601 彼 岸
16/09/23


 今年の夏はおかしい、と言われたし、ぼくもそう実感する。そして暑かった。

 まず、ぼくの釣りの友、黒鯛・キビレ(むこうはそうは思っていない)との出会いが少なかった。こんな年は珍しい。普段使わない奥の手、オキアミ集魚材を使わないと釣れない(連れない)といった状況。

 台風もおかしかった。今ではあまり聞きなれない『迷走台風』と呼ばれた10号(ライオンロックという名前だそうです)。日本の近海で生まれ、成長し、さまよい、普段被害の少ない東北・北海道にまで大きな被害を及ぼし前代未聞。

 道長の生産者、新城市小山さんの梅は申年だからなのか、例年になく豊作。こんなに見事に成ったのははじめてとも言えるほど立派で大粒の実だった。
 申年の梅(申梅)は良い(縁起が良い、健康に良い)といわれる。歴史的に、申年は飢饉や厄病の記録が多く、その年の梅ぼしで命がつながったという言い伝えがあるらしい。ぼくも新ものの梅ぼしで元気はつらつ。

 夏といえば、なんといっても通り過ぎる風にさわさわ渡る稲の波がなつかしい。身も心もさわやかにしてくれる、ぼくにとっての里山の原風景。そんな緑一色だった音羽の田んぼも、黄色に色づいてきたと思っていたら、お盆明け早々で稲刈りとなる。そして、9月も下旬になろうとする今日、すべての田んぼは地肌一色となってしまった。なんだかとてもさびしい風景。

 今、涼やかと感じた風が、愛犬きくと散歩に出ればもう寒さを予感する。そろそろ、夏の緑は、茜色の夕日、赤とんぼ、紅葉へと色どりを移ろう。まさに自然界の命という命が燃え立ち高揚し、次の世代へつなぐためのめくるめくあわただしい季節。それがおそらく何十何百万回と飽くこともなく繰り返されてきた。おそらく、地球上の四季を経験するすべての生物が、緑から赤に色彩を変える世界に心ときめかせるにちがいない。

 44歳でここ音羽へ移り、以来21回の季節がめぐっていった。ぼくについてもほかの生物たちと同じで、秋にはきまってその色彩に心ときめく。65回も秋を経験してきたぼくだけれど、けっこう『老』に向けて下り坂だけれど、やはり秋にはしみじみとそれを感じる。
 秋冬を目前に、道長の休耕地も草刈が追込み。夏に怠けたおかげで、雑草たちの旺盛な勢力に圧倒。孤軍奮闘・悪戦苦闘。近代兵器の草刈機をもってしても、これでもか、根畜生の掛け声がないと進めない。

 それでも老草刈人夫、ちょっと余裕で粋な計らい。まだあまり草丈は伸びていなかったけれど、あらかじめ土手をきれいに刈っておく。するとどうでしょう。一夜で芽吹いたと思えば彼岸花、にわかに赤い花を咲かせ、瞬く間にみごとに咲きそろう様子はすばらしい。花を咲かせても実が成るわけではないけれど、なにかそれが秋の幕開けにふさわしい号令・儀式にもなっているような気がする。

 彼岸の今日、そして、やがて来るきびしい寒さや深雪。生物たちには深い眠りの季節。それは、自然が用意した、やすらぎのための計らいなのではないかしら。
 さあ、もう一息の草刈作業をがんばろう。


602 道長、今日にいたる
17/02/18

・40年以上前
もう、40年以上前のこと。23歳で卒業、就職と、りっぱにビジネスマンとしてスタートを切ったはずのぼくでした。

にもかかわらず、会社員が性に合わなかったのか、勤めて3年目にはもう、会社を辞めることばかり考えていました。とうとう辞めると決心し、上司に表明。その半年後、浅はかにも『Free at last』自由になったと実感した記憶があります。

・スーパーに勤めました
そのころ、姉が岡崎で寄合いスーパー(複数の商店主が集まって経営するスーパー)の食品部門(青果物以外の)を経営していたため、ひとまずそこではたらくことにしました。たしか丸4年をそこで過ごしたと思います。

当時、コンビニエンスストアが流行りだしていて、姉のスーパーでも朝10時から、夜10時30分までという営業をするようになっていました。交代で閉店まで店番をするため、3日に一度は15時間以上の勤務でした。

毎朝、塩乾物の問屋を2軒まわり、魚の干物や練り製品、ギョーザや佃煮、惣菜など仕入れ、開店前に店に入り、商品に値付けし、冷蔵ショーケースに陳列。午後にはドライ食品が問屋から届くので、値付けし、陳列棚に並べる。週替わりの特売チラシを入れるため、そのための商談、POP書き。在庫の確認・発注と、忙しい日々が過ぎました。

・漬物の漬け方をおぼえました
つけもの売り場の漬物コーナーの、浅漬けも自家製で漬けて販売しました。そのために、市内の同業者で、浅漬けを漬けて販売している店にそのノウハウを教わりに通ったものです。教わったのは『白菜漬』と『白菜キムチ』など。

白菜漬の原材料は、市場で仕入れた白菜、日本たばこ産業の粗塩、グルタミン酸ソーダ(粉末)、みりん風調味料、ソルビトール、そしてアミノ酸調味料。白菜キムチは塩漬け白菜の水気を切り、某漬物メーカー製、濃厚食品添加物使用の『キムチの素』を絡めてできあがり。いずれも漬け汁と一緒にポリ袋に小分けして販売しました。これらの商品は高利益率でけっこう売れ、ドル箱商品でした。良質の調味料を使うでもなく、安価な食品添加物で味付けするため、原価率が低い。原料の野菜も青果部の売れ残りでこれまた安い。決して胸を張ってお客に勧められるはずもなかったのです。

自分の仕事に疑問を持つように…
食品問屋から仕入れる商品はといえば、これまた食品添加物の使用があたりまえ。肝心な主原料もいい加減。そんな商品でしたが、夕刻は店に出て、賞味期限の迫った商品を「おいしい」とか「安い」といって売りさばいたものです。

そんな日々の繰り返しでしたが、大手スーパーの進出が相次ぐようになり、商店街と反対の署名運動もしました。にもかかわらず、世の中の波にあらがうこともかなわず、大規模小売店舗法を傘にしても甲斐もなく、1970年代後半、地元の寄合いスーパーも斜陽の一途をたどるばかり。
これ以上、この世界にいてはいけないとスーパー勤めを辞め、とうとう自分で漬物屋をはじめてしまいました。1980年(昭和55年)の秋でした。

・今日にいたる
以来、紆余曲折、36年の歳月が過ぎ、今日に至っています。今では「食品添加物、農薬、化学肥料などを使わない」を基本にした商品作りをしていますが、一朝一夕でその姿勢にたどり着けたわけではありません。これからも、地道にこの道をまっすぐに進めるよう努力をしてゆきたいと考えます。

みなさまにおいしいものを食べてほしい。健康であってほしい。そのために、大切な日本の食と農の文化を守ってゆきたい。それが道長が背負うべき大切な荷物なのだと思います。

旧宝飯郡音羽町に移転して間もない頃


603 添加物と有機
17/02/27

 今や、巷の加工食品に食品添加物は調味、食感、保存、見栄えなど、様々な目的で使われていて、もはや欠かすことのできないものとなっています。メーカーの言い分としては「消費者にいかに安く、おいしく、安全に供給するか」などで、一見、消費者サイドのメリットが挙げられる。

 調味・食感ではアスパルテーム、サッカリンNaなどの甘味料、クエン酸などの酸味料、グルタミン酸Naなどのうま味調味料、キサンタンガムなどの糊料、そのほかに着色、発色、漂白、光沢、香り、苦味など。ありとあらゆる種類の食品添加物がある。保存性のためには、殺菌、酸化防止、防カビ、PH調整など。加工を助ける中和、乳化、膨張など。そのほか発酵分解を促す微生物、酵素。栄養強化などなど。

 では、食品添加物を使わないで加工食品は作れないのかというと、そんなことはありません。あらゆる伝統食品は、長い歴史で培われた食文化のなかで、気候風土に逆らわずに、むしろ自然の力を利用して作られてきたのがその証です。

 食品添加物を使わないメーカーの言い分としては…「おいしく、安全に」。これも冒頭で示した、一般の加工食品メーカーのコンセプトに一致しています。ただし「安く」という言葉がここには含まれていません。

 ここで、発酵食品・調味料について、添加物を使った食品を農法にならって『慣行』、それらを使わず、原材料にこだわり、手間隙かけた食品を『有機』と分類して考えてみます。

●慣行:
・バイテク技術が駆使され、その移り変わりが頻繁
・大量販売のため、効率性と経済性が最優先される
・生産のために必要な環境を人工的に管理してしまう
・少しでも安価な原材料を優先
・低コストで消費者をひきつける
・おいしさと経済性

●有機:
・伝統的な技術を受け継いでいる
・仕込みから発酵、熟成に手間と時間がかかる
・その土地の風土、季節、原材料にあわせた技術が必要
・地元産、国産など、納得できる原材料を使う
・毎回、おなじ品質を保つのがむつかしい
・コストが高く、消費者の理解が必要
・おいしさと安全性

 以上から、慣行と有機では、その考え方に大きなちがいがあることがわかります。つまり、慣行では「いかに効率よく安価に(利潤性高く)」が最優先される。一方、有機では効率は二の次として「高品質でおいしく、安全」を最優先します。つまるところ、最終的に優先順位は量販では生産者、有機では消費者ということ。

※『有機』とは有機物の有機とはちがう
 英語で有機という言葉は『organic』で、これは形容詞。名詞形では『organ(機関・組織)』とか『organism(有機的組織体=生物)』。『organic』を直訳するなら『有機的な繋がりのある』ということになる。
 おそらく、日本で最初に『有機農業』という言葉を使ったのは、1971年に日本有機農業研究会の創設にかかわった元農協役員、一楽照雄という人。『organic』という言葉を、実に意味深く『有機』と解釈したものだと実感します。

 私たちの『食』には消費する人と生産する人との『有機』的なつながりが必要不可欠です。それはほかならぬ信頼関係であり、むかしから今、そして未来へと脈々と受け継ぐべき関係です。

 社会を繋ぐものは『経済』と言い切るべきではないと思います。その証拠に、近代、世界のあらゆる戦争の火種は利権の絡む目先の経済ということではないでしょうか。人と人、生産者と消費者、食と農の信頼関係、つまりは、有機的な関係こそが求められるべきではないでしょうか。



604 サイクリング
17/03/08

 去年の7月ころ、体力づくりのため自転車をはじめたのだった。歳のせいで、最近いろんなことをすぐに忘れてしまう割りには、忘れもしない一昨年11月21日、柿の実収穫の折だった。脚立を、横着にも階段を降りる要領で望んだのがいけなかった。脚立のステップを手で握っていないものだから、うっかり足を踏み外しそのまま前のめりに転落。伸ばした脚立の最上段から。結局、橈骨(とうこつ:腕の太い方の骨)がボキリ。

 手首のケガなら、他の部分には影響がないと思いたいのだけれど、ギブスを着けて約2週間の安静で、すっかり体力が落ちてしまった。その後、左手をかばいながらの日常生活を送るのだけれど、なかなか各部位の筋力が戻らない。まったく情けない。

 半年以上経過のころ、何かをして筋力回復をしようと考えたのだった。思いついたのがサイクリング。とはいえ、岡崎で仕事をしていた頃乗っていた自転車はといえば、音羽に移転して以来、ずっと放ったらかしの錆びだらけ。我が亡き父から受け継いだツーリング用(1980年前期製)で、レストアすれば価値ありと判断。

 ちょっとお金もかかったけれど、おんぼろビンテージバイクでも、久々乗ってみると、やっぱりたのしいサイクリング。そのままどっぷりとはまってしまったのでした。

 始めは町内を散策程度だったのが飽き足らず、少しずつ足を伸ばして、暇な日曜日には上り坂を含めた30km以上が標準メニューとなってきた。最近では、ゆるい道程ではちょっと寂しいと、林道を含めたコースも。

2、3日前、20km程度の林道コースを敢行。かなりきついけれど、気分は爽快。で、さらに御津町からとなり町の御油町に抜ける林道(県道)を選択。その進入路がわからず、野良仕事のおばあさんにたずねてみると「あっち」。あっちへ行ってみるのだけれど、おかしい感じ。再度、ちがうおばあさんにたずねると、やっぱり「あっち」。

 イノシシ除けのゲートを開け、その道を進むのだけれど様子がおかしい。倒木が塞いでいたり、崩れていたりで自転車に乗るどころか、担がないと進めない有様。いまさら戻れないし、つのる不安を抱えながら、獣の気配も感じながら峠を越えて下ってゆくと…。あらあら、とうとう御油神社というところに出てしまいました。うーん、たしかに御油町に抜ける道にちがいはなかったけれど。こんな道、自転車に乗った初老に案内していいんでしょうか。ほとほとへとへと。あんな道、二度と行かないけれど、過ごしてみれば、なんとも楽しい2時間半のサイクリングとなったのだった。
 今年1月、とうとう新車購入。最近流行のカーボンやアルミ製フレームやロードレーサーには、どうも馴染めないので、昔ながらのスチール(クロモリ)製スポルティーフ。カーボン製ほどの7kg弱というわけにはいかないけれど、それでも10kgあるかないかの総重量。

 ぼくの乗っていた旧車はドロップハンドルに交換し、大介氏が引き継ぎ。彼も十二分にはまってしまったようで、ウェア、グッズなど、いろいろ気になる様子。

 只今、寒中のトレーニング中。今月末には浜名湖一周90km。無理はしません。競技ではなくてポタリング(のんびり走ること)。がんばろー。

浜名湖一週 完走しました



605 東京オリンピック
17/05/27

 2020年、東京オリンピックとのこと。そういえば、ぼくにとって印象深いのは、なんと言っても1964年(昭和39年)の東京五輪。当時、ぼくは13歳で中学1年生ということになる。

 かなりむかしのことなので、確かではないけれど、開会式はちゃんと観ることができたことを記憶。暦をその年の10月10日に遡ってみると『土曜日』ということになっている。学校は半ドンで終わり、急いで家へ帰ってテレビだったのだろう。その日はちょっとない興奮だった。

 東京五輪以前の大会で、ぼくの記憶にあるのはイタリアローマ大会1960年。そのときには、我が家にテレビなぞなく、深夜、ラジオに耳をそばだてての観戦だった。当時の電波は、地球の裏側から成層圏に反射しながらはるばる日本にやってくるため、その波に強弱があり雑音も多く、聞こえたり聞こえなかったり。水泳400mで、山中毅がローズ(豪州)と競り合い、惜しくも銀メダルという一戦に手に汗握ったことを覚えて…いない(山中が競泳でがんばっている場面の実況中継だけを記憶)。

 さて、それから4年後、テレビ放送で観た東京五輪の開会式(もちろんモノクロ)はこんなだった。聖火の最終ランナーが陸上競技場にさっそうと入場。皆が固唾を呑んで見守る中、トラックをまわり、聖火台までの長い階段を駆け上がり、高く掲げたトーチの聖火を聖火台に点火。これぞまさに感激の一瞬。

 だがこのとき、ちょっと奇妙な光景がテレビ画面に映っていたのだった。点火しようとするその後方に、なにやら長い竿のようなものが揺れている。さらにその先に四角な物体が付いている。どうやらそれはカメラなのでした。まったく、世紀の一瞬を別のアングルで撮ろうという精神には頭が下がるけれど、すべての国民がこちらから観覧する中、あれは少々興ざめな画(え)であったと記憶する。

 53年前の心ときめく東京五輪。日本国民にとっては、まさに夢の祭典だった。戦後生まれのぼくはその悲劇を経験していないけれど、戦争を、その修羅場を経験した人々にとっては何とも感慨深い出来事であったのではないかしら。さらに、1964年のこの年、東京五輪に先駆けて夢の超特急東海道新幹線も開通。翌年には名神高速道開通。68年には東名高速道も。
 ぼくは昭和26年、1951年生まれ。ぼくの記憶では(小学生のころ)、戦争の名残はまだ少しはあった。大きなお祭りに行くと白衣の傷痍軍人の募金、子供たちが洞穴探検をした防空壕の名残。そして、戦争で行き違いになってしまった人を探すラジオ放送『尋ね人の時間』くらいのもの。それほどに戦争の傷跡は人々の血と汗により復興され、さらには高度成長もとげた。

 2011年、東北震災、原発事故。2016年、熊本震災と日本は大きく被災。とりわけ原発事故による傷跡は比類なく、未来に残る大惨事といえる。

 そんな中、ふたたび2020年東京五輪が叫ばれている。でも、なんとなく冷ややかな、この空気はどうだろう。今、日本はもっと真摯に向き合うべき現実があることを忘れてはいけないと思う。

聖火ランナーの左に注目



606 老猫まるこ生還

 あれは道長がここ、豊川市に作業所を移転して5年目の2000年の初夏のこと。初代愛犬きくの散歩の途中、できれば聞かなかったことにしてしまいたい「ピー、ピー」という鳴声に耳を澄ませてしまい、図らずしもやむを得ず、二匹の子猫(♂と♀)を拾ってしまったのだった。

 当時、ぼくらはここ、旧音羽町には作業所だけで家はなく、岡崎からの通いだった。かといって、岡崎の実家には、すでに親子猫が二匹住んでいたため、二匹の子猫の嫁ぎ先を探さなければならない羽目になる。結局「しばし」の約束で、次女(ぼくの)の家での厄介住まいを押し付けてしまった。約束とは破られるためにある、の格言どおり、以来、音羽に移住を果たす2006年まで、長々次女の家で居候となるのだった。

 やっとのことで、音羽に新作業所の新築、移住を果たしたその年、とうとう二匹を引き取ることに。だがしかし、音羽に引越ししてきた二匹の兄妹は相性があまりよくないことが判明。体重8キロ超のまるこに遊ばれ、どうやら彼女、生活に疲れてしまう様子。結局、彼女はふたたび、岡崎の次女の家に出戻っていった。

 だがその後、さらに三匹の猫が相次いで参入することになるのだけれど、ここでは話が長くなるのでいきさつは割愛(関連記事は『道長だより』507578591593などをごらんください)。

 そして年月が経過し、この春、まるこの妹?ウォルミーが17歳を前に死去。まるこも最近老け込み、白髪も増え、やせ衰え、体重も5キロを軽く切るほどの老い振り。  で、まるこ、つい先日、倒れてしまったのだった。苦しそうによだれをたらし、瀕死の様相で息も絶え絶え。しばらくして発作が治まっても立つことができず、口元に水を持っていっても飲まず。このままでは駄目と覚悟を決めたぼくら、かかりつけの獣医さんに連れてゆく。診断は不整脈からくる急性心不全とのこと。そういえば、過去、何度か似た症状がありました(今回は重かった)。回復を祈り、点滴をしてもらい、回復期用の高たんぱく食の缶詰を1個いただいて帰宅。

 おそらく、まるこにとっては人生、最も長い時間をすごしたことだろう。それでも、しばらくすると水を飲むようになり、とうとう獣医さんの缶詰を口にしたのだった。「すごい!」。その生きようとするけなげな姿、気力には心が動いてしまう。一体、何がまるこをいまわの際(きわ)から引き戻したのかしら。ぼくらと二匹の子分の、いましばらくの生活、ひとときを望んだのかもしれない。
 もう、発作から1週間以上経過。足腰がヨボヨボなのは変わりないけれど、すこしだけ体重を増やしてきている。何とか寿命を延ばしたよう。
 健康がもどってきたかと思ったら、今度はまた、寝床に来てはちょっかいを出してきたり(爪が痛い)、腹の上に寝そべりにくる。そんないたずらには少々辟易気味だけど、少しなら許してあげよう。

 心臓に爆弾をかかえながらの、これからしばらくの余生だろうけれど、ぼくらと二匹の子分たちとの貴重な時間を楽しく過ごさせてやろうと思う。

 かかりつけの柴田動物病院さん、ほんとうにありがとうございました。

ずいぶん老衰してきました(右)




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