編制

2001/01/13
『黄泉平坂』
{よもつひらさか}

《粗筋》
 ドミノ、コルト、マリーの三人は、人類の上位近似種にして諸国の統治者である叡族{えいぞく}・三賢帝の導きにより、遺跡と化した戡族{かんぞく}の完全殲滅に向かった。
リタルダンド大陸を、惑星エッダを破滅の危機から救う為に、戡族を目指し、未だ人の手の入らぬ未開地へと歩を進める。
(未完・400字原稿用紙、70枚弱)

《目次》
コルト・イヴァーノフT
マルグリット・ビュヒナーT
ドミナス・ウィルバーフォースT
エリカ・イェスベルセンT
リリィ・ケイラーT
コルト・イヴァーノフU
マルグリット・ビュヒナーU
ドミナス・ウィルバーフォースU
ハルメット・ビュヒナーT
ローリス・ロンバース


********************

《コルト・イヴァーノフT》

 イザイ法国パイロン州の南端、澄んだ青空に覆われたグッタペルカ平原のど真ん中。マズルカの背に乗り辺りを見廻すコルト・イヴァーノフの視界には、巨大な積乱雲の隙間から覗く青空と荒々しい岩肌を露出させる荒野、それ以外は映らなかった。平原とは名ばかりでそこには立ち枯れた木々が点在するだけだった。砂粒が舞いコルトの体に吹き付ける。都市部からマズルカで二日も行けばそこはもう僻地であり、大陸と呼ばれていてもリタルダンドはまだまだ未開の地と言えなくも無い。
 リタルダンド大陸全土に生息する草食の四足動物マズルカは、最も一般的な移動手段である。閃光{せんこう}機関交通網の整備されていない辺境各地を旅するには今でもマズルカの世話にならざるを得ないのである。飼い慣らしたマズルカの背に乗り、銃を掲げて荒野を駆けた開拓時代は二百年も前に終わったと言うのにである。輝鉄鋼{きてっこう}による閃光炉機関の発達は、誇り高き開拓者達を薄暗い穴蔵へと押し込み、彼らを煤だらけの探鉱夫へと変え、輝かしき開拓時代は幕を閉じたのだった。
 だが、赤毛の年老いたマズルカの背に揺られグッタペルカ平原を歩むその三十歳の偉丈夫、コルト・イヴァーノフは、今は昔の開拓者のように見えた。深く被った鍔広の帽子、くたびれた革衣服、平歯車を付けた爪先の尖った革靴。そして、胴帯に佇む二挺の大口径六連発輪胴拳銃と射すような鋭い眼光、それらはまさしく古き良き開拓者達のいでたちであった。
 年老いたマズルカの首をさすり、コルトは砂混じりの西風に皺の刻まれた顔をしかめる。荒野で力尽きた者の血肉を求めるブディン達の遠吠えが風に乗って聞こえてくるらしく、主には届かないそれを聞き取った年老いたマズルカは両耳を伏せ身を震わせた。銃創の穿たれた帽子の鍔を人差し指で僅かに上げ、遥か地平線を睨み付ける。
「誰にも聞こえぬ大地の悲鳴か、開拓者の無念の叫びか……」
 荒涼とした風景はその時代遅れの中年を詩人に変えていた。無精ひげで覆われた顎に指を当て、遠い目で物思いにふけるコルト。彼は今、精霊と言葉を交わし探鉱夫の怨念に耳を傾けていた。と、今度は主にも聞こえるほどの音量で悲鳴と思しき声が銃声と共に飛び込んできた。年老いたマズルカはいななきと共に直立し、仰ぎ目で次の文句を思案していた彼の主を勢い良く放り出した。
「のわぁぁ!」
 青空を背景に奇麗な放物線を描くコルト。その表情は驚きで覆われ、見開かれた瞳が彼の恐怖を物語る。直後、硬いもの同士のぶつかる背筋も凍る鈍い音がする。土煙を上げ勢い良く背中から着地したコルトは呼吸が止まったらしく、絶命寸前の昆虫の如く地面で四肢をばたつかせ「ひー」とか「うー」とか唸っている。瞳には涙さえ浮かんでいた。
 年老いたマズルカは埃だらけで這いずるコルトを申し訳無さそうに見詰め、主の服の袖口を口に咥えてぐいぐいと引く。どうやらそれは謝罪ではなく何事かを知らせようと懸命になっているようなのだが、コルトの方は後頭部を押さえ年老いたマズルカに引きずられるがまま「ばあちゃんが見えた」などと唸っていた。西風の吹く荒野を年老いた赤毛のマズルカに、古色蒼然とした風袋の中年が襤褸雑巾のように引き回されて行く。

 リタルダンド大陸でその名を知らぬ者はいない。荒野を流離う無敵の拳銃使い。ギーゼキング公国で披露されたその神業は、叡族{えいぞく}である〈仁将ゼッファー〉にさえ溜め息を吐かせ、風になびく茶褐色の長髪に宮廷付きの女官達は感激の余り失神したと言う。二挺拳銃〈伊邪那岐{いざなぎ}〉と〈伊邪那美{いざなみ}〉、二つ牙の一匹狼。
 その男の名は、コルト・イヴァーノフ! 人呼んで、〈風のコルト〉! ……そう、年老いたマズルカに引きずられて喚いているあれ≠ナある。なんともはや……。


《マルグリット・ビュヒナーT》

 嫌な顔、とはこういったものの事であろう、マルグリット・ビュヒナーは自分の今の顔を思い浮かべてそう思った。いや、顔の造り≠フ話ではない。嫌そうな表情、である。風貌には自信があった、並み以上には。十九歳の女性にしては良い意味で大人びているし髪の手入れだって欠かした事は無い。稽古の邪魔になるのでかなり短く刈り込んでいるが、艶やかな黒髪はそれでも十分魅力的に見える筈である。小柄ながら鍛練のお陰で体型は抜群だし、少なくとも皆は「可愛い」と言ってくれる。道場の師範とか、行き付けの八百屋のおじさんとか、石切り屋の主人とか、教会の神父さんとか、乾物屋の……なんだ、全部年寄りばかりじゃないの。
「マリー! ねえ、どうするの?」
 手を引かれ、マルグリット・ビュヒナー、マリーは我に返った。そうだ、今はそんな事はどうでも良い。此処を如何に乗り切るかが重要なのだ。良いではないか、年寄りでも。若い奴は口は達者だがどうにも裏があるように思えてならない。打算的と言うのか真実味が無いと言うのか。第一、目がいやらしい。
「マリーったら! ねえねえ!」
「え? ああ、そうね」
 何がそうなのか、しかしミッチは三つ編みを振り乱し激しく頷いて「そうよ」と言うと、彼女達を囲う連中を見廻した。最近は特に運が悪い、男運が、マリーはミッチと同じく周囲を見渡してそう思った。ナーガールジュナ連邦領とギーゼキング公国領の中間の無防守地帯、何時もは静かな森の一本道。バセットの鳴き声や小鳥の囀{さえず}りが心地良い、生い茂った枝葉の隙間から射す日差しの柔らかい散歩にもってこいの一本道である。もっとも今日は散歩ではなく、付いて来ると言って聞かなかったミッチと共に食料の買い出しで隣町へ向かっていたのだが。
「さあて、可愛いお嬢ちゃん達。怪我ぁしたくなかったら、持ち物ぜーんぶ置いてきな。金目のものも、そうじゃあないものもだ。こいつが見えるだろ?」
 メフメトの褐色の毛皮で全身を覆い同じくメフメトの牙の首飾りを下げた筋骨隆々の禿げ男が時代物の長身銃を、マリーと彼女の脚の後ろに身を隠している幼いミッチに交互にかざす。露出した太股を抱えられてくすぐったい。マリーは禿げ男の格好を改めて眺め思う、今時そんな格好じゃ誰も驚かない、と。十一歳のミッチだって、である。メフメトは猛獣の部類に入る。だがメフメトを仕留める事が昔ほど困難ではなく、銃さえあればきっとミッチにだって可能なのだから、その毛皮を羽織っても無意味だとマリーは思うのだが彼女の眼前の、禿げ男を筆頭とするこの連中は赤茶色の毛皮の威厳を信じて止まない様である。
「おら! さっさとしやがれ! 風穴開けるぜ!」
 押し黙ったままのマリーに向け禿げた毛皮男が再び怒鳴った。マリーは片方の眉を僅かに動かし、男の手にある長身銃の銃口を上目遣いで睨む。かつては森の王者≠ニまで呼ばれた猛獣メフメトをあっと言う間に死へと追いやった銃器の発明と発達。最新式であれば一発で人間を上半身と下半身に分割してしまう威力もあると聞くが、男の手にあるのは持ち主よりも年上であろう骨董銃だ。急所を外せばバセットを仕留める事さえ可能かどうか解ったものではない。こんな連中、相手にするだけ時間の無駄と言うものだ。稽古の前の準備運動にすらならないだろう。馬鹿馬鹿しいし、手早く済ませるに限る。
(ご、ろく、なな、……八人か。)
 眼球だけを動かし取り巻きの位置を確かめ、両拳を軽く握り、鼻から息を吸い込み尖らせた口からゆっくり吐く。踵を僅かに浮かし背を軽く曲げる。
(親玉から、かな、やっぱ。)
 体に染み付いている型≠フ第一手を思い浮かべ、マリーは長身銃を構えた禿げ男の眉間の辺りを睨み付ける。肌着に軽く羽織っただけの麻編みの衣服の下で全身の筋肉を緊張させ必殺の一撃を繰り出すべく溜め≠作ったところで、まだミッチが彼女の太股をがっちりと抱えている事に気付く。マリーは並外れた集中力と研ぎ澄まされた感覚を持つが、時として敵∴ネ外の無関係なものを意識の外へ追いやる癖があり、師範に何時も注意され指摘されている。傍目からは決して解らない攻撃態勢≠保ったまま、マリーはミッチに離れるよう呼びかける。
(ミッチ! ミッチ! 離れてよ! 仕掛けるから!)
 マリーはミッチにだけ聞こえるように殆ど唇を動かさず囁き、尻で彼女を軽く突付く。だがミッチの方は毛皮男を物珍しそうに見詰め「ひゃー」と溜め息を吐き、マリーの合図には一向に気付かない。それどころかミッチは突き飛ばされまいと益々腕に力を込めてマリーの鍛え上げられた太股を掴む。彼ら山賊はミッチにとって親子連れバセットと同じくらい珍しいのだ。長い耳と新雪色の美しい毛並みの小柄なバセットは、子供に大人気の食用%ョ物である。生まれたばかりの子バセットを連れた親子は警戒心が強く人里にはめったに姿を現わさない。バセットと同じく山賊も人目に触れる事は少なく、ミッチの複雑な価値観はそれらをほぼ同等と見なしたようだった。
(ミッチ! ちょっと!)
 尚も試みるマリーだったが事態は変わりそうに無かった。体をくねらせ貧乏揺すりの如く信号を送るがミッチは「メフメトだあ」などと唸ってばかり。
「ミッチぃー!」「てめえ何やってんだ!」
 とうとうしびれを切らした二人が同時に叫んだ。マリーと毛皮男、どちらも返事を聞けずに無視された者同士である。ミッチの頭のてっぺんを見下ろしていたマリーが「あっ」と声を上げた直後、乾いた銃声が響いた。周囲の木々から鳥達が一斉に飛び立ち、茂みがざわめいた。威嚇だった。マリーの顔の真横をかすめたらしく鼓膜が震え、きーんと耳鳴りがした。素早くミッチを引き剥がし、マリーは毛皮男に向かって身構えた。両拳を腹の高さに上げ、全身を強張らせる。
「黙示流を甘く見ない事ね、覚悟なさい!」と凄むマリーの背後で音がした。勢い良く放り出されたミッチが転んだらしい、が、力いっぱい引いた弓の如き集中力を見せるマリーの意識には届かない。
「やろうってのか! 地獄を見るぜ!」
 毛皮男が負けじと言うと残りの連中が同じく長身銃を構え、撃鉄を起こす金属音が合唱となる。マリーの革靴が砂利とこすれる音がして、暫しの静寂。風の音すら聞こえないほどの沈黙、顔を伝う汗の音が聞こえてきそうな静けさ、そして!
「ぎゃわーーーーーん!!」
 ミッチの鳴き声だ。
「え? ミッチ! どうしたの!」
 マリーは素早く振り返り地面を蹴って十歩ほど後方のミッチにあっという間に飛びついた。
「ミッチ! 何? 何処ぶつけたの? 痛い? 大丈夫?」
 顔をぐちゃぐちゃにして後頭部を地面に打ち付けたと訴えるミッチ。マリーはミッチの打撲跡をさすって「ごめんなさい」と繰り返す。だがよほどの激痛らしくミッチは泣き止む気配さえ見せない。
「わーーん!」
「お、親方、あれ」
 暫くして、完璧に無視された形の山賊達の一人が、呆けている親玉の肩を叩き地面を指差す。指し示した先、直前のマリーの立ち位置には岩が埋もれており、そこに彼女の足跡がくっきりと残されていた。それは露出した花崗岩の岩盤だった。足跡周囲にはひび一つ無く、その穴はまるで端からそうであったようにさえ見えるほどである。
「な、な、なんじゃこりゃ?」
 どうにかそれだけ言うと毛皮男は、泣き喚くミッチをあやすマリーを見る。それは普通の女で、美味しい獲物にしか見えないのだが……。
「て、て、て……」
「て? なんでがす? 親方ぁ」
「て、て、て……」
 毛皮男は口元に手をかざし、両脇を固めていた子分二人の耳元で「撤収だ」と小さく小さく囁いた。両脇の子分はそれを隣の仲間に伝え、聞いた仲間がまた隣に伝える。瞬く間に命令が伝わり、全員が毛皮男を見詰めた。彼が大きく頷くと全員がそれに「へいっ」と小さく応える。その後の、メフメトの毛皮を羽織った禿げ男を筆頭とする彼らの撤収の手際の良さは、さすが百戦錬磨の山賊といったところか。足音一つ立てず煙の如く消え去り後には体臭すら残らなかった。ただ一つ、彼らのものではない、岩盤に刻まれた足跡を除いては。
「痛ぁーい!」
「ごめんなさい! ミッチ、大丈夫?」

 ナーガールジュナ連邦の都市、ボーヴォワールの外れに一軒の掘っ建て小屋があった。苔だらけの大きな門の上に掲げられた看板と思しき板切れには『ビュヒナー霊式黙示流拳術道場』と刻まれている。東方伝来の古武術、霊式黙示流拳術=Bその奥義を身に付けた者は聖典に登場する戦神〈戡族{かんぞく}〉に匹敵する力を得、世界を制する三賢帝〈叡族〉と人の身でありながら渡り合えると言われている=B歳を経たメフメトを指の一振で粉砕し、銃弾を掌で弾けるらしい=B纏った闘気は嵐を呼び、雄叫びは暗雲を晴らすようである=B霊式黙示流拳術、それは文字通り最強≠フ格闘技なのであろう=B
 リタルダンド大陸で唯一、霊式黙示流拳術を後世に伝えんとするビュヒナー家の道場には門下生が二人いた。今年六十八歳になる第百二十一代霊式黙示流拳術師範ハルメット・ビュヒナーの一人娘、道場の家事全般をこなす働き者にして次期黙示流伝承者の役目を押し付けられた薄幸の少女、マルグリット・ビュヒナー十九歳。そして、二年前にビュヒナー家に引き取られた戦災孤児にして道場のお荷物、ミッチ・ビュヒナー十一歳。……つまり! 霊式黙示流拳術は、風前の灯火なのであった!
〈壊し屋マリー〉と〈我がままミッチ〉、今日も二人は黙示流とは全く関係の無いおつかいで東奔西走していた。はー、南無阿弥……合掌。


《ドミナス・ウィルバーフォースT》

「僕はドミナス、ドミナス・ウィルバーフォース。でも、友達は皆ドミノ≠ニ呼んでるよ。ところで、君の名前は? あるんだろ、名前。なんて言うのさ」
 イザイ法国パイロン州、カタリカの海岸。苔だらけの朽ちた流木や固い殻で覆われた木の実が幾つも打ち揚げられた砂浜には、打ち寄せる静かな波音と汐の香り以外は何も無く、訪れるものを優しく迎え入れる。波打ち際の僅かに湿り気を帯びた砂地に屈み込むとドミナス・ウィルバーフォースは軟らかな調子で、陽光を反射し銀色に輝く鉄塊に語り掛けた。後ろで結わえた黄金色の髪が照り付ける陽光の元で稲穂の輝きを見せる。
 ドミノの傍らの一抱えほどの大きさの歪な楕円形のその鉄塊は、中間に節のある四本の長い突起を、まるで救いを求める愚民の腕のように大空に向けていた。侵食を免れた領地を赤褐色の錆が包囲し、その鉄塊が少なからぬ時間海水に浸されていた事を無言で語る。間を置いて鉄塊から、ぎいぎいとまるで喉を詰まらせたブディンの呻き声のような音がした。ドミノが辛抱強く待っていると、途切れ途切れの雑音は途中から抑揚を伴い、遂に彼の耳に言葉≠ニして伝わる。
「ガ、ガ、……ケイ、……ビィー、ザザッ、シイ、……ギガッ、ガ、ガ……」
 言葉のように聞こえたその音は再び聞き取れない単なる雑音と化し、暫くすると途切れてしまった。
「けい、びい? それ、君の名前かい?」
 指先で突付きながらドミノは尚も語り掛けるが鉄塊は押し黙ったまま応えない。ドミノは立ち上がり水平線の彼方を上下する海鳥の群れを遠い目で眺める。干潮で海岸線は徐々に後退し、その表情を刻々と変化させる。しかし、静かな情景と相反するように、安堵と焦燥の入り乱れる複雑な感情がドミノの胸を占領していた。それはまたカタリカの街に、イザイ法国全土に垂れ込めるものでもあった。小さな溜め息を吐くドミノの目には優しいうねりを見せる海ではなく、青黒い法国軍の軍服でその身を包んだ彼の友人達の険しい表情が、まるで網膜の傷のように映っていた。彼らの鋭い眼光がドミノを容赦無く貫いている。
「僕には向いていないよ、兵隊や、戦場なんて……」
 応えるものの無い呟きは波音にかき消される。雲間からの日差しがドミノの立つ領域に注ぎ、砂浜に彼の姿を黒く描き出す。

 血生臭い覇権争いの続くリタルダンド大陸だが、ドミノの暮らす国、イザイ法国には徴兵制度は無かった。二十歳を迎えたイザイ法国民男女には兵役の機会≠ェ与えられるのである。それは名誉であり特権であり自由と平等の象徴でもあった。全ての国民は自らの意志で軍務に就き、自らの意志で平和に貢献する。また、それを拒む事も個人の自由であり何人も兵役への強制力を持たない。ただ一つ、それを良しとしない風潮≠除いては。
 その年、ドミナス・ウィルバーフォースが、カタリカに住む二十歳を迎えた男女でただ一人℃u願しなかった事は、彼以外の三百人余りの若者を、人口五千人のカタリカそのものを驚愕させた。ドミノにはそれを裏付け支える彼なりの考えがあった。最前線で凶弾に倒れた父親の後を追うように母親が病死し、十六歳で天涯孤独の身となった彼が反戦思想を持つようになったのは当然と言えば当然であろう。だが、周囲の人々が熱心に説くドミノの声に一切耳を傾けようとしなかったのも、いつしか彼が心を固く閉ざしたのも、或いは当然であったのかもしれない。
 我先に軍部に赴く若者を横目に、ドミノは海岸で終日を過ごすようになった。二日前、目的も無く通いつめる砂浜で奇妙な音を発するその鉄塊を見付けたドミノは、重苦しい気分を紛らわすかのように鉄塊に語り掛けていた。感性を刺激された詩人の如く。

 何処からかくぐもった重低音が聞こえてきた。ゆっくりと浜辺を見廻すドミノは水平線の上、先刻、海鳥達が舞っていた辺りに光帆船が浮いているのを見付けた。光帆船はマズルカのいななきのような機械音を発し今正に離水しようとしていた。二本の短刀で貫かれた逆さ髑髏{どくろ}の徽章{きしょう}が船体に描かれたイザイ法国軍の大型戦闘艇が引力の鎖を断ち、海水を撒き散らしながら上昇する。短い葉巻型の船体が、屹立する自身の光帆により真っ白な輝きを放ち、全長二百五十メンヒル(メンヒルは距離単位、一メンヒルは約一メートル)の巨体に寄り添うように数艇の小型船が飛行している。
 声も無くその光景を眺めていたドミノは、船団が水平線の彼方に消え去って暫くしてから「ユージーンの船だ」と小さく囁いた。その直後、切り裂くような悲鳴がドミノの鼓膜を激しく叩いた。可聴範囲ぎりぎりの高音が頭を突きぬけ、ドミノは両耳を手で塞ぎその場にひざまずく。耐え兼ねて、彼が叫び声を上げる寸前でその高音は前触れも無く止んだ。
「ジジッ、補助動力ガッ開放。〈ユージーン〉、記憶内重要調査項目にジッ該当、照会中。ガッ、検索完了、……適合。〈叡族ユージーン〉、イザイ・エッダ管理体、詳細はジジッ最高度防壁により未確認。ガガッ、当該情報収集をギッ最優先任務に昇格」
 足元の錆びた鉄塊から音が、言葉が響いていた。時々雑音が混じる、男性とも女性とも言い切れない不思議な音階の声だった。ドミノは滲む汗を拭い鉄塊に見入っている。
「ギキッ、相対座ガッ標、……情報ジジッ消失、現地点を絶対基点に設ビッ定。経過時間、九九九九億九九九九万九九九九年九九九九日、……消去。ザッ、現時刻を任務開始時間に再ガッ設定、活動、再開」
 言葉は聞き取れるものの内容は理解出来なかった。それぞれの単語の意味は分かるが、全体として何を言おうとしているのか、ドミノは必死に読み取ろうと苦労していた。
「ザッ……機体破損率九十二パーセント、反次元タービン再起動不可。任務遂行に支障ガガッあり、機動スクリュウを含む機関修復を最優先任務に再設定」
「破損! そうか! 君は、動けないんだね。壊れているのかい?」
 ドミノが言うと声は「破損率九十二パーセント、再起動不可」と繰り返した。ドミノの問い掛けにその鉄塊は返答したのだ。
「こ、言葉が分かるの? 僕の声が聞こえる?」
「ジーッ、収集情報により言ガッ語構成を分析。音声接触にザガッ問題無し」
「凄い!」とドミノは叫び、目を輝かせた。鉄塊から伸びた突起の一つが節の先を僅かに震わせる。
「機体修復をザッ要請する。反次元タービン再ガッ起動を要請する」
「解った! 修理してあげるよ。鍛冶屋のリャザーノフさんならきっと何とかしてくれる!」
 高ぶる気持ちを押さえながらドミノは鉄塊に言った。兵役志願を拒んでから一年間余り、彼は周囲の人々と必要最低限の会話しか交わさずひっそりと暮らしていた。永遠不滅と思われた友情の殆どが跡形も無く消え去り、譲れない思想や信念を捻じ曲げない限り、彼らとの友情が再生する見込みも無い。ドミノは孤独であった。彼は特別に強い精神力の持ち主ではなかったし、どちらかと言えばその心は脆弱だった。だが、安易な迎合に身を委ねるほど彼の誇りは落ちぶれてはいない。「気高く生きろ」という父親の教えを、ドミノは理解した上で実践した。その代償が、孤独であった。
 海辺で出会った奇妙な様式の機械は人語を解し、彼、或いは彼女はドミノに偏見や先入観無しに語り掛け、しかも助けを求めている。他者との交流に飢えていたドミノの心を、漂着した機械の無機質な音声が潤し、ドミノを孤独から救い出したのだ。たとえそれが機械的手続き的判断で構築されたものであったとしても、打ちひしがれた一人の若者に差し伸べられた救いの手である事に変わりはないだろう。

「僕はドミナス、ドミナス・ウィルバーフォース。でも、友達は皆ドミノ≠ニ呼んでるよ。ところで、君の名前は? あるんだろ、名前。なんて言うのさ」
 背負った機械に言い、ドミノは自分には既に友達などただの一人もいない事を思い出したが、今迄のように胸を締め付ける苦しさは不思議と無かった。錆がぽろぽろと剥げ落ちる機械は見た目の大きさに比べると軽く、ドミノ一人でもどうにか運べた。
「ザガッ、要求に該当する呼称は、〈Kb/c〉、ガッ」
「ケービー・シー? ふーん、何だか呼びにくいね。……ケイビィ、で良いかな? ほら、僕もドミナスだけど、ドミノって方が言い易いだろ? どお? ケイビィ、悪くないと思うけど」
 機械との会話は既知の友人との何気ない語らいのように思えた。相変わらず感情のようなものは読み取れないものの、それが逆に心地良いドミノだった。傷つける事も傷つけられる事も無い実質本意の言葉のやり取りは、道端で交わされる他愛ない挨拶のようなある種の軟らかさに似ているとドミノには感じられた。
「ガーッ了解、ドミナス・ウィルバーフォース、ドミノの相互自動変換、及びKb/c、ケイビィのガギッ相互自動変換、登録完了。当機の呼称は現時刻よりKb/cとケイビィを等価併用とする、ザッ」
「改めてよろしく、ケイビィ」
「ザッ、よろしく、ドミナス・ウィルバーフォース・ドミノ」


《エリカ・イェスベルセンT》

 頂点に差し掛かる太陽が、店頭に並ぶなじみ客達を優しく包んでいる。春先にしては少々強い日差しが店先の長椅子で井戸端会議に花を咲かせる彼らの額に数粒の汗を誕生させ、皆々に今年の豊作を予感させた。ギーゼキング公国カスター子爵領の清楚な街、ヒュメーンにある『イェスベルセン精肉店』は豊富な品揃えと良心的な価格帯により評判は右肩上がりで、常連客の中には隣国ナーガールジュナ連邦のボーヴォワールから遠路遥々やって来る者もいた。
「ヌース腿肉三百クラン(クランは重量単位、一クランは約一グラム)、おまたせしましたぁ」
 精肉店の娘が羊皮紙で包まれた山岳水牛ヌースの切り身肉を手に、常連の一人である労働者風の初老の男に向け間延びした声で言った。口元目元の緩んだその娘から包みを受け取り、男は金属を引っ掻く音で「ああ、幾らだ?」と応える。
「えーと、百三十スクーロ(スクーロは通貨単位)ですけど……百スクーロにおまけしときまぁす」
 男は毛繕いをするイグルー犬のような仕種で懐から銅貨二枚を引っ張り出し、それをにやけた娘に手渡すと、にこりともせず立ち去った。娘は「毎度ぉありぃ」とやはり間延びした声で言い頭をぺこりと下げた。棚に並んでいた肉が売り切れ、本日最後の客である男が見えなくなると娘は『閉店』と書かれた小板を店先に提げ、通り沿いに向けられた接客窓の滑りの悪い木製引き戸を苦労して閉じた。店の奥の住居兼用の狭い部屋で仕事着を脱ぎ刺繍入りのたっぷりとした普段着に着替える。裏口から外に出てしっかりと戸締まりすると、のんびりした歩調で街路樹の青い匂いの立ち込める石造りの街へと繰り出した。暖かい、散歩に最適の日和であった。
『イェスベルセン精肉店』の十七歳の若き経営者にして唯一の従業員、そして評判の看板娘と一人三役を演じるエリカ・イェスベルセンは、鼻歌混じりの上機嫌でヒュメーンの商店街を冷やかして歩いて行く。
「わったしは可愛いおっ肉屋さぁん、にっこり笑っ顔の店長さぁん、しぃろいバセットきり裂ぁいてぇ、今日も働くエッリカちゃぁん〜」
 子供向け衣料店の前に差し掛かったところでエリカは、半年程前から、週末には必ず来店している常連客を今日に限って見ていない事を思い出した。挨拶以外の言葉を交わしたことは無いが、その自分と同じ年代の女性客はエリカにとってなんとなく気になる存在だった。

 女性が初めて店を訪れたのは白いものが舞い散る冬の直中のある日だった。余りに寒くエリカはメフメトの毛皮服を幾重にも着重ね小さな火鉢を抱きかかえていたほどである。表の方から声が聞こえたのでエリカは苦労して火鉢から離れ接客窓に渋々ながら出向いた。そこには十代後半の女性がいて、着膨れでメフメトにしがみつかれたように見えるエリカに向かって女性にしては低めの、だが良く通る声で「バセットの乾し肉、あるかしら?」と言った。店には注文の品はあった。品揃えの良さはエリカの自慢の一つでもある。だが、エリカは小さく口を開き目を瞬かせ、呆けた顔でその女性を見詰めたまま、返事をするのも忘れ石像と化していた、驚きの余り。
 女性の服装は灰褐色の綿織りの上下だった。肌着ほどに生地が薄く体の線がくっきりと浮かび、肩から先と腿の根元以下、お腹が剥き出しだった。両拳を覆う皮手袋は指先が露出しており、どう見ても防寒用ではない。そして、それだけは大袈裟な分厚い革靴は足元の雪に埋もれていた。雪の欠片が剥き出しの肩に降り、女性の体温を奪ってから水へ変わった。
 毛皮の重みで腕を上げる事すら叶わぬエリカとは完全に対極にある、見ているだけで凍えてくる女性の格好は、暫しの間、エリカをメフメトの剥製に変えたのだった。しかし、まるで自分の周囲だけは真夏だと言うように女性は澄ました顔だった。エリカは、彼女に言わせれば裸に近いその女性の全身を、息を殺してしかつめらしく睨む。
 女性の方はそんなエリカの様子を、注文が聞き届けられなかった為と捉えたらしく「バセットの、乾し肉を、十五キーレクラン(一キーレクラン=約一キログラム)、お願いしたいのだけど」と一句ずつ区切って丁寧に言った。だがエリカからの返事はない。目を点にしたメフメトエリカと、唇の端を僅かに上げた珍獣女性は無言で見詰め合う。静かに舞い下りる雪が街路を白く染め上げる。
「あのー」
 沈黙に耐え兼ねて口を開いたのは女性の方であった。
「ここ、お肉屋さん、よね? バセットは売り切れなの?」
 既に女性の顔から笑顔は消えている。眉をひそめているのはしかし寒さに耐えてではなく、彼女の眼前の押し黙った精肉店員をいぶかしく思っているからである。返事くらいしてくれても良いじゃあないか、女性の表情はそう訴えていた。更に幾らかの時間が過ぎ、やっと我に返ったエリカはその場で飛び上がって「ありますぅ!」と裏返った声で叫んだ。商品棚から注文の品を取り出し肉切り包丁で切り分け素早く羊皮紙で包む。羊皮紙を受け取り代金を払い、やっとの事で目的を達した女性はエリカに向け軍隊式の敬礼のように軽く手を上げると、雪で白く煙る街へと消えて行ったのだった。

 その日以降、週末になると殆ど同じ時間に店を訪れるようになったその奇妙な女性の事を、エリカは密かに〈雪女〉と呼び、それによりどうにか自分を納得させていた。〈雪女〉だから氷点以下の気温だって平気なのだ、と。
 街外れでそろそろ散歩を切り上げ、夕食の準備の為、店に戻ろうかと考えていたエリカは、立ち止まると、ぽんと手を叩いた。
「なぁるほどぉ、春になったから、溶けちゃったのね。うん、きっとそうだ」
 もやもやと立ち込めていた疑念が漸く晴れ、エリカは何度も頷きながら帰路に就いた。

 貴方は今の食卓に満足していますか? 本物のお肉を味わっていますか? 狩り立てのお肉を食べていますか? 当店は最高品質のお肉を良心的な価格で皆さんに提供致します。『イェスベルセン精肉店』! 是非一度お立ち寄りください!
「お肉なら、やっぱりイェスベルセン、だね!」


《リリィ・ケイラーT》

 益々強まる強風が砂塵を舞い上げ視界を塞ぎ、その一団の行進速度を目に見えて遅らせていた。先頭で指揮を執るリリィ・ケイラーは防塵頭巾の下で舌を鳴らし悪態を吐く。
「今日に限ってのこの悪天候。まるで、大地が我らの所業を疎ましく思っているかのようだな」
 右手を上げ後続に休息の合図を送ると、リリィは風除けとなりそうな窪地を指差した。手早く組み上げた仮設休憩所の入り口に二名の歩哨を立て、一団は半日ぶりの休息を取った。腰を落ち着けたリリィに若い部下の一人が歩み寄り彼女に耳打ちする。
「……丘二つ向こうに、まだいます」
 リリィは砂漠用気密装備を苦労して脱ぎ去り、膝までの濃紺下衣と汗をたっぷり染み込ませた肌着一枚の姿になると、部下が指し示した辺りを光学単眼鏡で覗く。黒く縁取られた景色に目標までの距離や周囲の気温・気圧の明滅表示が重なる。強風の為、地面と空が一色に見える。円形の視界の隅、砂の盛り上がりの一部に影がうごめいていた。随分と距離があったが、倍率を上げなくともそれが人間であり、そして何者なのかリリィには解っていた。
「構わんよ、捨て置け」
 軍服と同じ濃紺色の腰まである髪に手櫛を通し、リリィは丘の向こうで砂嵐に辟易しているであろう男を思い浮かべ小さく微笑む。
「苦労するな、お互い……」
 イザイ法国空挺軍南部方面隊第七師団将校、リリィ・ケイラー大佐は、勅命により彼女直属の部下十二名と共にパイロン州南西部のラフマーン砂丘に訪れていた。

 十日前、人にあらず者=A〈叡族〉は、法国宮廷深部の更に奥に据えられた瀟洒な謁見の間にリリィを呼び付け、第七師団長である彼女に「イザイ法国の存亡に関わる重大事」を彼自ら言い渡した。
「或いは、この惑星の、我らの母なるエッダの存亡、と言い変えても良い」
 両壁に並ぶ複雑な紋様の飾り窓、身の丈ほどもある半人半獣の二対の象牙色の彫刻、民話を綴る血の色をした絨毯、二本の短剣に貫かれた逆さ髑髏を縫い込んだ軍旗、天窓から注ぐ月明かり、幾多の戦火をくぐった屈強なリリィはしかしその押し殺した声に身震いさえ覚えた。
「彼奴{きゃつ}らの鼓動が、我が身を揺さぶるのだ。目醒めの日は近い」
 ユージーン、それが玉座からリリィを見下ろしている男の名だ。姿を見るのは多分二度目か三度目、それくらいだろう。白い肌に白い髪、全身を濃紺色の外衣で包み、血の気の失せた右手には絡み合った蔦の形をした杖を握っている。瞳の色は、と考えリリィはこの男が常に両の目を閉じている事に思い当たった。以前、確か国賓警備任務で見かけた時も、彼はまるで生まれ落ちた時からそうであったように瞼を固く繋ぎ合わせていた。その時は終始作られた笑顔の為と思っていたが、少なくとも今はリリィに対して彼が笑顔を作る必要など無い筈であり、その息詰まった学者の如き表情が彼の本来の顔なのであろう。
「彼奴らを封じろ、今再び。一刻の、猶予も無い」
 高い鼻梁の下の白い唇が動き抑揚の無い透き通った声が空間を渡り、リリィの頭蓋を直接震わせる、そう感じる。奏でる、そういった形容が相応しい、思わず聞き惚れる繊細な声だった。にもかかわらず、リリィはその声に、そして声の主に底知れぬ恐怖を覚える。まるで――
「作り物、のようだ」
 自分だけに聞こえるよう小さく囁き、ひざまずいた姿勢のままリリィは上目遣いで彼女の主、青年の顔の〈叡族〉ユージーンを見る。玉座に腰を据え微動だにしない人にあらず者≠ヘ月明かりに照らされ蝋細工の艶を放つ。

〈叡族〉が、リリィ達人間と極めて近く、そして全く異なる存在である事は周知の事実であった。しかし、ならば何者なのか、そう問われて応えられる者がいないのも、また周知の事実であった。生態学者風に「人類の近似種」と言ったところで、きっとそれが何を意味する言葉なのか研究者当人にすら見当も付かないであろう。知り得るのは、目に出来る結果のみである。〈叡族〉が人間と全く同じ容姿を持ち、数千年の時を生き、万物のあらゆる事象を自在に操り、そして、人類を統治しているという結果のみである。
 リタルダンド大陸には三人の〈叡族〉が存在し、それぞれ三国を統治していた。大陸東方ギーゼキング公国の〈仁将ゼッファー〉、西方ナーガールジュナ連邦の〈勇将アーミッシュ〉、そしてリリィの眼前の男、大陸北方イザイ法国を統治する〈叡族〉、〈智将ユージーン〉である。彼らは〈三賢帝〉と呼ばれ、大陸に暮らす全ての人類を統治し、管理していた。
 支配と管理、この二つの違いについてリリィは常に考える。〈三賢帝〉は人類を管理していたが、それは決して支配などではなかった。人類が歴史の最初の一歩を踏み出した時、彼ら〈三賢帝〉は既にその傍らに立っていた。国と呼ぶには余りにお粗末な集団同士が詰まらぬいざこざを始めれば、その間に立ち双方を言い含めた。大災害によりささやかな文明を跡形も無く失えば、彼らは哀れな人類に閃光炉≠ネる脅威的な技術を惜しみなく授けた。閃光炉は人類に翼と誇りを与え、彼らに繁栄をもたらした。〈三賢帝〉は時に踏み外さんとする人類に手を差し伸べ、導く、今迄も、そして恐らくこれから先も。

 法国領ラフマーン砂丘の仮設休憩所でリリィは〈智将ユージーン〉の言葉を反芻していた。
「彼奴らを封じろ、か」
 支配と管理、これらの違いを教えてくれそうな者にリリィは思い当たった。帰還したら真っ先に尋ねてみよう、その身を裂かれ内臓や血を抜き取られた挙げ句、炎や煙にあぶられる運命のバセットやヌース、哀れな家畜達に。だが、答えは予想できる。彼らはきっと言うだろう、「どちらにも大差は無い」と。


《コルト・イヴァーノフU》

 赤毛の年老いたマズルカ、ベールイに引きずられる事三十分余り。洗濯板でその身を磨り潰される衣類の苦しみを十二分に味わったコルトは、何時の間にか荒れ地を抜け森の中にいた。そこは絵本にでも出てきそうな美しく静かな森だった。だが、小鳥の囀りや差し込む軟らかな日差しは、コルトにむず痒い居心地の悪さを感じさせていた。僻地の寂れた町を渡り歩いては血生臭いいざこざを巻き起こしてきたコルトは、和やかさや可憐さ、神秘的情景や芸術性など、およそ少女趣味ないろいろを特に苦手としていた。生理的に受け付けないのだ。頭蓋を勝ち割られた銃創だらけの死体が二つ三つ転がっていれば、或いは彼の心を和ませたかもしれないが、不幸にもそんなものは無かった。
「……ベールイ、本当に此処か?」
 眠そうな目を瞬かせる相棒にそう尋ねる彼の表情は明らかに「違うだろ?」と訴えていた。普通、マズルカは喋らない。当然、コルトの頼りになる相棒、赤毛のベールイは応えなかったが、返事の代わりに主を無視して歩き始め、先刻、銃声の聞こえた場所へと案内する。ベールイは普通のマズルカには無い、もしかするとコルトにすら無い賢さを兼ね備えてるのだ。
 コルトはベールイの後を重い足取りで追う。ベールイは鞍は装着しているが手綱やその他の一般的な乗用装備は無い。必要が無いからだ。ベールイはコルトの言葉を理解し、彼の命令には機嫌が良ければ殆どの場合従った。最近のコルトの悩みは、彼の相棒がこの頃終日不機嫌で、ちっとも言う事を聞いてくれない事だった。
 暫く歩き、およそ彼らしからぬ事だが、蹄が土を踏む音を聞きながらコルトはぼんやりと考え込んでいた。相棒の機嫌、今晩の宿、寂しい手持ち、ギーゼキング公国で出会った飛び切りの美人達、大掛かりな戦争が始まると言う噂、そして、〈仁将ゼッファー〉の不気味なまでの美貌……。
「ゼッファー、か。あんな上玉、そうそう拝めるもんじゃあねえよな。……だが、あれじゃあまるで……」
 死人のようだ、と言いかけてコルトは言葉を飲み込んだ。辺りには誰もいないし、聞かれたところで不都合はないのだが、コルトは無意識にそうした。顔を合わせたのはほんの五分ほど、しかもそれは二ヶ月も前の出来事だった。それでもそのゼッファーと言う名の〈叡族〉の姿や声はコルトの脳裏にくっきりと焼き付いていた。

 二ヶ月前、コルトはギーゼキング公国外れの安宿に滞在していた。黴臭い寝台や軋む木製階段は値段相応で心地良かった。その宿を盗賊団が襲ったのだ、白昼堂々と。そこは公国辺境の小さな宿場町で、駐留している保安軍は飾りに過ぎず、十数名の手練に敵前逃亡する始末だった。盗賊は悪名高い賞金首集団ではあったが、コルトが勇んで彼らの前に立ちはだかったのは正義感からなどではなく、黄色い悲鳴を上げる街の娘達が目に映ったからにほかならない。
 娘達に手を振り、宿からのんびりした歩調で出てきたコルトに、大砲のようにも見える長身銃を担いだ賊頭が威嚇を兼ねて野太い声で名乗り終わる頃には、盗賊団でまともに動ける人数はその賊頭ただ一人になっていた。
 一部始終を見ていた筈の多くの人々には、コルトが何時銃を抜いたのか捉えられた者はいなかった。腕や足を押さえ地べたでうずくまる盗賊団を見て、彼が恐らく発砲したのだろうと想像したに過ぎない。賊頭の銅鑼声にかき消された乾いた銃声が一つしか聞こえなかったのは、速射の為であった。町中が湧いたのは言うまでも無い。評判はその日のうちに公国宮廷にまで伝わり、コルトはギーゼキング公国統治者〈仁将ゼッファー〉との異例の会見と相成ったのだ。
 ゼッファーは女性の姿をした〈叡族〉であった。彼らには性別は無いと聞いていたが、コルトにはゼッファーは若い女性に見えた。
 不吉な白さを見せるきめの細かい肌、肌の白さを際立たせる床まで伸びる漆黒の髪、同じく漆黒の外衣、手にした鎌の鏡の如き刃には、細めた赤い瞳が映っていた。整い過ぎた顔は若くも年老いても見える。肌から浮き立つ、血の色をした唇が僅かに上下し、囁くような、それでいてはっきりと聞き取れる言葉が零れる。
「其方{そち}が、コルトか?」
 その声を聞いた瞬間、コルトは髪の毛が逆立つような、ある種の恐怖を感じたのだった。彼は必死で狼狽を隠し、絞り出すように「はい」と応えた。顔と同じく不自然なほど美しいその声には感情が、精気が全く無いように思えた。確かに、死人のようであった。
 ゼッファーとの接見が終わると、彼の本能は訴えた、こいつとは決して戦うな、と。

「それでもだ、あいつは上玉には違いない。願わくば今一度、といきたいねぇ。次は酒でも、なあ? ベールイよ」
 物言わぬベールイに歩調を合わせ、コルトは口の両端を歪め不敵の笑みを浮かべる。
「薔薇は、刺があるから美しいのさ。それに、獲物は手強いほど狩り甲斐があるってもんだ」
 コルトは一目見たその瞬間から、〈叡族〉ゼッファーを心底恐れ、しかし同時に彼女を好敵手≠ニ認識したのだった。〈叡族〉に挑む、大陸中を探してもこれ程馬鹿げた考えを持つ者は彼以外いないであろう。人間は〈叡族〉には絶対に敵{かな}わないし、そもそも争う必要は微塵も無いのである。彼ら〈叡族〉は人間にとって無くてはならない同胞であり、また、人間に危害を加える存在ではないのだから。
 言うなれば彼ら、彼女らは天空に浮かぶ太陽や月のようなものなのだ。コルトの考えは彼の台詞にあるように、狂暴な獲物に挑む狩人のそれと同じ、ごく単純な理屈であり、または子供らの理不尽な戯言であった。

 ベールイが小さくいななき目的地に到着した事を知らせる。コルト達は小さな崖の上に出ていた。身を乗り出し崖下を見るとそこには毛皮を羽織ったむさ苦しい集団がいた。皆、銃を手に声も無く森の一本道を歩いていた。
「山賊、か?」
 だが、その様子は足音を殺していると言うよりも、落胆しているように見えた。肩を落とし表情も何処と無く暗く陰っている。
「……大外れだな、こりゃ」
 抜きかけた輪胴拳銃を再び仕舞うとコルトは溜め息を吐いた。悲鳴と銃声を聞き、諍{いさか}いならば助太刀により報酬を、或いは横取りをと考え遥々やって来たのだが、眼下の山賊はどうやら仕事をしくじったらしい。金目のものを持っているようには見えないし、これだけの人数を打ち負かしたのだから彼らの獲物はきっとそれなりの護衛を伴っていたのであろう。誰であろうと負ける気など微塵も無いコルトだったが、余程金に困らない限り追い剥ぎのような真似はしたくなかった。今夜の宿代くらいは、と、山賊の強襲も考えたが、彼らの余りに悲壮な表情は、コルトのような男にさえ哀れみを感じさせるものだった。
 一団が過ぎ去り、コルトとベールイは迂回して崖を降りた。そこは森を東西に横切るほぼ直線の石舗装の無い道で、近隣住民の利用する商業路らしく、荷車のわだちが土に刻まれている。
 山賊のやって来た方角に看板が見えた。一端を鋭角に切り落とし西を指す板切れ看板には『ようこそ! ナーガールジュナ・ボーヴォワールへ』、東を示す板切れには『カスター・ギーゼキング、ヒュメーンはこちら』とそれぞれ刻まれ、杭に打ち付けてあった。下段の、東を示す板切れには『イェスベルセン精肉店へお越し下さい!』と真新しい塗料で書き加えられていた。
 コルトは腕を組み、看板を鹿爪らしい表情で眺める。ベールイは我存ぜぬといった面持ちで大欠伸。
「ナーガールジュナかギーゼキング、ボーヴォワールかヒュメーン、か」
 目的の無い旅を続けるコルトにはどちらでも良かったのだが、それゆえ決め兼ねていた。すぐさま〈叡族〉ゼッファーと出会える訳でもないのでギーゼキング公国にこだわる必要も無く、だからと言ってナーガールジュナ連邦にこだわりがあるでもない。
「こういう時は、これに限る」
 そう言うとコルトは懐から、なけなしの五十スクーロ銅貨を取り出した。右手親指に銅貨を置くと暫し睨み、勢い良く弾いた。空中できりきりと回転する銅貨は再びコルトの手に戻り、左手でそれを受け止めると右手で素早く蓋をした。
「表が西、裏が東だ! いいな?」
 当然応えぬベールイ。ゆっくりと右手を開くと銅貨に刻まれた肖像と目が合った。
「む……」
 左手の銅貨を見詰めコルトは沈黙した。傍らでベールイが草を食む音が聞こえる。間を置いてコルトは殆ど独り言のようなか細い声で言った。
「なあ、ベールイ。……これ、どっちが表だ?」
 賢いマズルカ、赤毛のベールイは賢くない人間、コルトを無視して食事を続けていた。傾きかけた夕日が彼らを朱色に染める。名前も知らない銅貨の肖像がいやに偉そうに思えたコルトだった。


《マルグリット・ビュヒナーU》

 森でミッチが転んで、いや、凶悪な山賊達から辛くも逃れて二日後。家事・雑務を午前中に片付け、マリーは道場で一人稽古にいそしんでいた。外は雨らしく、屋根瓦を打つ音が板張りの稽古場にこだましていた。六十人が一同に鍛練できる広さを持つ道場だが、マリーは、自分や師範を含めても五人以上がいちどきにそこに立つ光景を生まれてこのかた見た事が無かった。拳が空を切る音が薄暗い稽古場で隙間風のように聞こえる。
「せいっ! はっ! たあっ!」
 彼女の父親、師範のハルメット・ビュヒナーは彼女が十七歳を迎えた年を境に色々と理由を付けては道場を留守にするようになった。それから今日までおよそ二年余り、マリーは殆ど毎日一人で稽古を続けていた。一人きりなので組み手も出来ず、マリーはそれ程多くはない型を繰り返すばかりだった。お陰で演舞だけは誰にも負けない自信を持つに至ったが、実戦は、どうやれば良いのか見当も付かない有り様だった。
「おりゃっ! ていっ! しゃあっ!」
 今迄に何度か、マリーは父親が連日何処に通っているのか問い詰めた事があった。門下生がいるでもないので実害がある訳ではなかったが、十二歳のまだ幼かったマリーを半ば力ずくで後継者に仕立てておいて、基本を教えたらあとはほったらかしではあんまりと言うものだ。懸命に鍛練を重ねるマリーは何だか自分が騙された気がして、師範にして父親、ハルメットに幾度と無く迫ったのだ。だが、何時も語尾を濁され言いくるめられていた。
 七十歳に差し掛かり、歩んだ人生より余命の方が少ない老人なので、色事や賭け事の類は除外できるとしても、散歩や井戸端会議とも思えなかった。第一、そんなものであれば隠す必要など無い。たとえ色事だったとしても豪胆にして不敵、或いは厚顔無恥とも言えるハルメットがそれらを自慢する事はあっても、その逆は考えられなかった。賭け事をする程の資産が道場に無いのは言うまでも無かった。こんな廃屋では抵当の価値すら無いであろうし。
 明日こそ絶対に問いただしてやる、そう意気込んで床に就き、今朝起きてみたら別棟の父親の寝床はもぬけの殻だった。
「……ちいっ! 察したか、じじいめ」
 湿気を含んだ床板がマリーの動きに合わせて、ぎいぎいと軋む。型の、足を下ろす部分が擦り切れて僅かに窪んでいる。彼女の鍛練の成果である。霊式黙示流には基本となる型が十二種類あった。どの型も独特で、彼女に言わせると、不格好だった。他の、黙示流よりも有名な、そして実践的な格闘技にはきっと数多くの型があるのだろう、マリーは何時もそう考えていた。そして、それらはもう少し格好良いのだろう、とも。勿論それは彼女だから持ち得る偏見なのだが、黙示流の実戦を見た事が無い彼女を責めるのは酷であろう。他人の持ち物は、得てして良く見えるものである。
「うらぁぁ!」
 込み上げる怒りが道場の窓を震わせ、突き上げられた足先が唸りを上げる。汗が粒となって飛び散り、頭の高さの足先の向こうに、煤けた漆喰壁と『邪正一如{じゃしょういちにょ}』と刻まれた年期のある木目板が見えた。邪正一如、とは霊式黙示流拳術の根源的な教えで、邪と正は別々のものではなく、一つの心から出たものであり元は同一、と言う意味である。まだ父親が熱心に彼女に稽古を付けてくれていた頃、彼は厳しくも優しい口調でそれを繰り返し語ってくれた。
「だ、か、らっ! 何だってのよ!」
 足を上げたままの姿勢でマリーは、そのいかにも偉そうな字面を睨み付けた。怒りは、教えにではなくそれを語った父親に向けられるべきものだったが、振り上げた足を下ろす相手は無く、マリーはその看板を仇と言わんばかりに凝視していた。
「こんな事ばっかり、二年間も毎日毎日――」「マぁリぃー!」
 突然ミッチの大声が稽古場に響き渡り、威厳ある看板を叩き割りそうになっていたマリーをすんでの所で食い止めた。不意に覇気を削がれたマリーは今にも泣き出しそうな歪んだ顔で「なによー」と返した。ミッチは庭に面した縁廊下側の引き戸から顔を出し手招きする。薄暗く独特の雰囲気の稽古場を恐がり、ミッチは決して足を踏み入れようとはしないのだ。最後の一手を空に向けて打ち演舞が終わると、仕方無く自ら廊下に出向きマリーは「なによ」と繰り返した。大きく張り出した軒先の外側、茂った庭木は雨で陰って見えた。ミッチは天候などお構いなしのようで何時もと同じく元気いっぱいの様子だ、マリーとは対照的に。
「ねえマリー、ハル爺は、かかしなの?」
「……何?」
「か・か・し、ほら、畑にいる、あれ」
 ハル爺とはハルメットの事で、ミッチは彼をそう呼んでいる。自分で結わえたらしい二本の三つ編みをいじりながらミッチは「ねえねえ」とマリーに迫る。だが、マリーにはミッチが何を言おうとしているのか、何を自分に尋ねているのか解らず「何?」と繰り返した。思いがけず背筋を悪寒が駆け上る。何やら嫌な予感が、ほんの僅かな予感が胸をかすめた気がした。
「ハックスリがね、聞いたんだって。みんながハル爺をかかしって呼んでるのを。ねえ、そうなの?」
 ハックスリとは近所の子供でミッチの遊び友達である。だが、みんな、とは一体どの連中かマリーには見当が付かなかった。しかし、これはただ事ではない。マリーは立ち眩みで廊下に倒れそうになるのを必死で堪えていた。詳しい事情は分からぬが彼女の父親ハルメットが何処かの誰か、それも大勢に嘲笑されているのは明らかだった。恐らく格闘家≠ニして、である。しかも、ミッチや彼女の友達が聞いたとなれば、それが半ば公然と行われている事は想像に難くない。何度目かのミッチの「ねえ」と言う言葉を合図に、マリーはとうとう廊下に膝から崩れ落ちた。両手を突き頭を重力に任せるがまま、放心していた。
「マリー!」
 青ざめたマリーに驚きミッチが叫ぶ、が、その声はマリーには届いていなかった。視点の定まらぬ両目に不意に涙が浮かび、血の気を失った唇が震えていた。
「……何? 何なの、一体……」
 黒雲から身を投げた雨粒の、地を打つ音が小さな拍手のようであった。


《ドミナス・ウィルバーフォースU》

 パイロン州カタリカの街の外れ、地図上の黒い国境線に重なる辺りにその鍛冶屋の工房はあった。腕の良さ、技術の高さよりも偏屈な性格が有名な老人、ガボット・リャザーノフはその石積みの仕事小屋を住居と兼用し、一人静かに暮らしていた。引きこもった、と言うより追い立てられた観がある。良くも悪くも彼は職人であり、近代化の波の押し寄せるカタリカに彼の居場所は最早無くなっていた。
「……あの、直り、ますか?」
 得体の知れない鉄屑がうず高く積み上げられた狭い作業場の壁際、傾いだ木卓の反対側で口をへの字に曲げているリャザーノフにドミノは恐る恐る尋ねた。二人の中央、木卓の上では海岸で出会った鉄塊、ケイビィが、高い天井からつるされた閃灯で黄色く照らされている。褐色の皺が伸縮し、老人の困惑した表情を形作る。針金にも見える白髪をひと撫でするとリャザーノフは大袈裟な咳払いをし、錆だらけの鉄塊の僅かに残った銀色部分を手にした金槌で軽く叩く。鉄琴のような澄んだ金属音が、昨晩から降り続く雨音に吸い込まれる。
「ウィルバーの、何だこれは?」
 耳が遠いリャザーノフは殆ど怒鳴るような大声で言った。ドミノの父親の古い友人であるリャザーノフは、昔からドミノを「ウィルバーの」と呼んでいた。「ウィルバーフォースの息子」のつもりらしい。
「僕にも解りません」
「ん? 何?」
 リャザーノフに聞き返され、ドミノは心持ち大きな声で繰り返す。
「僕にも、解らないんです」
 二度三度頷き、リャザーノフは太い腕でケイビィを持ち上げた。錆だらけのケイビィを傾けたりひっくり返したりし詳細に観察する。
「自分じゃ詳しいつもりじゃがな、こんなもんは見た事が無いな。外の、異国の機械じゃろう、きっと。少なくともイザイではないのう。軍隊か、そんな連中の技術じゃろう。材質やら、継ぎ目の処理、これには目を見張る。大したもんじゃよ、うむ」
 ケイビィを置き、リャザーノフは相変わらず叫ぶように言った。自分では独り言のつもりらしいがドミノは叱咤されているような気分になる。腕を組んで煤けた天井を見上げ喉を鳴らしているリャザーノフに、ドミノは負けじと大声で「それで、その、直りますか?」と再び尋ねた。
 リャザーノフは丸い目で「直す?」と言うと、間を置いてから大声で笑い始めた。まるでメフメトの雄叫びのような、腹に響く笑い声だった。
「はは! なあ、ウィルバーの。お前さん、こいつが何なのか解らんと、そう言ったじゃあないか」
「え? はい、言いましたけど……」
「だのにどうして、こいつが壊れてると、そう思う? 可笑しな事を言うな、ウィルバーの」
 リャザーノフは椅子に掛け、懐から葉巻を取り出し咥える。成る程、ドミノは溜め息を吐いた。眼前の、或いは過去の栄光にすがるだけの時代遅れの技術屋にしか見えない老人にドミノは感心した。使途不明な機械ならそれが故障しているか否か解ろう筈も無い、リャザーノフの言う通りである。彼の頭脳や勘は未だ衰えていないようだ。
「ええ、確かに。でもケイビィが、その、彼が自分で言ったんです、修理してくれって」
 紫色の煙を吐き出しながらリャザーノフは、必死に訴えるドミノをじっと見詰めている。その眼差しは鋭く、そして僅かな疑念を含んでいるように思えた。ドミノは緊張した面持ちで続ける。
「ほ、本当です! この機械は喋るんです! 僕に、修理して、くれって……」
 次第に声が小さくなり、終わりの辺りは殆ど聞き取れなかった。言い訳をしている、そんな嫌な気分だった。リャザーノフの工房に辿り着く少し前からケイビィは言葉を発しなくなっていた。
 海岸を出て暫くして、ケイビィの発言に耳障りな雑音が混じるようになった。道中、ドミノの問い掛けに辛うじて雑音で応えるようになり、工房に到着する頃にはその雑音すら聞こえなくなったのだ。故障が悪化したのか、燃料のようなものが切れたのか、ドミノには解らない。リャザーノフはケイビィが喋る様子を目にしておらず、もしかすると彼は自分がからかわれているか、或いはドミノの耳か頭がおかしくなったと思っているかもしれない。送伝装置や拡声器など人間の言葉を仲介する機械はあっても、自分で喋る機械など大陸には存在しないのだ。当然、ドミノだってそれくらいは知っている。
 リャザーノフの視線を避けるようにドミノは俯いた。幼い頃からの知り合いであるリャザーノフはカタリカの人々と違い、兵役志願を拒んだドミノに昔と同じように接してくれる唯一の人物であった。頑固者だが筋は通す、昔気質の出来た人物である。だからこそドミノはケイビィをここに運んだのだ。だが、ドミノの説明は老人に不信感を抱かせたのか、彼は顔をしかめ木卓の上のケイビィとドミノを交互に眺めては低く唸っていた。ドミノの顔は次第に陰り、不安と恐れが首をもたげてくる。
 帰ろう、そう決心しかけた頃、リャザーノフはそれまでで一番の大声で「凄い!」と叫んだ。
「え?」
「凄いじゃあないか、ウィルバーの! 喋る機械とは、こりゃあ驚きだ! わしは随分と鍛冶や技師をやっておったが、そんな凄いもんは見た事が無いぞ! 軍隊にだって出入りしてたこのわしがじゃ! ほぉ、こいつがねえ」
 満面の笑みで朗々と語るリャザーノフ。ドミノは呆けていた。
「ウィルバーの、約束は出来んがやれるだけはやってみるぞ。なあに、心配するな。歳は取ってもわしの腕は今でも一流じゃ」
 リャザーノフは立ち上がり大袈裟に胸を叩いてみせる。
「し、信じてくれるんですか? その、ケイビィが、この機械が喋るって……」
 驚き、震える声でドミノは言った。
「なぬ?」
「だって! 喋る機械なんてあまりに突飛で。それに、リャザーノフさんの前でケイビィは一度も喋っていないし、あの……」
 自分でも何を言いたいのか解らなかった。
「なあ、ウィルバーの。可笑しな事を言うな。こいつが喋ると、そう言ったのはお前さんじゃろう」
「でも!」
 尚も訴えるドミノを手で制し、葉巻を指で弾き灰を床に落とすとリャザーノフは心底可笑しそうに笑いながら続ける。
「お前さんがそう言うなら、そうなんじゃろう。じきに日が暮れる、今日はもう家に帰るんだな。わしはすぐにでもこいつを調べにゃならん。さて、忙しくなりそうじゃ」
 木卓からケイビィを持ち上げ作業場の奥に運ぶ。泣きそうな、嬉しそうな顔でドミノはリャザーノフの背中を見詰めていた。来て良かった、心底そう思う。
「明日、いや、明後日の午後に来ると良い。その頃には幾らか調べもついているじゃろう」
「は、はい! お願いします!」
 リャザーノフは振り返らずに右手を軽く上げる。その手には既に工具が握られていた。
「けびー、とか言ったか? すぐに修理してやるからの」
「ザガッいいえ、ケイビィです」
 楽しそうに呟くリャザーノフの声に別の、彼のものでもドミノのものでもない声が重なった。
「ケイビィ!」
「なんと!」
 リャザーノフとドミノ、二人の明るく弾んだ声が薄暗い作業場にこだました。雨模様の森に佇む工房のひびだらけの窓硝子から、青年と老人の歓喜の声が洩れてくる。


《ハルメット・ビュヒナーT》

 ナーガールジュナ連邦ボーヴォワールの北、イザイ法国との国境近くのボワロ山の麓の鉱山村ヨーシン。数日前から降り続ける雨の中、ヨーシン村に住む三十人余りの探鉱夫はつるはしや鍬{くわ}を手に、彼らの前に立ちはだかる一団と睨み合っていた。最新式突撃銃と山岳迷彩服で完全武装した連邦陸軍一個中隊と。

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