米の文化


 今年も稲の季節がやってきた。大雨や寒風でも吹き荒れればいっぺんでちじみあがってしまいそうな幼い苗が、初夏の涼風にそよそよとゆれている。もう少し大きくなれば風を受け、目には見えないそのかたちをすばやい稲の波であらわすようになるのだろう。緑の稲。まったく美しいと思う。

 緑の波、水の国、日本、アジア。米を主食にする人たちが住んでいる。初夏や雨季ともなってくると一気に農家は活気付き、直播やら田植えやらでいそがしくなる。あれだけ殺伐としていた場所に水が引き入れられ、水田となり、稲が作付けられると、あたり一面が緑のじゅうたんをひきつめたような生命感あふれる世界へと一変する。

 この国はこんなにも豊かなところだったのかと、人々ばかりでなく、すべての生物たちがそこに生まれたよろこびをあらためてかみしめる。

 そんな国で、そんな季節に『稲』を手掛けると、人はそれを手塩に掛けて育てるという気持ちになってしまうものなのかしら。稲は水がいのち。だから人は己の水田の水が気になる。我田引水とばかりに、他の水田の水をこちらに無理矢理引いてさえ、自分の稲のことが気になってしようがない。畦はモグラに穴を開けられていないか、そろそろ恵みの雨がほしい。雨が降れば降ったで今度は病気が気になり、イモチだ、やれカメムシだ、台風だ、豪雨だ、分けつだ、出穂だと一喜一憂の日々ということになる。それほどに米文化の『稲』を手掛ける人たちにとっては、米作りは子育てのように手のかかる仕事。

 そして収穫、脱穀、乾燥、籾摺り、精米、そして食卓。ここでもまたたっぷりの水を使って炊きあげる。これがまたなんともうまい。米とはまさに『主食』の名にふさわしい作物だと感心してしまう。

 多くの米文化の国々の日常の食事の主役はやはり『米』。これは大げさでもなんでもなく、他のおかずは主食である『ごはん』をおいしくいただくための添え物とさえ位置づけることもできる。

 米文化に欠かせないのが『発酵食品』。みそ、みりん、納豆などなど。たとえ大豆や麦の糀を使うみそだろうと醤油だろうと、ほとんどの発酵食品のための糀を育てるには『米つぶ』がなければならない。それほどに米文化の国々にとって『米』の存在は大きく尊い。

 世界のあと半分には『麦』の文化がある。麦は少ない雨でも、他の雑草に負けることなく元気に育つ。麦を手掛ける人たちにとって、麦はいかに手広く、合理的に育て、収穫するかがおおきな感心事なのかもしれない。

 彼らにとって、もちろん麦は主食であるにはちがいない。けれども米を主食にする民族とくらべると、その意識はちょっと薄れるのかもしれない。ぼくらが『米』を米として食べるのに対し、彼らはそれを加工して食べる。これには大きな違いがあるような気がする。そのぶんだけ、食と農とのより強いかかわりが、『米文化』としてぼくらにはあるような気がする。だからこそぼくたちは『米の文化』を大切に守ってゆかなければならないと思う。