食の安全

 食の安全という人が生きてゆくうえでもっとも基本的な部分が大きく揺らいでいる。最近問題になっている『汚染米』の流通もその典型。一体全体食の安全管理はどうなっているのだろう。確かに大きく揺らいでいるのは最近のことだけれど、ではもっとむかしは食の安全が守られていたといえるのかしら。この問題を考えるとき、食が安全でなくなったきっかけについて考える必要があると思う。それはいったい何時からなのだろう。

 たとえば江戸時代やそれ以前、やっぱり食は安全とはいいきれかなった。たとえば生ものなど、食べずに置きすぎれば悪くなってしまうし、それを食べればおなかをこわしてしまう。そんなことは今もむかしも同じだけれど、新しいか古いかの見分けがつかないわけでもなく、古い時代に食の安全は問題にならなかったのかもしれない。

 世の中に化学物質が出回るようになってまだ100年そこそこといったところ。またひんぱんに利用されるようになっても久しくはない。思うのに、食の安全は化学物質や科学技術が『食』に利用されるようになって以来、危うくなってきた。

 化学物質や科学技術を食に応用する場合の使い道を考えてみる。@手間が省けて大量生産が可能となる。A保存性を高める。B食味食感を高める。C見栄えをよくするなど。というような目的が得られるようになった結果、食の安全が保たれなくなったといえる。なぜかといえば化学物質や科学技術は、そのほとんどが生産者、製造者や流通業者のためだけに利用されているため。そしてわるい事にその流通をつかさどる国についても、『便宜性』は消費者のためにではなく、むしろ経済性を追求する立場の業界、国に与えてしまっている。なぜなら、行政にとって経済の好調は自らの人気のバロメーターなのだから。要するに安全性は二の次にされてしまっている。

 産業革命があたかも錬金術のように発展したことの結果として、どうしようもなく危険な副産物もたくさん生み出されてきた。またその使い道も(平和的とはいえないけれど)考案されてきた。

 ぼくが幼少のころ(今から50年ほど前)、世の中の食品に大きな変革が起こっていたように思う。今までありえなかった物質のおかげで食べ物が大きく変わった。おそらく当時の食品は今より多量に食品添加物が使われていたのだろう。同じように農業の現場でも大量の化学肥料・農薬が使われていた。そして食品でないものにも大量の化学物質が使われてきた。

 食の安全が危うくなっている。これにはそれを扱う業者やそれを管理する行政関係者のモラルによるといってしまえばそれまで。それよりも
、こう考えたほうがいいんじゃないか。つまり、世の中が安全でないものによって、その大方を占められてしまっているのではないか。これ以上隠し通せない、取り繕えない、飽和状態ということなのではないかしら。

 できることはひとつしかないのかもしれない。化学の部分を減らすこと。つまりは有機に向かう以外に方法がないのだと思う。また『善』を守ることができる。それが人にできるというなら話は別だけれど。