591 老猫かま
14/05/12
 我が家には四ツ足の同居人が5匹いる。1匹は犬で、2代目きく雌、今年3歳。あと4匹は猫で、若い順で、今年8歳の雌『クロ』と雄『トラ』。同じく14歳の雄『まるこ』。そして『かま』雌19歳。

 この19歳になる『かま』という猫について。道長だよりを紐解いてみると、その43号に登場している。ちょうど道長が岡崎から旧音羽に作業所を移転した年、岡崎の実家で一匹のクロトラ雌を拾ってきたのだけれど、これがすでにご懐妊であることが発覚。2ヶ月ほど経った夏に3匹出産してしまった。その内でいちばん器量の悪い猫が残ってしまい、長い経歴の末、今音羽に居る。昨年86歳で逝った母が、岡崎から音羽に移った2009年に『かま』もいっしょについてきた。

 宮沢賢治の『猫の事務所』によれば、夏に毛足が短く生まれてしまったためこの手の猫は寒がり。で、寒い夜は余熱のある釜戸の中で寝ることになり、結果、ススだらけになってしまうから、この紋様の猫を通称『かま猫』と呼ぶのだそう(業界用語では『さび猫』と呼ぶ)。

 『かま』について。元の飼主ちゑ子に似たのか、非常に気位の高い性格。けんかは弱いくせに、決して負けたことを認めない。まだぼくが岡崎の実家に住んでいたころ、猫は出たければ外に出していた。当然のこと、猫は外に出れば他の猫と出会う。特に弱い猫のテリトリーなぞ、近所のボス猫に侵害されっぱなしで、本拠たる家の中にまで侵入される始末。完全にやられっぱなしにもかかわらず、今日も今日とて外出の折、またしてもボス猫と遭遇し、追いまくられて敗走。のはずが、本人は負けたことを認めようとせず、ボス猫の前で終始威勢を張っている。まったく懲りもせず。

 19歳といえば、人間で言えば100歳くらいかもしれないのに『かま』は性格が丸くなるということがない。音羽に移籍後、飼主たる我が母ちゑ子が逝った後も、他の3匹の田舎猫とは肌が合わないとばかり、同じ家の中に同居していても、寝食を共にすることを好まない。冬の暖房付寝床は『かま』だけ別にしつらえる。かなりな高齢のためか、硬いペレット状のフードは受付けず、ひたすら『カルカン』かつおのシラス添えか、たまの人間用焼き魚、煮魚のみ。
 道長のすぐ前が県道で自動車の往来が激しいため、わが家では猫は外へは出さない。飼主は営業日には昼食以外めったに家には入らないため、猫たちはそれぞれの閑を寝たり起きたり食ったりで過ごしている。家主が仕事場からもどると、なにやらギャーギャー叫ぶがごとくの『かま』の声。なんとなく、こちらが叱られているような気持ちにさせられてしまうところが不思議。「仕事はどうだった」「お前もいい歳、しっかりせにゃあかんぞ」とでも言いたげ。そのたびに86で逝った母ちゑ子を思い出してしまう。もしかするとこの猫、わが母の魂を受け継いでいるのではないかしら。

 健忘症も進行中なのか、さっきやったばかりのカルカンをもうせがむ。うるせえ!と思う気持ちを抑え、これも老猫『かま』に取り憑いた母ちゑ子の娑婆への余念なのか、はたまた未だに頼りないバカ息子への叱咤激励と感謝し、残り少ない老猫の余生、小分けのカルカンが母への供養となればと、ありがたくお供えするのであります。

さび猫 かまちゃん
今年夏で19歳


592 姉節子
14/08/26
ぼくの3つ年上の姉節子が和太鼓のグループに参加していて、その演奏会を観てきた。彼女、60も半ばを過ぎてきたこともあり、体力の限界を感じてか、そろそろ現役引退を考えているとほのめかした。昨年5月、母ちゑ子が86歳で逝き、ぼくにとって直接の血のつながりのある人物といえば姉節子ひとり。

ぼくにとって、姉がひとりだけというのはちょっとさみしい。これがおなじ男の兄弟だったらという気持ちもなかったといえばそうともいえず、強く否定することの能(あた)わざる様子。

姉節子、どうやら父の血を強く受けていると見え、かなりの頑固強情な性格をしている。よく言う『てこでも動かない』という言葉があるけれど、彼女の場合当然至極のように、さらりと我を通してしまうところがある。父親がまさに『石橋をたたいて』もなお渡らない性格で、自らを『石部健吉』と呼んでいたけれど、それを節子なりにけっこうしっかりと昇華し受け継いだといってよい。

対してこのぼくはといえば、頑固ではあるものの、意外とたやすく方向転換もするし、踵(きびす)を返すごとく、人の言うことに気持ちをなびかせる性格であったりする。ただし、優柔不断とはちょっとちがって、即断即決が基本的な信条であったりする。これは、父常一と母ちゑ子とのミックスが原因で起こる短絡的な現象かも。慎重と尻軽、この一見矛盾ともいえる双璧たる性格なのだけれど、これが吉と出た場合「お見事!」ということになる。ただし、これが凶と出てしまうことも多々あり、熟考した割には気分的なタイミングで行動に移すため、あとでしまったということにもなる。

性格の長短について分析していても仕方ないので、話を姉節子にもどす。ぼくは性格的に、父母とはあまり仲睦まじいという間柄ではなかったといえる。日常の会話が、いつの間にかお互い不愉快、さらには険悪といった状況に陥ること幾多。だから、なるべく話をしないでいることが、無難な付き合いの秘訣であったように思う。これもまた、相手を思う気遣いというもので、切っても切れない肉親の関係では致し方のない選択肢であったりもする。

姉節子も性格が似ている割には、父常一と激烈な衝突をしたことがある。高校を卒業して就職後、ビートルズやグループサウンズが好きだった彼女、エレキバンド(コリを取るエレキバンとはちがいます)に入り、キーボードだかのパートで練習を始めた。岡崎の繁華街のライブ喫茶かなにかで演奏をやっていた。それを知り、父は憤怒し、何が何でも絶対反対。反社会、不良、親不孝、不健全、低俗とばかり、練習の迎えに来たエレキバンド仲間に、一方的且つ頭ごなしの決別脱退を宣告したのだった。おまけに当時東京武道館に決定していた英国のビートルズ公演の貴重な入場券さえ返させる始末で、節子は泣くは叫ぶの大荒れ憤激の有様だった。

太鼓をたたき、上機嫌な姉節子を見ていたら思わず考えてしまった。姉節子とはもう60年以上の付き合いということになり、切っても切れないつながりなのだけれど、姉弟の関係とは一体何なんだろうと、ひたすら浮かぶ疑問符に、しばし、時の流れを忘れてしまったのだった。

兄弟姉妹、いろんな関係、綾がある。仲がよかろうとたがおうと、切っても切れない縁(えにし)の縁。お互いが死に、記憶から消え果てるまで関係は続く。どうせなら気を使い、今の関係を保ってゆこうと思う。
姉節子とお連合い


593 老猫かま逝く
14/11/17

 道長ではいちばんの長老長寿を誇っていた老猫『かま』めすが逝ってしまった。2014年11月9日の日曜日夜。19年4ヶ月の生涯。なんとさびしくなってしまったことだろう。

 外出から帰宅したぼくは、夕食後、連合いとふたり。かまちゃんはいつものようにカルカン鰹のシラス添えを食べ、腰掛に座るぼくの横に寄り添ったりひざにあがったりしていた。腰掛はそんなに広いわけではないから、ぼくはちょっと横によけて半座りの状態。連れ合いはちょうどトイレに入った頃だった。

 ぼくのひざにでもあがろうとしたように思えた刹那、バランスをくずしたかのような、変な感じをおぼえたのだけれど、そのままかまはバランスを失い、無様に腰掛から落ち、横たわったまま動かない。途端、異変を感じ、大声で連合いを呼ぶ。かまに向かって再三呼びかけるも、返事はなく、ただただむなしいかまのまなざし。あまりに突然で、あっけなく、かまは逝ってしまったのだった。

 母ちゑ子と寝食をともにし、他の猫(3匹いる)とは交わらないよう、母の部屋で過ごしていたのだけれど、昨年5月、母ちゑ子が逝ってからは、思い切って4匹で雑居をさせるようにしたのだった。が、しかし、それが功を奏したのかどうなのか、他の猫3匹と適当な距離を保ちつつ、時々は威嚇のフーッをけしかけつつ、けっこうビビッドな日々を過ごすようになったのだった。体格、毛艶とも良好に。

 とはいえ、相変わらず、「田舎猫とは品格がちがう、気品がちがう」とばかり、そのサビ顔に似合わぬ上から目線の見下しぶりを最後まで貫き通す気丈さには、凛とした気高ささえ感じてしまうほど。

 道長だより591号でご案内のとおり、19年前、岡崎で捨てられていたのを拾われてきた母猫『みく』から三兄妹として生まれたサビ猫『かま』。その器量の悪さゆえ、売れ残り、そのまま我が家の飼い猫となったのだった。
 考えてみれば、母猫とも死別までいっしょに居られ、愛情を受けることもでき、ちゑ子とも永年過ごすことができ、さらには岡崎市から宝飯郡音羽町(後に吸収合併で豊川市)への転地という、変化にとんだ一生を過ごすという、経験豊富で幸せな猫人生であったのかもしれない。

 かまちゃんが逝ってしまったあと、残った田舎猫トリオは、なんとなく平穏になった狭い我が家の空間の中で、ちょっと拍子抜けしたような、たるんだような時の流れを感じているのではないかしら。

 今、かまは、3年前16歳で逝った愛犬きくのとなりに眠っている。19年間のかまとの思い出は幾多。個性強く、気丈で誇り高く、器量に似合わず気品さえ漂わせた姿。なんとなく、けっこうきつめな目線で他の者を見、空(くう)をつらぬくがごと『ギャー』の一声も、ぼくへの叱咤激励であるかのようでありました。母ちゑ子の亡きあと、道長の家を仕切るのはこのサビ猫『かま』じゃぞえ。とでも言わんばかりの存在感でありました。実に立派な、大往生ぶりでもありました。

 ともに過ごした年月、なんと、たのしい想い出になってしまった。今、母ちゑ子のもとで過ごしているのだろうか。そちらに行っても、せいぜい可愛がってもらうんだよ。かまちゃん、永い間ありがとう。


2004年3月母猫みく(右)と


594 スコッチウィスキー
15/02/03

 朝ドラで、スコッチウィスキー造りを目指す日本人の話をやっている。クセの強い元祖スコットランドのスモーキーな風味のシングルモルト・ウイスキーは日本人の味覚には合いにくいけれど、それをあえて追求する男とそれを支えるスコットランド美人妻の話。

 ある新年会の帰り、ちょっと寄っていこうと、ショットバーに連れて行かれた。そこでの話題は、目の前の棚に並ぶスコッチウィスキーということになり、下戸(げこ)で漬物屋のぼくにも興味津々なのは、漬物も酒も発酵という語でつながっているというのがその理由。

 そのショットバーで、典型的なスコッチはこれだということで、まずは○ッカの『余市』とかいう銘柄を試飲。かなりのクセ。これがスモーキーというのかしら、うーん。さらに決定版というので『ラフロイグ』という、これこそは本場もの。恐る恐るグラスに口を近づけるとまず、目にツンと来、さらにはあの歯科などのお医者さんでおなじみの、ヨードチンキというか、セメダインにもつながるような臭いが鼻を突く。いわゆる『目ピリ鼻ツン』というやつ。これはとても『香り』とは言い難く、まさに『臭気』。う〜ん。やはり医療関係に愛好家が多いとのこと。

 ふと、ぬか漬けでこんな経験を思い出す。めんどうだ、飽きた、忘れてたなどで放っておくと、ふたを開けたら、あら不思議。シンナーとかセメダインのような、ぬか床が放つ刺激的かつ化学的な臭気に思わず絶句。

 これは、エステルという芳香物質によるいたずらだそう。エステルとは、インターネットで検索すると、アルコールやフェノールと酸の一種が結合してできる化合物、というようなことのよう。「ほのか」であればフルーティなかぐわしい香りなのだけれど、度が過ぎるとそれこそ嫌な『臭気』となってしまう。一例に、頂き物のメロンを放っておいたら、セメダイン臭で食べられなくなってしまった、なんてこともあります。にもかかわらず、さすがスコッチ、ここまですごい臭気でも、ファンにとってはたまらないのだからわからない。

 もうひとつ。苦味。これについても、スコッチに至ってはけっこうきつい。一方、食品で苦味はご法度と思うとそうでもない。糸引納豆然り。味噌、チーズなどにもまた然りでほのかな苦味がある。これを『苦味ペプチド』と呼ぶそうで、これもわずかに含まれると食品も「おいしい」ということになる。

 ふと、ぬか漬けでこんなことがあったのを思い出しました。これも塩分不足気味で、ぬか床を世話もせずに放っておいたら、臭気はさておき、きつい苦味がついてしまい、とても野菜を漬けこむどころじゃなくなってしまった。これもぬか漬けでは、取り返しの付かない失敗。でもしかし、これを日本酒や焼酎、スコッチに当てはめれば、苦みばしった男の味で「うまい」ということになる。まったく「ところ変われば品変わる」じゃないけれど「うまい」と「まずい」の境目がどこでついているのかわかりません。
 よく、味の5大要素に、甘味、酸味、塩味、苦味、うま味が挙げられるけれど、このバランスがくずれると『まずい』ということになる。がしかし、このバランスが極端にくずれたとしても、時と場合によっては『うまい』ということになってしまう。

 世の中に『下手物(げてもの)』というのがあるけれど、『まずい』はずのそれを『うまい』と定義付けた食のパイオニアの諸兄には、まったく頭の下がる思いでいっぱいです。


595 Mr. Bojangles
15/03/21

 1970年ころのアメリカで Nitty Gritty Dirt Band というフォーク・ロックバンドがあり、ぼくはそのLPレコード『Uncle Charlie and His Dog Teddy』を聴き、一発でやられてしまった記憶があります。その曲は、そのLPの裏面のはじめに収録されていて、年老いたチャーリーおじさんとその愛犬テディが登場するところから始まる。テディはチャーリー叔父のハーモニカに呼応し、高らかに唄うのだった。

 そのイントロダクションから、まことにすばらしいタイミングで始まるのが、名曲『Mr. Bojangles』。この一連を聴くにつけ、音楽とはなんとすばらしいことだろうと実感してしまう。

 この曲は米国のカントリーシンガー Jerry Jeff Walker の1966年に作曲した曲。さして歴史的な曲でもありません。♪俺がニューオーリンズでくすぶってたとき、Bojanglesっていうドサ周りがやってきて、踊ってた。かれは年老いて、身なりもよれよれだったけれど、きりっとしていて、高くジャンプしたかと思うとかっこよく踵(かかと)を鳴らし着地したもの。♪俺を見つめて、人生を語ったものさ。♪彼が涙交じりで語ったのは彼の愛犬の話。15年も連れ添った愛犬の死を、20年経ったそのときもまだ悲しんでたそうだ。♪ホンキートンクが始まると、酒代を稼ぐため踊ってた。♪誰かが彼にせがむんだ。Mr.Bojungles 踊っておくれ、と♪。というような歌。

 彼 Bojangles とは1920年代、米国でははじめての黒人ボードビリアン、Bill“Bojangles”Robinson のことといわれています(Sammy Davis Jr.もタップダンスを教わったといわれる)。

 この曲『Mr. Bojangles』に登場する、ドサ周りの Mr. Bojangles と名乗るその男は、それほどにタップダンスがうまく、それに連れ込まれ、皆はそのひと時、陽気に喜びを分かつことができたのだろう。

 かつて世界には、テレビもなく、映画はあっても観る機会がなく、片田舎の貧しい者たちの唯一の喜びは音楽であったのかもしれない。苦しい労働の日々、楽しみなのは本当にたまにある町や村の祭などで音楽に合わせて踊ること。ミンストレルショーとか、メディシンショーなどといった、いかがわしい旅芸人のショーなんかでさえ、それを観覧することはなんと幸せなひと時であったことだろう。

 アメリカ。開拓時代のかつてのアメリカでは、忌まわしい人種差別もあった。大自然との過酷な闘いも。人びとは日々貧しかったけれど、そこには夢があった。Mr. Bojangles なる、おそらくは偽者 Bill Robinson なのだろうけれど、そんな大スターがニューオーリンズのいなかに来るはずがないけれど、人々はそんなこと百も承知なのに、その華麗なダンスに一喜し、希望を持つことができ、幸せにだってなれた。

 それに引き換え、現代という時代はどうだろう。巷にあふれかえる偽っぽい本物の数々。本当の本物でさえ、使い捨てされてしまうご時世。すきあらば、容赦なくつけ込んでくる合法的な商法。夢も希望も、チープな値段で取引されてしまう。

 チャーリー叔父と愛犬テディのイントロから始まる『Mr. Bojangles』。ラジオと擦り切れレコードと蓄音機しかなかった古きよき時代を、もう一度よみがえらせてくれる名曲です。



ジャケットの一部のチャーリーと愛犬テディ


596 戦後70年
15/09/14

 ぼくは昭和26年に生誕。もう64。そして、今年は戦後70年だそう。ここ豊川市でも70年前の夏におこった、陸軍豊川工廠(こうしょう)の被爆を記して式典が行われていた。当時、軍需工場で働いていた学徒を含め、2千名以上の命が散ったといわれる。

 今年で3回忌となったぼくの母も、岡崎市であった大空襲の模様を文に残していて、あまりに衝撃的で、悲惨な出来事を前に、ただ呆然と茜に染まった夜空をなきながら眺めていたと書いている。当時、母は19歳。

 ぼくが小学生のころ、そこかしこにはまだ、戦争の名残があった。どうして洞穴があるのかわからぬまま(実はそれは防空壕だったのだけれど)気分は探検隊だった。懐中電灯で探ってみると、奥で浮浪者が残したと思われる、火を焚き、寝食をした痕跡を見つけたりし、なにやらぞっとしたことをおぼえている。

 春一番が吹くころ、天神さんにお参りに行った。参道のいかがわしい露天に混じって、石鳥居かなにかが邪魔をして店の出せないような場所で、白衣に軍帽の傷痍軍人が二三人、無言で立っていたもの。その行為が何を意味するのかわからぬまま、怖いのか後ろめたいのか、足早に通り過ぎたと記憶する。

 その当時、世の中は平和で、ぼくが生まれる数年前にあまりにも忌まわしい出来事があったことなぞ、まったく実感もしなかった。なぜか父母は、幼いぼくに戦争の思い出を語ることがなかった。父は、ぼくが物心付いてから、自分は断固として小銃の筒先を人に向けたことがなかったと話してくれた。

 会社員の父は休日、ぼくと姉をハンドルに取り付ける小児用補助席と荷台にくくりつけた竹ふごに乗せ、自転車で数キロはなれた在所に連れて行ったもの。自転車の前輪は、タイヤが破れかけていて、そこからはみ出しかけたチューブが泥除けに擦れ、カタン、カタンと悲しげな音の拍子を奏でていたのを記憶する。悪路にペダルをこぐ父は無言で、ただただ吐息が聞こえるだけだった。

 ビデオで『イキのいい奴』というのをインターネットで見つけ、レンタルで観た。やはり戦後間もないころ、シベリア帰りの一刻すし屋と、それを取り巻く浅草の庶民が織り成す人間模様のNHKテレビドラマ。
 向う三軒両隣は家族も同様の付き合いで、貸したり借りたり、行ったり来たり、世話を焼いたり焼かれたりが日常だったころ。人々はあまりの世間の変貌様に戸惑い、何かが失われつつあることへのささやかなまでの抵抗を試みるのだった。
 このドラマが放映されたのが1987年(昭和62年)。景気の高下が頻繁で、そろそろ陰りの兆しも見えるころ。外資系大手資本が入り込み、元来の商店小売店に秋風が吹き込む時期だった。でも世間は、義理だ人情だが、まだ幅を持てる時代ではあったような気がする。

 『欧米化』のはやり言葉も久しく、すでに世間は米国化の波に鵜呑みのように飲みこまれてしまっている。そろそろ、戦争の経験者が姿を消してゆく昨今。『物』とはなにか、『人情』とはなになのか。ぼくらは今一度、考え直す必要があるのではないかしら。

 まずしかったけれど、一期一会、それ触れ合うも他生の縁。そんな時代がなつかしい。

主題歌 2番の歌詞、気が利いてます


597 左手首骨折
15/12/11

 いよいよ師走のかきいれどき!という矢先、不肖、64歳にしてわたくし、不覚にも左手首を骨折してしまった。高いところの柿の実を採ろうと脚立を伸ばし、登って高枝ばさみを使った。それを持ったまま、横着にも前向きに手放しで降りようとしたのがまずかった。(注:脚立は伸ばしたとき、中間部の段の幅が違う)一瞬左足が空を切るのが見えた。「落ちる!」と思った刹那、次に目に映った場面は、ちょうどビデオカメラが落ちて地表すれすれを無意味に撮ってるの図。身体に感覚がなく、頭以外が宙に浮いてる感じ。首から下が動かない。なすすべもなく、そのままただ連れ合いがこちらに来てくれるのを待つ数分間のいかに長く感じられたことだろう。その間、もしかしたら、これでだめになるのかもしれない・・というあってほしくない不安がよぎる。大声にならない「助けて!」のむなしい叫び。

 やっとのことでぼくを見つけてくれた連れ合い、あわてふためき119番の救急車を呼ぶのだった(自分自身がそのお世話になったのは今回が初めて)。

 病院へ搬送の途、次第に手足が動くようになって来、わが身の無事を救急隊員に語りつつ、自らにも、強く言い含めるのだった。しかしながら、しびれと痛みでどうにも動かないという深刻な事態となっているのが左の手首。

 豊川市民病院着で、頭部・頸部、腕などのCT、レントゲン写真の結果、左手首の『橈骨遠位端(とうこつえんいたん)骨折』とのこと。手術を勧められたものの、断ったため、再びレントゲン室で損傷した骨を元の位置に戻す整形作業となるのだった(その痛さはご想像のとおり)。

 本日12月11日、すでに事故から3週間が経過するものの、就寝時に鎮痛剤が欠かせない。骨折のほかにも、腕の打撲も相当にきびしかった模様でうっ血による腫れがなかなか引かない。今は三角巾の吊り手が取れ、無理のない程度にとにかく使いなさいとのこと。

 当分は、全身打撲の影響で、極度な神経興奮状態にあるらしく身体の感覚がおかしい。風呂に入っても、熱いのかぬるいのかわからない。感覚も鈍っていて、寒いのか暖かいのかわからない。こんなことで大丈夫なのかしらと思うのだけれど、時間はかかるものの回復はする見込み。
 今回の事故は、ぼくの人生で、かなりの大きな不祥事ということになりそう。骨折ですんだからいいようなものの、頭から落ちる、あるいは硬いものの上に落ちるなぞしていたら、今ごろ、どんなことになっていたのか想像することすら恐ろしい。

 教訓:高所でもっとも怖いのは、本人にとって『怖くない高さ』。はしごや脚立を使うとき、昇り降りは必ず段を両手でつかみ、手放しや階段を降りるときの体勢をとらないこと。

 骨折は小学校以来。道長のスタッフのみなさま、ご迷惑を深くお詫びします。
痛々しい左手


598 Bagdad Cafe
16/01/07

 バグダッド・カフェという映画を観た。1987年、ドイツ映画(意外にも)。原題『Out of Rosenheim(ローゼンハイムを飛び出して)』。

 『バグダッド・カフェ』はカリフォルニア州モハーベ砂漠にあるひなびたドライブイン。その店を切盛りする黒人女性ブレンダと、森林に恵まれたドイツの地方都市、ローゼンハイムからの旅行者ジャスミンという中年女性との人間模様。

 このふたりの女性に共通するのは、いずれも亭主に愛想をつかせ心すさぶ点。そんなふたりが交流するうち、心を支えあう、切っても切れない相棒同士になってゆく。

 亭主と別れてドライブインに転げ込んだジャスミンは太ってるけど美人。人をひきつける不思議な魅力の持ち主。彼女が繰り出す楽しいマジックで店の雰囲気は一転するのだった。でも彼女、旅行ビザしか持たないため、仕方なくドイツへ帰国となってしまう。当然ながら、店は元どおり殺伐。

 それでもミス・ジャスミン、やっぱりテキサスに帰ってきてしまいました。バグダッド・カフェのショータイムは再開され、さらにパワーアップ。歌で演出するブレンダの美声。その息子のリズミカルなピアノも相まって、店はさながらミュージカルシアター。さびれていた店が活気を得、多くの長距離運転手が集う、まさに砂漠のオアシスへと一変するのだった。

 とはいえ、ジャスミンは今回も旅行ビザ。でも、たったひとつ、その問題を解決する方法が・・・。バグダッド・カフェの敷地にモービルハウスで住んでいる、元俳優、自称画家のルーディという初老の男性が、彼女に結婚を告白するのだった(そうすれば彼女はアメリカ国籍)。そのときのジャスミンの答えは・・・「ブレンダに相談してみる」だった。(ルーディ役はかつての西部劇時代の名悪役ジャック・パランス)。

 バグダッド・カフェは、かつての米国の大動脈『ルート66』。けれどそのすぐ北には、ニューヨークとロサンゼルスを直結するさらなるフリーウェイ『ルート40』が取って代わってしまった。この映画が公開されたのが1987年。その2年前の85年、66号線は国道ではなくなってしまっている。自動車社会のアメリカの歴史の中で、東と西を対角線状に直結する道路は米国の念願として変遷してきた。ジョン・スタインベックの『怒りの葡萄』も、まだ舗装されていなかったころの66号線。まさに米国の歴史とも言える。

 今では自動車のほとんど通らない66号線だけど、ローゼンハイムとは比べ物にならない殺伐とした砂漠の只中だけど、そこにはいろんな事情の人々が居て国際的。そしてあたたかな心がある。
 かつて人々はヨーロッパから米国に渡り西へ西へ、夢の国、新天地を求めた時代があった。人種差別もあったけれど、不毛の地だったけれど、みな肩寄せあい、夢を持ち、明るく暮らそうと一生懸命だった。バグダッド・カフェを尻目にフリーウェイ40号線は疾走するけれど、ちょっとスローダウンすれば、こんなところにだってかつてのアメリカがある。いえいえ、かつてのアメリカがあってほしいと、この映画は訴えている。

 非現実的な照明、色使い。写真を見るような映像も印象的。主題歌 Calling Youもすばらしい。


599 S先生
16/05/28

 もう50年以上もむかし、小学生のころ。部活動のはじまる4年生になったとき(昭和36年1961)。ぼくらは、大学を卒業したての男性新任S先生に受け持ってもらうこととなった。S先生の担任は、そのまま6年生までだった。

 S先生との思い出。なにしろ、S先生は新任ということで、フレッシュな風貌で若さ満々。まだ、教師という仕事に慣れないからこそ、いろんなことに熱意がこもり、それがぼくらにも伝わってくるのだった。

 S先生との思い出はいくつかある。印象深いのは、ひとつは先生の家(岡崎市の東、山中町)に、クラスの何人かで遊びに行ったときのことと、もうひとつはソフトボールの部活。

 名古屋鉄道の電車で豊橋方面『めいでん山中』という駅で降りたぼくらは、先生がお迎えで彼の実家に寄ってから、たしか、桑谷山(岡崎市の名山:くわがいやま)に登った記憶がある。道中の思い出はもう消えてしまったけれど、晴天の下、頂上から三河湾が望めたことだけははっきり覚えている。

 ハイキングにお弁当がいるでしょうと、先生のお母さんがぼくらにを持たせてくださったおにぎり。たしか、海苔も巻いてなかったような気がするのだけれど、真っ白なごはんが太陽にキラキラ輝いてこれがまたすごくおいしかった。途中、小川に群れる魚たちに胸躍らせたことも忘れることができない。

 そんな、先生の実家にあそびに行った時の印象は、田舎づくりの家がとても大きかったこと。そして、何とも言えず、その家があったかな雰囲気だったこと。そして、電車の駅から先生の実家までの間に、田んぼ以外に何もなく、一面、稲の緑が美しかったこと。

 もうひとつの思い出といえば、ソフトボールの部活。運動神経はよろしくなかったけれど、気持ちは体育会系(体は文科系)のぼくは、4年生からソフト部に入った。もちろんレギュラーにはなれず、守備はセンターの補欠だったと記憶。当時、プロ野球では、中日ドラゴンズの中堅手に『中(なか)』という選手が人気で、ぼくの気分もセンター中。当時、ぼくらの岡崎市立井田小学校のソフトボールクラブは、市の大会では常に優勝するほどすばらしい選手ぞろいだった。

 そのソフトボール部の顧問となったのが、大学を卒業し赴任したてのS先生だった。けっして厳しくはないのだけれど、黙々とした熱血指導がぼくらの絶大な信頼となっていった。つるべ落としの秋の授業後、薄暮までの練習をし、片付けが終わって帰るころには、辺りはすっかり暗くなってしまっているのだった。
 そんな遅くまでがんばっているのは、実はぼくらだけではないのでした。ぼくらが部活が終わってもなお、給食室の電気はこうこうと明るくともっているのだった。時々なのだけれど、ぼくらの懸命な部活動を知ってか、給食係のおばちゃんが、いじらしくも気の効いたおやつをぼくらに持たせてくれるのだった。そのおやつというのは、給食で余った食パンの耳ばかりをてんぷら油で揚げて砂糖をまぶしたもの。新聞紙に包んでくれるそれを食べながらの帰り道は、ぼくらだけが特別なような、しあわせいっぱいで楽しかった。

 卒業後、S先生とは50年以上会っていないけれど、やはり岡崎市に在住とのこと。先日、電話で元気な様子を確かめることができた。S先生、ありがとう。またの再会を楽しみにしています。
S先生とぼく(1961)


600 自転車
16/09/21

 最近、古い自転車を修理しなおしてまた乗っている。体力づくりをしないといけないということと、もともと自転車に乗るのが好きだったため。

 とはいえ、風が吹き抜ける、ビニールハウスの骨組みにシートをかぶせただけの物置屋根の下に20年ほども放っておいたその自転車はひどく痛んでしまっていたのだった。ほんとなら、新調してしまいたいところだけれど、なにせぼくが死んだ父から譲り受けたものでもあり、さび付き、痛ましい限りのその姿を見るにつけ、ここはとにかく修理して復元してやらなければという思いもあったのだった。

 いざ復旧となるのだけれど、各所ともひどい状態。チェーンやブレーキ、サドルなど、完全に腐食。特にペダルとクランクが取り付けられているチェーンホイールのギアーも腐食して使い物にならないため、仕方なく交換することに。すでに部品が手に入らないため、インターネットで中古を競り落とし、自転車屋さんで取り付けていただいた。案の定、ちょっと修理代がかさんでしまった。

 フレームなど、さびも落とし、クリア塗料でさび止めもすると、なんとなく20年前の勇姿に、さらなるわびさびも加わって、とってもいい感じになった(あくまでも、本人の感想です)。 

 というわけで、最近、筋トレ・ストレッチのつもりでチャリ君に乗っている。日曜日なぞ、1〜2時間乗っている。最初14km、次に22、27kmと少しずつ距離を伸ばしている。過酷な山道の登坂はきついので、なるべく高低差の少ないコースを選んでる。

 近年は道路の脇の歩道が完備していて、そこを走る分には危険がないものの、歩道と路地の境目の縁石や、工事の舗装のしなおしなどの凸凹が頻繁で気になる。雑草が行く手の邪魔をする。仕方なく、車道の脇に引かれた路側帯の白線の外側を走ろうとすると、これまた極端に狭かったり、自動車が跳ね飛ばした小石などが散らかっていたりで走りにくい。パンクの原因にもなる。

 世間では、なかなか隅っこに押しやられがちな自転車だけれど・・・。利点といえば、外の世界との一体感が持てる。スポーツ性が高い。徒歩より遠くに行ける。なんといっても『人力』などなど。
 反面、危険が伴う。なんといっても常に自動車を気にしていないといけない。そして、自転車とはいえ車両。いつ加害者になるかわからない。その責任ゆえに、交通ルールは守らないといけません。一旦停止、信号交差点での右折など、自転車では怠りがちな事柄がいっぱいなのだけれど、ここは安全第一、模範運転。

 夏の太陽と風、刻々変化する外の世界を直接感じながら走ることの心地よさはちょっとない。若かりしころ、ツーリングをしたことを思い出す。若さにまかせたハードな行程は無理としても、歳相応、気楽にちょっと長い旅もしてみたい。

 坐骨神経痛もやりました。脚立から転落で手首の骨折も(歳を取るととにかく完治に時間がかかる)。そのときの打撲で足のしびれも。でもしかし、このとおり、身体はまがいなりにも動くから、自力で動けることがほんとうにありがたい。さあ、今度はどこへ行こうかな。