561 新世界交響曲
09/11/23
 チェコが生んだ世界的作曲家・ドヴォルザーク(1841〜1904)。熱き血潮たぎる曲の数々。中でも交響曲第9番『新世界より』は名曲中の名曲といえる。とくに第二楽章はすばらしく、おそらくはだれもが知るメロディー。キャンプファイヤーを囲みこの歌を歌ったことのある方もあるのではないでしょうか。

 ドヴォルザークは30歳半ばでその才能が認められ、オーストリアのブラームスにも気に入られ、人気作曲家となった。この曲はドヴォルザークが51歳から3年間、招かれてアメリカに滞在中に作られました。そして彼の死後、このメロディーに最初に歌詞を付けたのは、ニューヨーク音楽院の同僚であったW.A.フィッシャーという人で1922年といわれています。題名は『Going Home』、家にかえろう。

 この歌は日本語にも訳されていて、堀内敬三(1897〜1983)による『遠き山に日は落ちて』という題名で1932年ごろといわれています。彼は浅田飴という会社の跡継ぎだったのですが、音楽好きが嵩じ、アメリカ留学のころにこの訳詩をしています。

 そしてもうひとつ、よく知られている曲に野上彰(1909〜1967)の『家路』があります。この詞がいつごろ付けられたのかは調べてみましたがわかりませんでした。いずれもドヴォルザークが異国の地アメリカで故郷を思う心が表現されているといわれています。

 でもしかし、それよりもさらにさかのぼって、日本でこの曲に詞を付けた人がいたのです。その人の名はなんと宮沢賢治(1896〜1933)。彼のライフワークとなった『銀河鉄道の夜』の中で、ドヴォルザークの新世界交響曲があらわれ、それに賢治の歌詞が付けられているそうです。もともと『銀河鉄道の夜』は歌劇を想定して作られているのだと思いますが、その中でイーハトーブ(岩手の発音をもじっている)を行く鉄道の風景にこの歌『種山ヶ原』が挿入されている。その詞はイーハトーブの地に農業をし、その自然のすばらしさを謳歌する内容です。家へ帰る、とはまったく違った解釈です。

 賢治によって『銀河鉄道の夜』が書かれたのは1924年ごろからだといわれています。そしてこの『種山ヶ原』は賢治が岩手県花巻の農学校で教鞭をとっていたちょうどその年の夏、すでに賢治自身によって歌われていたといわれています。堀内敬三や野上彰よりもずっと前に。

 音楽の好きな賢治はドヴォルザークの新世界交響曲を聴き、そのすばらしさに感動し、そのイメージを『家に帰る』とは受け取らず、『種山ヶ原』を思い作詞したのでしょう。そのわずか二年前に発行されたばかりのフィッシャーの詞の存在を知っていたとも思えません。

 たしかに賢治の『種山ヶ原』は古い語調の歌詞で現代にはマッチしません。でもそこに表現されている雪解けの4月のイーハトーブは光り輝き、風は賢治をやさしく、力強く包んでいます。この歌の存在が一般に知られていないのはまことに残念でなりません。

 それにしても、宮沢賢治という人は詩人、作家でもあったかもしれませんが、むしろ大音楽家と呼んだほうがいいのかもしれません。それほどに『種山ヶ原』ってすばらしい。



562 宮路山もみじ祭
10/12/14


 わが音羽商工会では、毎年恒例の『宮路山もみじ祭』を11月末挙行。ここ宮路山は標高361m。豊川市音羽地区で一番高い山というわけではないけれど、歴史的にも由来があり(山頂には702年持統天皇が訪れたという石碑)、なんといっても頂上から望める東三河湾の眺望がすばらしい。さらに西方に稜線伝いに直線距離で2kmほどのアップダウンで宮路山より90mほど高い『五井山』に足を伸ばすことができる。五井山からは蒲郡市と三河湾の眺望を楽しむことができるため、訪れるハイカーが多い。

 恒例のもみじ祭。今年で20周年ということで何か楽しい企画をと、山頂で『大声コンテスト』敢行。山頂から110mほど標高の低い駐車場では、甘酒やきな粉餅、雲助めし(その昔、東海道赤坂宿の駕籠かき人足が、忙しい昼食時にかっ込んだといわれるごはんにみそとネギ、油あげを混ぜただけの素朴な郷土食)の無料接待。商工会の理事さんほかの強力な奉仕活動のおかげ。

 『大声コンテスト』は宮路山頂ということで、その必要機材を担いでのアタック(大げさ)はアラカンのおやじにはきつい。途中、あれっ飲料水の持参を忘れちゃった。飲料水なしで昼まで『大声コンテスト』の作業はこれまたきつい。

 山頂での『大声コンテスト』、最初は参加ぱらぱら。でも三河湾に向かってひとたび誰かが大声を出せば、次から次へと参加の希望。『宮路さ〜ん』『おかあさ〜ん』(『おとうさ〜ん』はなぜかありません)など、澄み切った空、声高らか。参加賞に限りもあり、子供・男性・女性と各15名、45名さまで締め切り。あとは音量計測機なしの自由参加。

 山頂に用意した無料の記念はがきとスタンプ。これも人気で用意の300枚終了。宮路山の常連氏によれば、新年のご来光なみの人出とのこと。

 下の駐車場では無料接待のほか、おでんやドリンク、茶店でおいしい和菓子、五平餅などの販売もあり、今年もたくさんのお客様でいっぱい。この日青年部による3回の餅つき実演、きな粉餅には長蛇の列。甘酒の接待はお昼で早々終了。奉仕活動の商工会メンバー一同、うれしい悲鳴。

 でも考えてみれば、こうしてもみじ祭ができるのも、常日頃宮路山を守ってくださっている方たちのおかげ。ほうっておくと登山道やその周辺は、いのししが荒らす、草木が生える、台風などで木が折れる倒れる、枝が落ちる。雨で土が流れる、木が枯れるなどして山はどんどん荒れるばかり。

 いろんな人たちが、地域のためにほとんど無償の努力をしている。世の中が時間給いくら、管理費だ出張費だ人件費だといって、正当なのかどうなのかすべての労働に値段を付けている。おかげで日本人は高給取りかもしれない。けれどお金の計算をしていたらこんなことみんなやってられないしなりたたない。でも儲からないことってとっても大事。それがなければ実は世の中が動いてゆかない、というか成り立たない。それもこれも地元地域のため。どうせなら、楽しく続けたい。でないと続かない。地域のみなさまがんばって。そしてありがとう。


楽しい『大声コンテスト』

会場の駐車場にはいっぱいの人


563 オート三輪
11/01/05

 1954年製作のイタリアは巨匠フェデリコ・フェリーニの不朽の名作に『道』という映画がある。旅芸人ザンパノと、貧乏ゆえにその相手役として身売りされたあわれな女ジェルソミナの哀しい物語。

 物語の中に登場する人物もさることながら、今回の話題はオート三輪。旅芸人にとって、行く旅先での興行がいつも盛況とは限らない。つまるところ今夜も野宿。自分の移動手段がそのまま家財をそなえた粗末な『家』ということになる。その中で「オート三輪、ただ夜道をひた走る」の場面が印象的。

 馬鹿力があるだけというザンパノの才能では馬車より少しはましな、オートバイと荷台が一体化したオート三輪。一方、綱渡りなぞできるような人気の旅芸人であれば四輪の自動車。行く先での宿泊はホテル。この四輪自動車の旅芸人とのトラブルがきっかけで、ほんとうは心のよりどころとなり、生涯の伴侶ともなりえたかもしれないジェルソミナを失うことになってしまうおろかな男ザンパノ。・・と、どうも映画の筋が気になってしまうのだけれど、とにかくニーノ・ロータ作曲のテーマ曲がまたすばらしく、この映画をさらなる名画にしている。とまあこれ以上話しても仕方ないので、本題のオート三輪の話題。

 とにかく、今でこそめったにお目にかかることのない三輪自動車だけれど、ぼくの小中学校時代にはめずらしい乗り物ではなかった。乗り物といえば聞こえはいいけれど、当初のころのオート三輪はオートバイとリヤカーが一体化したような体裁。四輪自動車と比べると構造が単純で安価、というのが唯一のセールスポイント。運転席はそのままオートバイなので、床もなく、ただフロントガラスと雨よけのテント張り。夏は暑く、冬は寒いという、決して優れた居住性とはいえなかったけれど、とにかくたくさんの荷物を人馬の力に頼ることなく、遠くに運べるという文明の利器だった。

 ただしこのオート三輪、弱点があった。荷物を積まずに走っていて急ハンドルなんぞ切ろうものならつんのめってしまい、最悪横転ということにもなりかねず、けっこうそんな間抜けな事故も見かけたもの。

 ぼくが中学生のとき、学校にその手のオート三輪があり、校内やその周辺の土木系の作業にその活躍ぶりを見せていた。夏休みに『サマーミーティング』なる行事があり、1〜2年の生徒たちが校舎に泊まりこみ、勉強をしたり、上級生企画の夜の肝だめし、炎天下の奉仕作業などがメニューとしてあった。

 学校から少し離れたところに伊賀川という川があり、その河川敷の草刈作業が大変。全員汗だく。その刈草を学校の堆肥場まで運搬するのが我が中学校のオート三輪だった。重量制限なぞあったのかなかったのか、とにかく荷台に刈草を満載にして走るのだけれど、丘の上の我が母校の、さらに雨水で削られた最後の坂道を登りきれず、あえなくエンスト。いったんふもとまでもどり、生徒の後押し、応援でやっとのことで最後の坂を登りきるのだった。そのときのエンジン(というより発動機)の音が今でも耳に焼き付いている。単気筒のそれは平地ではタンタンタンと軽やかなのだけれど、急坂に差し掛かるとテンポは落ち、挙句、最後の『・タン・・』でストップ。なんとものどかというか必死な夏休みの奉仕作業。


ザンパノとジェルソミナ

http://www.trans-usa.com/ashiya/43gousen.htmlより


564 センサーライト
11/02/08

 岡崎の実家から豊川市(旧音羽町)に住居を移して5年以上が経過。その間、相次いで3匹のネコが入居。さらに一昨年、実家にいたぼくの母85歳とその飼い猫も入居(実家へは長男ご成婚で入居)。

 ぼくらの寝室への廊下が暗いという連れ合いの思いついたような一言。こういう場合、素直に言うことを聴いておくというのも得策。通信販売のCD、立て続けに宅急便で入荷で少々の後ろめたさもあり・・。どうでもいいけどなにか名案はないかと考えた。たとえば人が通りかかったときにスイッチが入る照明器具があればいい。それも乾電池式なら配線もいらない。・・というわけでそんなものはないかしらんとホームセンター物色。なるほど世の中進歩したもので、そういうものが商品としてありました。『乾電池式LEDセンサーライト』単三乾電池3本使用、というの。お値段も手ごろで購入。

 早速『暗い』という問題の廊下に取り付けてみたのでした。スイッチを入れ、ためしにそこを通ってみる。みごと点灯でなかなか明るい。LEDなので電池も長持ちしそうだし、これは安い買物だったのだなと一安心といったところ。

 その夜もう寝ようというので『暗い』廊下を通る。サッと点灯でやっぱり明るい。これはいける。『文明』とは文化が明るいという意味なのかもしれないけれど、やっぱり明るいとはいいことだ。かつて江戸の鎖国時代から世界に門戸開放の文明開化。東京の文化の夜明けはやはり照明からやってきたといってもよさそう。暗い行灯(あんどん)や灯明からガス灯、さらに電灯へ。東京なぞ、夜でも昼のように明るいという評判までたったとか。とにかく、明治の開国から150年も経って今もなお、明るいとはいいこと。足元が明るい、世の中が明るい、知識が明るい、そして心も明るいというわけで、ちょっとうきうきした気分。寝床に入って、これで我が連合い、夜中にトイレに立ってもちゃんと明るいと安堵の様子。

 ところが間もなく、どういうわけか廊下のセンサーライトが人も通らないのに点灯。寝室を隔てたビリビリの障子紙がライトの青白い光を通している(障子紙は張替えをしてもすぐにネコに破られるので、内側から温室用のビニールを張り防寒対策済み)。10秒くらいの後、消灯。間もなく点灯、しばらくして消灯。間もなくまたもや点灯、そして消灯。そして間もなくまた・・。そんなことが繰り返される。
 これを計算に入れなかったのは間違いだったのかもしれません。原因は我が家のネコ。昼間はあるじ特製の電熱マット利用の省エネ型ネコ用コタツでくつろいでいるものだから、どちらかというと我が家のネコの昼と夜は逆転してしまっているよう。だからネコたちが寝付くまでには、ぼくらが寝付いてから2、3時間はかかるらしく、動き回るやら、じゃれるやらで頻繁に行ったりきたりしているのでした。そのたびにLEDセンサーライトが点灯と消灯を繰り返す。いくらLEDなので電池長持ちといったって・・・。それに、点灯のたびに障子越しに寝床が明るくなるので気になってしょうがない。

 こういった場合、いったいどうしたらいいのでしょう。そんなことを考えているうち、夜寒の冬はしんしんと過ぎてゆくのだった。

このほかにもう1匹います


565 震災に寄せる
11/03/19


東北関東大震災は歴史的にはありうる規模の地震であったそうです。でも「まさか」と誰もが思いました。最近では2004年、インド洋沿岸に死者行方不明者を含めて27万8千人もの被害をあたえた、スマトラ島沖地震(M9.1)がありました。これは過去数千年に複数回、同じようなレベルの地震・津波があったと思われる痕跡が見つかっているそうです。

三陸地方では明治以降だけでも、1896年に死者行方不明者2万2千人という大きな災害をはじめとしてM7以上の地震は30回ほど発生しています。リアス式海岸という地形は海の幸が豊富な反面、津波には弱いという弱点があるわけです。そのおかげで、今までに多くの被害を受けてきました。そしてまた今回も。

宮城県宮古市田老地区は昭和8年(1933)の死者3千人の災害を機に、高さ10m、延長2400mにも及ぶ防潮堤を築き『津波防災都市宣言のまち』としていたほど。おかげで1960年のチリ地震(M9.5)の津波には被害を受けることはなかった。しかし、今回ではその防潮堤をも乗り越え、破壊してしまう津波が襲った。その防潮堤がなければ、もっと被害は深刻になっていたのかもしれないのだけれど。

延々500kmにも及ぶ被災。そして原発事故。原発の是非なぞ、いまさら述べても仕方ない。遺伝子組み換え食品を考える中部の会ではこの春、四日市の国道23号に自生しているGMナタネの調査に、茨城県から植物学者のNさんをお招きする予定でした。

今回の地震でNさんの自宅は倒壊を免れたものの、屋根の一部が剥がれ、家の中はめちゃくちゃになってしまったとのこと。おかげで今春の中部の会のナタネ調査への参加がだめになってしまいました。

Nさんから中部の会へ届いたメールに次のような言葉がありました。『・・・そして、原子力発電所も不要です。東京電力は、クリーンなエコ発電だとこれまで宣伝してきましたが、これほど危険でエゴな代物はありません。』

わたしたちは知らないのかもしれませんが、今世界中で、福島第一原発の決死の作業にあたっている約50名をFukushima 50と呼んでいるそうです。その後その人数はさらに増えているようですが、彼らが致命的ともなりかねない被曝をしながらの作業をしているというのに、日本の報道はこんなにも冷静です。だから、日本人は冷静でいられるのでしょうか。今回の福島県での原発事故はおそらく取り返しのつかない傷跡を残すことでしょう。一刻も早い収束を望みます。どうかこの世の中から、一日も早く原発が無くならんことを祈ります。

日本の危機だと思います。私たちのできることとは何かを、ぼくたち一人ひとりが考え、確認しあう必要があります。

被災地の復興を祈ります。



566 ラジオドラマ
11/05/14

 ラジオドラマがすきで、タイマー録音したりして、またあとで聴いたりしている。さらに気に入れば繰り返し聴くというパターン。印象に薄いものはそのまま今回放送のものを上書きしてしまったりするので、すべての作品を所蔵ということにはならない。整理してみると、そんなカセットテープやらMDが結構たくさんたまっている。数えてみたらその数なんと100本ほど。すべて完結編の各40から50分もので、ざっと200本近くになる模様。その中で個人的にこれは『名作』と決めたものもまずまずある。

 こういうのは趣味といえるのかどうなのかと思い、インターネットで『ラジオドラマ』を検索してみると、なんとあるわあるわ。YouTube やらニコニコ動画やらにたくさんアップされていて、好きな人たちの間で結構盛り上がっている様子。挙句、好き者にいたっては、専用のサイトで自ら所蔵のすべてのラジオドラマを、それが放送された年月日までリストに記して掲載しているという有様。その数をざっと数えただけでも1000本は優に越している様子。

 そんなあるサイトをのぞいていたら、「探しています『消えたエース』赤瀬川隼作」という項目に気付いたのだった。そのドラマはぼくも気に入っていて、今でもときどき聴いたりする。15年以上前に民放のラジオ図書館とかいう番組で録音したもの。

 早速「『消えたエース』あります。」とメールを打ってみた。で、「ぜひ聴きたい」とのことなので、これまた早速カセットにダビングして送付。またまた早速お礼の返信がきて、お返しにぼくが聴いたことがないラジオドラマをダビングして送ってくださったのだった。

 ラジオはテレビとちがって耳でしか聴くことができない。その代わり他の用事、仕事なぞしながらでも聴くことができ、『ながら族』にはうってつけ。ラジオだと目からの情報に欠ける。反面、聴き手がそれぞれのイマジネーションをめぐらせば、物語の幅はさらに広がったりもする。

 ぼくが幼少の頃。すでにラジオはたんすの上ですべての娯楽を鳴らしていた。そのうちセンセーショナルにテレビ受像機デビュー。そしてぼくが高校生の頃、いつも座右にトランジスタラジオ。夜な夜な勉強机に向かうも緊張は長続きせず、しかたなくイヤホンでラジオ。ちょうどその頃深夜放送開始でディスクジョッキーという形式の番組登場。曜日でパーソナリティが代わり、お便り紹介、リクエスト、恋愛の悩み事相談、ドラマなど盛りだくさん。結局、勉強の骨休めなのか、骨休めが勉強なのかといった始末。

 今はインターネットでかつて放送されたラジオドラマがたくさん聴ける便利な時代。でもなんかちょっとちがう気がする。やっぱりラジオドラマは受信機の選局ツマミを合わせ、雑音混じりで耳を澄ませて聴くというのがいい。小さなトランジスタラジオから聞こえるラジオドラマって、なんとなく小箱を開ける玉手箱みたいなもの。なんかとってもキュート。

 でも、時代は変わってもラジオドラマ。やっぱりラジオでやってます。耳を澄ませるとなんとなく役者さんの息づかいまで聞こえそう。ちょっと緊張、ちょっとほのぼのとしたラジオドラマ。


567 絵はがき
11/06/08

 池澤夏樹の『南の島のティオ』という短編集の中で『絵はがき屋さん』というのがある。ティオという小さな南の島で父の経営するホテルを手伝う少年がいろいろな人と出会い、付き合ううち、その心に触れたりして成長してゆく様をほのぼのと著している。

 ある日ティオのホテルにピップと名乗る人物が絵はがきの営業にやってくる。名入りの絵はがきを作ってはどうかというのだけれど、その値段がべらぼうに高い。それには理由があって、その絵はがきが誰かに郵送されると、それを受け取った人はその風景に魅せられ、それを見たくなり、必ずそこを訪れてしまうというもの。まるで魔法。でも純真なティオの目にはその人は「信用できる人」と映った。

 父親は契約を渋ったものの、ティオの交渉でお試し小ロットの100枚製作(ただし魔法?の効力は1年に限定)で話が決まった。その価格なんと1枚1ドル。ホテルの売店でその値段では高すぎる。仕方なく他の絵はがきと同じで販売したのだった。

 果たしてその絵はがきの効力は然りで、それを知り合いや家族から郵便で受け取ったと思われる泊り客が次々とティオのホテルを訪れるのだった。そして絵はがきに写っていたなぜか懐かしい景色を見たがる。さらに絵はがきのお客は必ず島での滞在に満足して帰るのだった。
 その先のあらすじはやめておくこととして・・・。絵はがきとは何なのだろう。旅先で、今ではあまり買わなくなった絵はがき。インターネットやデジカメがなかったころはよく買ったもの。旅先から親しい人に書く絵はがきなんてなかなか粋。よく考えてみると、その旅先が気に入るから、そこの絵はがきを買い、だれかのあて先に投函する。絵はがきを受け取った人は、その写真を見て「いいな」と思う。

絵はがきは封書とちがってオープンだから、あまりプライベートなことは書けない。かといって「ここで見る夕日はとってもきれいです。今度来るときはあなたといっしょに・・・」なんちゃって、すれすれな文章も旅先からだと書けてしまったりするもの。

 風景が描かれている、とくに観光絵はがきにはちょっと不思議なものを感じる。観光を含めて旅行、旅をする場合、人はそこに何を求めるのかしら。日常から逃れ、静寂だったり、景色、歴史、文化、食べ物、そして人との出会い、ふれあい『旅は道ずれ世は情け』。旅で人は決まって「癒されたい」と願望する。そういった旅人を迎える人や景色はなぜかあったかい。そして印象に残るもの。

 絵はがきを旅先からだれかに送るとき、出す人はそこに描かれた風景に何かを念ずるのではないかしら。「あなたにもここにいてほしい」なぞと素直な気持ちを込めたりが、旅先という非日常からだとできてしまう。しかもその念、心は以外にも通常より増幅されたりもするのではないかしら。

 古い手紙の入った箱なぞをあけてみたりすると、きまって何枚か絵はがきが出てくる。絵はがきってよく目立つ。誰から届いて、どんなことが書いてあったか、ついつい読み返してしまうもの。そしてなぜか懐かしい。古い時代の、今はあまり利用されない絵はがき。でも何かとってもあったかくていい。


568 遺伝子組み換えと原子力
11/06/08

 グローバリゼーション(国際化)という言葉がある。ある企業が新商品を開発したとする。それは振れこみでは人々の生活を便利にしたり、潤したりしてくれるものとして宣伝される。そしてその商品が画期的であればあるほど、販売力と経済性があればあるほど背後に国家が着き、その政治的支援の下、それは世界中に戦略として売り込みがかけられる。

 このような大掛かりな売り込みは農業の部門では60年代に『緑の革命』と称して欧米諸国により、世界中にビジネスとして広められた。その時の振れこみは、農薬、化学肥料が農業生産の効率や収穫量を上げ、農家が潤うというものだった。その結果、農家は資材を買うために農業をするという羽目になり、後進国の困窮に加速がかかってしまった。日本では今も『慣行』という、農薬と化学肥料漬けの農業が行なわれている。改良されて売られる市場価値のある品種は、それから種を採ってもまともな作物には育たないF1だったりする。

 遺伝子組み換え(GM)は『第二の緑の革命』と(誰が呼ぶのか?)呼ばれ、特定の除草剤をまいても枯れない、害虫を寄せ付けないなど、これまたいい事尽くめの技術。米国や南米の一部の国で積極的に利用されている。それらの多くの作物は日本向けとして生産されている。かつて農薬・化学肥料(ベトナム戦争でも)で利益をむさぼった開発業者は、今度は特許のある種子と農薬を独占的にワンセットで販売することができる。

 GM作物を農業に受け入れた国では、ちがった気候風土の国で開発されたGM作物に主流を奪われ、つまるところ在来の農業が失われることになる。GM遺伝子は自然界に放たれることになり、生物の多様性は損なわれる。人間の文化も自然環境に含まれることを忘れてはいけない。

 考えても見れば、19世紀以後、産業革命の名の下、あらゆる科学技術が応用され、あたかも錬金術のように多くの利益を生み出してきた。しかしながら、そこでの利益は、商品を買わされる(本人にその意識がなくても)数多の農家や市民の血と汗と涙から吸い取られたものであることを無視してはいけない。

 原子力、これも国際化とまったくおなじ。これは純然たるビジネスに他ならない。エコだとか自然にやさしいなどという振れこみでこの技術が進められてきた。平和利用といえば聞こえはいいけれど所詮は『核』。そこには今回の福島での事故のように計り知れないリスクが存在する。(発電時に)二酸化炭素の排出がないかもしれないけれど、核はそれ自体いわば『究極の汚物』であり、その管理は人類の能力を逸脱している。

 農薬・化学肥料、GM技術、原子力等々、挙げればきりがないけれど、その恩恵に浴するものは常にそれを操る側であり、国民市民には何の利益ももたらさない。利益だと刷り込みされているだけなのだ。かつては、いやいや、何千何万年もの間、大切にはぐくまれてきたはずの技術である『有機』の考え方こそが、地球の環境を守ってきたはずだし、そのおかげで人類はその恩恵を受けることができていた。

 科学技術とは『鬼っ子』なのかもしれない。恒久的に『思慮』を持つことのできないこの人類には赤子に刃物。科学の加速はとまらない。今、人類に必要なのは『心の進化』。自ら決意してその進化を遂げなくては環境問題どころか人類の滅亡への秒読みも止まらないのだろう。

野生化した遺伝子組み換えナタネ(三重県)


569 遺伝子組み換えとターミネーター技術
11/07/27

1998年、あのモンサント社はとんでもない商品を考案し、その特許をとりました。それはターミネーターと呼ばれる技術。映画で同名のものがありましたが、この terminate とは『終止符をうつ』つまり殺すという意味。モンサント社が特許をとったのは、なんと種子を殺してしまう技術です。しかしながらこの技術にはあまりに未知な影響が考えられることから、消費者などから強力な反対にあい、その商品化は行なわれていません。

ターミネーター種子のプログラム
そのメカニズムは実に巧妙です。まず、ターミネーター種子には次のようなプロセスが順に起こるように遺伝子組み換え技術により組み込まれています。

●パターン1
@ Aを抑制阻止する因子・・・・・・・・・・・・・・・・・・Aを抑制する
A Bの動作のスイッチを入れる遺伝子(プロモーター●注)・・Bのスイッチが入らない
B Dのブロックを切り取ってしまう遺伝子・・・・・・・・・・Dは切り取られない
C Dのブロックを有効にする遺伝子(プロモーター)・・・・・DのブロックのスイッチON
D ブロック。Eの毒素が発生するのを阻止する遺伝子・・・・・ブロックが掛かる
E 種子を殺す毒素を発生する遺伝子・・・・・・・・・・・・・毒素は発生しない

ちょっと複雑でわかりにくいですが、以上のパターン@の順序ではEの毒素が作られないことになります。でも、このプロセスにちょっと手を加えると、話がちがってきます。

●注
プロモーター(promote:促す、進める、働きかけるの意)
たとえば種子が発芽などの動作に移ろうとする場合、このプロモーターがその動作に関係する遺伝子に指令をする。

●パターン2
@が起こらないようにしてしまうと・・・・・・・・・・・・・・Aを抑制しない
A Bのスイッチが入る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・Bのスイッチが入る
B Dのブロックを切り取る・・・・・・・・・・・・・・・・・毒素発生のブロックがなくなる
C Dのスイッチが入る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・DのブロックのスイッチON
D Bでブロックが切り取られてなくなってしまっている・・・・ところがブロックがないので
E 毒素が発生してしまい、種子が死ぬ・・・・・・・・・・・・毒素が発生してしまう

どうしてこんなメカニズムが必要なのか
まず、F1(一代雑種)種子の場合、稔った種子を播くと両親の形質が現れてしまい、それを播いても商品価値のある作物ができません。一方固定品種(純血種)の場合、稔った種子を播いても形質の変わらない商品価値のある作物の種子ができる。したがって種子会社は販売するための大量の種子を容易に生産できるわけです。でもそのときに稔った種子が自殺してしまう性質があっては、それきり種子の生産がストップしてしまいます。

そこで、種子会社がターミネーター種子を生産するときは『毒素』が作られないけれども、販売するときには『毒素』が作られるような操作をする必要があります。その方法として、種子会社は出荷する段階でターミネーター種子に@がはたらかないように抗生物質で処理をして、そのはたらきを止めてしまいます。こうしておけば、農家が種子を播いて芽が出て育ち、作物として稔らせることはできますが、それを種子として播いたとしても芽は出ようとする時点で自らを殺してしまう。種子会社は完全にその種子を支配できることになります。なんと巧妙なプログラムなのでしょう。

問題点
ターミネーター作物の花粉がばらまかれると、通常の作物にもその遺伝子が移行してしまう。自家採取する種子がターミネーター種子になってしまう。また交雑により、自然界にも拡散してしまう
@の抑制因子がはたらかなくするための処理が効かなかった種子では、稔った種子は発芽能力が失われることなく、ターミネーター作物がそれ自体で拡散する可能性がある
食品として利用する場合、毒素が発生する可能性があり、アレルギーなどの影響が考えられる

遺伝子組み換え作物は、害虫が付かないとか、特定の除草剤をかけても枯れないとか、いいこと尽くめのような振れこみで売り出されていますが、結果的にはメーカーの利益のみが追求されてしまい、種子にかけられた特許のおかげで市場の『独占』が実現してしまう。そしてこのターミネーター技術は、決して農家の自家採種を許さない『完全独占』を目標とする悪魔的な技術です。

F1とターミネーター
F1(一代雑種)技術も農家による自家採種をさせないための『独占』を視野に置いた技術といえます。ただし悪いところばかりでもない。通常、一代雑種では生命力の強さも兼ね備えている場合が多い。高品質な作物が手軽に得られるということで農家にも人気がある。それに最近では伝統作物の自家採種をする農家が少なくなっています。その土地独特の在来の品種では、気候風土に合ってはいても、収量が少ないとか、形や色、大きさ、味などが劣るなどの理由で、自家採取による伝統品種の伝承が行なわれなくなってしまっています。

F1品種の種子を生産するには綿密な技術と手間が掛かります。大量の種子が必要な場合、他の品種からの影響をまったく受けない離島など隔離されたほ場が必要です。さらに熟練した作業員による開花直前の手作業による雄しべの切除、さらに開花中の目的の父親から取った花粉の受粉作業などと、気の遠くなるような手間が掛かってしまいます。

それに比べてターミネーター技術では種子を採取する場合、他の品種との交雑は禁物ですが、少なくとも交配作業に手間をかける必要がないため、種子の生産コストが大幅に安く済む。しかも農家での自家採種が不可能なので種子の独占支配ができてしまう。

あたかも遺伝子組み換え作物が世界の農業の主流になろうとしているかのように、その栽培面積は年々広げられています。そして農業がさらに効率的かつ低コストで行なわれるようになる、いわば革命的な農法のように宣伝されています。しかしながら、その栽培が行なわれているのはごく一部の国々で、その裏では米国の政略が農業戦略の一環として推進されているということを忘れてはいけない。

グローバル化という言葉が、あたかも世界中を平均に便利に、裕福にするかのごとく叫ばれています。しかし、裏を返せばそれは『独占』ということであり。農業の場合、世界をおなじ農法、食文化にしてしまうことになりかねません。この地球上のあらゆる自然、人の営みはその地域の気候風土に見合った多様なものであるからこそ、そのデリケートなバランスが持続的に保たれる。
46億年ともいわれる長い歴史の中で地球上の生物は、現在のような多様な形に進化を遂げてきました。しかしながら遺伝子組み換えという技術はその過程を無視し、単に一部の企業に都合のよい商品として、しかもありえない形質を備えた生物として作り出されています。そのような生物が自然界に放たれたとき、またそれが自己増殖や交雑を重ねていった場合、一体どのような不具合が生じるかについては知る由もありません。

科学技術が進めば進むほど、環境にかかる影響も大きくなります。遺伝子組み換えは生物の基本的な部分に人工的な手を入れる、本来はありえない技術です。私たちの厳しい監視と『いらない』という意思表示を明確にしてゆくことが必要であると確信します。

ターミネーター種子は実用化されていません


570  きくが逝きました
11/08/24

 道長の愛犬『きく』雌が逝った。道長が旧音羽町に作業所を移転して稼動し始めた95年の8月以来、ずっといっしょに苦楽をともにし、その一部始終を見守ってくれていた。ぼくらにとって特別な存在。

 先日8月3日朝、ぐったりとした様子に驚き、掛かりつけの獣医さんに連れてゆく。肺炎とのことで、皮下点滴と抗生物質の注射、あとは投薬ということで一応の難は逃れたと思ったのだけれど、その後、食欲は全くもどらず衰弱。その3日後、別れは8月6日の朝だった。その前日までいつもどおり、自ら希望し、大好きな散歩もしたのだった。

 きくとの出会いは『一期一会』のたとえがあてはまりそうなもの。16年前の8月7日、ぼくと連れ合いは岐阜県との県境に近い旧北設楽郡稲生町(現豊田市稲武町)の『大野瀬生活改善グループ』という作業所を訪ねるため、岡崎の実家から車を走らせていた。おそらくその日は矢作川沿い、豊田市勘八町辺りから飯田街道(国道153)を足助町、伊勢神トンネルを経て午前中に作業所見学をし、どこかで昼食をとり、音羽の道長作業所へ向かったのだろう。

 今となっては記憶に定かではないのだけれど、その日、大野瀬への道程のどこかで道端をとことこと歩いている子犬を見つけたのだった。さらに近くに親らしき犬も確認。自動車の往来も頻繁な飯田街道。大丈夫かしらと思いつつ、そしてあまりのその可愛いらしさから、とっさに道長の番犬にしたいと連れ合いと意見一致。拾って行こうと思ったけれど、ひょっとして飼い犬だといけないと、近くの一軒家でたずねてみたところ、「ちょうどいいから持ってって」。その家には他にも2、3匹の兄弟がいたように記憶している。

 そのとき、生後2ヶ月くらいだったその子犬に『はな(8月7日だったから)』と名付けようという話もあったけれど、子供たちの意見から『きく』となった。

 以来16年間、いろいろあったけれど、音羽の作業所の歴史はいつもきくとともにあったといえる。きくと散歩にゆくたび、仕事の合間に対面するたび、ぼくらは気持ちを「さあ、またかんばろう」と持ち直すことができたのだと思う。散歩の道すがら、夏には風に碧く波立つ稲の海。水路に沸いた蛍を、天の川でも眺めるように歩いたもの。セミの死骸を見つけては美味そうにシャキシャキ食べたり、秋には彼岸花。肌寒い落ち葉の上をサクサク。思わずいっしょに眺めた夕焼け空にデジカメのシャッターを切った。冬の雪の日にはきくの歩くあとにぽつぽつと足跡。つくしが出始めて春。アスファルトを歩くきくの爪音も軽やかに聞こえた。またまた今年もめぐってきた新緑は燃え立ち、あたり一面生きる喜びであふれていた。そんな新鮮な繰り返しが16回、確実に繰り返されたのだと思う。

 2004年四月、音羽に住居(その二年後に新作業所完成)が得られるまでの約9年間は、ぼくたちが岡崎へ帰宅したあとの留守居役を務めてくれた。ここ新作業所兼住居でのきくとの同居は、ここ7年間ほど。朝、玄関の引き戸を開けると、必ず小屋から出てきて朝ごはんの催促をしたもの。米の飯に味噌汁を薄めてかけたごはんと牛乳。最初はごはんを食べ始めるのだけれど、ちょっとしてやっぱり牛乳。それほどに牛乳が好きだった。

 若い頃のきくは賢いとはいえなかったけれど、年取ってからはいろんなことがよくわかっていてとても利口だった。散歩に行くとき、もうちょっと遠くへ行きたいときなぞ、ちょっと立ち止まって(別に無理にとはいわないけど)あっちへ行きたいというような素振りで「わかったわかった」と初老のぼくも同意。

 きくが逝ってしまう10日くらい前だっただろうか。ぼくが仕事場の入口にいると、なんと鎖が外れて自由になってしまったきくが網戸越しの向こうに立っている。「もういちど鎖につないで」といっているような素振りにそのままきくの小屋まで連れて行ったもの。

 とにかく語りつくせないいろんなことがここ音羽ではあった。たくさんの人たちと出会うことができ、経験もした。そのひとつひとつの出来事の区切りにきくがいて、ぼくらを励ましてくれたもの。音羽での愉快でたのしい16年は実に思い出深く、新鮮で感激的であったことだろう。きくと共に過ごすことができたその歳月がもう二度と帰らないなんて。ああ、なんとさびしいことだろう。

 愛犬きくは今、毎日の散歩道の途中の、周りがよく見渡せる梅畑の梅の木の下に眠っている。ここならいつでも大好きな散歩に行けるし、ぼくらも会いに行ける。これからも道長を見守っていてほしい。そうそう、シカが来て悪さをしようとしたら「ワン!」と一喝たのみます。

2008/02/09 雪の朝

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