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雑記帳 (2005年8月6日〜10月29日)

2005年10月30日以降の雑記帳はこちらをクリックして下さい。



会社は誰のものか (2005年10月29日)

会社は誰のものか、という議論がホリエモンの事件をきっかけにして盛んに行われています。「会社は当然株主のものである」「いや、株主だけのものではなく、従業員や顧客などのものでもある」とか、いろいろな観点からの主張が飛びかっています。

飛び交う議論の中で、10月28日付読売新聞のインタビューで、ソフトブレーン社会長の宋文洲氏は、会社は誰のものかという質問に対して、「
基本的には会社は株主のものだが、所有権は重要ではない。だれの為にあるのかが重要だ。」と述べています。

この回答がファイナルアンサー(!)だと私は考えます。モノを所有すること自体には価値はありません。モノを利用してはじめて価値が生まれるのであって、価値を生む為には、所有することは必要条件ではなく、所有してもリースしてもレンタルしても一時的な使用料を払っても良いわけです。東京から大阪に2時間で行く為に新幹線が必要であるからといって、新幹線の車両を買う必要はありません。

話が健康の話からちょっとずれましたが、ここで質問です。「
人間の体は誰のものか」。この質問に対して、あなたはどの様に答えられるでしょうか。

体は自分のものでしょうか。自分のものでなければ誰のものでしょうか?いえ、先ほどの議論を思い出してください。所有権という観点にとらわれると議論が前に進みません。私の回答は、「
体は誰の所有物でもない。体は自分や家族や社会の為にある。」というものです。

そもそも、体は誰かの所有物ではなく、宇宙から色々な物質をレンタルして出来たものです。レンタルしたものだから、レンタル期間が終了したら(亡くなったら)宇宙に返却します。
(「レンタルの思想」については、気とはなにか(物質としての生物体)をご参照ください)

所有という概念から脱却して、宇宙から一定期間レンタルしている体を、いかに自分の為、人の為に役立てるかということに意識の軸足を置くことが肝要だと考えます。





引き受け気功−8 (2005年10月27日)

引き受け気功の藤谷康允(ふじたにやすみつ)氏によると、気は「
情報+エネルギー」とのことです。情報というものは単なるデータの集まりです。情報そのものに価値はありません。ヒトがその情報に価値があると思えば、価値は「情報側」でなく「ヒト側に」生まれます。ヒト側に価値が生まれようが、生まれまいが、どちらの場合も情報そのものには何の変化もありません。

気についても、ヒトがその気を邪気と思えば邪気になり、正気と思えばそれは正気になる、ということです。

更に言うと、情報というものはコンピュータのプログラムのようなものなので、プログラムを書き換えることが可能だと思います。従って、邪と思った情報(気)は、その情報(気)が嫌だといってインプットを拒否するのでなく、インプットの段階で情報データを書き換えて、そのヒトが思う正の情報に変換してインプットすればそれで良いだけということです。この書き換え作業は、価値判断する思考とは別の次元の話です。

気の話に限らず、「情報」と「その情報を価値判断する思考」とを取り違えてしまう、あるいは区別が付かなくなっていることが、日常生活の中で多くある気がします。





羊が一匹、羊が二匹・・・・・ (2005年10月22日)

どこかのサイトで読んだ話ですが、眠れないときには「羊が一匹、羊が二匹、」と百匹まで数えればよいとの話があるが、あれは英語で”one sheep, two sheep,"としゃべらないと意味がないとありました。 「
シーーープ」と歯の間から長い息を吐くことが肝要ということです。ゆっくりと息を吐くと、副交感神経が優位になって気持ちが安らぐということだと思います。





引き受け気功-7 (2005年10月19日)

藤谷康允(ふじたにやすみつ)氏の引き受け気功が、”ロハス”というライフスタイルを提唱している雑誌「
ソトコト」に紹介されています。

ロハスとは、Lifestyle Of Health and Susutainabilityの略であり、2002年に米国より日本に紹介された由です。私なりのロハスの定義は、
健康と環境に配慮しつつ、ストイックにならずに生活をエンジョイするライフスタイル。スローであるが、本質的でかつ、より豊かな生活を営みたいという上昇指向が思想の根底にある、というものです。

「気功による健康」というのは当然ロハスの範疇に入るものですが、数ある気功法のなかで、なぜ引き受け気功が取り上げられたのか興味があります。ただ、引き受け気功が他の気功法と異なる、単なる目先が変わったファッションとして取り上げられているのなら、ちょっと残念な気がします。

引き受け気功は、ライフスタイルがどうこうというより、もっと哲学的な考え方に基づくものと思うからです。引き受け気功がストイックとは決して言いませんが、ある意味真剣に生命や人生に向き合うものと考えるからです。「人生の生き方」と「ライフスタイル」のニュアンスとは別と思います。

人生の生き方とは「哲学的」であり、一方ライフスタイルは「経済的」な側面の意味を持つと思います。最近のヨガも、本来ヨガがもっている精神的な意味が薄れ、ストレッチ体操の一種として流行している気がします。まあ、そんなに深刻になる必要はないのでしょうが。





胎児の世界 (2005年10月16日)

三木成夫(みきしげお)著「胎児の世界」(中公新書)を読んで感動しました。 胎児は母親の羊水の中で、生命の歴史(38億年の!)をたどるとは良く言われることですが、この本には、正面から見た胎児の顔のイラストがあり、胎児が生命の歴史をたどる「事実」がその顔の変化から実証されます。(赤ん坊の顔はサルのようですが、胎児の顔は全くサルでもありません。 私は下の写真をイメージしました。)

胎児がうずくまった格好の横から撮った写真は見たことがありますが、胎児の顔を正面からみたのは始めてでした。 圧巻です。 我々は本の中のイラストで胎児の顔をみることができますが、著者は「実物」を見ています。 著者が実物を見て受けたであろう衝撃は、著書の文章から容易に想像できます。

また、鶏の卵の解剖の過程でわかったこととして、鶏の胎児が卵の中で生命の歴史をたどる過程で、
生命が海から陸へ上陸する時代を通過するタイミングには胎児は衰弱するそうです。(鶏の卵は21日で孵化するが、その4日目。 鶏胚の窒素化合物を調べると、4日目をピークにアンモニアの濃度が下がり始め、逆に尿素が急上昇する。アンモニアは魚の、尿素はカエルの小便と同じだという。 4日目を境に鶏胚は魚であることをやめ、両生類になり始めたというのだ。- 同書より -) やはり上陸には非常に大きなストレスが生命にかかるのでしょう。 

現代の我々だって、生きている間に、新しい陸 −それはたぶん精神的な陸でしょうが− に上陸するかもしれません。 昔の生命も、その生命が生きている間に、海から全く違う環境の陸に上陸したわけですから。 長い人生の中では、体の調子が悪くなることがありますが、これはもしかしたら、新しい陸に上陸する過程なのかもしれません。 そう思うと、なにか病気になることが楽しく思えてきませんか。








未来のテレビ (2005年10月13日)

ブラウン管のテレビは最早マイナーになり、液晶テレビやプラズマテレビが主流になりました。 確か20年程前の液晶テレビは1,2インチ程度の大きさで、しかも音声よりワンテンポ遅れて画像が動く代物だったのに、技術の進歩に驚かされます。 将来どの様なテレビができるか楽しみです。

さて、10年後のテレビを想像してみます。 技術が進歩すると、
画像が立体で映るテレビが出来上がります(3次元画像の技術自体は既に存在します)。 さらに進むと、現在のSF映画に出てくるような、画面から飛び出した立体画像ができます。 映された画像は実物大で、あたかもそこに人間がいる様です。 但しその立体画像は幽霊の様で、向こう側が透けて見えます。 この段階では画像の「材料」は電気のみです。

さらに10年後には、画面から飛び出した
立体画像に「触感」がプラスされます。 技術がどんどん進んで、テレビに「たんぱく質供給タンク」が取り付けられ、たんぱく質も材料として使って画像を「物質化」する訳です。 こうなると、その画像がバーチャルなのかリアルなのか、区別ができなくなります。

物質化した画像は「リアル」に感じますが、実は、空中に飛んでいる目に見えないテレビ電波をテレビが受信し、テレビが作り出した「画像」に過ぎません。 テレビのスウィッチを切ると画像は消えます。 テレビが故障しても画像は映りません。

これは、地球上の生命体と似ていると思いませんか? 人間も、もしかしたら空中に飛んでいる目に見えない「気」と呼べるようなものを受信して作り出された「画像」に過ぎないかもしれません。 
瞬間瞬間に点いては消える画像だから故、画像を維持する為に、常に画像を構成する物質を新しいものに入れ替える「新陳代謝」を行います。 歳をとって、画像の構成物質を入れ替えることができなくなってくると画像は崩れ出し、やがて「画像」は消えてしまいます(即ち、死を迎えます)。

人間は、「テレビ(気受信機)」の造影機能によって、宇宙を構成している粒子の密度が高くなった存在であると言えるでしょうか。 気受信機(テレビ)の造影コンポーネントが機能しなくなると、人間を構成していた粒子は、周りの粒子の密度と同じになります。

では「気受信機」は何かって? 私にはわかりません。 それを「魂」「霊」と呼ぶのでしょうか?





中国最古の絵文字 (2005年10月7日)

10月7日の日経新聞によると、中国で
1万6千年前に描かれた数千件に達する絵文字が発見されたとのことです。 これが本当なら、これまで3千3百年といわれた文字の歴史が書き換えられることになります。 どちらにしても大変な文明の歴史です。

宇宙が誕生したのが、今から150億年前。
太陽系の誕生が46億年前。
地球の誕生が44−45億年前。
地球の海の中で生命が誕生したのが38億年前。
海の中の生命が大陸の上に進出したのが5億年前。
生物が進化し、ヒトが類人猿から分化して、人類としての進化が始まったのが
約800万年前。

人類がようやく絵文字を描き始めたのが1万6千年前。
人類が農耕を始めたのが1万年前。

そして、人類が化学的に製造した人工的な食物を製造し、人工物質を体の中に入れ始めたのは、ここ数十年の話。
また、冷暖房の効いた、人工的な気候の環境に住みだしたのも、ここ数十年の話。

気の遠くなるような時間を経て種の保存や生存に必要なデータを、我々人類は遺伝子の中に組み込んできましたが、現代は、遺伝子のデータベースの中にひとつも入っていない、全く未経験の環境におかれています。

昔の生活をできるだけ取り戻すべきなのでしょうが、いまさら完全には元の環境に戻れないのですから、環境の変化によって発生した「
冷え」を積極的にとる、またデトックスを積極的に行うという防衛策を行って、環境の変化に対応する必要があると思うのです。

その防衛策が、靴下の重ね履きであり、半身浴です。





読めない! (2005年10月6日)

ベネッセ社が作成した「最新名前ランキング」。
なんと女の子の名前
ランキング第一位の名前が読めない! トップ100を眺めても、どのように読めばよいのかわからない名前が続く。 自分の漢字の能力が低いのか、名づけ親が持つ漢字のセンスが自分と違うのか・・・・・

近くにいる若者に聞いてみると、これらの名前は最近流行の漫画に出てくる名前とのこと。 ということは、子の親である20歳後半から30歳前半の世代が「漫画世代」だということになる。
(男女とも、トップ100の占有率は約20%。 即ち5人の子供の内1人(!)の子供がこのトップ100の中の名前を授かっている)

漢字が持つ意味よりも、音を意識した名づけ方なのだろうが、当て字が多すぎて、漢字そのものが持っている含蓄のある意味が薄くなってしまう。 そもそも使われている漢字の種類が少なくて、少ない漢字の中での組合せによる名前が多いと感じる。 漢字は約3千3百年の歴史と文明の変遷・蓄積を経て形成されたものだが、当て字が悪いとは言わないまでも、少しは、漢字の成り立ちが精緻に解説されている「
常用字解」(白川静著、平凡社)を読んで欲しいと思う。 これは単なる中年の叫びか、あるいは、余計なお世話なのか。

(ここだけ、文章のスタイルが変わってしまいました)





他人本位になるということ (2005年9月30日)

冷えとり健康法では、自分本位に物事を考えると「心の冷え」ができるので、他人本位に生活をすることが最も大切であると言われていますが、自分本位の考え方を捨てて、この境地にはなかなかなれません。

しかし、他人本位になることについて、大前研一氏の最新本「
ザ・プロフェッショナル」(ダイアモンド社)から大きなヒントを得ました。

スペシャリストでなく、プロフェッショナルになるということ。 医学の世界では、医学の父、あるいは医聖との異名を持つヒポクラテスの考えにのっとられてつくられた「ヒポクラテスの誓い」と呼ばれる誓詞(せいし)を、医師を目指す学生に誓わせるそうです(全ての医科大学ではないようですが)。

1.医の実践を許された私は、全生涯を人道に捧げる。
1.恩師に尊敬と感謝を捧げる。
1.良心と威厳をもって医を実践する。
1.患者の健康と生命を第一とする。
1.患者の秘密を厳守する。
1.医業の名誉と尊い伝統を保持する。
1.同僚は兄弟と見なし、人種、宗教、国籍、社会的地位のいかんによって、
  患者を差別しない。
1.人間の生命を受胎のはじめより至上のものとして尊ぶ。
1.いかなる強圧に遭うとも、人道に反した目的のために、我が知識を悪用しない。

この誓いを守る医師こそ、知識・スキルだけを持ったスペシャリストではなく、「プロフェッショナル」と呼ぶということです。 ビジネスプロフェッショナルであれば上記の誓いの中の単語を色々を読みかえればよいでしょう。 そもそもプロフェッショナルの語源は「神に誓いを立てて、これを職とする」という意味だそうです。

大前研一氏はプロフェッショナルの定義を以下のようにまとめています。
感情をコントロールし、理性で行動する。 専門性の高いスキル、高い倫理観はもとより、例外なき顧客第一主義、あくなき好奇心と向上心、そして厳格な規律。 これらをもれなく兼ね備えた人材

私は、厳格な規律を備えて全生涯を人道(ないし顧客へのサービス)に捧げる、という上記の精神は、他人本位の考えに立ってこそ成立するものであり、他人本位になることがプロフェッショナルになる前提なのだと思います。





引き受け気功-6 (2005年9月29日)

藤谷康允(ふじたにやすみつ)氏の引き受け気功では、患者の病気を施術者が引き受けます。 一般的には邪気を引き受けると自分が病気になってしまうでしょうが、それは引き受けるときに「自分(自己)が引き受ける」と思うからかもしれません。

自己・非自己の二元的な世界ではなく、一元的な世界に立つことができれば、一元的な世界には「自己」は無いのだから、自己が邪気を受ける(あるいは自己に邪気が留まる)ということはないと言えるのではないでしょうか。 気功の世界で「宇宙の気を自分の体に取り入れる」というような言い方をしますが、私の経験では、引き受け気功を行う時には、逆に自分から一元的世界に近づいて行くような感じを持つと上手くできるような気がします。

柳澤桂子氏の著書「生きて死ぬ智慧」と「いのちの日記」(小学館)は本当にお勧めです。





ウォームビズは足元から (2005年9月25日)

今年はクールビズに引き続いてウォームビズを流行させようという風潮です。 省エネを推進することは良いことです。 冷房や暖房を効かせた部屋では、どちらの場合でも部屋の上部と下部の温度差が大きくなり、従って、体の上半身下半身にも温度差が出る→体が冷えてしまいます。 温度差の少ない住環境にすることは健康にとっても好ましい風潮です。

ウォームビズがきっかけになって、足元を温めることに関心が向いて、上半身で重ね着するのと同じように
、足元も「重ね着」する(靴下を重ね履きする)ことが常識になれば、冷えとり健康法が広がると期待しています。 ウォームビズファッションとして、くるぶしまで覆うハーフブーツが提案されていますが、新しい靴を購入される場合には、靴下を重ね履きした足のサイズで靴を合わせて頂ければと思います。

「冷え」は体の温度差から起きるものなので、足元をしっかり暖かくすれば、上半身は軽装で済むはずです。 逆に、足元を冷たくしたままでは、いくら上半身を重ね着しても体は温かく感じず、冷えを溜め込むだけです。





引き受け気功-5 (2005年9月23日)

藤谷康允(ふじたにやすみつ)氏の引き受け気功では、患者の病気を施術者が引き受けます。 私を含めてほとんどの方は他人の病気を引き受けることに抵抗を感じると思いますが、ところで、自分と他人の関係とは何でしょうか。 もしかしたら、他人の病気をいやだと思うのは単なる我執・我欲に過ぎないのではないでしょうか。

柳澤桂子氏の著書「生きて死ぬ智慧」と「いのちの日記」(小学館)を読みました。 どちらも是非お勧めしたい本です。 柳澤氏は科学者として、宗教というものを、自らの極限状態の中で科学的に見つめらています。 その結果として、現実の世界(リアリティー)は一元的なものであり、ものごとを自己と非自己という二元的な観点で見てはいけない。 二元的に見ると本来の現実を喪失し、我執・我欲におぼれてしまう。 本当の自分に気づくには非二元的な世界を感じられるようにならなればならない、と述べられています。

では一元的な現実(リアリティー)は何かというと、宇宙の全ては粒子でできていて、私がいるところは少し粒子の密度が高いだけである。 すべてのものは粒子の濃淡に過ぎない、と科学的に看破されています。

私はこの一元的な現実(リアリティー)をまだ実感できませんが、他人の病気を引き受けるときに、我執を捨てて一元的な宇宙観を感じることができれば、病気を引き受けたら自分が病気になるとかならないとか、そんな次元のレベルの話ではなくなるのでしょう。





肝腎なこと (2005年9月21日)

大切なことを「肝腎(かんじん)」「肝腎かなめ」と言います。 体の部位はどの部位も大切であるにもかかわらず、とりわけ肝臓と腎臓の二つを取り出して、大切という意味を持たせているのには、どのような意味があるのでしょうか。

肝臓は、体の中の化学物質の量を調節したり、出血が起きたときには血液を凝固させる物質をつくるなど、生命維持に必要な多くの機能を備えています。 そのうちの、重要な機能の一つに挙げられるのが、腸で吸収されたり体内の別の部位で生成された、体に有害な物質や有毒な物質を、分解して無害にしてから胆汁や血液中に排出することです。 胆汁中に排出された物質は腸に入り、便とともに体外に排泄されます。 血液中に排出された物質は、腎臓でろ過されて尿とともに体外に排出されます。

また薬物を、化学的に変化させる働き(代謝)によって不活性化したり、体外にすみやかに排出できるようにします。

一方、
腎臓の主な機能は、血液をろ過し、老廃物や過剰な水分および電解質(ナトリウム、カリウム、塩化物、重炭酸などのイオンやブドウ糖)を排出することです。 このほか、さまざまな薬物が腎臓によって排出されます。(メルクマニュアル家庭版より)

すなわち、肝臓と腎臓はコンビになって体の中の老廃物・不要物を排出し、また毒素・薬物を解毒し排出する役割を担っている訳です。 この働き(=増大したエントロピーを排出して、エントロピーの低い水準を維持すること)が生命活動の中で優先して重要であるからこそ、大切なことを「肝腎」と呼ぶのだと思います。 如何に「毒出し(デトックス)」が重要であるか、再認識できるのではないでしょうか。

昔の人は、「肝腎(かんじん)」や、「頭寒足熱(ずかんそくねつ)」といった、ポイントを押さえた言葉を我々に残してくれました。 肝臓と腎臓の働きを意識しながら冷えとり健康法を実践すると、より効果が高まるような気がしてきます。





水分をタップリ補給するということ (2005年9月19日)

藤谷康允(ふじたにやすみつ)氏の引き受け気功では、健康法・治療法の一つとして「調水」が挙げられています。 一日2リットル以上の水分を補給して(但し水道水は塩素が入っているのでNG)、病気を水に流して治すというものです。 

尿を作る臓器は腎臓ですが、腎臓の主な機能は、血液をろ過して老廃物を排出することです。 また、 腎臓には血液をろ過する上に、過剰な水分および電解質(ナトリウム、カリウム、塩化物、重炭酸などのイオンやブドウ糖)や、さまざまな薬物を排出する機能もあるとのことです。 いわゆる「毒出し」の為の重要な臓器です。

冷えとり健康法は、下半身と上半身の温度差を少なくして、全身の血液の巡りをよくする方法ですが、全身の血液の巡りをよくした上に水分をタップリとることは、積極的に血液をろ過し、また老廃物・電解質・薬物などの毒も積極的に排出させることになるので、相性が良さそうです。





「靴下の重ね履き」を英語では何と言う? (2005年9月17日)

日本語ではダサく響く言葉も、英語で言うとカッコよく感じることがあります。 同じことを言っているのに変な話ですが、それで世間に広がるならば、それはそれでいいんじゃないかとも思います。

岩手昌代さんの"HIE-TORI"のサイトでは、靴下を4枚重ねて履くことを、wear four pairs of socks, layered one over the otherと表現されています。

では、熟語で「靴下の重ね履き」をどの様に言えばカッコいいか、考えてみました。

          
LAYERED SOXING (レイヤード ソクシング)

もともとは重ね履きもどきの靴下を意味するレイヤードソックスの動名詞です。 足首の長さの違う本当の靴下を重ねて履いて上下の色違いを表現する等で、健康を意識しながら靴下の履き方を楽しむ「ソクシングファッション」が広まれば、自然に冷えとりも広まるのではないかと期待します。





「靴下の重ね履き」から経営戦略を考える (2005年9月16日)

さて、貴方は靴下の重ね履きからどんな経営戦略を発想されるでしょうか?

ところで、靴下を一枚しか履かない人にとっては、二枚以上履く「重ね履き」なんて非常識でしかないでしょう。 しかし靴下の重ね履きは「重ね着」の延長と考えれば、すんなり入っていけるのではないでしょうか。 足より上はいくらでも重ね着をしています。 また、下着を付けると思えば、素肌には足元を含めてまず天然繊維の衣類を付ける方が正しいはずです。 足は特に汗をかきやすい箇所にもかかわらず、下着を付けないでいきなり「上着」を付ける方が非常識に思えてきませんか。

http://www.mori-office.com/mlmg/200402/17kasane.html





STAY HUNGRY, STAY FOOLISH (2005年9月14日)

2005年6月12日スタンフォード大学の卒業祝賀式でアップル社のCEOスティーブ ジョブ氏が行ったスピーチ。 あちこちのブログやメルマガでじわじわと広まっています。

成功者と誰もが認めるスティーブ ジョブ氏が、謙虚で東洋的な人生観を語ります。
我々の心の奥深くに潜む何かを呼び起こします。

是非とも読んでみて下さい。

http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__1384134/detail

http://news-service.stanford.edu/news/2005/june15/jobs-061505.html





引き受け気功-4 (2005年9月9日)

藤谷康允(ふじたにやすみつ)氏の引き受け気功の「引き受け」は、「引き取り」とは違います。 「引き取り」は闇に対して闇と同じレベルで向き合う状況で使う言葉ですが(この場合、引き取った人が闇と同化してしまうおそれがある)、「引き受け」は、闇より一段高い人格レベルで闇を包み込んでしまう境地です。 

「闇を怖がらずに、光を強くすることの方を意識する」ことが大切ということなのでしょう。
光で闇を照らす境地で対面すれば、闇は光に変わるのでしょう。





引き受け気功-3 (2005年9月7日)

藤谷康允(ふじたにやすみつ)氏の引き受け気功の真髄である、「闇を引き受けると光になる」という言葉の意味が、わかるようでわからなくて、自分の肚にストンと落ちてこない状態が続いています。 この考えは正しいという直感があって理解したい気持ちがあるのですが、スッキリしません。

今日(9月7日)の松下幸之助の一日一話(文章は毎日変わります)に以下のような文章がありました。 「指導者」を自分に、「相手」「反対する者」「敵対する者」を病気に置き換えて読んでみると、少し理解に近づけるような気がしました。

徳性を養う
人間が人間を動かすことはなかなか容易ではない。 力であるいは理論で動かすこともできないことではない。 しかし、それでは何をやっても大きな成功は収められない。 ・・・・だから、指導者はつとめてみずからの徳性を高めなくてはならない。 力を行使しつつも、反対する者、敵対する者をみずからに同化せしめるような徳性を養うため、常に相手の心情を汲み取り、自分の心を磨き高めることを怠ってはならないと思う。


反対する○○は嫌いだ、敵対する○○はいやだとか思うのは、本人の幼児性であって、徳性を養い人格を高めるように努めれば、相手(病気)の心情を汲み取る余裕ができ、それを包み込んで、引き受けて自分の中の「光」と同化させる力が養われる、ということなのかもしれません。





引き受け気功-2 (2005年9月4日)

藤谷康允(ふじたにやすみつ)氏の引き受け気功の講習会に参加しました。 参加者は女性が圧倒的に多く、年代も年配の方から若い女性まで参加されていました。 女性の気功への関心が年代に関わらず高いことを感じました。

内容はかなり密度の高いものでした。 特に自分にとってすぐに役立つことでは、調息(呼吸)の仕方でした。 常に吐くことのみに意識して、吸うことは考えない。 人は生まれるときにオギャーと息を吐いて生まれ、死ぬ時に最後に息を吸って死ぬ(息を引き取る)。 従って、生きている間は吐くことのみを意識することが肝要、というものです。 

もちろん、引き受けるときも息を吐きます。 引き受け気功は私にとって本当に天地がひっくり返るような発想の転換です。 私は、この発想の転換の内容は本物と感じています。 これ以上の内容は、心と頭の整理ができていなくて説明できません。





夜の靴下 (2005年9月1日)

今年は残暑が厳しくないようで、これから涼しくなると、夜寝る時に靴下が履きやすくなります。 毒出しは夜の方が活発なので、寝る時こそしっかり足を温めると良いといいます。 但し、寝るときには、体を締めつける服装は良くないので、靴下もゆったりしたものにすることが必要です。 最近始めたのですが、夜は靴下の枚数を減らし、一枚目の絹5本指ソックスに登山用のウールの厚手靴下をプラスして、合計二枚の重ね履きにしています。 締めつけもなく、タップリ厚みのある靴下なので十分に暖かく、ぐっすり寝られます。 お試しを。

ところで、登山靴を履くときに靴下は2枚がよいか、1枚が良いかという論議が昔あったことを思い出しました。 今はどうされているのか知りませんが、絹の5本指ソックスという選択肢がある現在では、一枚目に絹の5本指靴下、二枚目に登山用の厚手靴下という組合せで「決まり」ですよね。 5本指靴下は足の踏ん張りがきいて、かつ絹は汗をよく吸い取るので登山にぴったりです。 





ちょっと雑記帳そのもの (2005年8月31日)

冷えとりとは関係ありませんが、思いついたコピーをひとつ。

iPod, it's not a Sony.
Walkman, it was a Sony.





夏の終わり (2005年8月28日)

夏休みの旅行でおいしい料理を食べ続けた為に、増えた体重がなかなか減りません。 大食の癖が習慣になってしまったようです。  冷えとり健康法は続けているのですが、冷えとりによって毒出しをしても、毒が出た分だけ体は毒を欲しがってしまいます。

体は、たとえそれが毒であっても、毒がある状態が続くとそれを「バランス状態」と認識してしまうようです。 その結果、毒が出て行って「バランス」が崩れると、毒を取り入れてその(悪い)バランスを保とうとするのですね。 実際にはこの状態は「本能が狂った状態」なのでしょうが。

この過去をひきずったおかしな「バランス」を切り崩すには、また本来の本能を取り戻すためには、靴下をもっと重ねて履く必要があるかもしれません。

冷えとり健康法の効用については、既に数年間の冷えとりの実績がある、米国コロラド州在住の岩手昌代さんのブログが参考になります。 彼女は靴下を10枚履かれています。





Google Earth (2005年8月26日)

これはすごいです。 Google Earthでは自分の所在地を宇宙規模で特定でき、また自分の体の大きさ(小ささ)を宇宙空間・地球の大きさとの比較で体感できます。
Google Earthで遊ぶときには、パソコンの画面を眺める側ではなく、眺められる側に立っていると想像してみて下さい。 
「ナナフシのフシギ」のコラムでは、擬態昆虫のナナフシは自分の姿が周りからどの様に見られているかを知っている、と述べましたが、Google Earthでは宇宙規模で自分がどの様に見られているかの経験を味わうことができます。 人生観が変わります。





靴下の脱ぎ方 (2005年8月22日)

5本指の靴下を脱いだ後、足指部分が靴下の中に埋もれた状態で洗濯に出すと、洗濯をしてくれる人に叱られます。 濡れた靴下の指部分をつまみ出すのは大変な作業です。 濡れていなくても大変ですが、この問題を解決する方法を
発見しました





治療家と患者の関係 (2005年8月18日)

治療家は患者を本当に治して良いのか、患者は他人に自分の病気を本当に治してもらって良いのか、ずっと考えています。 ひとつの正しい考え方、および治療家と患者の関係は以下のようなものと思うようになりました。 即ち、患者は病気が患者自分の治癒力で治るのを治療家にサポートしてもらい(「ヘルプしてもらう」ではなく)、一方治療家は、患者を支えて励ます(「患者を治す」でもなく、「患者が治るのを助ける」でもなく)という心構えを持ち、両者がこの様な心構えを土台とした関係にあることです。

「患者が患者の治癒力を発揮して治るのを一押しする」という心構えでも、そこには治療家側に高慢な気持ちが潜んでいます。 ただひたすら、他人本位で他人を支えて励ます、この心構えができれば良いのでしょう。 この心構えを持つことは私にとっては修行を意味します。





お盆 (2005年8月17日)

夏休みに帰省しました。 お盆は亡くなった霊と生きている我々とが一緒に集まってひと時を過ごす時間です。 このような時間は、時間の流れ、人生の瞬間をじっくりと再認識できる貴重な機会です。 普段会っていない家族と会えるのも貴重な機会です。






プラシーボ効果 (2005年8月10日)

偽の薬を「効く薬」と言って患者に飲ませると本当に「効く」ことがあり、これをプラシーボ効果といいます。 これは、患者自身が持っている治癒力が働いて治癒したのであり、偽の薬が効いた結果ではありません。

もし、患者が「この薬は飲んでも治らない」と思えば、どんなに効くはずの薬でも効かないでしょうし、患者が「治りたい」という思いを持てばどんな薬でも効果がでる訳です。 本当に、新薬の開発のときに、本物の薬の方を「プラシーボ効果を測定する為の実験で、これは偽の薬だ」と言って患者に飲ませる実験をすると興味深い結果がでると思いますが、やらないでしょうね。 それ程、心構えは大切であり、心構えを治る方向にセットすれば、薬を飲まなくても病気は治るということです。 薬の開発も大切でしょうが、この心の持ち方という側面にもっとスポットライトをあててもよいと思うのですがいかがでしょうか。





足裏健康法 (2005年8月6日)

足裏マッサージに久しぶりに行ってきました。 私が行ったのは若石健康法という、足に溜まった老廃物を結構強い力でしっかり揉み出すもので、最近チェーン店で展開しているリラックスマッサージとは全く違います。 あれは、お客の症状がどうであろうと、マニュアル通りのワンパターンのマッサージをするだけで、まあ若い女性に足を触ってもらって気持ちはいいですが、それ以上のものではありません。

自分の病気は自分で治さなければいけない、と言っている当人が他人に足を揉んでもらっていては話しが違うのではないかと言われそうです。 しかし、弁解するつもりはありませんが、足を揉んでもらうと、体のどの箇所の具合が悪いかわかるし、また毒出しをたまに手伝ってもらうことは、いいんじゃないかと思っています。

患者側が「健康になるのを手伝ってもらう」という心構えでいれば、依存心はつかないでしょう。 若石健康法の先生自身が、「患者が自分で足を揉んで、もみ足らない箇所だけ、プロの自分が手当てするのが本当の健康法であり、頻繁に当院に来てはいけない。」とおっしゃっています。

以前の私のコメントで、「他人を治療して症状を取ってしまうことは、その人にとって良いことなのだろうか」と述べましたが、実は、治療家が悪いのではなく、問題は治療を受ける側の患者の心構えであるのかもしれません。 

そもそも人間は一人で生きている訳ではなく、常に他人と係わり、お互いに助け合いながら生活しています。 共生が人間社会の基本であるのに、治療のときに限って、治療家と患者の間の人間関係が、一方的に助ける(助けてやる)・助けてもらう(助けてもらう以外に方法がない)という、特別な関係になるのは変です。 自分の病気が治るサポートを治療家にしてもらうことは必要でしょうが、自然治癒の力が自分に備わっていることを忘れて治療家に身を任せて依存し、言いなりになるのはおかしいです。 病気以外の場面では決して他人の言いなりにならないのにね。




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