当寺の本尊不動明王さま並びに左右に控えおわす昆迦羅童子、勢多迦童子
ご尊像は、当寺が創建(天正四年・1576年)された桃山時代の作にして、不動
明王が握る宝剣は三条小鍛冶宗親の作と伝わります。
太閤秀吉公常に立身出世武運長久を祈願し、徳川家康公には念侍仏として
深く信仰されました。
毎朝お供えする佛飯が、いつも鼠に食われることから、ある日小僧が「毎日
毎日鼠に餌をやっているようなものだ。鼠すら追い払えないようでは、大した
霊験でもあるまいとうそぶいた翌朝、 いつものように佛飯をお供えにきた小僧
は、不動明王の宝剣に七匹の鼠が突き刺さっているのを見て腰を抜かしまし
た。これが「鼠切り不動明王」の名の由来です。
天明八年(1788年)一月三十一日早朝、鴨川の東側から始まった火災は京都
市街に燃え拡がり、二日二晩燃え続け、京都市街は焼け野原と化しました。
天明の大火と呼ばれ、消失した寺院は九百ヶ寺に及びました。不動院も消失
し復興もままならず、その後の荒廃で本尊不動明王は本山興聖寺の預かりと
なっていました。
時を経て明治三十六年、当寺第七世桃隠英和尚が、不動院を乾亨山大元
寺に移転し金剛山不動院禅寺を再興しました。興聖寺に預けられていた本尊
不動明王は、大正年代になって当寺第八世霊山嘉和尚によりこの地に迎え
られました。はるばる京都から汽車で運ばれ津駅前松阪屋を宿とし、そこから
村人が総出でお迎えしました。
本尊不動明王さまは、右手にかざした降魔の剣で煩悩を断ち切り、左手に
握る羂索で悪を縛り、信奉する者を煩悩から救い出してくださる守護仏として
篤く信仰されています。
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