ヘッダーイメージ

          
              本山からのお知らせ

          本山興聖寺では平成二十九年にご開山虚応円耳禅師の四百年大遠諱を迎えます。また、それに先だって、

         本年は開基様の古田織部公の四百回忌にあたります。
          
          本山ではこの二つの大きなおまつりのため、諸堂全般の大修理事業を進めております。この機会に興聖寺

         とのご縁を深めて頂きたく、ご写経納経と瓦の勧進を始めました。是非この機会に法縁を結んで頂きたく、

         御参画をお願い申し上げます。

                
                ○ 瓦寄進の募集期間は平成二十七年四月八日までです。

                ○ 詳しくは本派各末寺までお問い合わせください。




         


    

                      臨済宗 大本山興聖寺(こうしょうじ)

    本山圓通山興聖寺は、慶長8年(1603年)、戦国武将で茶人の古田重然(しげなり)(織部)が虚應圓耳(こおうえんじ)禅師さまを開祖として創建した
    禅宗寺院です。後に後陽成天皇、後水尾天皇の勅願所となりました。織部の菩提寺であることから「織部寺」と通称されてい
    ます。  
      開山虚應圓耳禅師さまは室町時代も終わりに近い頃、武士斉藤秀家の子として生まれましたが、6才で父を亡くし十九才
    で出家させられました。黙々と坐禅三昧のさ中、真夜中に六祖
彗能(えのう)大師さま(禅の初祖達磨大師から数えて六代目、一千年
    ほど昔の中国の偉いお坊さん)が突如現れて、禅問答の末「貴殿の悟りは実に確かなものじゃ」と云って消えました。これが
    開山禅師さまがお悟りを開かれた瞬間でした。古田織部公の招請で興聖寺を開かれ、後陽成天皇に召されて宮中で講義す
    るなど多数の弟子の育成、禅の隆盛に尽くされました。ちなみに、興聖寺の五代目住職が不動院を禅寺として開いた拙堂(せつどう)
    師さまです。末寺52ヶ寺を擁する臨済宗(禅宗)興聖寺派の大本山でしたが、京の市街地を焼き尽くした天明の大火(1788年)
    で伽藍をはじめ塔頭(たっちゅう)寺院の多くを消失しました。明治時代に一時、同じ臨済宗の相国寺派に合流していましたが、興聖寺派
    として再起されました。禅の道場として観光拝観を謝絶していますが、一般の参禅を受け入れています。 
     古田織部は美濃の生まれで、信長、秀吉、家康、秀忠に仕えた武将ですが、武功よりは利休の高弟で「利休七哲」に数えら
    れた茶人として名を残しました。利休の侘び寂び(わびさび)の境地に織部特有の独創的美意識をもってその境地を深めました。茶室、
    茶庭、茶道具にまで織部流は拡がりをみせています。幾何学模様、ひしゃげた形状や緑の釉薬(ゆうやく)が特徴の「織部焼」の器を好
    まれる方も多いことでしょう。関が原の戦いでは家康方につき、後に二代将軍秀忠の茶の湯師範を勤めましたが、大阪夏の
    陣で豊臣方に内通したとの嫌疑で嫡男共々自刃を命じられました。一言も釈明することなく、一族自害し果てました。利休亡
    き後、茶の湯を通じて全国の大名、朝廷、貴族、経済界と強いつながりがあったこと、利休同様、反骨精神旺盛であったこと
    が幕府から危険視されたためとも言われています。興聖寺の墓地に一族の墓石が建立されていますが、幕府の目を恐れ、永
    らく墓を建てられませんでした。織部の奥方は寿命を全うされ、興聖寺に貢献されたことから大きな墓石が建立されています。
    織部流茶道の流派は今も興聖寺住職に受け継がれています。
     織部自害後は藤堂高虎が大檀那となり、寺は存続しました。そのためか伊勢地方とのかかわりも深いものがあります。大胆
    で斬新な画風から「奇矯の画家」と称される江戸中期の絵師、蘇我蕭白(そがしょうはく)の菩提寺でもあります。                   蘇我蕭白は京都の商家の子として生まれましたが、久居の米屋で奉公したとの伝承が残っています。伊勢地方にたびたび訪れ、
    伊勢各地の寺院に作品を残しています。ボストン美術館所蔵の「雲竜図」はご存知の方も多いでしょう。興聖寺には蕭白の代表作
    といわれる「寒山拾得図(重要文化財)」が残されています。



                                



フッターイメージ