「モダン都市東京」発掘隊

戦前のタップダンサー名鑑
(禁無断転載)



 川畑文子

 中川三郎

 ジョージ堀

 林時夫

 稲葉実

 荻野幸久

 中村弘高

 姫宮接子

 ベティ稲田



戦前のタップダンサー名鑑(禁無断転載)

川畑文子
 日系三世でハワイ生まれ。足を高く上げる独特の「ハイキック」を武器に、9歳にしてロスアンゼルスでデビュー、13歳でブロ ードウェイのスターになり、17歳で日本劇場の柿落とし公演(昭和8年)の主役をつとめながら、戦争直前に突然引退した伝説のスター、アリス・フミコ・カワハタ(川畑文子)。
 タップは伝説のビル”ボージャングル”ロビンソンに習い、まだ黎明期だった日本のショウビジネス界の扉を大きくひらいたのでした。ジョージ堀のスタジオにいた白畑石蔵(のち一麿)と組んで、日本全国から満州・ハルビンにまで遠征し、ロシアの新聞に「素晴らしいバレリーナ」と絶賛される。

 しかし戦争直前に突如結婚引退、その後半世紀近く消息不明だった文子さん。乗越たかおはついにロスアンゼルスにいることを突き止め、さらに昔のことはかたくなに語ろうとしない文子さんを半年かけて口説き、ついに戦後初のインタビューに成功。
 それをもとに、小説にまとめ上げたのが乗越たかお著『アリス ブロードウェイを魅了した天才ダンサー 川畑文子物語』(講談社刊)で、「膨大な資料に裏打ちされていながら、小説として楽しく読める」と好評をいただいております。



中川三郎
 中川三郎はとかく戦後の社交ダンス・スタジオばかりが注目されるが、戦前は「擬装の麗人」といわれたタップ・スターだった。
ジョージ堀のもとで学び、17歳という若さで五・一五事件の翌年にタップの修行のため単身アメリカに渡る。ブロードウェイでジョージ・マチスンに師事し、成功を収め、二・二六事件の前の月(昭和11年)に帰国。タングル・フット、ファイヴ・ステップ・ウィングといった新しい感覚のタップを日本に持ち込んだ。東京進出をもくろんでいた吉本興業の『吉本ショウ』に高額で引き抜かれ、トップスターに。さらに昭和13年、松竹へ移籍し、笠置シヅ子がブレイクしたきっかになった松竹楽劇団の創設メンバーとして帝劇でトップスターとなった。

 戦前の波瀾万丈の半生は乗越たかおが『ダンシング・オールライフ 中川三郎物語』(集英社)に、こちらもやはり小説仕立てで書いております。



ジョージ堀
 本名・堀常次郎。単身ロスアンゼルスにわたり、モーリス・キューセルにタップダンスを学ぶ。昭和7年に帰国して、わが国初のタップダンススタジオを新橋に設立。SKDの指導などにあたる。戦前活躍した日本のタップスターたちで、その門を叩かぬ者はなかった。



林時夫
 堀の一番弟子として活躍し、昭和9年に独立、銀座にスタジオを開く(のち有楽町に移転)。良家の子女が詰めかけたという。
『頬を寄すれば』(松竹蒲田 島津保次郎監督 昭和8年)では、日本で初めて映画でタップを踊った。雑誌などを通じてタップの普及につとめ、「林時夫とカーネーション・シスターズ」を作って活躍した。



稲葉実
 もとは社交ダンスの教師だった。林の弟弟子にあたるが、一時期人気を二分していた。
21歳の時に四谷(後に銀座)にスタジオを作り、郷宏之や飯田牧といったタップスターを育てた。日本で初めてタップの教則本『タップ・ダンスの踊り方』(昭和11年)を出し、1万5千部を売る人気となった。



荻野幸久
 様々な職を経てジョージ堀門下で学んだ後、神田にスタジオを開く。なんといっても日劇レビューの中で一躍大スターとなった。
ことに速いステップに評価が高かったという。そのキャラクターが愛され、戦争中は腹話術なども採り入れていたエンタテイナーである。



中村弘高
 松竹ニュース部、活動や、レビュー興行者等を経て、林時夫にタップを学び、古川ロッパの「笑の王国」などで活躍した。舞台のかたわら日本橋にスタジオを構えていた。戦後も映画などで活躍。



姫宮接子
 6歳の頃からジョージ堀のスタジオで学ぶ。優れたタップの技術に加え、その美貌が早くから評判となっていた。浅草松竹座、ムーラン・ルージュ等で一躍スターに。新興キネマに出て何本か撮り、ここでも絶大な人気を博すが、再び舞台に。ことに中川三郎とのベストカップルぶりは話題になった。



ベティ稲田
 サクラメント生まれの日系二世で、親友だった川畑文子のあとを追って来日。どちらかというと歌とフラが得意だった。

▲ TOP