081 昔あって今無いもの (Part U)
05/10/11


手水鉢(ちょうずばち):トイレを出たところにおいておく水鉢。この水を手ですくい、縁側などに洗い落とす。冬にはこれが凍結するので、朝一に利用するものが氷を剥ぎ取り庭に放る。これがまた冷たい。戦後プラスチックの発達で、軒からぶら下げて下に飛び出た突起を押すと、一回分の水が流れ落ちるという手水器が使われた。ただしこれは冬の朝一には決まって使い物にならないため、手水鉢も併用した。

風力換気扇(トイレ用):汲み取り式トイレはにおいがきついため、汲み取り口横に煙突を立て、その先に風力で回るらせん状の羽根がついている。風力なので電気代もかからないのはいいけれど、無風で梅雨時ともなると、トイレの中にアンモニア充満。用足しの間、目にしみるわ、息を止めるわでたいへん。

土 間:今ではコンクリートで張られ快適だが、屋内で土足の場所は決まって土間だった。長梅雨には水気を含み滑ってキケン。

蝿帳(はいちょう):食べ物や食器に虫がたかるので、それを除けるため入れておくこじんまりとしたアミを張った戸棚様の入れ物。冷蔵庫のなかったころ、昨日煮た芋の煮ころがしや子どものおやつなども入れておいた。冷蔵庫とはちがって、ものが腐るので注意。またこれに入れておけば絶対安全とはいえず、開けたらゴキブリが出てきたりする。ネズミの奴、後ろの金網を破りやがった。

食卓の引き出し:各人の食卓の席が決まっていて、それぞれの引き出しが備えてある。食事が済んだら茶碗とお碗にお茶を注ぎ、箸でちゃっちゃとゆすぎ、それを飲み干したらそのまま引き出しに伏せて入れておく。いそがしい農家の主婦はこんな風に手間を省いた。

消し壷:かまどや七輪で炭や薪を焚いたあと、消壷に入れてフタをするとそのまま火が消えるので、次回火を着けるときこれを使う。この中で消した炭を消し炭といい、着火のとき重宝する。

掘りコタツ:寒くなると部屋の真ん中の畳を半畳取り外し、床板もその分外す。穴の大きさのテーブルを置いて布団を掛ける。掘りコタツの真ん中に囲炉裏が掘ってあり、豆炭や炭、練炭などをセットすればポカポカのコタツ。暖かさは格別。しかし、このコタツで眠り込むと、一酸化炭素中毒になったりして非常にキケン。間違って囲炉裏に足を突っ込んでもこれまたキケン。

火 鉢:大小の鉢にわら灰を入れ、炭や練炭などをセット。冬の暖房器具の定番。クッキングヒーターにも。不完全燃焼に気をつけないといけない。よく店などで火鉢を床に置き、腰掛に座って火鉢を両の足で挟んでいるとこの上もなくご機嫌。これを『又火鉢』という。

石油コンロ:まだガスがないころ、かまどに代って登場。これで炊事。ススが多いので強火が苦手。鍋の底にススがつくので、それを取るのも日課。

柱時計のネジ巻:我が家の標準時はなんといっても毎正時にボーンボーンと時を告げる柱時計。毎週決まった日のネジ巻きはぼくの係り。眠れぬ夜にはカッカの振り子とボーンの音でさらに眠られず。とうとう振り子をストップさせたりして。

タイル張りの流し台:これにはほかに固有名詞があるはず(ご存知の方教えてください)。台所の流し台といえばコンクリだけで作ったものもあるけれど、主婦の夢はやっぱりタイル張り。ちょっとぜいたくな調度品。

電気スタンド(ふくろう付き):豆電球のカバーにガラス製のフクロウが付いた電気スタンド。学業成就の願いもむなしく、今夜も電気スタンドの机に突っ伏して夢の中。

ペナント:修学旅行に行ったりすると、たいてい買ってきてしまうのがペナント。無粋にも勉強部屋の壁に『京都』『奈良』の三角の布。何のアクセントにもならず、にもかかわらずいつまでも張りっぱなし。

昔あったけど、今は無いもの。

タイ国では人気アイテム


082 赤とんぼ
05/10/26


三木露風

三木露風作詞、山田耕作作曲の『赤とんぼ』という唱歌があります。詩もメロディーも美しく、日本人にとっての『原風景』といってもいいような情景をうたっています。

この『赤とんぼ』の詩は、露風が32歳(1921)のときに作られたそうです。このころ露風は北海道石狩郡当別町のトラピスト教会に招へいされて講師として着任していました。露風と夫人はそれぞれパウロとモニカという洗礼名を受けている。
夕焼小焼の 赤とんぼ
負われて見たのは いつの日か
山の畑の 桑の実を
小かごに摘んだは まぼろしか
十五でねえやは 嫁にゆき
お里のたよりも 絶えはてた
夕焼小焼の 赤とんぼ
とまっているよ 竿の先
露風は幼少のころ、父母の離婚により母との別れがあった。
その寂しさが、この名曲『赤とんぼ』の詩に託されているといわれています。母との離別が露風6歳のころと言われていますが、なんともむかしを想う複雑な感情がそこにあるような気がします。

露風の自身の回想によると、彼が幼少のころ、母のいない家の女中役の『ねえや』におんぶされて見たであろう赤とんぼの舞う夕空をうたったといわれています。山の畑の桑の実を摘んだのは、実家のあった兵庫県龍野でのこと。その後、ねえやは女中をやめ、里に帰り、嫁いでいった由。自分を生んでくれた母とも、育ててくれたねえやとも離別してしまったことへの愛惜の念もこの歌には込められています。

キリスト教と音楽家
ここでちょっと疑問が起きてきます。なぜ露風はキリスト教に入信し、北海道の教会へ赴いたのでしょうか。実はキリスト教と当時の日本の音楽とは深いつながりがあったということです。

明治、大正、昭和初期の日本の音楽家の多くはキリスト教とのかかわりが非常に強いといわれています。事実、キリスト教徒としては露風の他に、北原白秋、瀧廉太郎、山田耕作、竹久夢二、岡野貞一、野口雨情、田中穂積・・・。枚挙に暇がないとはこのことです。では、どうしてキリスト教と日本の唱歌との間にかくも深い関係があるのでしょうか。

これを解くカギは教会音楽です。多くの音楽家たちは子供のころ、教会の賛美歌を聴いているということです。明治、大正、昭和初期といえば、音楽を聴いたり奏でたり、歌ったりする場所がどこにでもあったとは限りません。特に西洋の音楽に触れることのできる場所は、キリスト教会以外にはなかったといっても過言ではありませんでした。音楽の好きな子どもや青年が教会に集い、賛美歌を演奏したり歌ったりするうち、音楽への目覚めをしたのかもしれません。また彼らの多くは、教会の修道士によって音楽の才能を見出されもしたのでした。

話しがそれますが、黒人音楽であるソウル、ブルースなども、黒人たちが教会で歌われていた賛美歌を、彼ら流にゴズペルソングに置き換えたりなんかするうちに発展したともいえるのです。

十字架と赤とんぼ
露風はトラピスト教会で、竿の先に赤とんぼがとまっている情景に秋の落日のなかで出会いました。その光景は瞬く間に遠い昔に見た『ねえや』の背中で見た情景と一致した。32歳の教会での生活の中で、いわは露風にとっての『原風景』と遭遇したわけです。なんと懐かしくも、わびしいというか、母とねえやへの思い出だったのかもしれません。

考えすぎかもしれませんが、竿の先にとまった『赤とんぼ』の姿は、あたかもそれが主イエスキリストの十字架そのものとして彼の心に映ったのかもしれません。

夕日に映る赤い十字架は、露風にとってなんともいえぬ感慨であったにちがいありません。


083 
除草剤という兵器
05/10/26


ベトナム戦争といえばまだ記憶に新しい歴史的事実です。1960年代、ベトナムは政治的に南北に分断され、その北の果てには中国という立地条件で、米国を筆頭とする資本主義圏と中国ソ連の共産主義圏との代理戦争ともいえるものでした。

その筆頭、米国は枯葉剤(除草剤)を化学兵器として使用しました。要するにベトナムから緑を奪ってしまえば、ベトコン(ベトナム民族解放戦線)の食糧源ばかりか、姿を潜める場所さえなくすことができると考えたからです。そのためにベトナムでは大別して2種類の除草剤が兵器として使用されました。

エージェント・オレンジ(非選択性除草剤)
その名の通り対象を選ばず、植物を枯らす目的の除草剤。主として 2,4-D、2,4,5-T の混合物であったといわれています。日本では 2,4,5-T はダイオキシンの危険性から使用が禁止されています。

このエージェント・オレンジには米国内の農薬メーカーから15種類の除草剤が集められたそうです。爆撃用の容器にはオレンジ色の札が貼られたことから、その名が付けられました。主としてこのオレンジ剤が化学兵器として使われたそうです。

エージェント・ブルー(選択性除草剤)
この除草剤の目的は、ベトナム人の主食である『イネ』を枯らす目的で使われました。これはヒ素を含むカコジル酸が主成分で、水分を多量に必要とする植物を干上がらせるはたらきがある。米国軍はエージェント・ブルーをゴムやビニール袋に詰め、飛行機から水田やその水源などに投下。高濃度の除草剤を直接被ばくした地域では、以後40年以上経過したいまも環境や人体への汚染をもたらしているといわれています。現在もベトナム各地で生まれてくる奇形児は、ベトナムに投下された除草剤の恐ろしさを物語っています。

エージェント・オレンジよりも少なかったといわれるブルーでさえ、450万リットルも兵器として使われたといわれています。このような農薬が投下され、直接さらされたベトナムの人たちの苦しみはどれほどのものだったのでしょうか。

除草剤と遺伝子組み換え
ベトナム戦争で大量に使用された除草剤。その製造に深く係った企業の筆頭にモンサント社があります。今も非選択性除草剤ラウンドアップ(有機リン系・主成分グリフォサート)のメーカーとして世界のトップを誇っている。

ベトナム戦争では東南アジアを殲滅せんとした化学兵器企業のひとつ、モンサント社が今度は雑草殲滅のための除草剤メーカーとして躍進。そしてさらに新手のビジネスとして、今度は除草剤耐性遺伝子組み換え作物と除草剤ラウンドアップのセット販売を考えている。世界の農民をGM作物でさらに除草剤依存性の高い農業へと推し進めようとしている。

枯葉剤と除草剤とは同一の目的で使われる物質なわけです。にもかかわらず、戦争と平和利用という裏腹の目的で使用される。しかもどちらに転んでも大量に使用され、汚染という深刻な環境への負荷を残す。

米国はベトナムを支配しきれないと判断した時、今度はベトナム人を殲滅する目的で除草剤を使いました。そして現在では、自然を支配し、雑草を殲滅するためにやはり除草剤を使っている。

しかしながら、歴史的事実として米国は、ベトナム人も植物の緑も殲滅することはできませんでした。ベトナムには依然としてベトナム人による緑の米文化が生きています。

自然を支配しきれないと判断した近代農業は、除草剤という化学物質の威力で雑草を殲滅しようとしています。しかしこれにもスーパー雑草といわれる除草剤の効かない雑草が対抗して出現。

ベトナム戦争では化学兵器として使用された除草剤が、西暦2000年を経た現在、今度は米国の経済戦略のためのバイテク兵器として機能している。武力で世の中を制覇するも、グローバル化だか国際化だか知らないけれど、こちらも経済戦略のためのいわば兵器としての除草剤と遺伝子組み換え作物。

いずれにせよ、支配という圧制・殲滅では恒久平和はありえない。自然を支配しようとする近代農業よりも、自然と共存する身土不二・地産地消が基本の地域農業こそが、人類に残された選択肢なのだと思う。


084 
テネシー・ワルツ
05/11/07


その生い立ち
『テネシー・ワルツ』といえば、米国では国民的な歌謡として有名な曲。米国での決定的なヒットは、1950年、パティ・ペイジという女性シンガーによるもので、いまだにテネシー・ワルツといえば彼女。日本でも今は亡き江利チエミという歌手がヒットさせました。

この曲は1848年、レッド・ステュアート(Redd Stewart)とキング(Pee Wee King)というふたりによって世に出された。彼らは音楽のジャンルで言えばカントリー。曲も書き、バンドも率いるレッドと、キングは戦前、やはりカントリーのバンドを組んでいたのですが、戦争で活動停止。戦後復員してきたキングとレッドが再会、バンドを再編。

当時の人気歌手ビル・モンロー(Bill Monroe)の『ケンタッキー・ワルツ』のヒットに触発されてのものだったとのこと。最初の曲名は『No Name Waltz(名無しのワルツ)』だったとか。この曲はまあまあのヒットとなったけれど、ほかの歌手によって『Tennessee Tears』とか『Tennessee Polka』などというような別バージョンで売れたらしい。そしてなんといっても決定的なヒットは、パティ・ペイジで1950年。

この歌は日本ではおもに日本語で歌われたわけですが、その歌詞はというと、もとの英語の歌詞とくらべるとちょっとちがっている。というよりは要約してあるといった感じ。

日本語に訳しにくいのはどうして
どうして要約したのかというと、この歌のもとの詞がこの曲の雰囲気にあわなかった、からかもしれません。そのままの歌の意味はどんなふうかというと、♪ あの夜わたしは恋人とテネシーワルツを踊っていた。偶然出合ったわたしの友人をあの人に紹介したのが間違いのもと。友人が彼と踊ってる間に、わたしは彼女に恋人を盗られてしまったの。♪♪ 今もあの夜とテネシーワルツを思い出す。あんなに好きだった恋人を失ってしまった。あのふたりがあの夜踊った曲。それはテネシーワルツという美しい曲だった。♪

なんとなくありそうな話というか、ちょっと情けない歌詞です。でもこの曲は最初、カントリーソングとして、男のバンドで歌われたわけです。カントリーといえば、西部の男たちが酒場で一杯やりながら、その酒の肴にやっぱり薄汚い男たちがバンジョーやギターで歌うもの。考えてみればこの元の歌詞のように、ちょっと情けなくもとぼけたもののほうが洒落ていてよかったのではないでしょうか。

ちなみにこのテネシーワルツ、なんとテネシー州の州歌なのだそうです。いくら美しい曲だからといって、曲名にテネシーがついているからといって、いったいこの歌を州歌として何時歌うのかしら。と思っていたら、なんとテネシーワルツはテネシー州の6曲あるうちの4番目の州歌なのだそうです。それにしても公式の州歌がこんなにたくさんある州は他にないようです。

歌詞がどうあれそんなことどうでもよく、その曲のうつくしさ、粋な詞に乾杯。それにしても、パティペイジじゃなくて、男性が歌うテネシーワルツって、やっぱりカントリーのジャンルでなくちゃ合わない気がします。でもこんな美しい曲だから、やっぱりパティペイジのようなキュートな女性のほうが合うのかもしれません。



085 昔あって今無いもの (Part V)
05/11/30

湯たんぽ:ブリキ製の小判型のタンクに水を入れ、コンロで沸騰寸前に暖める。これを布切れで巻き、せんべい布団の冬の夜寒をしのいだ。沸騰させてしまうとあとでねじ込み式のフタが取れなくなるので要注意。
桐灰の懐炉:まさに懐にいれる炉。粉炭を棒状にしたものに火をつけ、金属にビロードをつけたケースに入れ、持ち歩く携帯暖房機。桐灰とは懐炉のメーカー名で、ほかに『菊乃友』というのもあった。後にアルコールだかベンジンだかを燃料にする白金カイロが発売されると、桐灰、菊乃友は一気に消えた。華々しく、文化の香りのする白金カイロも昭和40年代、ホッカイロの出現で消滅。
ヒューズ:各家庭の電気回路の過電流遮断には今ではブレーカーなるものがあるけれど、かつてはこのヒューズ。寒い冬の夜なぞ、電気コタツ、テレビ、など使うともう5アンペアの電流。これにトイレの電気のスイッチをつけた瞬間、ヒューズ切れ。あたらしいヒューズをつけるのはお父さんの役目。このころはあれとこの電化製品を使うとヒューズの限界と、一瞬のうちに計算してしまうのが主婦の頭のよいところ。
泥棒猫:人間でさえ食糧事情のよくなかった時代。猫にとっても同じで、各家庭の猫は飼い主からも盗むが、あっちやこっちの他人の家でも食べ物を盗んだ。七輪でジュージュー煙っているサンマを、あっさりかっさらってしまうんだからたまらない。
粉末ジュース:粉のジュースの素を水に溶かすだけで、おいしいジュース。待ちきれず、そのまま舌にのせて味わうのもよい。食紅がきついので、あとで舌は真っ赤。
乾燥数の子:なんといってもうまいのが乾燥数の子。風味、歯ごたえともに最高。『通』はやっぱり乾燥数の子。これが世の中から消えるころには最高級品とまで言われ、高価な品だった。
当時小学生の夢
フラッシャー付き自転車:昭和40年代、子供用の自転車も高級志向。外装5段変速、セミドロップハンドル(ハンドルを逆にしただけ)、そして電池で光る方向指示器と尾灯。このフラッシャー、夜のネオン街ではないけれど、とにかく派手に光が走るように点滅。学校からは禁止令まで出る始末。
すりこ木のバット:野球をしたくてもバットがないので、家からそっと持ち出すのがすりこ木。硬球のテニスボールを使ってプロ野球気分。あとでお母さんに見つかり、もっていたすりこ木で頭をポコンと一発。
管球式ラジオ:スイッチを入れても、真空管が暖まらないと聴こえてこないラジオ。真空管やスイッチ類の接点などの経年劣化で、しばらく聴いているとラジオがシーン。そんなときはお父さんの出番。なぜかお父さんがポンと叩くと忘れていたようにラジオがまた鳴り出すのが不思議。やっぱりお父さんはすごい。
ポップアップ式トースター:二枚の食パンを縦にいれ、レバーを押し下げるとパン焼き開始。ちょうど焼けたころ、サーモスタットのはたらきで焼きあがった食パンがポンと跳ね上がるという仕組み。まれに食パンが引っ掛かっていたりすると、黒焦げになったりする。
ガラスの魔法ビン:今でこそステンレスの真空中ビンだけど、ガラスなので取り扱い注意。遠足なぞに見栄を張ってこれを持ち歩くのもいいけれど、うっかり落とすとにぶい音とともにはい一巻の終わり。
ウサギの襟巻き:高級な毛皮とは無縁の庶民にはこれでもステータス。所詮安物なので、毛は抜けるわ、尻尾が取れるわでじきにくたびれてしまう。ちゃんと純白に赤色のガラス製の目まで着いてます。
革靴の減り止め:革靴の底が減ってはたまらんと、かかとにクギで取り付ける磨耗を防ぐための金属。歩くときいい音がするのも魅力。たいてい歩いているうちにどこかで落としてしまう。
量り売りの調味料:一合や五合ビンを持ってって、木樽から量り売り。ビンのふたはといえば、新聞紙を丸めたのだったりして。
板張りの校舎:すべてが木造の学校。小遣い先生がしょっちゅう営繕して廻っているのだけれど、あちこちクギが出ていてキケン。廊下や渡りなど、うっかり全力疾走しようものなら、はだしの足の裏にケガがつきもの。痛てー。

むかしあって今無いもの

086 
生ごみたい肥クイズ
05/12/15


音羽町で毎年12月はじめに行なわれる『作物品評会』というのがあり、その一角をお借りして、衣装ケースを利用した生ごみたい肥づくりを紹介しました。

この方法では、高価なたい肥製造機を購入する必要がなく、ホームセンターで売られている70リットルほどの容量のある容器があればOKという手軽さ。
詳しくは:こちらをごらんください。

今回クイズを行なった結果についてお知らせします。なお、これに答えていただけた人に、道長特製の衣装ケースで作った生ごみたい肥を進呈しました。ただし数量に限りがあるため、限定40個。

生ごみたい肥クイズ
1 たい肥ってなんでしょう(10点)
    肥 料   土壌改良剤

2 よいたい肥はどんなにおいですか(10点)
    ふりかけみたいないいにおい
    ちょっとかび臭いにおい
    無 臭

3 衣装ケースで生ごみを醗酵させるとどれくらいの熱が
  でるでしょう(10点)
    30℃  50℃  70℃

4 ボカシってなんでしょう(10点)
    肥 料 たい肥 その両方を兼ねそなえたもの

5 1トンの生ごみを焼却処分するのに、どれくらいの費
  用がかかるでしょう(20点)
      5千円  1万円  4万円

6 音羽町(人口約9千人)で一年に発生する生ごみはど
  れくらいでしょう(20点)
   約100トン  約700トン  約1000トン

クイズの結果
一般に『たい肥』についての意識は以外に低く、クイズの点数から判断してもよくわかります。
得点は0点(5人)を含め、50点以下が23名と大半を占めてしまいました。100点満点は1人だけ。
問1の『たい肥ってなんでしょう』の設問に正解を出せた人はたったの5人でした。
問2の『たい肥はどんなにおい』では正解8人。
問3の発酵温度では正解30人。
問4の『ボカシって何』では12人
問5の『トンあたりの焼却費用』では正解者10名
問6の『音羽の年間生ごみ発生量』では14人

たい肥は肥料ではない
たい肥とはあくまでも土壌改良を目的としたもので、肥料ではありません。醗酵により有機物を分解するため、もみがらやバーク、オガ粉などの食物繊維(炭素)が多く、小さな空間をたくさんつくることのできるものを混ぜることで醗酵を促進させてやります。

これ以上醗酵しにくい状態にすることで、それを土に入れた場合、分解の進んだたい肥は土壌微生物の食糧となり、またその空間が住み家ともなります。その結果、畑の土に微生物がたくさん繁殖し、その生命活動の結果発生する有機物が、間接的に作物の肥料にもなるという理屈です。ここで発生する有機物は非常に安定していて、作物が吸収しやすい状態になっているため、作物にじわりと効いて健康に育つというわけです。

たい肥だけでは不足するため、肥料は別に与える必要があるものの、作物が育つための環境作りには絶対に欠かせない第一条件といえるのが、たい肥による『土作り』というわけです。

ボカシについての説明は別の機会にします。

クイズの解答:
問1 土壌改良材
問2 ちょっとかび臭い
問3 通常は70℃くらいになりますが、衣装ケースではせいぜい50℃くらい
問4 ボカシは、たい肥と肥料の両方の性質があります
問5 約3万円から4万円かかるといわれています
問6 約700トン(都市部ほど多くなります)


087 
ボカシについて
05/12/21


よくボカシという農業資材の呼び名を耳にします。そしてボカシとは、肥料効果のある良質な農業資材という認識があります。では、『ボカシ』とはいったいなんなのでしょう。ボカシとは肥料とたい肥(土壌改良材)のふたつの性質をもつ資材です。

まずはボカシの作り方
右の材料を用意し、まずはまんべんなく混ぜ合わせる。
このとき、ジョロなどを利用して水分を補給する。基本的な水分量は約60%(混ぜ合わせたあと、手で握ってみてジワッと滲み出す程度。

雨のかからないところに、通気性があって保湿、保温効果のあるカーペットや毛布(純毛だと醗酵分解されるので、化繊がベター)などで覆っておく。醗酵温度は条件にもよりますが、200〜300リットルほどあれば60〜70℃くらいになります(容積が少ないと醗酵しにくい)。


切り返し(1回目)
一週間から10日経過すると温度は50℃以下に低下してきます。ここで一回目の切り返しをしをして、ふたたび水分の補給をしてやります。切り返しは全体を均一に醗酵させる目的で行ないます。水分は最初より多少少な目。
切り返し(2回目)
週間から10日後、醗酵温度低下で切り返しをします。このときの水分補給は一回目より少な目。
切り返し(3回目)
同様に温度低下で切り返し。今度は水分補給はしません。
熟成
30日ほど経過で切り返しします。これをあと2回ほど繰り返します。

以上、最初の仕込みから完成まで、約4〜6ヶ月をかけて完熟させてできあがり。

ボカシの作り方としては完熟させない方法もあるようですが、この方法では施用してすぐに種をまいたり、苗を植えたりしても、肥料ヤケによる発育障害が起こりません。窒素分が完全に分解されているからです。

窒素分が分解されては、肥料効果がないのではないか
材料に使ったオカラや鶏ふんなどはもともと窒素分の強いものですが、完全発酵してしまうと無機化されてしまいます。にもかかわらずどうして肥料としての役割があるのでしょう。

レシピをもう一度ごらんください。一般的なたい肥作りとちがう点は、ボカシ作りの場合、土の分量が圧倒的に多いところです。

さば土の役割
さば土は山から切り出した、まだ侵食されていない土です。雑菌も少なく、なんといってもいろいろなミネラル(微量要素)が流亡していません。さば土にはとくに色々な物質を吸着するはたらきがあります。有害物質もですが、植物の生育に必要なものもたくさん吸着します。当然微生物の活動も活発になります。

ボカシの役割
@大量の有効微生物を含んでいる(たい肥以上に)ため、施用後の生命活動による有機物の発生を見込むことができ高い肥料効果が望める。
A客土(畑にあたらしい土を入れて活性化する)の効果がある
B土壌改良材としてのはたらきもある

  など

とにかく『ボカシ』は奥が深いというのが実感です。

こちらも参考にしてください(ボカシの製作のようす)


088 
赤い靴と野口雨情
06/01/12



『赤い靴』『七つの子』をはじめ、多くの唱歌や童謡、歌謡などの詩を書いた野口雨情(本名英吉)。大正から昭和にかけて活躍した作詞家です。1882年、現在の北茨城市の裕福な家庭に生まれました。大学時代、家業不振のためやむなく中退した後は東京で文学の世界に入るが、父親の死で帰郷。家を整理した後、樺太、北海道に渡り新聞社を転々としました。

雨情は北海道での新聞社時代(20代後半)、鈴木志郎という人と知り合う。そこでその男が函館で出会い、結婚したある女性と彼女の娘との悲話を知ったのでした。彼女は静岡市から私生児(『きみ』という女の子)を連れ、逃げるようにして北の果て北海道へ移り住んでいた。

鈴木夫妻は、静岡県から羊蹄山を望む北海道留寿都村というところに開拓団の一員として入植しましたが、そこでの生活は相当過酷だったようで、貧しさと寒さで娘をそだてることすらむつかしかった。そして泣く泣く我が子を函館の教会の米国人宣教師にあずけるのでした。
留寿都村にある母と子の像。このようなゆかりの像は他に静岡、横浜、東京にも建てられている
留寿都村HPより
その後、失意の中開拓団は解散。鈴木は函館に新聞社の職を見つけ、そこで雨情と出合い親交したというわけ。しかしその宣教師夫婦は命により帰国しなければならぬこととなった。ところがこのとき『きみ』は結核を患っており、宣教師夫婦との同行がむつかしかった。結局『きみ』は東京麻布の孤児院にあずけられ、育ての親とも離別してしまう。そして二度と再会することはなく、わずか9歳の命をひっそりと閉じてしまうのでした。おそらく明治44年(1911)のこと。佐藤夫妻もそれを知らされぬままだった。

野口雨情は明治42年帰郷し、後に作詞家となり成功する。唱歌『赤い靴』は雨情39歳、大正10年(1921)に書かれています。この詞の『女の子』とはいうまでもなく『きみ』のこと。なんと彼が北海道から帰って12年も後ということになる。このころに雨情の名作の多くが作られています。

『赤い靴』の詞をよんでみると、おそらく彼は『きみ』という女の子のその後について知らなかったであろうことが、この詩の3、4番でわかる。ではなぜ雨情は後になって『赤い靴』を詞ったのでしょう。

ところで雨情は『七つの子』や『シャボン玉』でふたりの我が子を詞っているのです。そしてふたりとも幼いころに亡くしてしまった。最初の子は生まれてすぐ、そして二人目は4歳になってから。『七つの子』はもし生きていれば7歳になるはずの我が子を、山の古巣のカラスの子になぞらえた。『シャボン玉』では、せっかく育ちかけた二人目の我が子を4歳で亡くした悲しみから詞ったものだといわれている。

これは偶然とは思えないのですが、この年(大正10年)に『赤い靴』も書かれているのです。これは彼が思いつきでこの詞を作詞したものではなく、亡くしたわが子の死がきっかけで、函館の宣教師夫婦に引き取られたあの『きみちゃん』を思い起こしたからなのではないでしょうか。

我が子は遠い黄泉の国へ旅たち、そしてあの女の子は遠い異国にいってしまった。どちらも悲しい親子の別れに他ならなかった。さらに悲しいことには『きみちゃん』は、『赤い靴』が発表される10年も前の明治44年、東京の孤児院で病死してしまっていた。おそらく雨情の心には、我が子とあの女の子が重ね合わされていたのだろう。

実はこれらの事実が掘り起こされたのは、北海道テレビのドキュメント番組『赤い靴をはいていた女の子』の放映(昭和48年)がきっかけだったそうです。「実はその『女の子』が自分の義妹で、渡米したはずのその子の行方も知らない。生きていれば再会したい。探してほしい」。といった内容の投書がある女性から局に届いた。当時のその番組編集者は北海道から横浜、静岡、青森、東京、さらには米国へと、5年間をかけて『きみ』の消息を捜し求めたのだそうです。

野口雨情はこの詩の他に『十五夜お月さん』『あの町この町』『うさぎのダンス』『雨降りお月』『青い目の人形』『証城寺の狸囃子』『船頭小唄』などを書いている。

なんとなく悲しげな詞が多いのは、わが子との死別や北海道での暗い移民の姿、そして多くの離別の経験によるものなのかもしれない。

母『かよ』と『きみ』の再会を、旧不二見村(現清水市宮加三付近)を見下ろす日本平で果たしてやろうと建てられた記念碑(静岡県)


089 
小麦とポストハーベスト
06/02/15


食育の重要性が叫ばれる昨今、また地産地消の言葉に連れ、学校給食では米飯食の回数がふえてきていますが、まだまだアンバランスな内容の献立も目立ちます。

そんな中、米については国産、地域内産のものが使われるため問題はないのですが、小麦に関してはそうともいえません。パン食、めん類の原料などには、まだまだ輸入小麦が使われているため、ポストハーベスト農薬の不安がつきまといます。ポストハーベストとはもちろん『収穫後』という意味ですが、本来栽培とは無関係な『カビ止め』や『殺虫』を目的とした薬剤による処理を意味します。おもな農薬としてマラチオン、クロルピリホスメチル、臭化メチルなどで、いずれも有機リン系の殺虫または殺菌剤です。もともと有機リン系殺虫剤は1940年ごろ、ドイツのバイエル社により、神経ガスの目的として開発されたということです。臭化メチルはその毒性もさることながら、オゾン層の破壊につながるという理由から、国際的にも使用を禁止する方向にあります。

現在、DDTなどのダイオキシンを含む有機塩素系農薬の使用が多くの国で禁止されている中、有機リン系農薬への比重は高いものとなっています(マラチオンは環境ホルモンの疑いがあります)。

原則として日本ではポストハーベストは認められてませんが、マラチオンやクロルピリホスメチルは病害虫防除の目的では使用が認められています。愛知県農業総合試験場に問い合わせたところ、愛知県の場合小麦の栽培にこれらの薬剤が使われることはないそうです。冬季、積雪などで湿気の多い地方ではその可能性があるとのこと。

農民連では数々の役に立つ検査データを公開していて、小麦のポストハーベストに関するものがいくつかあります。『学校給食パン類の残留農薬分析結果』という項目ではマラチオンとクロルピリホスメチルの他にフェ二トロチオンというやはり有機リン系の薬剤について検査を行なっています。そして多くの学校給食に使われているパンからポストハーベスト農薬の残留を確認しています。

このような検査は市販のパンについても行なわれており、そのデータから判断すると、学校給食の場合も市販品と変わらない結果がでています。

現在学校給食用のパンに地元産の小麦粉をあわせて製パンする試みが行なわれています。『地産地消』を推進する目的としてはその第一歩として評価のできるものです。しかしながらこの方法では、ポストハーベストの残留農薬を減らすことはできるかもしれませんが、その危険から逃れるというわけにはいきません。

地元産100%のパン
それに対して埼玉県の学校給食で出された地元産小麦100%のパンでは、当然のことですが、以上の3種の農薬の検出はありませんでした。国産の小麦がすべて安全だとは言い切れませんが、少なくとも輸入小麦に直接施用されるポストハーベストとくらべると安全性は高まるわけです。

愛知県の学校給食用小麦粉の残留農薬
愛知県の学校給食会に農産物の残留農薬についての情報の開示を求めたところ、どの項目についても『検出せず』というデータが示されました。はっきり言ってそういったことはありえないことで、何がしかの数値が記録されていて当然だと思うのですが。


『ポストハーベスト農薬汚染』日本子孫基金ビデオより
このように安全性が最優先されなければならない学校給食なのですが、それにたいして求められているものがたとえば『大量仕入れ』のための便宜性であったり、それにワンセットでついているあやふやでもまがいなりにもたよりになるトレーサビリティであったりするのです。

本州以南で本格的に小麦が栽培されるようになって、まだ数年といったところです。農業試験場での品種の開発、栽培現場での技術の向上などと、まだまだこれからというのが現状です。それだけに地元産小麦には大いに期待をしたいところです。


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むかしあって今はないもの
06/03/07



ガリ版と謄写版印刷
平らなヤスリ板に蝋引きの用紙をのせ、鉄筆という尖ったペンで引っ掻くとその部分だけインクが通る。それを謄写版印刷機にセットし、インクをつけたローラーでこすって印刷する仕組み。ただし文字がうまいだけではだめで、ちょっと違った字体で書くのが名人の技。筆不精には苦手。学生闘争時代のアジビラには特殊なフォントが流行ったもの。あのフォント、今のPCにあっても人気が出るかも。ガリ版と謄写版印刷ができれば、事務員としていっぱし。

自動巻き腕時計
毎日ぜんまいのネジを巻くのは面倒なので、歩いたり運動するだけでネジが巻けてしまうという腕時計。ただし寝てばかりいる無精者には不向きで、日課としてむなしくも腕時計を振り、ネジを巻くという作業が必要となる。

寝押し
むかしの化繊はしわがよりやすい。一日はいていると、安物のズボンはしわだらけ。毎晩寝る前に布団の下にまっすぐに伸ばしたズボンを新聞紙に挟んでセット。あとは寝るだけでプレスOK.ただしセットしてからの布団の移動は禁物。

電子頭脳、人工頭脳
かつてテレビなどの高級家電品にこういう文句が付加された。どこが電子頭脳なのか知らないけれど、わずらわしい画面調整(とにかくよく乱れた)から開放されるというもの。ただしこの人工頭脳が故障すると、テレビも気が違ったように調整不能。電気屋さーん、何とかしてくれぃ。

日の丸弁当
貧しい時代のべんとう。分厚いアルマイトの弁当箱にきっちり詰め込まれたごはんと梅ぼし一個。梅ぼしは一気に食べてはいけません。それをちびちびかじりながら、はたまた見つめながら、唾液の分泌を促しつつもりもり食べるごはん。「これでも食っとけ」うーん涙ぐましい。

当時のオトナはこの言葉に弱かった

サングラス付き野球帽
ちょっと大人の雰囲気のする野球帽。色のついたセルロイドの板がゴーグルの形に切ってあり、野球帽のおでこに折り込んで収納可能。日差しの強いときに、帽子の中から折り返すとサングラスになるというすぐれもの。ただしじきに折れてしまい、実用とはほど遠い。

腰に手ぬぐい
かつてだれもが腰にベルト(バンド)を巻いていた時代、野外での労働にはこれが定番だった。ベルトのお尻に手ぬぐいをさげてせかせかと動き回った。ある意味、一種のファッションでもあったところがにくい。

押し売り
一家の主(あるじ)のいない時間帯、主婦一人の家をねらった家庭用雑貨の販売員。安物の商品を無理矢理売りつけるため上がり花に居座り、 「刑務所を出てきたばかり」などといって主婦をビビらせ、買ってくれるまでてこでも動かない。持参の商品はゴムひも、歯ブラシ、鉛筆などとかさばらないものばかり。今にして思えば、こんなもん売って生計が成り立つはずない。

サンドイッチマン
繁華街など人通りの多いところで、宣伝活動をする広告マン。首から腰ぐらいの看板を二枚、二本の紐でつなぎ、おなかと背中にぶら下げ、ピエロかなんかの格好でねり歩く。「サンドイッチマン/おいらは街の道化者」などという流行歌まであったほど、チンドン屋と並んで街では花形(?)の仕事だった。

飛行機からビラ
デパートの開店などの宣伝を華々しく行なうため、なんと飛行機から大量のビラをまく。拾っても得するわけでもないのに、我先にと走り回り、拾いまくる。これだけ集めたと子どもたちが自慢しあうくらいが関の山。空からゴミをまくなぞもってのほか。バカヤロー。