金剛山不動院の縁起



   金剛山不動院は元は叡山に付属する天台宗の寺院として、天正四年(1576年)正親町(おおぎまち)天皇

  の勅願により了空上人が京都に開きました。その地は不詳ですが、後に太閤秀吉公が洛東に

  「寺町」、洛北に「寺の内」なる寺院街を形成した京都の都市改造事業で、不動院も寺有地を

  拝領し天正十四年(1586年)洛北の北野北町に移転したと、当寺の古文書に記されています。              
 
  正親町天皇
、後水尾(ごみずのお)天皇の勅願となったことから、菊のご紋の使用が許されました。 

  その後、叡山から東叡山寛永寺の末寺になりました。本尊不動明王は太閤秀吉公常に立身               
                     
  出世武運長久を祈願し、徳川家康公には常に念侍仏として深く信仰され、また、当寺の逸話

  から「
鼠切り(ねずみきり)不動明王」として畏敬されていました。

   津三代藩主藤堂高久公の生母の甥にあたる禅の高僧
拙堂(せつどう)和尚(元和元年・1615年生まれ。

  平井久左衛門の子で祖玄という。母は多羅尾氏。臨済宗大本山
興聖寺(こうしょうじ)第五世)は貞亨年代

  から元禄年代初頭にかけて津に浄明院、芸濃に運福寺、安濃に大長寺、片田に長谷寺、松坂

  に光応寺、阿弥陀寺、久居相川に大元寺、江戸谷中に興禅時、京都洛北の不動院などを興聖

  寺派禅宗寺院(台密禅兼学)として開山しました。

   現在、不動院のあるここ相川は、津藩と久居藩の中間に位置し、藤堂家両藩の往来や鷹狩り

  の際の休息処として阿弥陀如来を祀る庵がありました。
拙堂和尚は久居藩初代藤堂高通公

  より西花領、東花領下に境内地一万坪のほか北相川から持川硯石にかけて田畑三町五反

  七畝二十二歩を拝領し、この庵を阿弥陀如来を本尊とする興聖寺派禅宗寺院
乾亨山大元寺(けんりょうざんだいげんじ)

  としました。

                                     
     
                        

         ご開山 拙堂禅師大和尚
  寛永寺末寺であった不動院も、寛永寺開山慈眼大師(天海大僧正)以来の法系の由来に より、拙堂和尚が晃海僧正(世良田長楽寺第三十七世、寛永寺第二代

  門主)より譲り受け、興聖寺派禅宗寺院に改宗しました。しかし後に京都の市街を焼き尽くした天明の大火(1788年)で被災しその後の荒廃で本尊不動明王は本山

  興聖寺に預けられました。

   
乾亨山大元寺本堂には、大名家の寺として本尊阿弥陀如来を祀る須弥壇の背面北向きに茶室、切腹の間が(しつらえ)えてありました。開山以来永く藤堂家の庇護の

  下にありましたが、明治新政府による廃藩置県により大名の庇護を離れ、大名寺としての役割も終わりました。当寺の中興とされる第七世桃隠英和尚代の明治

  三十六年(1903年)、開山和尚を同じくする金剛山不動院を
乾亨山大元寺に移転再興し、相川邑の一村一寺として檀徒を迎えました。本山興聖寺に預けられてい

  た本尊不動明王も大正年代になって第八世霊山嘉和尚によりこの地に迎えられました。

   本尊不動明王、前本尊阿弥陀如来と共に祀られる十一面観世音菩薩(相川の観音さん)は別名「
瘡守観音(かさもりかんのん)」と呼ばれ、一志郡三十三観音霊場第四番札所として

  広く信仰を集めています。

   当寺の本堂は、万延元年(1860年)に
湛堂(たんどう)和尚により補修上棟され、以来百三十年の歳月を経過し荒廃著しきところ、第九世文納(ぶんのう)和尚により建て替えられ、平成

  元年(1989年)十一月落慶を迎えました。

   大元寺が久居藤堂藩の由緒から藩祖高通公(勝光院殿松月竜吟大居士位)の位牌を祀ると共に、久居藤堂家の二重丸に
(つた)の葉(藤堂蔦)の家紋と不動院が

  天皇勅願寺とした由緒から菊のご紋が掲げられています。

                                                                  
     

                                  
    
昭和初期の旧本堂と旧観音堂(手前)                 旧本堂(昭和初期)
     







               

                不動院略年表

 天正      四年(1576年)
     

        十四年(1586年)

 貞亨

 元禄初頭


 宝暦      七年(1757年)

 天明      八年(1788年)

 寛政      四年(1792年)

     
         十二年(1800年)  


 万延        元年(1860年) 

 明治        四年(1871年)

        七年(1874年)

      三十六年(1903年) 

 大正       九年(1920年)

        十年(1921年)

        十一年(1922年)

 昭和     三 年(1928年)

          十年(1935年)


      二十六年(1951年)

       三十四年(1959年) 

       五十五年(1980年)

       五十七年(1982年)

 平成      元年(1989年)

       二十年(2008年)

       二十六年(2014年)
 
 了空上人が正親町天皇の勅願により天台宗寺院として不動明王を本尊とする
 「金剛山不動院」京都に創建

 「金剛山不動院」を洛北・北野北町に移転

 臨済宗本山興聖寺第五世拙堂和尚が「金剛山不動院」を興聖寺末寺とし臨済宗に改宗

  同じ頃、拙堂和尚は久居藤堂藩初代高通公より一志本村相川に寺領を拝領し
 「乾亨山大元寺」を開山し興聖寺末寺とする

 相川橋袂に「雀森地蔵」開眼

 天明の大火で洛北の「金剛山不動院」焼損し、本尊「不動明王」を本山興聖寺に預ける

 秘仏「瘡守観音」安置
 天阿上人「瘡守観音縁起」記す

 観音堂建立供養


 大名寺として切腹の間を設えた本堂上棟

 廃藩置県により大名の庇護を離れる

 臨済宗相国寺派に合流し相国寺末になる

 「金剛山不動院」を「乾亨山大元寺」に移転再興

 秘仏「瘡守観音」御開帳

 秘仏「瘡守観音」御開帳

 本尊「不動明王」を本山興聖寺より移転安置

 相川公苑(西国三十三観音巡り)開設

 庫院上棟

 宗教法人法制定を機に相国寺派より興聖寺派独立し再び興聖寺派となる

 西国三十三観音を境内に移設整備

 寺標建立

 涅槃図修復

 本堂再建落慶

 庫院再建落慶 秘仏「瘡守観音」御開帳

 永代供養墓「帰空塔」建立
     








  雪の不動院(昭和初期)      











    
 

  


  




                                                       
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