小 松 菜

古来より多くの作物が中国から伝来しました。そのなかで、とくに交配のしやすいアブラナ科の菜類は品種改良がすすみました。ごく一般的な小松菜も『くくたち』というカブの一種を品種改良するうち、野沢菜や青梗菜などとともに作られたといわれています。

江戸時代初期の綱吉将軍の頃、現在の江戸川区小松川地区を訪れた将軍が調理されたこの菜(当時『葛西菜』と呼ばれていた)を気に入り、その地にちなんで『小松菜』と名付けたという話があるそうです。
またこんな逸話もあるそうです
当時江戸川を『葛西船』という長さが約8.5m、幅2m強の船が上流と下流を往来していた。下りへは上流でできた農産物が運ばれ、上りでは生活物資など、ともうひとつ重要な物資が運ばれた。それは野菜作りに必要な肥料、つまりし尿『下肥』。で、それが『くさい』ため『葛西菜』=『くさい菜』というゴロを連想させてしまうということで、当地『小松川』から『小松菜』となったとも言われています。

『下肥』の流通
江戸時代初期、江戸市民のし尿は川や堀に捨てられていましたが環境の悪化を配慮し、その後禁止となり、トイレ掃除と引き換えに農村に無償で引き取られるようになった。

18世紀になり、専門の業者が現れるようになり、さらに葛西船による流通がなされるようになると今度はし尿自体が売買されるようになりました。その後、その価格がつり上がるようになり、今度は農村からし尿の価格引下げの嘆願がしばしばおこなわれ、江戸末期まで繰り返されたといわれています。

こうした農産物と肥料という、江戸川などの大河の上・下流域の循環システムは明治・大正、さらには昭和20年ころまで続きました。その後のシステムは上下水の完備とともに消えることになります。消費エネルギーの大部分を輸入にたよる現代社会にとって、地域循環型社会の模範ともいえる江戸時代の理念に、その多くを学ぶべきではないでしょうか。

下肥運搬用『葛西船』模型
(葛飾区郷土と天文の博物館)