天正3年の長篠の戦いの際、功績をあげた奥平信昌が、家康の命で新城(しんじょう)を築き、この竣工祝いで翌年、二の丸にて勧進能を四日間興行。この時、観世与三郎(後の九世観世右近太夫)を招いて行いました。
(太田白雪「新城聞書」)
1586(天正14)年7月10,11日
家康が駿河、遠江、三河、甲斐の四カ国に下知して、それぞれ二カ所で勧進能を興行させ、三河では吉田(今の豊橋)と新城で行われました。
観世大夫による能と城主奥平信昌による鼓も行われました。 (当代記)
入母屋造り、総瓦葺き
柱の長さ 1丈5尺5寸(4.7m)
床の高さ 2尺5寸(76p)
京 間 3間四方(42u)
地 謡 座 3尺
橋 掛 り 田舎間 7間
幅 7尺6寸(28.8u)
両高欄付き
祭礼能を始めた当初は、掛け小屋式の屋根もない簡単なもので敷き板のみで行われたそうですが、途中で組立式に代わりました。その後1802(享和2)年8月に建立の棟札が、さらに1826(文政9)年に再建の棟札が現存の能舞台に残っています。
普段は戸板で閉ざされていますが、秋の祭礼の時には、二週間ほど前から祭礼当日までの間だけ開けられます。(富永神社所蔵)
新城菅沼家三代目城主定用(さだもち)公の家督相続を祝って、元文元年8月14日、町民が天王社(現在の富永神社)祭礼時に社前で舞囃子を奉納しました。これが例となって、以降毎年、神社大祭(現在、10月に祭礼)に氏子たちが社前で能を奉納するようになりました。社会情勢で一時中断の時期もありましたが、祭礼が行われない年も能だけは奉納し続け277年の今日に至っています。
元文元年以降の祭礼能の経過は、故大原紋三郎著書「祭礼能番組帳解説」に上演年、番組、出勤者などを始めとして詳細に記されています。市無形文化財保持団体「新城能楽社」
1648(慶安元)年
丹波の亀山から菅沼定実(さだざね)が当地へ7千石で移封されましたが、風流な城主で桜淵(豊川河川を中心にした桜の名所)を開発され、特に能を愛好し、それが町民の間にも普及して盛んに行われるようになりました。
菅沼家二代目城主定易(さだやす)の許しを得、遠州三ヶ日の喜多流能役者服部三左衛門正信(伊勢国菰野の藩士で宗家二代目左京直能の弟子。しばらく三ヶ日の大福寺に寓居していた。)と友清親子が新城裏野(本町)で勧進能を2月9日から12日にかけてひらいたところ好評により22日まで延長しました。
平成10年 富永神社祭礼能「羽衣」
祭礼能
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当時は、裏に大きな楽屋がありました。(S50年頃撤去)