2018/8/13

 
No.610

鈴木慶市さん

去る8月4日、鈴木慶市さんが亡くなりました。91歳。慶市さんとは、道長が音羽に作業所を移転した1995年からの付き合いで、昨年まで、道長で使う大根、白菜、かぶ、なす、きゅうりなどを作っていただきました。その間、ざっと24年の歳月。

当初、慶市さんのほかに2人ほど、地元で野菜を作ってもらえそうな方を農業改良普及センターに紹介いただいたものの、いずれも道長の勝手を聞いてもらえず、あちらから愛想を尽かされた感で、最初の数ヶ月で関係は途絶えてしまったと記憶します。

以後20余年、いろいろなことがありました。その中で、いちばん印象深いことといえば、なんといっても、鈴木さんとぼくとで『生ゴミでたい肥作り』をしたことでした。当時、家畜の糞、食品の残渣、生ゴミなどのバイオマスの再利用がブームだったこともあり、どうせ無農薬無化学肥料栽培をめざすならと、たい肥作りの実験を始めたものです。

自作のステンレス製生ゴミ発酵機を道長の作業所に設置し、近隣住民に生ゴミ投入をお願いするというもの。この試み、意外に好評で、新聞にも取り上げられたり、小中学校に二人で指導にいったこともありました。

乳牛の畜産農家へ行って、家畜のふんに米ぬか、もみ殻、おからなどを混ぜて完熟牛糞たい肥の製造実験なども敢行。ホイールローダーという土木機械を使っての実験は、その運転こそは楽しかったものの、ローダーが牛糞の海の中で立ち往生、脱出方法を知らなかったため孤立するという笑い話も。

こんなこともありました。牛糞たい肥を発酵熟成するための雨よけとしてビニールハウスを設営したのだけれど、翌日様子を見にいったところ、なんと夜中に突風で骨組みがグニャり。慶市さんとぼく、夢か現(うつつ)か、あっけにとられ茫然自失。ということもありました。今となっては楽しい思い出です。

彼、鈴木慶市さんは、昭和元年、寅年生まれ。ぼくの母と同い年。母は5年前、86歳で逝ってしまいましたが、なんとなく身近に感じてしまう慶市さんでした。

慶市さんといっしょに作業をする時、毎回実感したこと。ぼくと25年の年齢差があるにもかかわらず、小柄な体格にもかかわらず、とにかく積極的で力持ち。そしてエネルギッシュでした。ぼくが彼の年齢になったとき、果たしてあんなに元気でいられるのだろうかと、いつも考えさせられたものです。
戦後生まれのぼくとはちがい、戦中戦後を必死で駆け抜け、切り抜けた、彼、鈴木慶市さんは筋金入りの努力家でした。戦後、開通したばかりの、舗装もできていない国道1号線をトラックにかりんとうを積み、配達と営業のため、東京を往復したそうです(全国シェアトップのかりんとう会社の専務さんでした)。その勇姿ぶりを想像します。

慶市さんが道長に野菜を配達に来るとき、外で軽トラのエンジンの爆音が景気よく鳴り響いたもの。もうあの音は聞けなくなりました。本当に寂しくも悲しくも、残念でなりません。

慶市さん、本当に永い間ありがとうございました。あなたにいただいたご恩は一生忘れません。さようなら。