食べるということ


 家族が出かけていてあなたひとりでごはん。そんなとき、仕度はとんでもなく手抜きになってしまうというもの。食の基本は一汁一菜とばかり、ごはんとみそ汁、あとは冷蔵庫の漬物、佃煮。そそくさと食べておしまい。

 ちょっと料理に自信があっても、自分ひとりのためにごちそうを作ろうとはあまり思いつかないもの。どうせ自分で自分のために作るのだから、自分の好きなものを好きな味付けで作ればおいしいはずなのに。それがたいしておいしくないのは、相手がいなくて自分ひとりだけだから。

 かと思えば、こどもが学校から帰ってきていっしょにお昼を食べる。おかあさんはきっと何を作ってやろうかと腕をまくってひとくふう。そしてふたりで食べる。するとこどもが「おいしい」といったり、おいしそうな顔をしたりして会話もはずむというもの。

 外出する。ときは昼どき。「さあなにを食べようか。お金はないけど中華か、和食洋食、と」。入った食堂でひとりメニューをえらぶ。しばらくして給仕が運んできてくれた注文の品は(結局カレーライスだったりするけれど)おいしい。たしかにもうひとりだれかいればもっとおいしいはずだけれど、ひとりでもおいしい。

 最初にも書いたけれど、自分ひとりで自分のために食事の支度をして食べる。そして外食でひとり食堂で何かを食べる。いずれもひとりで食べる。自分で作るごはんは手抜きだらけだからかしら。わざわざお金を払って食べるからかしら。この場合おなじひとりでも、食堂で食べたほうがおいしい。

 こういう場合もある。釣りなどに行ったとき、出来合いの食べ物をコンビニで買う。どれにしようかとあれこれ品選びした挙句、アンパン、カレーパン、おにぎり、ペットボトルのお茶を買う。海辺で右手に持った釣り竿の先に神経を集中させながら(そんな合間に魚が釣れるはずもないけれど)それを食べる。遠足気分でおいしいはずだけど、子供のころ遠足でともだちと食べた母親の手作りおべんとうと比べたら足元にもおよばない。

 相手がいて作るごはんはおいしい。また誰かが作ってくれるごはんもおいしい。そして誰かがいっしょにいて食べるごはんもおいしい。それはどうしてかといえば、『作ってあげる』と『作ってもらう』『いっしょに食べる』という、安心できるお互いの存在を意識する気持ちがそこにあるからではないかしら。

 『食べる』とは『食』とは何だろうとよく考える。わかっているつもりでもまた考える。『食べる』とはぼくらが健康に生きてゆくため毎日毎日欠かすことのできないこと。けっして食欲を満たすとか、グルメのためなどでもないはず。何々は何処の最高級でなければだめだとか、それを一流の料理人に調理させたり、器がどうだこうだ。そんなのは不健康なマニアの世界に任せておけばそれでよし。

 ぼくはひたすら不自然でないあたりまえの材料であたりまえに作ろう。ただ誰かにおいしいと喜んでほしいと願って『食』を作ろう。そしてそれがいつも、欠かすことのできない日本の『食』でありたいとも思う。

豊橋市和食房『さでんかん』のメニュー。極力調味料にたよらず、素材の風味を大切にしています。

『さでんかん』
お店の名前の由来は『sardin=イワシ館』ということでしょうか。とにかくイワシのような日本ではごく庶民的な食材を、その風味をたいせつにした調理をし、お客様に提供するというコンセプト。

調味料を使えば、食材はおどろくほどおいしいものとして変身するのかもしれません。でも本来の持ち味をそのまま生かす。これはいちばん基本的なのに、むつかしいことではないでしょうか。

新鮮で良い食材を選び、心をこめて調理する。お客はそのことを理解し、味わう。料理の基本とはそんな有機的なつながりによって成り立つものです。
さでんかん
豊橋市大橋通り3丁目146
電話:0532−55−3751