前 川 さんの
一丁漬


前川さんとハザ干し大根

原材料は寒干し大根、米ぬか、塩、柿の皮とナスの葉だけ
 そしてこれが大切、発酵と熟成

 道長ではたくあん漬については、前川漬物さんにお願いしています。その歴史についてはすでに道長のホームページでお知らせしていますが、当代の洋八さんは、2代目だった兄の吉之助さんが2014年に亡くなったため、後継をされました。

 もともと前川家は代々地元で味噌・醤油の蔵元をしてみえました。しかし太平洋戦争勃発となり、それまで大豆の需用の半分以上を輸入に頼っていた日本では、それがままならなくなってしまった。そして、1940年、とうとう大豆も統制されてしまい、さらには、大豆を煮るための大事な大鍋まで接収されてしまいました。

 原料も道具もないのでは仕方ないため、前川家は味噌屋さんをあきらめることとなる。農家をしていて畑もあり、味噌の仕込みに使っていた樽も残っていたため、大根を作って漬ける仕事へと転職。当時人口甘味料や着色料が出回ったころで、高い塩度でもそのおかげでうまい(?)沢庵漬ができました。

 初代の努力の一端を覗えるともいえる貴重な『資料』を見せていただく機会がありました。その資料とは、前川家所蔵の一丁漬について記された綴り2冊。なんとその綴りは先代が漬物のノウハウを構築すべく、漬け込みからその後の経過をつぶさに記したものです。それぞれの綴りには『一丁漬漬込及経過表』の表記。そしてその綴りを開けてびっくり。

 極細の、今は懐かしいガラスペンで書いたと見られるいかにも達筆で繊細な文字。一枚づつが表になっていてその都度のデータがぎっしり。考えてみれば、その日付にある昭和25年ごろにはコピーなぞない時代。一見同じ書式の表をよくみると、一本づつの細線がペンで書かれていて、その起点に小さな穴があいている。むかしたくさんの半紙に同じ書式の表を書く場合、重ねた何枚もの紙に針を打って目印とし、直線を描いて作ったもの。いかにも几帳面という性格が見えてきそう。

 初代、弥七さんは役場の戸籍係をしてみえたとのこと。これらの表の書式、さすが役場での緻密な仕事に従事した初代らしい記録の執り方。

 洋八さんはまだ十代のころ、兄吉之助さんといっしょに、大根の収穫、寒干しのためのはざ掛け、一丁漬の漬け込みなどの手伝いをさせられたそうです。

 当時は渥美の多くの農家が一丁漬のための大根作りをしていて、冬には海岸に近い場所に延々と続く大根のはざ掛けが見られ、壮観であったとのこと。しかし昭和40年ごろ、若くして弥七さんが亡くなったあと4、5年で一丁漬を漬けることはなくなった。時代はぬか漬を好まなくなってゆき、麦のフスマで漬けたり、液漬け(塩蔵大根を塩出しし、再び調味液で漬けなおす)にしたりするようになった。主流は中国からの輸入塩蔵大根へと移ってゆく。

 2006年、前川さんを訪問させていただいたわけは、父上の綴りを見せていただく目的の他に、もっと大きな目当てがあったのです。

当時は前川吉之助さんが2代目として活躍してみえましたが、なんと彼にとって40年ぶりの、一丁漬の試作をお願いしたのでした。

その年、60歳の大台にのってしまわれていたとはいえ、久々の一丁漬の漬け込みに吉之助さんは少々興奮気味。

当初試験的にお願いしたつもりが、白首大根を作って、見事な寒干しのはざ掛けまでも本式に。本格的に4斗の木樽でのまさに一丁漬(4斗樽ひとつを1丁と呼んだ事からこの名が付いたといわれています)を実現してくださったのでした。しかもなんとその木樽20丁。

 ここまでして奮発していただいたからには、「前川さん、がんばって売らせていただきます」と固い約束をし、2006/1/29の訪問を終えたのでした。

■前川吉之助さんは2014年、亡くなられました。現在、弟さんの前川洋八さんが後継されています。

おかげさまで『古式一丁漬』は、道長では、いちばん人気のあるたくあん漬になりました。

前川さんについて詳しくはこちらをごらんください