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赤谷線 (国鉄)



目 次

- 赤谷線 -1971年早春
- 赤谷線探訪 (1971年3月15日)
- 日鉄赤谷鉱業所の軌道
- 貨物列車

 1971年3月に赤谷線の米倉駅と東赤谷駅を訪ねた際の撮影記録が出てきた。赤谷線の長い歴史のわずか一断面に過ぎないが、往時の記録を織り込みながら赤谷線のページを再編集した。

赤谷線 1971年早春

羽越本線、白新線
+新発田-東中学校前-五十公野-新江口-米倉-新山内-赤谷東赤谷


 国鉄の赤谷線は、羽越本線の新発田駅から分岐する長さ18.9kmのローカル線だった。終点の東赤谷からは、さらに山奥に鉱業所の専用線が延び、新発田-東赤谷間を1日1往復の貨物列車が主に鉄鉱石の運搬に活躍していた。旅客列車は1日5往復半(土曜日は日中にもう1往復)で、途中駅までの区間運転もあったが、国鉄再建法の施行により1984年に廃止された。


△ スイッチバックの終着駅 東赤谷駅の全景
 日鉄赤谷鉱業所のホッパーから新発田方面を望む

 列車は駅構内まで続く25~33‰の急勾配を登って、終点の東赤谷に到着する。この写真では一番右側の半分積雪に隠れた線路がそれで、駅構内の他の線路に比べて一段低い所を通っているのが分かると思う。駅を通り過ぎる形で一端山側(写真手前側)へ引き上げ、それからスイッチバックして駅に進入する。写真右側に写った2本の後ろ向きの信号機[a]は、それぞれ場内信号機(右側)と出発信号機(その手前の左側)で、同じ方向を向いている。写真中央の2本の線路の間隔が開いた部分に島式のホームがあり、そこから踏み跡を左前方にたどった所にある屋根雪が半分消えた木造の建物が、東赤谷駅の駅舎である。

 貨物列車が到着してしてしばらくの間、牽引してきた C11 と、KATO の DL による入れ替えの様子を撮影していた。一段落した所で鉱山側で働く人に声をかけてホッパーに登らせていただいた。ホッパーから駅方面を撮影した写真はこれ1枚だけだが、春浅い雪国の雰囲気とともに、かつて鉱業で栄えたローカル線終着駅の様子を思い出させてくれる貴重な写真となった。東赤谷にはこの時を含めて3回ほど訪れた事がある。最盛期を知らないが、当時はまだ駅前に住宅やマーケットがあり活気を呈していた。

[a] 赤谷線の閉塞と信号機: 当時の赤谷線は通標閉塞で、閉塞区間は新発田-米倉、米倉-赤谷、赤谷-東赤谷の3つ。信号機は全て色灯式を使っていた。


赤谷線探訪 (1971年3月15日)

始発列車

 その日は新潟駅を早朝に発ち、白新線の下り普通一番列車921Dで新発田駅に向かった。この列車が今ではとても考えられないような編成で、どういう都合か分からないが急行型の気動車(キハ58、キハ28)を中心に堂々11両で構成されていた。その先頭に立ったのは一回り小さいバス窓の一般形気動車キハ11だった。

 5時43分、921Dが新発田駅3番線に到着すると、すぐに先頭の2両「キハ1146+キハ5224」が切り離され10mほど進んで停車した。間もなく加治駅寄りの側線で待機していたキハ20226+キハ519がその前に連結され、「(←東赤谷)キハ20226+キハ519+キハ1146+キハ5224」という4両編成の列車が組み上がった。その日の赤谷線下り一番列車、5時48分発の121Dである。この編成は終点の東赤谷駅で2両づつに分割され2本の上り列車として運用されるため、運転手も車掌も2人づつ乗務していた。

 後述するように、終点の東赤谷駅の構造から下り列車の前2両「キハ20226+キハ519」が122Dとして先に戻り、新発田駅で折り返して米倉駅までの区間列車123Dに充当される。124Dとして後から戻る「キハ1146+キハ5224」は米倉駅で再びこの編成と連結されることになるが、その時には前後2両づつが入れ替わり「キハ1146+キハ5224+キハ20226+キハ519(新発田→)」という編成順となって再び新発田駅へ戻って行くのである。この日の編成は、車体の大小や窓の形状など、新旧気動車の違いが際だっていた。

 赤谷線には33‰の勾配区間があるため、2両に1両はエンジンを2機搭載した強力形の車両が使われていた。当時はキハ52、キハ55や急行形のキハ58が多かったように思うが、印象に残っているのが121Dで乗車したキハ51である。キハ51はキハ17同様の狭幅の車体ながらエンジン2機を搭載した強力形であり、生産量数は全国で20両というから極端に珍しいという程では無かったと思うが、乗り心地が悪いのを承知の上で選んで乗ったのを覚えている。当時の新潟運転所には、様々な形式の気動車が所属していて編成も実に多彩であった。

 この朝の121Dの乗客は、行商のおばさんのグループが10人、その他の乗客が6人と私だった。新発田を発車するとすぐに、車掌は各駅に届ける新聞の整理を始めた。列車は水田地帯を進み、新江口を過ぎると進行方向左手に飯豊連峰が、右手には米倉駅の裏にある臼ヶ森山が見えてきた。

 米倉駅は旧大槻村の中心地にあり、赤谷線では東赤谷に次いで貨物の積み出しが多い駅である。駅の裏手の臼ヶ森山を削って砕石を作っている工場があり、これを鉄道のバラストに使うため常時ホキ800が6~7両待機しており、191レで空車のホキを運び入れ194レで採石を運び出していた。羽越線の複線化が進んでいるため砕石の需要は多いが、冬季は休業と聞いた。121Dは、米倉駅で担ぎ屋さん2~3人と新聞の袋を下ろして発車していった。


△ 当日の赤谷線列車ダイヤ  *191、194は貨物列車。6127D、6128Dは土曜日運転。


米倉駅


△ 朝の米倉駅。 新発田行122D、キハ519ほか



△L 朝の米倉駅
 朝の時間帯に新発田-米倉間の区間列車が1本設定されており、上りは東赤谷発の124Dに連結して運転されていた。この日、先に到着した新発田から123Dと東赤谷からの124Dの到着を待つ乗客。
△R 列車の連結風景 米倉駅



△上り124D 新発田行を見送る、米倉駅にて


東赤谷駅

 125Dで東赤谷駅に移動し、次の列車が来るまでの2時間半、写真を撮ったり駅員の方からいろいろ資料を見せて頂いたりして過ごした。中でも駅の構内配線図は大変興味深かった。東赤谷駅がスイッチバックの終着駅だったことはよく知られており、この図を見れば4両で出発した下り始発列車の前の2両が先に折り返してくる理由もお分かり頂けると思う。晩年の東赤谷駅では構内配線図を配っていたということで、既に他のサイト[1]でご覧になった方もあると思う。資料の作成時期の違いからか、専用線の名称など多少異なる部分はあるが基本的には変わっていない。

東赤谷駅 (日本国有鉄道)
 開業:昭和16年 6月 1日
 所在地:新潟県新発田市大字東赤谷 6046-1
 新発田駅起点 18.900km
 標高 172m
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[1]: 東赤谷 1979/7/16「懐かしい駅の風景~線路配線図とともに」



△ 東赤谷駅
東赤谷から赤谷の小学校へ通う小学生も、赤谷線を利用する。この日は小学校の卒業式だった。



 この時は東赤谷駅の運輸成績などの資料も見せて頂いた。それによれば、昭和44年の1日あたりの乗降人員は550人、営業収入は客貨合わせて17万円弱であるが、旅客収入は収入全体の12%に過ぎなかった。さまざまな営業活動の成果で旅客収入の落ち込みは何とか食い止めているが、定期客数の減少に歯止めがかからないとのことだった。

 貨物の発送品目は鉄鉱石が圧倒的に多く無蓋車で新潟港、浜川崎等に、また量は少ないながら銅鉱石が足尾本山にそれぞれ輸送されていた。日鉄赤谷鉱業所の生産量と比較すると、生産された鉱石のほとんどが東赤谷駅から貨車で輸送されていたことが分かる。到着貨物はダイナマイト、鉱山機械やセメントといった鉱山に関連したものが目立つが、発送に比べれば微々たる量で、1日あたりの到着貨車が空7・積0、発送貨車が積7・空0という数字がこれらを端的に表している。ちなみに、ダイナマイトの発駅である武豊駅(愛知県、武豊線)には日本油脂の火薬工場があり、専用線 [2] が1984年に廃止されるまで電車や電気機関車が稼働し、武豊駅の貨物扱いも同年まで行われていたという。

 話を赤谷線に戻そう。東赤谷駅はこの年の6月で開業30周年を迎えるとのことで、記念事業として臨時の客車列車を設定するか、191レ、194レを混合列車にする案などがあったとのこと。混合列車の話は楽しそうだが、実現したのだろうか。
 駅では1日3回(6時、12時、18時)気象観測が行われており、黒板には6時の気象が書かれていた。この日の天気は晴れ、気温は-1℃、積雪は153cmで、春は着実に近づいていた。

[2]: 日本油脂武豊専用線


 

日鉄赤谷鉱業所の軌道

 東赤谷駅の構内から加治川上流の鉱山に向け、全線スノーシェッドで覆われた軌間610mmの電化された鉄道が走っていた。ホッパーを見学させていただいた後、スノーシェッドの中にも入れていただいた。スノーシェッドの断面が小さいため、手の届く高さに架線があった。


△ 専用線の電気機関車、東赤谷
 轟音とともに、山から鉱石を積んで下りてきた列車。スノーシェッド内は狭く、避けるのにも気を遣う状態だった。



△ 同機関車の銘板。昭和28年三菱電機製 428号
 あとで写真を見て気づいたが、明治鉱業平山で活躍した凸型機関車と同じ製造年だ。



△ 留置されていた別の電気機関車、東赤谷にて



△ 豪雪地帯を走るため,全線スノーシェッドとトンネルの中を通っていた。東赤谷にて


 

貨物列車

 赤谷線の貨物列車の牽引は新津機関区の機関車が担当したが、当時は夏季と冬季で機関車が異なり、夏季は新鋭ディーゼル機関車 DE15 が貨物列車を牽引していた ( DE15 は東新潟所属だったかもしれない)。DE15 はラッセル式の除雪機関車で、冬季はラッセルヘッド車を連結して除雪車として他の線区でも活躍する。そのため、降雪期間は同機関区の C11型蒸気機関車が代わりに貨物列車を牽引していた。この日やってきたのは C11245 で、入れ替え用に虎縞模様の塗装がされていた。


△ 急な勾配を登って東赤谷駅ホームの横を通過する下り貨物列車



△ 機回し線を行くC11245 東赤谷駅構内

C11 245:  C11245は1943年に日本車両製で製造され、新津機関区に新製配置後は赤谷線など新潟地区で運用され、1973年より小牛田機関区に配置されて石巻線で活躍し、その後、盛岡機関区を最後に廃車された。 現在は、神奈川県藤沢市の 鵠沼運動公園に静態保存 されている。



△ 入れ替え風景 東赤谷駅構内、 鉱業所のKATO製ディーゼル機関車



△ 入れ替え風景 東赤谷駅構内



△ 入れ替えを終えて給水中のC11 東赤谷駅構内



△ C11 東赤谷駅構内のターンテーブルは使われていなかった

東赤谷駅のターンテーブル:この転車台は、1897年 イギリスのRANSOMES&RAPIER社製で、同一設計の15基が輸入され日本鉄道株式会社に納入されたうちの1基である。 輸入当時、どこに設置されたかなどは不明だが、1941年頃に新潟県の赤谷鉱山開発に伴う赤谷線敷設の際に東赤谷駅に移設された。 赤谷線廃止後の1980年7月、赤谷線から大井川鐵道へ向けて移設され、 1980(昭和55)年11月に大井川鐵道で運用が開始された。
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白井 昭(2005):大井川鐵道で千頭駅転車台の図面を保存へ、白井昭電子博物館 http://www15.plala.or.jp/hidekih/gijyutushi51-3.htm (情報取得: 2013.11.14)