当寺にお祀りする観音さまは、「相川の観音さん」と呼ばれ親しまれてきました。
当寺がまだ大元寺であった江戸時代は寛政四年(1792年)に天阿上人が記され
た当寺に伝わる縁起によりますと、伊勢の国は渡会郡山田大湊村の 宝聚山如
法院長楽寺の和尚、生阿上人の夢に現われ、翌朝夢の中で観音さまの立たれ
た門前の入り江の藻塩草の合間に観音像は輝いていました。
生阿上人が観音像を仏工に補修させた後、信仰心の厚い「豊」なる信女に授け、
大切に祀られていましたが、由あって松坂の妙香尼のもとに預け祀られました。
しかし妙香尼は、大切に保管するあまり 「世にあって衆生をあらゆる苦しみから
救済せん」 とする大慈大悲の本願を果たせない観音さまの祟りを畏れました。
「野村の西方の相川村で、大勢の人がはやり病(疫病)で苦しんでいる。相川村
にお祀りすればはやり病が治まるのではなかろうか。」と野村 の北角氏より聞き
及び、衆生済度有縁の道場として当寺に納められました。本願の場を得た観音
さまの威神力により、相川の人々は救済されました。観音像と共に納められた
秘箱の表面には、「此箱ノ内ニ願書有り末世ニ至りテモ開カスナカレコノ台モカエ
ル事ナカレ」と天阿上人の彫文が刻まれています。
以来、衆生の礼拝恭敬を得
て衆生を苦海から救済し、殊に、腫れ物の治癒に霊験あらたかと、はるばる久居
や津から芸者衆の参詣が絶えませんでした。縁起には「腫れ物の類あらば、土の
団子十二を献じて「瘡守」と唱えよ。腫れ物が納まれば米の升十を献じて礼拝すべ |
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