚したことのある、あるいは結婚しているものにとっては、結婚とはたとえば失望であったりしてしまうもの。それでいて結婚したことのないものにとっては、結婚することについて躊躇(ちゅうちょ)してしまい、既婚者にとっては、結婚を解消することについておおいにこれまた躊躇してしまうもの。

 18世紀のフランスの思想家モンテスキューは『離婚は進んだ文明にとって必要である』という格言を残している。たしかに然りとも思う。もしも夫婦のそれぞれがお互い論理的に互いを判断するとすれば、以外にもこれまた容易に『離婚』という回答が導き出されてしまうのかもしれない。

 まず夫婦はお互いを理解しているようで理解しようとしていなかったり、誤解の上に成り立っていたり、あるいは今日も相手に対する『忍耐』によって、結婚生活が保たれていたりもする。あるいは結婚生活について、またまた何かの錯覚というか、思いちがいでもってして、納得していたりもする。

 考えてもみれば、男同士の『友情』であるとか、親子の『きずな』、兄弟『愛』、社会における『慈悲』など、それを説いてみれば以外に素直に納得もゆこうというもの。そういったことはキリスト教では聖書で、仏教では説教で言って聞かせている。例えば『愛せよ』とか『ゆるせ』とか。しかしながらたとえばキリスト教では、教会における結婚式に際して、牧師様はこんなことを結婚しようとする男女に問う。その行(くだり)はというとけっこうしつこく長い。あなたがたは『その健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか。』これはどういうことかというと、つまりどんなときも、四六時中休むところをゆるさないということ。これはかなりきついことなのかもしれない。そしてもしかすると、ちょっと不可能な『誓い』なのでは。

 歴史上、哲学があり、思想がある。多くの思索家たちが、人の知について存在について論理を巡らせてきた。精神分析学までそれはおよんだもの。なのに男女の関係の典型ともいえる『結婚』について、その思考をとことんめぐらせた思想家もいなければ哲学者もいない。それはなぜかといえば、その答は出せなかったよいうよりは、出さないほうが賢いと彼らが思ったからなのかもしれない。

 おかげで何時の世の男女も(というよりむしろ男は)同じ問に苦しんでいる。


426 このすばらしい世界
05/11/21


 ジャズファンならずとも、音楽ファンならだれでも知っていて不思議のない『サッチモ』ことルイ・アームストロング。サッチモがニッと笑うとがま口(satchel mouth がなまってサッチモ)みたいに大きな口に白い歯。その顔がすごく愛らしい。だみ声だけれどしびれてしまいそうな歌声と、すばらしいアドリブのトランペット。

 サッチモの晩年に残した『What a Wonderful World(このすばらしい世界)』という曲がある。メロディーももちろんすばらしく、そして歌詞もすばらしい。内容は「木々や花/みんなのために咲いてくれる/空の青、雲の白/祝福の昼、神聖な夜/美しい虹の色/それは空にも町を行く人々にも平等にふりそそぐ/友人同士握手して“元気かい”、みんなが“愛しているよ”と心から語り合う/赤ん坊が泣いてる/ぼくは彼らが育ってゆくのを見守る/きっと彼らはぼくの知らないもっとたくさんのことを学んでゆく/ああなんてすばらしい世界なんだろう」。

 ぼくはジャズはあまり聴かないけれど、サッチモの明るくスイングするニューオーリンズジャズは好き。軽やかに踊れて、それになんといっても違和感なくボーカルが聴ける。そして心が洗われる。

 ブルースファンならずとも、やっぱり音楽ファンなら知らないものはないB.B.キング(なんとブルースボーイキングの略)。ブルースの起源ともいえるミシシッピー州のデルタ地帯生まれ。自らの愛機ギブソン335エレクトリックギターを『ルシール』と呼ぶ。すばらしい歌声と、絶妙なブルースギター。もう80歳を越えようというのに、2001年にはエリック・クラプトンと競演。世界中で毎年200回以上のライヴをするといわれる、名実ともにブルースの巨人。おそらく歴史上、彼ほどに影響力を持つブルースマンはいない。

 今は亡きサッチモも、今もなお現役のBBもなんともステージはすばらしく、観客は魅了され、生活に生きる希望と勇気を与えられる。そんなエネルギーを観客に送るためには、なんといってもまずは彼ら自身が満ち足りていなくてはいけない。にもかかわらず、これは想像に難くはないのだけれど、毎回のライヴのたびにそういうわけにはいかない。彼らが諸国行脚の巡業の旅路で、いったいどれほどの苦い経験をしたことだろう。ひと言で『人種差別』というけれど、それがいかなる試練であったことだろう。何もしていないのに警察に留置されたことだってあったはず。

 それなのに、かれらのステージはいつも明るい。そして観客を喜ばせるのに余りある。どうしてそれが可能だったんだろう。そんな疑問も当然かもしれない。

 サッチモは『このすばらしい世界』で、この世のすべてのものがすばらしいのだ。と心底から歌い上げる。B.B,キングはステージの途中で、また最後にも、なんともいえず幸福そうな表情で「ありがとう、ありがとう」と観客に訴える。なぜ、どうしてそんななんだろう。世の中が恨めしい事だってあるんだろうに。

 だけど、そんな疑問はまったく無用。サッチモもBBも、観客を音楽で楽しませる以前に、自分がまず楽しんでいる。というより、世界のだれよりもきっと、彼ら自身が音楽によって『救われ』ているにちがいないのだから。

Thank you very much



427 サマーミーティング
05/11/30


 その昔、とある市立中学校に通学していた。学校の近くには岡崎市民の花見スポットならぬ花見街道ともいうべき、みごとな桜並木の連なる伊賀川という川があった(今もある)。なんともさして豊富な水量でもない、または清流ともいいがたいような川。その上流にはなんとと殺場があり、当時は極あたりまえに家畜の血液なぞ流れてきたりなんかするというような、今では考えられないような絶景なのか絶句なのかわからない川なのだった。

 ぼくらのその中学校では毎夏の夏休み、1.2学年の各学級がそれぞれ学校で一泊二日の合宿をするという『サマーミーティング』なる行事があったもの。夕方には学校の南端の照葉樹林で飯ごうでごはんを炊いて、お決まりのカレーを作って食べる『飯盒炊爨(はんごうすいさん)』。夜には上級3年生による『学校の七不思議』なる、ちょっと怖くなってしまうような話を聴かされ。さらにちょっとした仕掛けをほどこした校舎をひとめぐりしてくるという『肝試し』(怖かった)。早朝の自習タイムのあと、これこそが学校当局の仕組んだ大仕事『堆肥増産』と称する、要するに伊賀川河岸の草刈作業なのでした。各自、軍手とタオル、カマ持参。

 この草刈作業、約5〜6m区画ほどの広さを男二人組で貫徹というもの。この作業のあとで風呂に入る代わりにプール開放。さっぱりしたところで解散、帰宅というスケジュール。

 ある夏炎天のもと、ぼくらは順番でそれぞれ、どこから手を付けてよいのか途方にくれてしまうというような、夏草茫漠(ぼうばく)たる河岸の一区画を与えられ、苦行とも思える堆肥増産と称する草刈作業と相成る。

 人通りの多い堤防道路の下なので、草むらの中には何が隠されているかもわからない。家財などの廃物から動物の死骸や白骨など、なんとも気味の悪いスリルもオマケについているからたまらない。本来なら草だけを刈り、首尾よく作業終了とゆきたいところなのだけれど、ぼくらに割り当てられたその場所もそうは問屋が卸さないのであった。区画の真ん中あたりに潅木一本。よくみるとその太い枝に見えたのは、なんと1メートル50センチ以上はあろうというようなアオダイショウだかシマヘビだかの昼寝の大蛇というありさま。

 こんなところで作業はたまらんと、早速先生に上告するも『こんなもん草刈でガサガサやってれば、どこかへ逃げてくもんだ。早くやらんか』とあえなく却下。とほほ。

 それでも『万里の道も一歩から』の格言どおり、とうとうというか、挙句の果てに作業は終了するのだった。いったいあの大蛇、どこへ行ったのだろう。

 学校に一台だけあるオート三輪車に刈り終えた夏草を満載し、小遣い先生運転。馬力不足のオート三輪は学校の中の急坂を自力で登り切れず、これぞ『人馬一体』、生徒一同こん身の力を振り絞り、エンスト寸前の車体を援護するのだった。当時まだ、草刈機などという利器などない時代。

 今も鮮明に思い出す。暑さで陽炎(かげろう)揺れるサマーミーティング。堆肥増産。


428 釣部の忘年会
05/12/07


 ぼくも体力、注意力、瞬発力等の低下が目立つ年頃となってきた。釣が好きなのはいいのだけれど、やはり単独釣行は危険が伴う。道中の交通事故や釣り場での転落など起きてからでは手遅れ。そこでわが釣友のすすめで、某市某町の『釣クラブ』というのに入会したのだった。この釣クラブ、釣友の住む町内のささやかな組織。にもかかわらず、総勢10名のクラブ員のその釣部は創立30年近くの老舗。ただしそれに伴う老齢化もおまけ。

 去る某日、釣クラブの魚供養祭と忘年会。昨夏8月以来、クラブの釣行には残念ながら不参加だったけれど、今回は何が何でもとばかり、なんとか忘年会だけには参加。会場の料理屋についてみると、楽しそうな面々がそろっている。『釣好き』という接点での集まりは、ただそれだけのものなのに、なぜにどうしてこんなに、無条件に楽しいのかしら。というわけで、忘年会ご開帳。

 そんな釣部員参列のなか、ひとりの老人が紹介されたのだった。それはなんとおどろきの人物。だれあろうそれは8月のクラブ釣行の折、ぼくらが救助して救急車のお迎えと相成った、そしてさらにそれっきり音沙汰のなかった、なんとびっくり、あの釣り人であったのでした(関連記事)。

 彼、O氏はあれから近くの市民病院に担ぎ込まれ、頚椎(けいつい)損傷という診断。「たぶん車椅子」とまで宣告されてしまった由。だがしかし、名古屋の専門病院でベテラン医師の手術を受け、運良く成功。3ヶ月以上の入院、リハビリの結果、奇跡の社会復帰を果たしたとのこと。『命の恩人』に感謝感激雨あられ。消防署の電話の着信履歴をもとにこちらを調べ出し、おもむいてお礼のあいさつをということになったとのこと。

 こちらは「釣り場で救助したあの釣り人、一体どうしたんだろう」と思ってはいたのだけれど、そんなにも重大なケガを負い、たいへんなことになっていたなんぞつゆ知らず。それにしても当のO氏、なんともうれしそうな表情が印象的。満場、ほんとによかったという声と笑いであふれかえるのだった。

 そんなこんなの釣部の忘年会。近年のぼくの経験では、こんなに楽しい宴会なぞついぞなかったんじゃないかしら。ただお互い釣が好きなだけで参加しているクラブなのだけれど、どうしてこんなに楽しいのでしょう。なにか日頃の由無し事があまりに情けないおかげで、釣クラブの集まりが余計に楽しさ倍増ということになるのかもしれない。まだ何回も顔を合わせたことのない部員の方々なのだけれど、ぼくにとって、なにか百年の既知の友のような気さえしてしまう。

 早速次の釣行の話しが持ち上がり、さらに新年初釣りの計画が、盛り上がる宴席のなか一気にまとまってしまうのだった。さらにO氏、釣部に入部も決定。

 お礼にとO氏の持参してくれた金一封がたいまい多すぎると、一部をお返ししなければというのだけれど、なんと彼に説教が付いてしまった。「これはあくまでも奥方に返却するお金なのだから、これで内緒で釣竿なんぞ、絶対に買うんじゃないぞ」だって。うーん、ありそうな話。
05/08/07 釣部の釣行にて


429 新調ズック靴
05/12/13


 昨今の子どもたちにとって『もの』とはいったいなんなのだろう。世の中は不景気だからかどうなのか、ものの値段は下がる一方。それでもどこからそんなお金が出るものか、子どもたちはいともたやすく高価な『もの』を手に入れる。

 そのむかし、世間の親というものは、我が子に少しでもいいものを着せてやりたいと、おそらく昨今の親以上に思ってはいた。ぼくが子供のころには、父親の通う会社から満足に給料も支払われない家計にとって、今夜のごはんの心配をクリアーした上でないと『もの』を買おうという話なぞ家族会議にのぼることさえなかった。

 お父さんのほしいものといえばあたらしい『煙草入れ』。お母さんは『ウサギの襟巻き』。ぼくは新調の『ズック靴』、てな具合で、昨今からみれば涙ぐましいともいうべき代物ばかり。だからクリスマスだとか、誕生日の前には、ほしいもののことで頭がいっぱいになっているのだった。

 そんなささやかな夢の品々の幻想がぐるぐる回ってはいるのだけれど、自分が養ってもらっている当の我が家の家計では『ズック靴』さえも危ういということぐらい重々の承知。とはいえ、さてさて当のズック靴、買ってもらったときには自分の足のサイズより余裕の大きさだったにもかかわらず、今に至っては成長してせり出した親指の先が生(しょう)が抜けかかったズック生地を突き破りこんにちは、てな具合。これぞてめえの息子の成長の証し、「くやしかったら新調してみろ」といわんばかりに玄関に脱ぎ散らかすも、子も子なら親も親。「かたっぽに開けた穴なら、もう一方にも開けてみろ、今畜生!」とばかりに無視。それでも我が子の遠足なんぞが近付いてくると、せめてそんなときにはあたらしいのを履かせてやりたいと思うのが親心なのか(はたまた安っぽい見栄だったりもして)、しぶしぶ電車通りの履物屋へ我が子を連れて行くのだった。

 さて履物屋のガラス戸をガラと開けて店に入るや、子と親とは目の行くところがちがう。店のオヤジと子どもは同じ志向でスポンジ底のかっこいいやつ。親の目は生ゴム底、かざりっけなし、実用本位の安いの。ところが履物屋には意外な落とし穴。お母さんの目当てのズック靴には豊富なサイズが“ございません”。しぶしぶながらスポンジ底のズック靴・・・ということに。ただし「どうせじきに大きくなって履けなくなるんだから」と今回もワンサイズ大きいのを指定で母親最後の攻勢。結局ぶかぶかのつま先には新聞紙の丸めたのが詰め込まれるのだった。

 遠足も近付き、先生の説明には「靴ズレができるので、履物は慣れたのを履いてくるように」。とあれほど口酸っぱく言っていたのに、純白の新調ズック靴を枕元に、いつもより早いご就寝と相成る。眠りにつく前にすでにまぶたの裏側では、晴天の野道を陽光を受けかがやく軽やかなわがズック靴の夢。

 秋晴れ晴天の翌日。昨夜の明朗なる夢も暗転、遠足の往路途中にしてはやくも靴ズレ発生、ヒェー痛てー。「だから新調はあかんといっただろう、馬鹿もん!」と先生からも小突かれる始末。ざまあみろとばかり、だれからも可哀想がられることもなく、泣く泣く歌声響く遠足の列を追い、足を引きずる苦行の一日。そんなあわれな子どもが2、3人はあった秋の遠足。



430  
05/12/21


 温暖化だ、異常気象だとさわいでいたら、今度は記録的な大寒波ときた。名古屋市などでは、昭和22年以来の積雪となった由。ぼくは26年生まれなので、そのような経験はないはずなのだけれど、子供のころ、ぼくの育った岡崎でも30cmほどの雪を経験したような気がする。ぼくの長靴がすっぽり入ってしまったという鮮明な記憶もちゃんとある。さてあの大雪寒波は一体いつのことだったのだろう。

 あるテレビで、視聴者の依頼することを敢行するという娯楽番組があり、その中で「むかし子供のころ、30cmくらいのバッタをよく見かけたが、最近は見ない。探してほしい」というのがあった。依頼者は両手の人差し指で「これぐらい」と言い、その大きさを示す。結局そんなバッタ発見できるはずもなく「見付けた方は情報お寄せください」というお尋ねで番組は区切られた。

 なんとなく納得せざるをえないのだけれど、結局ぼくの記憶にある大雪というのは、あくまでも幼かったぼくのからだの大きさで測ったもので、せいぜい15cmくらいのものだったのかもしれない。要するにぼくはそれほどに小さかったということ。家から1.5kmある小学校への距離も、ぼくにはとんでもなく遠く感じられたもの。

 だから岡崎を流れる一級河川『矢作川』も、当時のぼくには大河だったし深かった。もちろん今の矢作川より水量もあったであろうし、深さもあったのかもしれないけれど、ぼくの記憶ほどではなかったのだろう。

 人は(生物は)みな、自分の尺度でものごとを判断する。その背丈、肩幅、歩幅、手幅など。だから対象となる『もの』の見かけの大きさや距離は、おとなと子どもとでは大きなちがいがある。

 では『事』についてはどうなのかしら。入学式、運動会や遠足、学芸会、卒業式、クリスマス。やっぱり小さなぼくにとって、それらのすべての行事はたいそうなものだったような気がする。思えば時間も今と比べたらずっと長かった。だって楽しみなはずの『お正月』も、いやでしかたのない『体育測定』もなかなかやってこなかった。

 考えてみれば、くりかえされる数々の経験が、事柄を大したことのないものにしてゆくのかもしれない。また肉体的な成長というか老化に連れて、時間の尺度も短くもなってゆく。まったく、それでいいのかよくないのか、判断に苦しむところだけれど、とにかく子供のころと今とではいろんなことがちがいすぎるくらいにちがう。

 それでは『夢』についてはどうなのかしら。世の中の子どもでもおとなでも、老若男女だれにでも『夢』はあるのだろう。けれど、気付いてみればこれだけは、おとなよりは子どもの夢のほうが大きいんじゃないかしら。世界旅行だ。宇宙飛行士、大統領など。ぼくも、世界は自分の力で変えられるんじゃないかしらと考えていたこともある。

 いろんなものごとの色もあせ、夢もこれまでかとあきらめる。でもそれではいけない。自分は未熟で子どもにちょっと毛の生えた程度。「子どもにできないのなら、おとなのぼくがやってやろう」なぞと考え直してみれば、なんとまだまだかなえられそうな大きな『夢』もたくさんあるのです。